目覚め

覚者が個人的体験を語らない理由

個人的体験は夢物語

覚者とは覚めた者という言葉の略ですね、、何から覚めたのか???夢です、、この個人物語が圧倒的な夢であることに気づいたのです、、誰が???気づきの意識が、、です。ですが気づきの意識の中でこの体は永続していく、、その残された体が見かけ上「覚者」と呼ばれます、、、ですからこれは矛盾です、パラドックスです。この覚者は、、、私はこういった状況で、、こうやって目覚めました、、と語るのは、、矛盾が矛盾を呼ぶような、、展開になります、、ですから覚者は、、個人的体験をあまり語りたがらないのです。

夢の中でこの体は、、、

厳密に説明すれば、、夢の中でこの体は登場しており、、この体の中に自分という存在を信じていました、、、ところがある時、、これが夢だと気づいてしまった、、するとこの夢の中の私は、、私でなかったという気づきが起こった、、、気づいたのはこの体の中の自分ではなく、、、この夢を観ていた存在、、それが私だ、、、この私は夢の展開中ずっとこの体の中の居ると勘違いが起きていた、、今は起きていない、、、夢の中のこの体には私は入っていない、、、むしろ夢全体を観察する存在であり、、夢を展開する力そのものだ、、、そしてこの夢が湧き上がるスペースも自分、、この私だ、、となります。

それでも夢は続く????

この事実気づいてしまっても、、この体は在り、、相手の体もあり、、動物、植物、、全部が残ります、、ここから先は夢を夢であると気づいてしまった存在として、、、この体物語を進めていきます、、この体の中には自分は居ませんが、、、この体は「私が在る」の中に確実に存在します、、、相手も「私が在る」の中に存在する、、、この体も相手の体も、周囲の人間も「私が在る」の中で、、、動き続けます、、そしてその動きの源が私です。。。空間も私、、全部が全部「私」の中で起こる、、、

自我のたわいのないお喋り

面白いかどうかではない

自我は生存戦略として自分を認めてくれる人を探し出し、、ただひたすらに相手にしてもらうことを作戦上とります、、、本当は自我は存在していませんから、、自我常に不安で不安で仕方がないのです、、、すると相手とのコミュニケーションは、、自分の話を聞いてもらうこと、、ただこの一点に尽きます、、ということで自我のおしゃべりはたわいのないもになるのです、、、相手のためではなく、、、この自分の存在を認識してもらえるかが最重要なのです、、、目覚めに近づいていきますと、、この自我のおしゃべりが退屈になります、、なぜならばその会話には意味が全くないからです

相手の存在を認めてあげるジレンマ

相手の存在を認めてあげれば当然相手は喜びます、、居ないにも関わらず居ると信じてくれる相手は最重要です、、、ですがこの話こそが相手の自我存続をさらに加速させます、、、安定させます、、ということで気づきが進んでいる方は、、この会話に意味を見出せません、、、くだらない時間だと思います、、

認めてもらいたい、認めてほしい

認めてもらいたい、認めて欲しい、、このやりとりこそが自我の延命共同戦略です、、、会話はこの一点に集約されます、、、、そして多くの場合このやりとりは成功を収め、、、自我は安泰の状態になる、、、ところが家に帰ると、、、苦しい、、、孤独感、、になります、、、、つまり自我を強く意識するということは真実から外れるのです、、結果苦しい、、、この終わらない苦しみに気づくと、、、コミュニケーションが変わります。

経験を作りだす存在

見えるという経験を作り出す存在

花をみれば花がそこにあるがわかります、、この経験を作り出しているのは誰でしょう、、この経験、、この経験を作り出す存在が私です、、、TVを観て大笑いする、、この経験を作りだしているのは誰でしょうか??これが自分です。この体だけではTVを観て大笑いすることはできません、、TVがあって、見る人間がいて、その画像の中に芸人が居て、、、この条件を揃えた存在こそが自分です。経験を作り出すエネルギーです、、

花を花たらしめ、この体をこの体たらしめ、、

花を花たらしめ、この体を体たらしめ、、花を見るという経験を経験たらしむこのエネルギーこそが自分です、、これは夢であり、、夢の中の登場人物も、、その中で起こるドラマ、経験、心情、衝動、情動、、、全部が全部同じエネルギーでできています、、その全エネルギーが自分です、、そしてそれに気づいているのも自分です。全く何もない場所でこの全てが行われている、、この何もない場所も自分です。

これは夢

これは完全に夢です、、今目の前にドラマが起こっているならば完全な夢です、、一切合切が完璧一つのエネルギーで構成され、、経験が起き上がります、、夢です、、、夢であることが完全に腹落ちしたら、、もう深刻になれない、深刻になれない夢ならば、、いっそ覚めてしまった方がいい、、夢から覚めるときはいつもこんな感じですよね、、あれこれって夢かな、、からの目覚め、、、真剣に真剣に夢に没入しながら突然覚めることはない、、

苦しい病を治す

一番治さないといけない病気

自我が目覚めると、、苦しいが湧いてきます、、、これは病気です、、苦しいんですから、、、ですが社会はこの苦しいを肯定します、、否定しない、、上手く付き合っていくものだと、、、なぜか????この自分が原因で苦しんでいることを認めてしまったらこの自分を殺さなくてはならなくなるからです、、ですが死んでしまってまで病気を治す価値はない、、となります。

治ります

でも治せるんです、、この苦しいという病気を、、どうやって、、、自分という存在が実は幻想で偽りで、、これは夢だという気づきが起きればそれで終わります、、究極の真実を腹落ちさせます。私というのは、、この万物を動かしている、、エネルギーそのもの、、この経験を作っているエネルギーそのもの、、全細胞、全原子、全分子を動かす存在なのです、、、これを絶対的に理解できますと自分がシフトします、、究極の騙し絵、、

悟ってからが人生

悟ってからは人生があるんですか???あります、、だってこれまでもあったからです、、悟っている状態がデフォルトで、、その中に自分劇場という幻想が湧き出ていただけなのです、、夢から覚めてからが本当の人生です、、苦しいがデフォルトの人生なんてとっとと辞めて、、静寂平和がデフォルトの人生に変えてしまいます。主語がこの体から、、生命現象全体になります、、、ですがそれでもこの体が動く人生はしっかりと続きます、、主語が入れ替わるだけです。

自我に取り込まれるという自然現象

自我に取り込まれるのも自然現象

自我に取り込まれるという自然現象が人間というこの現象の中で起こりました、、これによってこの体は生き延びるという力を手に入れました、、、食べることができます、朝昼晩と、、、ところが同時にこの自我という自然現象によって苦しいという自然現象が起きるようになったのです。。

食べてはいきたい、、苦しいも解消したい

人類は食べるために、、、苦しいを背負いこむことになりました、、自我という幻想を作り出すことで、、食べていくことはできましたが、、同時に苦しいを生み出してしまいました、、、自我は比較の中で自分の幸福度を測りますから、、、生きている間中競争の中に居続けることになります、、そして絶対に安定しない幸福の中で怯えながら生きることになるのです。

自我が幻想であることに目覚める

食べるために都合が良かったこの自我ですがもうこれが幻想であることを完璧に見抜く時期です、、そうでないと死ぬまで苦しみ続けて生きていくことになります、、、思考に取り込まれることで思考をしているということすら気付いていない状態、、これが自我です。。思考が起きたときに必ずそれに気づき、、思考に取り込まれないようにしていきます、、常に思考を観察する無我を出現させます、、すると自我など実は居ないことが分かってきます。

苦しみの本当の意味

苦しいとは。。勘違いの証明

生きるって苦しい、、なぜか苦しい、、テレビやお喋り、何かに頼っていないと退屈で死にたくなる、、、、これらの本当の意味は何でしょうか????真実の勘違いです、、、真実を誤解して生きている時に生じる感情、それが苦しみです。ですからこの苦しみこそが悟りへの誘いです、苦しみが悟りへの渇望になります。。何をしても何を得ても癒えないこの苦しみこそが真実に目覚めるきっかけになるのです。

そう思えば、、、

苦しいが悟りへの誘いになります、、そう考えると、、この苦しみは悟りにとって最重要事項、森羅万象の動きは完璧です、、、この苦しみ解消を、、名誉や、お金、異性、やりがいで解消しようとしても全く癒えない、、、この究極のお題解決こそが悟りです。悟りとは究極の現実に目覚めること、究極の真実、リアルに目覚めることです。

何も求めなくていいという解放感

何も求めなくていい、、、そうです、、、究極のメッセージが教えてくれることは革命的です、、川の流れのように我々がこの先に取る行動は全部決まっていない、、全て森羅万象の動き、、運任せ風任せ、、森羅万象任せ、、この状態で何を期待し何を失望するのか?という話です。この事実に向き合った時に根本的な脱力に襲われます、、人生に責任を取るという大きなプレッシャーから解放されます。

事実は優しい

事実は冷たくない

経験だけがあって現象だけがある、、、、こんな空い世界に生きて何が楽しいのか???真逆です、生まれたての幼児は見るもの触れるもの、香るもの、、全部から感動しているではないか、、、この現象に触れているだけで感動し至福の中に居るのです。我々はこの神が起こした現象に判断、分別を加え続け、、、切り裂きに切り裂き、、生命の息吹を完璧に抹殺して生きてきたのです。本当はそのように見えているだけで生命から生命を奪うことはできません。生命は生命以外にはなれないのです。

冷酷なこの世界を、、、

現実は厳しいよね、、、違います、、、そのように見えるまで判断を加え続けてきたのです。人は所詮信用できないよね、、、違います、、、そのように感じるまで判断を加え続けてきたのです。冷酷に感じるようになるまで判断をインストールし続けてきただけです。この現象、生命は、、、神そのもの、空の化身、、全体のアートですから、、それが冷酷である、、、、というのはそう見える現象になってしまっただけです。

熟睡から目覚めた時、、

熟睡から目覚めた時に、、、なんて冷酷な熟睡だったんだ昨晩は、、、、こんな感覚を覚えた人は皆無です。熟睡=至福=気づきの意識=空です。これが事実です。ここが安らぎの場所です。ここにいつでも帰れるならばもうこの現象界で、、、これが欲しい、あれが欲しい、評価を欲しい、称賛が欲しい、、、、が湧いてこなくなります。なぜならばその10000倍至福の場所を知っているからです。

執着はなぜ苦しいのか

執着が苦しいのには理由がある

執着が苦しいのには理由があります。それは執着するには自分が必要だからです。自分の奥さんに執着するということは奥さんが人のものにならないように恐れているということです。奥さんがどこか遠くに行ってしまうのでは、奥さんが自分を捨ててどこかに行ってしまうのでは、、と自分の所有物という感覚があるのです。ですから執着が始まると非常に苦しい、自分という感覚と対象を同一視する行為です。

いくら奥さんに執着しても

事実だけをお伝えすればどれほどあなたが「奥さん」に執着しようと奥さんは根源そのものからの起こりであるということは変わりませんからあなたの執着とは何も関係なく動きが起こり続けます。もしかしたら他者に興味が湧くかもしれないし突然仕事に目覚め忙しくなるかもしれません、ということで執着が苦しいのは根源の起こりに対し「個人」は一切の関与ができないということになります。そんなことはない「家にずっと居ろ」と言ったら去年はしっかりと家に居てくれた、、それはそのような反応がたまたま根源から起こっただけです、根源からの起こりそのものをコントロールすることは不可能です。

ただし執着すらもあなたを通じて根源から起こっている

ですが執着すらも実は何も問題がないのはこの執着すらも根源からあなたを通じて起こっているということです。執着そのものが根源の起こりですからこれもあなたには一切に関与することができないのです。ですから奥さんへの執着が苦しいというのならばそれをとことん味わえばいいのです。あなたにはどうにもならないということです。サレンダー、降参とは上手い表現で本当に個人は根源からの起りに対し無力です。全ての起こりが根源から湧き出し、自分という感覚も根源から湧き出し、執着という感情も根源から湧き出ている、、ただそれだけです。

水に顔を埋めれば苦しいのは分かっている

自分に顔を埋めれば苦しいのは分かっている

幼少期のプール体験で人は誰でも水に顔を埋めれば苦しいのは分かっています。毎日顔を水に埋めるのが趣味である、、という人が少ないのは苦しいからです。これは人間も同じで自分がこの体の中に居る、この思考に埋まれば苦しさが湧いてきます。これは事実です。自分というアイデアが全く無ければ誰かに罵られても、馬鹿にされても、怒られても感情が湧いてきません、この人は何をどこに向かって叫んでいるのだろうと不思議な気持ちは湧いてくるかもしれませんが、、つまり自分が居るという思考があるから人間関係の苦しさが湧くのです。

誰も自分を評価してくれない

評価されない、もっと評価されたい、全員を振り向かせたい、、これもこの体の中に自分が居るから湧いてくる発想です。ですが事実はこの体には自分という存在は存在しないのです。むしろ本当は居ないからこそ相手をされないと不安が湧いてくるのです、誰にも相手にされないということは自分が居ないのでは?と湧いてきそうだからです。だから苦しいと分かっていても自分という思考に常に顔を埋めているのが事実です。女性が着飾るのも、男性が仕事を頑張るのもこの体の中の自分に注目してほしいからです。

その自分が悟りを開きたい

悟りを開く「自分」は最初から居ないわけですが自分を信じていれば苦しさが湧いてきますから悟りでも何でも開きたいわけです。ですがそれすらも自分が悟りを開くのだという思考を信じている間は悟りは開きません。この自分が記憶によって作られた思考であると見破らないと。見破ることが悟り、目覚め、覚醒です。目覚めるのは自分ではありません、この自分が記憶に依存した思考であると根源が気づくことが悟りです。主人公が私(思考)から根源(事実)にシフトすることがノンデュアリティーです。

完全な知、経験、感情の先に気づき

先ずは知ること

非二元、悟りに関して重要なこと、それは究極の目的に目覚めることです。これによって究極のエネルギーが入り込んできます、ですがこれだけでは究極の気づきには至りません。重要なことはそれをこの体を通じて体験していくことです。究極の世界を体を通じて感じていくことです、何かに集中することで無我を知る、体の感覚に集中することで無我に入る、あらゆる体験の中から究極に触れていくことです。

無我に入ると歓喜が襲ってくる

無我に入ることに慣れていくと、、歓喜、平和、安堵が襲ってきます。その状態こそが目指すべき究極の場所であることを体、感情を通じて分かってきます。その場所はホームであり、神であり、大いなる一つであることを肌感覚で感じていきます。自身が小さな神で小さな神体験を今はやっているだけ、その事実を体験を通じて感じていくことが出来ます。

究極の気づき

先ずは知識として大いなる存在の世界を理解しそこから体を使ってそこに近づいていきます。そしていかに長い時間をその場所で過ごせるかをやっていきます。小さな神体験での大きな神への帰還を自主的に行っていきます。体は徐々に大きな神に馴染んでいきます。すると大きな神の方から小さな神に近づいてきます。これが究極の気づきです。打ち震えるような感動、感嘆、衝動を覚えるようになると究極の気づきは早いです。