映画

「自分=全体」も正確には間違い

自分という感覚は分離したからこそ芽生えた感覚

自分がない時、全体だけがあります。本当に美味しい物を口にした時自分を忘れます、、その時に全体としての自分を感じません。ただ歓喜だけがあります。存在を自覚する自分はそこには居ません。かなり高度なレベルの話になってきました。本当に良い音楽に聞き入る時、自分を忘れます。その時歓喜、幸福だけがあります。これを感じる自分が居なくなります。自分が全体に戻った時にはそれを自覚する存在が居なくなるのです。本当に面白い映画に魅入る時自分を忘れます、その時楽しいだけがあります、、、それを自覚する何かは存在しません。この映画を楽しんでいる「自分」を自覚する時、その映画を楽しんでいません。ナルシストがどこまで行っても薄っぺらいのは常に自分を手放せないからです。

自分は神である、、、間違い

本当に全体に戻っている時、、、私、自分という感覚はなくなります。ですから私は神、私は全体という感覚はないです。私はワンネスもないです。書道にのめり込み書と完全に一体になっている達人は私は全体、神だ、、、などという感覚を持っていません。何もない、、、、ただ認識だけがあります。私は神である、私は全体である。。。これは主体客体の世界、、、二元の世界の感覚なのです。これは非二元、ノンデュアリティーのメッセージです。主語があってその主語が何かを認識する世界は分離の世界です。この体の中に自分が居るという世界と変わりません。

フルマラソンを走り終えて、、、

人はフルマラソンを走り終えた時に、、、自分は安堵している、、自分がやり切った、、、自分はほっとしている、、、という感覚を持てません、、、、本当の安堵、本当の安心だけがあります。自分のことなど一瞬で忘れます。本当の安堵、安心とは自分が居なくなった時に訪れるのです。だからこそ自分は本当の安堵、、などという感覚はありません。フルマラソンを毎年のようにチャレンジする人は、、実はこの感覚を得たくて走っています。自分というものを完璧に忘れ去った時の安堵、安心、歓喜が忘れられなくなって走ります。なんという皮肉でしょう。完全なジョークです。

もしも記憶がなければ私の人生はない

もしもあなたに記憶がなかったら

人間は実は大きな勘違いをしています、もしもあなたに記憶する力が無かったら自分の人生というのは存在しません。昨日の自分も、一昨日の自分も、自身の親も、自身の友人も存在しません。なぜならばこれらの存在は全部記憶が作り出しているからです。記憶があるからそれを友人、自分、親と認識するのであって全部記憶に頼っています。ということは記憶力がない動物、昆虫には自分の人生がありません。???つまり自分の人生というものを歩んでいるのは人間だけということになります。世界中の全ての生命体の中で自分の人生を生きているのは人間だけです。自分のことを蔑ろししやがって、自分のことを軽く扱いやがって、、自分の人生には希望がない、、、このように悩んでいるのは人間だけです。

記憶力が人間に発達してから人生が生まれた

元々人間は自分人生を生きていたのではありません、記憶力というのが身についてから自分人生が始まりました。混乱してきますね。人生があるのが当たり前だと全人類が考えていると思いますがそれが事実ではありません。人生とは記憶力がある生命の遊びなのです。自分というこの分離した感覚を所有し続けるには記憶力が必要になりますし、、それを維持し続けることで映画のフィルムのように人生劇場を記憶し続け人生が成り立つのです。

人生が苦しいから人生は無しにしよう、、ではない

この人生が作りモノならば明日から人生を歩むのをやめよう、、、そう思ってもまた明日からも人生は続きます。なぜならば昨日の自分の記憶がガッツリあるからです。そうではなくこの自分人生、自分劇場がどう形成されているかを理解することです。そうすると重さが少し抜けます、こうしなくては、、、ああしなくては、、という重さが半減していきます。人生という確固たる事実はなく、、人生とは人間の記憶力が作り出していると腹落ちすると深刻さが減ります。人間を深刻にしている原因とは、、、この人生が本当に存在しているという錯覚です。

自分至上最悪の出来事、自殺について

最大のタブーに切り込む

全体から自らが分かれた状態、自分にとって最低最悪の事件が自殺です。自らの命を自らが断つということになります。自身にとっても周囲にとっても最悪な出来事であることは間違いありません。ですがこれを全体の視点に経ってみたらどうなるか?例えば自分の友人が自殺をしたとしましょう、その事実だけを自分が認識する時、友人は大いに苦しみ大いに悩みその決断をしたんだろう、、自分に何かできることはなかったか?自分がもっと優しくしていれば、、、こんな思いが間違いなく湧くでしょう。ですが真実をお伝えすればそれは全体が起こしたただの現象です。自分以外に起きたものは全て全体が起こしたゲーム上の現象です。無礼承知でお伝えすればスーパーマリオに出てくるクッパがゲームの中で死んでしまっただけということになります。クッパが苦しんだという事実はなくただゲーム上でそうなりました、終わり。勿論亡くなった友人の部屋を調べれば苦しみの日記や手紙が出てくるかもしれません、ですがそれも亡くなった後に全体がそれを起こしただけです。失礼承知で続けますがスーパーマリオのゲームにおいて自分はマリオだけ、それ以外は全部ゲーム上の出来事になり他のキャラの自由意志はそこにはありません。

自分は常に周囲の行動に振り回されるが

自分は両親の離婚、両親の死、友人の闘病、友人の投獄、、、、、に常に振り回されます。それがこの自分劇場のデフォルトです。ですが真実をお伝えすればそれらはスーパーマリオゲームでの脇役キャラでの出来事、そこに意味は何もありません。意味があるように確実に見えますが。この辺りはこの自分劇場最終段階のネタバレになってきます。映画の中の「七人の侍」ではもしかしたら次々に仲間が戦いの中で死んでいくかもしれません、ですがそれも映画の中での脇役がただ死んだだけ、、、そう見えるだけ。。。映画ですからそこに意味はないのです。自分は間違いなく居ます、この体の中に錯覚として。ですがこれは全体が自分錯覚を起こしているだけです。友人の死や両親の死を悲しむことはない、、、そんなことを言いたいわけではありません。全体という絶対に失われることがない存在が失うという経験をしたくて起こしたのがこの自分劇場だということです。

ネタバレが腹落ちすると死が怖くなくなる、、、

自分というものが全体から分かれたモノであるということ、実際には分かれることはできず分かれたという錯覚が起こっただけということ。このことが徐々に腹落ちできるようになってきますと死にたいする恐怖心がなくなってきます。これは全体最大のジョークであることが分かってきます。ジョークですがこの人生劇場に真剣に取り組んだ方がオチでしっかりとズッコケることができます。吉本新喜劇でもたまに真剣モードがないと笑いになりません。最初から最後までボケ倒しでは笑いは起きなくなります。一方このブログを書いている自分はこの自分劇場をまだ終わらせたいとは思っていません、ですから死にたくはない。ですがかつての死を恐れる感情はとうの昔に終わりました。特に死んだ後に対する恐怖、どこへ行くのだろう?という漠然とした不安は今はもうないと断言できます。自分というこの全体の錯覚、ジョークが終わり全体に戻るだけです。だからこそこのジョークが継続されるうちはこのジョークを最大限楽しもうと思います。

全体は自分に疲れた時だけ全体に戻る

全体は頻繁に全体に戻っている

自分で居ることは疲れます。自分とは自らを分けると書きますが、これは全体から自らを分けているのです。実際には分けることはできません、全体は一つのエネルギーですから。一つのエネルギーが全体を形成し、その中で諸行無常、様々な形態を表現しています。ということで自分とは全体から分かれているという錯覚(思考)が湧いている状態ということになります。実際に自分活動をしている最中は思考、感情が湧いてくると、、それはこの体、自分の感情であるという思考が同時に湧き、自分というプラットフォームを維持します。これはなかなか骨が折れる仕組みです。そして全体の中から自分として分離し続けている間、全体は狭苦しいこの状況を楽しんでいる一方苦しんでもいます。子供がTVゲームに夢中になっていても2時間ぐらいで力尽きる感覚を想像ください。ということで全体は自分で居ることに頻繁に疲れるためTV,映画、SNS、ネットフリックス、など没頭できること、無心にできることを使って全体に戻ります。その時だけは自分を辞めます。

全体はたまに全体に戻りながら自分を継続する

全体はたまに、もしくは頻繁に全体に戻ることで自分を継続していきます。何かしらの没頭できるアイテムを利用しながら自分を継続します。自分という存在はエキサイティングである一方で大変疲れるのです。とは言え全体はこの自分体験を愛しています、全体が全体のままでは絶対に経験できないことを自分が発見してくれるからです。だからこそ全体は常に自分を大切にしているのです。自分が地獄の苦しみを経験している時ですらも、自分体験を重宝するのです。

自分体験最大の喜びは自分が実は全体だったという気づき

自分体験とはエキサイティングだが疲れるという全体の経験です。この自分体験は喜怒哀楽、七転八倒、あらゆる感情を味わえる全体にとっての最高のエンターテーメントです。映画を5本連続で観ると疲れるようにこの人生ドラマ、自分劇場は楽しいが非常に疲れるわけです。ですがこの映画の最も面白い、最大のクライマックスとは何か?それは自分体験を行なっている全体が実は自分は居ないということに気づくことです。自分はなく全体だけがあったという大オチ、これです。だからこそこのブログは史上最低のネタバラシブログでもあります。勿論このようなブログに興味を持つ人間は既に準備ができているエンディング待ちの人々になります。

自分をやることに疲れた全体が取る行動

分離体験は最高で最低

自分とは自らを分けると書いて字のごとく全体からこの体を引き剥がす行為です。実際には一つのエネルギーしかありませんのでこの体を全体から分離させることは不可能です。とは言え今現在このブログを書いている「私」はこの体の中に居るではないか?こうなります。ですが私が居るというのは思考であってこの思考がこの体の中にあるという証明は絶対にできません。思考もエネルギーと捉えるならばそのエネルギーが体の中で発生したという証明はいまだにできていないはずです。感情も然りです。ではもしもこの体の中に思考も感情もエネルギーとして湧いていないならばどこに湧いているのか?ということです。

もしも体の中に思考も感情もないならば

もしもこの体の中に思考も感情もないならば、、この体の中には自分というものが存在しないことになります。この体の中に自分が居ないならばどこにいるのか?どこにも居ない、もしくは全部に居る、、ということになります。今もこのブログを書いていますが私は今だってこの体の中に居るように感じます。ですがこれが思い込みです。全体が私の体を借りてこのブログを書いているのです。そして出てくる感情、思考は全体が認識しています。書道家はなぜ毎日書を書くのか?花道家はなぜ毎日花を生けるのか?茶道家はなぜ毎日お茶を入れるのか?それは何かに没頭することでこれが自分であるという思考を湧かないようにして全体に戻っているのです。全体に戻ると歓喜、平和が湧いてきます。全体への一時帰還をしているのです。

全体への一時帰還で仕組みを理解する

人は何かに没頭すると全体へ一時帰還できます。この体の中に自分が居るという思考が湧いてこない時、自分はこの世にいません。全体だけがあります。この状態を何度も味わいたくて自分はTV,YOUTUBE,映画、ギャンブル、お酒、恋愛、SNSにハマっていきます。何かに没頭すると思考が湧いてこなくなることを知っている自分はこれを利用します。自分で居ることに疲れた時に自分はこれをやります。本当のことを言えばそれをやるのは自分をやることに疲れた全体です。

実際には分離できていないからこそ全体に戻りたい

自分とはどこまで行っても錯覚

自分というのは実際には存在しません。自分というのは全体から分離した独立した存在だと多くの方は思っていますが、もしも本当に独立したならば自分の欲には制限があるはずです。そして苦しみは存在しないはずです。なぜ完璧に独立した存在に悩みがあるのでしょうか?もしも個人が完璧に独立しているならば欲に制限がないこの人間という存在は何なんでしょうか?不完全過ぎます。自分とはどこまで行っても全体から分離していると思い込んでいる存在でしかなくだからこそいついも居心地が悪いわけです。

ライオンが自分は弱いと思い込めば苦しい

ライオンは百獣の王です。もっとも強い動物とされています。このライオンが洗脳されてもしも自身が非常に弱いと錯覚をしたらどうなるか?毎日草を食べ、シマウマに怯え、穴蔵に籠って生活する。雨の日は他の動物がいないからという理由で川に水を飲みに行く。こんなライオンは居心地が恐ろしく悪いはずです。本当は強いにも関わらず弱いと錯覚してしまっているライオンはどんに草を貪っても何かしっくりこないはず。もう分かりましたね。これが自分です、これが全体から分離していると錯覚している自分です。全体がこの体の中に閉じ込められた状態、この体の中に自分(全体)が居ると錯覚した状態、、、これこそが自分(人間)でありだからこそ居心地の悪さが消えないのです。

ライオンが自分の強さに気づくには?

自分のことを弱いと洗脳され錯覚を起こしたライオンはどうしたら本来の強さを取り戻すことができるのか?それは弱いということが錯覚であることに気づくしかありません。どのようにその錯覚が起こったのか?そこを理解する他ありません。自分もこれと同じ、自分がいかに全体から(自ら分かれた)存在になったのかを知ることです。この自分の人生の苦しさのカラクリを理解することです。それでもこの人間社会に馴染んでいると周囲は自分にあらゆる声掛けをすることで自分の存在を強化してきます。人間という周囲の存在こそが自分の存在を強化します、錯覚が溶けるのを妨害します。映画マトリックス同様に周囲の人間全員がエージェント・スミスになります。

夢の中での地獄も一瞬

至福にはなれないが地獄も一緒

毎晩見る夢の中で最初から最後まで地獄しかなかった、、こんなことも少ないはずです。というか無いはずです。夢というストーリーの中で最初から最後まで地獄続き、、、交通事故で跳ねられ全身麻痺に、病院に行ったら医療ミスが起き、さらに看護師からのイジメ、友人がお見舞いに来たら毒を盛られ死亡、、、と地獄が延々と続く夢も少ないものです。それはなぜか?簡単です、夢を見ているあなたがそんな夢は見たくないからです。

この現実社会も同じ

これは神が見る夢です。神が見る夢の中でこのリアリティーが起こっています。その中で自身は主人公になりこのストーリを右往左往しています。このリアリティーでは永遠の至福はありません、時間という縛りがあるが故に幸福は常に一瞬です、歓喜も常に一瞬です、だからこそ永遠の至福を主人公である私は求め続けるわけです。ですがこのストーリーの中では絶対に至福はありません、時間の中にいるからです。これは地獄に関しても同じで永遠の地獄は不可能なのです、時間がありますから。ただし問題はあります、永遠の不足感はついて回ります。全知全能の神が人間になりきっている夢ですから不足感しかありません。地獄は一瞬ですが不足感は永遠です。

不足感が永遠ならば夢から覚めるしかない

自分自身が見る夢も、神が見るこの夢も不足感が永遠ならば、、、この夢から覚める他ありません。分離体験には不足感は常にセットであり分離ゲームで永遠の至福は絶対に得れないのです。だからこそマトリックスという映画ではNEOは目覚めを目指したのです。この夢の中に永遠の至福への攻略があるならば釈迦は解脱を勧めないはず。もっとテクニックを話したはず。キリストは人間を原罪(的外れ)と表現し、釈迦は人間を「苦」と表現しました。テクニックに逃げるのではなくこの事実ととことん向き合う時期が起きます。それも神が決めます。

これが夢だとして、、だったらどういたらいいか?

この質問こそ腹落ちしていない自我の逃げ

これは夢です。この事実を突き付けたときの自我の反応は様々ですが、、最も多いのが、、それが事実としてではどうしたらいいのか?という質問です。この質問は的を得ているようで実は的を得ていません。もしもこれが夢だということが腹落ちしたら質問は出なくなります。どうしたらいいか?という質問は自我の行動パターンの王道です。自我は何かしらの行動を通じて問題を解決してきたのでこれが夢だという事実を突き付けられた時ですらも「だったらどうしたらいいか?」という行動でアクションを起こそうとします。

これが夢だと腹落ちしたら、、、疑問は無くなる

映画にはまり込んでしまい、、あまりの恐ろしさで泣きじゃくる子供には「これは映画で作り物だよ」と教えてあげます。そうすると子供は安心して泣き止む可能性があります。ただこれだけです。もしもこの事実に対して「じゃあどうしたらいいのか?」と聞く子供は映画という事実をまだ受け入れれてないだけです。ですからこれが夢であるという事実に対して自分の中から「では自分は今後いかにして生きようか?」という疑問が湧いてきたら夢であることをまだ理解していないんだと俯瞰するだけです。

これが夢だということが分かったらそもそも自分がなくなる

夢の中で夢だと気づく時に、、、自分の存在も同時になくなります。これ当然ですよね。、もしもあなたが毎晩見る夢の中で、、夢の最中に「これは夢だ!」と気づいた瞬間、、もう主人公に感情移入しないですよね!!この事実を腹に落としてください。夢だと分かっていながら、、さあ仕切り直して次の展開に進もう!とはならないはず。その瞬間に夢から覚めるはず!これ絶対的に自信あります。つまり覚醒体験、目覚め体験、気づきの一瞥とは、、、拍子抜け、腰砕け、力抜けであり、、、じゃあどうしたらいいか?という心境とは真逆です。

一つのエネルギーが振動数を変えているだけ

TVゲームは光の種類を変えているだけ

TVゲームはTVの画面上でキャラクターが動き、敵が現れて変幻自在に画面の中でドラマが展開されますが実際は様々な種類の光が画面上で点滅しているだけです。そして様々な種類の光というのも波長の長さが違うだけで同じ光であることに違いがありません。全く同じ因子で構成されています。これは実はこの夢、神が見る夢でも全く同じで同じ粒子が速度、回転数を変えて変幻自在に動いているだけで実は全部同じエネルギーです。違ったものに見えるのも、違った硬さに感じるのも、違った匂いに感じるのも振動数が違うだけ。TV画面の光と同じ原理です。

自分がいるという思考も振動数

思考もエネルギーです。物を構成するのもエネルギーです。思考においてこの分離世界を作り出しているのが自我です。この体こそ自分自身だいう思考です。これもエネルギーです。全てを構成しているエネルギーと全く同じエネルギーが振動数を変えて自他を作り出しています。そういう意味では人間の五感とは振動数探知機みたいなものでしょう。見て振動数の違いを発見する機能、匂いで震度数の違いを発見する機能、触って振動数の違いを発見する機能、味で振動数の違いを発見する機能、、、そしてこの体こそを自分とする思考(振動)、湧き上がる感情(振動)を自分のものとする思考(振動)が組み合わさってこのバーチャルリアリティーが形成されます。

一つのエネルギーがこの夢物語を作る

記憶する脳もエネルギーです。脳という記憶装置にエネルギーとして記憶されます。その記憶をもとに過去が誕生しました。人間という個別の存在があるという前提のドラマをしっかりと脳にエネルギーとして記憶することでさもこの人生ドラマが本当であるかのような錯覚をすることができます。映画も同じで全部記憶されています。そしてそれを構成するエネルギーはたった一つです。神を構成するエネルギー、ワンネスのエネルギー、空のエネルギー、全部同じエネルギーですがこのエネルギーが震度数を変えて変幻自在のバーチャルリアリティーを作り出します。

夢への没入はこの夢物語の醍醐味

苦しんでいる人は神制作映画を堪能している

これは神の見る夢です、一つのエネルギーが見る夢です。この夢は主人公(人間)である私が神であることを忘れることが最重要になります。せっかく夢を見ているのに神であることを忘れていなければ台無しです。映画を見るときに主人公の友人だったら映画にのめり込めません。映画とは作り物と分かっていてものめりこめるから面白いのです。ということで自身を神であるということを忘れ去った私は大変孤独、不足感全開、欠乏感全開になっていきます。この世の不幸を全部背負った状態になります。これは自身が神であることを完璧に忘れた状態のことです。知識を得れば得るほどにこの見える世界が夢ではなく現実であるかのように錯覚できます。つまり分離感覚全開、孤独感覚全開です。この状態に陥ることができた人はこの夢、映画に没入できている証拠なのです。優秀な人です。

苦しんでいる人は正しい方向に全力で走れている

この夢物語はこれが夢ではなく現実だと信じれば信じるほどに苦しめるようになっています。出てくる登場人物は全て脇役ですがそれが本物だと信じれば信じるほど苦しめるようになっています。つまり錯覚、洗脳が進めば進むほどに苦しめるようになっているのです。本人が本気になって欠乏感、不足感、孤独感を解消しようとすればするほどに知識を増やし、経験を増やしていくことでこれが夢であることを忘れていきます。自身がちっぽけばこの人間であるという錯覚が強化されていきます。それを共有する脇役との関係も強化されていきます。

どこかで気づく、無心、無思考、無我の状態が気持ちいい

しかしどこかで気付いてしまいます。自分の幸福を願って全力で生きてきたが、、その自分が居ないときに歓喜が襲ってくることを、自分を忘れて何かに没頭しているときに平和が襲ってくる、自分を忘れて人助けをしているときに安堵が襲ってくる。おかしい、、自分が居ないと至福になる。このカラクリが突如理解できる瞬間がきます。1日の中でどれだけ自分を忘れることができるか、、ここが至福のコツです。無我、無心、完全燃焼、無思考、、、この夢の中では自分がいない時は至福、自分全開、思考全開は苦悩、、なぜならば神が苦しむために作ったのが人間です、その人間になり切っていなければ苦悩を味わえないのです。人間(自分)でない状態はいつでも神(至福、歓喜、安堵)です。気付くと出てくる言葉「愛」しかなかった、、これは真実です。愛の中で無理くり苦痛体験をしているのが人間(自我)です。