映画

新しい感覚の習慣化

思考と感情を自分だとしない習慣

今時代は新しい認識、気づきの段階にシフトを始めています。天動説が地動説に切り替わったような大きな時代の転換点を迎えています。それは「この体、思考、感情」が自分ではなかったという気づきです。エゴ、自我全盛時代の終焉です。この体、感情、思考を自分とする時代が随分と続きました、、、何万年も、、、これは人類の進化のプロセスです、決して間違っているとかの話ではありません。全く問題なくこのプロセスが進んできました。そしてついに「この体、思考、感情」は自分ではない、、宇宙生命現象の一つであるという気づきの世界に今扉が開こうとしています。

「自分がいないんだとしたら」どうやって生きていくのか?

どうやっても生きていけます。これまではただ体、湧いてくる思考、湧いてくる感情を自分として同一化してきました、、、これからは思考が湧いてきても、感情が湧いてきても、、それを自分だとしないだけ、、、ただ観察するだけです。主人公になり切らないと映画は進まないのか???そんなことはない、という話です。主人公になりきらない映画の始まりです。

思考、感情が湧いてきても、、、ただ受け入れる

思考が湧いてきたら同一化、感情が湧いてきたら同一化、、、これをただひたすらに人間はやってきました。。。そしてこのパターン、システムは延々と負の感情、居心地の悪さ、欠乏感を湧き続けさせます。同一化こそがそれを作り出します、なんというジョーク。これからはそれをしません、思考が湧いても感情が湧いてもただ観察するだけ、、、思考が湧いたら湧いたときづき、感情が湧いたら湧いたと気づく、、、この新しい習慣の獲得が全てです。この感覚が身につくと、、、常に平和、歓喜、安堵が押し寄せてきます、、大海が押し寄せるように、今までの自分という小波を飲み込みます。

大いなる存在は思考と同一化し過去、未来を泳ぐ

記憶の蓄積で振り返る過去が積み重なっていく

人間の脳が進化を繰り返し脳が思考をするようになり、言葉も覚え記憶力がついていきます。こうなるとこの人間としての人生が着実に記憶となって蓄積されていきます。本来は大いなる存在がこの思考、感情、体と同一化することでこの自分映画は始まるわけですが記憶がたくさん積み重なっていくことで「自分」は過去を振り返るようになっていきます。過去を振り返るということは記憶の中を探るということです。大いなる存在、一つの宇宙生命体が思考に同一化し記憶の中の過去を振り返るようになるとそこは今(大いなる存在そのもの)から離れていくようになります。大いなる存在がまさかの人間の脳の中に意識をフォーカスしている状態です。この状態は大いなる存在にとって非常に居心地が悪くなるのです。人間として今に在るならばまだ居心地の悪さは少なくても人間の思考に成り切りさらに脳の中の記憶、過去にフォーカスするなど大いなる存在の究極の遊びでしょう。遊びは遊びですが苦しい遊びです。

過去が苦しかったということで未来不安ばかりを思考する

人間の思考に同一化した大いなる存在は脳の中の記憶、過去にフォーカスし、、過去を悔やみ、過去を後悔し、過去を悲しむ経験を味わいます。そして次は将来不安です、過去がこれほど酷かったのだから将来も不安が尽きない、、こうなるのです、、将来とは想像の中でありこれも人間の脳の中に存在します。大いなる存在の過去、将来という脳の中のトリップを続けるのです。こんな狭苦しい旅はあるでしょうか。ということで大いなる存在の脳内トリップは窮屈、苦痛を極めるのです。過去を悔み将来を憂うという行為がなぜこれほど苦しいのか?その種明かしを今しました。宇宙全体、全存在が思考と同一化し脳内をトリップするという意味不明な遊びをしているのです。

新しいチャレンジをしない、、、脳内トリップジャンキー

大いなる存在が自我に完全に取り込まれ日々安定、日々現状維持の生活をし始めますと、、、今を生きているようで実は過去や将来のことをばかりを考える生活に入っていきます。新しいチャレンジをしようとすれば情報を取ったり、新しい行動をするのですがそれをしないということは過去を嘆き、未来を憂う生活に入る可能性が高い、、、この状態は大いなる存在が人間の脳内をトリップし続けるという地味な遊びに興じ続ける生活に入っていくのです。これが悪いわけではありません、そうではなくこれは今(本来)から離れる苦しい遊びです。

本当はバラバラではないのにバラバラであると確信を持って生きている人間ドラマ

この世界は今も一つの宇宙現象

我々が観ているこの世界は今も完璧なる一つの宇宙現象です。ですが我々にはそう見えていないはずです。完全にバラバラに解体されているように見えているはずです。目の前にペットの犬がいればその犬は完全に犬以外とは分離しているように見えているはずです。これが人間が観ている分離世界、分離映画、分離ドラマです。完璧なる一つの宇宙現象が人間というフィルターを通する完全に分離した世界に一変するのです。これを覚者は「人間は寝ていて夢を観ている」と表現します。人間は一つの宇宙現象に名前を付けることで分断し細分化し本当に分裂しているように見える世界に今も居ます。

名前を付けちゃったんだから仕方がない

一つの宇宙生命体が、人間という存在を作り出し人間に思考、脳を与えたわけですから人間が名前を付けて分離その世界を上映しそこに住うことに何の問題はありません。これは一つの宇宙生命体が営む遊びです。人間主人公の一つの宇宙生命体分離映画を楽しんでいます。ですが人間からしたら冗談じゃない、、一つの宇宙現象のままがいいに決まっている、、こんな面倒臭いこの世界は終わりにして欲しい、、それが本音ではないでしょうか。ですが実は違います、、多くの人間はそんなことすらも考えません、絶賛分離体験中です。実は見ている世界は一つの宇宙生命体であり分離しているように見えているだけだ、、、こんなメッセージはウザイの一言で終わるでしょう。

覚者は皆同じことを言う「目の前が全て」

覚者はこの分離の夢から覚めた時に、、皆同じことをいいます「今ここが全て」「これしかないんです」「これだけがある」と、、、、、何を言っているんだ??と言う話です。人間にはこの見渡す世界は完全分離、支離滅裂社会でありもはやジャングルと化しています。信じるものは自分だけ、頼れるものは自分だけ、、、同情するなら金をくれ、、のヤサくれ状態です。ですがこの分離壊滅社会を作り出したのはこの思考であり、一つの宇宙生命体には何の罪もないのです。人間の脳が発達しこの体をより確実に生き延びさせるために生命現象に名前を付け文明の進化に大いに貢献しました。そしてその副作用がこの分離壊滅社会です。

分離壊滅社会を抜け出したいならば

分離壊滅社会、分離生気皆無社会をもしも抜け出したいならば、、、簡単です。この分離は真実ではなく人間というフィルターがそう見せていることを見抜くことです。そうです、この分離壊滅社会は幻想、夢なのです。人間が見れば確実に分離分断壊滅意気消沈ですがそれは「自分」が見ているからそうなっているということです。目に目える世界がなぜそうなっているか?ここを完璧に見抜いてください。そうすると目の前に起きた現象にいちいち反応しなくなる「自分」が生まれ始めます。マトリックスをマトリックスと見抜く「自分」が出現し始めるのです。

極端な価値観は映画に没入している証拠

人は全員信用できない

主人公がとんでもない悲惨な事故に巻き込まれたとき、その人はとんでもない経験からのとんでもない価値観を構築します。人は絶対に信用できない、、という信念、観念です。この価値観が強固に構築されますとそれを通した映画が上映され、、その人の周りには確かに信用できない人が多くなっていきます、街を歩けば信用できなそうな人がやたらと目につくようになります。その人の価値観がそのような風貌な人を探し当て見つけるのです。こうしてその人の人生は必然的にそのような信用できないような人々に囲まれるようになり屈折した人生を生きるようになります。

価値観に優劣はないが没入具合は人それぞれ

そもそもその人は被害者にも関わらずなぜさらに歪んだ価値観を刻み込み、歪んだ人生を歩まなくてはならないのか?不公平だ、、、これを気持ちがよく理解できます。ですがこの映画の目的とは最終的にこれが映画であることを見抜くことだとすれば、、、ハッピー映画を延々と観るよりも悲惨な映画を観る方が気づきが早いのは事実です。そういう意味では全ては完璧に平等です。ハッピーほのぼの映画よりもミッションインポッシブルのような敵しか登場しないような映画の方が、、これは映画だと見抜けるかもしれません。

その人がどのような価値観でどのような映画を生きているかを観察する

人間関係すらも目覚めのチャンスです。出会う人がどのような価値観でどのような映画を観ているのかそれを観察します。全てを観察対象にしてしまうのです、そうすれば人間関係に集中しそこから無我に入れます、そこから悟りへの入り口になります。その人がどこまでこの映画を映画と見抜けずに生きているか、もしも見抜けるチャンスがあるとすればどんな言葉がいいか?全てが無心、無我へ入り込むチャンスです。映画に入り込みすぎて自分の映画のことしか話さない人、映画に飽き飽きし早くこの映画を卒業したい人、、あらゆる人がこの私の映画には登場します。

「体験の主体」が「価値観」という「フィルター」を通じて映画を見ている

価値観は全員違うから見ている映画も違う

この世界は大変優れていて思考が変わると見ている世界が変わります。そして主人公も全員違いますから世界も主人公も異なる千差万別な映画が毎日上映されそれを「体験の主体」が楽しんでいるということになります。主人公の体験は記憶に蓄積されていき、さらに体験は思考と感情という反応を得ていきます。これら全てを脳は記憶して価値観を日々変換していきます。この価値観はこの映画のフィルター、映写機です。価値観が変われば映写機が変わり見える世界は確実に変わっていくのです、我々は生きて死ぬまで毎日変わり続ける価値観(映写機)で毎日移り変わる映画を見ているのです、そしてそれを体験しているのが体験の主体、気づきの主体、全存在ということになります。

映画だと気づいて生きているのはもう卒業間近

例えばあなたが強盗に遭おうとしましょう、すると次の日から強盗っぽい人間、風貌の人間があなたの視界に入るようになっていきます、それまでは全く気にもしなかった風貌の人間があなたが生きる世界に頻繁に登場するようになります。例えばあなたが白人の女性と大恋愛をしたとします、するとあなたの生きる世界、視界において白人がその日から頻繁に登場するようになります。街を歩いていても目に入るのです、確実に。同じ世界を生きているしこれからも同じだと思っていたら大間違いです、人間が大きな体験するとその日から確実に見える世界が変わっています。これを覚者は映画、夢、幻想と表現します。このメカニズムを理解するには人間として体験が必要になります、これを学校の授業で生徒に伝えても恐らく意味が分からないでしょう。

あまりにこの映画は優れている、、、

主人公の価値観で見える世界が変わってしまうような映画は巧妙すぎてこれを知ってしまうともうハリウッド映画を観ていられなくなります。この私が観ている映画の方が確実に完成度が高く緻密でエキサイティングです。ですからこれを映画と確実に見抜いた今でもこの映画への関心が全くなくなるということはありません、むしろ今後映画に出てくるだろう脇役の登場、ドラマの進行にワクワクします。ただし私自身は価値観の変換にはもう興味がなくということで見える世界が様変わりすることもないはずです。

マリオゲームは2時間、人間ゲームは16時間が限度

プレイヤーはゲームが終われば夢から覚める

プレイヤーがマリオゲームに熱中している時はマリオになり切っています。自身がまるでマリオであるかのように感情丸出し、思考丸出し状態です。悔しがり、喜び、歓喜に狂い、マリオに成り切ります。ですがゲームに疲れてゲームを辞めれば元の生活に戻ります。マリオになり切っていた自分からプレイヤーに戻ります。とはいえマリオはどうか?もしもマリオに人格があるとすればマリオは常にゲームの中です。マリオが我に帰ってゲームをやらないという選択肢はありません。マリオとはゲーム進行中しか存在できないし、ゲームが始まればマリオの選択肢は大冒険を続けるのみです。マリオと大冒険は常にセットです。マリオとはゲームの中でしか意識を持てない存在なのです。

神は人間の熟睡中は夢から覚める

一方この人間ゲームはどうなっているか?人間ゲーム絶賛活動中、神は人間になり切っています。神などこの世にいないかのように人間になり切ってゲームを遂行します。そして夜が更けて疲れてきた時に人間は熟睡と言って意識を失います。この瞬間神は神に戻ります、人間ゲームに疲れた神は神に戻るのです。TVゲームは2時間ぐらいで疲れ果てプレイヤーは我に帰りますが、神は人間ゲームを15時間ぐらいして我に帰ります。そして人間8時間の睡眠の後また再び神は人間になり切ってゲームがスタートするのです。人間の記憶装置が機能して私は〇〇太郎であるという感覚が戻ることで意識ががっつりここに焦点が合わさるのです。人間になり切った神の完成です。朝は意識が朦朧としますが神意識から人間意識へのシフト期間です。マリオゲームスタート時にプレイヤーがジャンプ練習などをする期間です。

悩みが多すぎると、人間意識から神に戻れない

神は人間活動中にあまりに多くの悩みを抱えますと、意識が人間に集中し過ぎて神に戻れない状態になります。思考がグルグル回り過ぎて人間意識が解除されないのです。そんな時は人間はお酒などを飲んで脳を麻痺させて思考を強制遮断し人間意識から神に強制帰還させます。神にとって人間に意識を合わせている期間は居心地が悪く疲れます。全知全能の神が無知無能の人間になり切っているわけですから当然です。記憶を使い私は人間であるというストーリーに入り込み続けるのは、人間がゲームキャラに成り切る、映画の主人公に成り切るのと同じです。人間は2時間ぐらいでゲームも映画も疲れ果てて辞めます、それはそこに意識を合わせ続けるのはパワーが必要だからです。本当はゲームキャラでも映画主人公でもないからです。

あらゆる気晴らしに絶望したら究極を追い求める

人生は短いようで長い

人生は短いようで長いものです。何かを達成したらあとは静かに暮らしていきたい、、こう思う人も少なくはないはず。もしくは老後はゆっくり夫婦で静かに暮らしたい、、こんな細やかな夢を持つのも自由です。アウトドア、ガーデニング、自家栽培、観光、旅行、韓流映画、ネットフリックス、孫の面倒、、世の中にはあらゆる暇潰しのアイテムが何千と揃っています。ですがそれに絶望的に飽きる時期がきます、何をやっても絶望的につまらなくなる時期がくるのです。

自己実現を目指してみる

自分が好きなことで世の中の役に立てたら、、、これはなかなか難しいチャレンジです。ですが3年から10年もあればこれも達成できてしまうでしょう。毎日コツコツ自身の技術を高めて行けばどこかしらで世の中に必要とされる技術まで昇華されます。そうしたら次は何をすればいいのか?また3年から10年かけて新しいことをスタートするのか?もしもその熱意が失せてしまったら、、、、そんな時は究極を追い求めてはいかがでしょうか?この人生がなぜ飽き続ける人生なのかを解明してみてはいかがでしょうか?

ビートたけしは芸能界のトップを取り自殺を図る

ビートたけしは約30年前にバイク事故を起こしています、それから何年後かのラジオ出演時に自身であれはある意味自殺だったと明かしていました。芸能界でトップをとった後に映画に興味を持つはいいが、、恐らくそこでトップをとっても見える世界は同じだろうとある種絶望していました。彼はその後独自の死生観を映画にし海外で高い評価を受けました。ビートたけしは自己実現をかなり高いレベルで達成した後独自の自己超越にチャレンジしたのだと私は考えています。

映画に夢中になれなくなる時期

映画はフィクションだから夢中になれなくていい

私は学生時代に毎週1本の映画を見続けました。恐らく社会人になる前に何百本の映画を見続けたと思います。映画から学べたことは半端なく多く海外の人々の人生観、人生を映画を通じて学びました。それはもう食い入るように観たのはこの我が人生をこれからどうしたらいいか?という漠然とした不安からでした。だからこそ自分とは違う境遇の人が味わう経験をモノにしたかったのです。ところがです、、、何百本の映画を観倒しても全答えが見つからない、、、

社会人になって本気で人生に悩み始めた、、、

社会人になって本気になって人生について悩み始めました。今やっている仕事をどうしても好きになれなかったからです。かと言って他に夢中になれそうな仕事もない、、学生時代の何百本の映画はこの悩みには一切答えてくれませんでした。とにかく本気になってこの悩みに悩みきった時に精神世界の書籍が湯水のように体に染み込んできました。そこには夢のような内容が書かれていて私の悩みを一時的に拭ってくれたのです。引き寄せの法則、正負の法則、運気の法則、カルマの法則、波動の法則などなど、、、私はこれらの理論にすがり結果その当時の悩みを解決できました。

その後映画に夢中になれない

自分の人生がエキサイティングになっていき、映画以上の波乱万丈を味わうようになってくるともう映画を楽しめません。映画とは退屈な人生におけるスパイスなのだと実感しました。もしも自身の人生がエキサイティングならば映画を観たいなど思わないということを知りました。結論を言ってしまえばこの人生もフィクションです、神が、全体がこの体になり切るというフィクション映画です、もしもこの映画に没入できるとその中でさらにフィクションを見たいという欲求が減るのは納得できます。

人間になり切って成し遂げたい時期

マリオになり切って成し遂げたい時期

なぜ私以外の人々は悟りに興味を持たないのか?なぜまだ人間ゲームにハマっているのか?助けてあげたい、、、このような気持ちは一切不要です。マリオに成り切ってスーパーマリオをプレイする時期は実はゲーム中では最高の時期です。自分はプレイヤーだからマリオの成否などどうでもいい、、こんな感じでプレイをスタートしたら最悪です。そんあプレイならば辞めたほうがいい。これは人間ゲームも全く同じ、ゲームにのめり込んで自分の存在を忘れている時期は最高の状態なのです、もちろん苦しいですが。

映画の主人公に成り切っている時期は最高

映画は主人公になり切れる映画が最高の映画です、映画中に集中できない、主人公がピンチになっても全く感情が揺れ動かない、、こんな映画ならば観ないほうがいい。主人公に成り切って喜怒哀楽の感情が湧いてきたら最高、もしも主人公が悲劇の死を遂げてもやっぱり最高なのです。この人間ゲーム同じ、ハマりこめてこそ、人間になり切れてこそ醍醐味です。だからこそ悟りの内容は人に伝えなくていい、、こんな内容のメッセージは無理して人に進言しないことです。

人間に成り切っているのが心底苦しくなれば、、、

人間に成り切っているのが心底苦しくなる時期がきます、私の場合はあらゆる事業に手をつけそれを成し遂げられた時に次の目標を失いました。もうチャレンジしたい分野がない、、そのような時期に悟りのメッセージがガツンときたのです。これを腹落ちしたい、次のチャレンジをしたい、、腹の底から悟りを求める気持ちが湧いてきました。これは思考では掴めない、思考で悟りを極めるなど不可能、そこがまたいい。そんな感じです。

時に敵を作って自分を維持する

この体の中に自分が居るというリアリティーを出すには敵の存在が一番

誰もこの体に話しかけてくれなければこの体の中に自分が居るという錯覚を維持しにくくなります。そのためこの体はあえて環境に敵を作ってその敵にこの体を攻撃させることで体の中に自分が居るという錯覚を強化させます。敵を使って悪口をこの体に言わせます、敵を使ってこの体に残業をさせます、敵を使ってこの体にパワハラをさせます、敵を使ってこの体にセクハラをさせます、、、そうすると被害者になれるので、、、私はなんて不運なんだ、私はなんて残酷な状況に居るんだ、、私だけがなぜこんな酷い目に、、、、と体の中の自分劇場に入り込めるのです。ですが本当はただ体がそのような経験をしただけでそれを経験しているのは気づきの意識です。

時に恋愛をしてこの体の中に自分が居ると信じ込む

恋愛はこの体の中に自分が居るという錯覚を起こすのに最適です。私のことを彼が好きでいてくれる、私のことを彼が一生の伴侶と認めてくれた、私のことを彼が誰よりも大切に思ってくれた、、、、これでこの体の中に自分が居るという錯覚を強化できます。ですが実際は彼がこの体に向けたメッセージ、態度です、そしてそれを気づきの意識が経験します。

時に映画にハマってこの体の中に自分が居ると信じ込む

映画の登場人物はほぼ全員、この体の中に自分が居ると信じ込む仲間です。ですからこの私、この体の中の私は映画を観るとホッとします。私と同じようにみんな悩み苦しみ生きている、この体の中にしっかりと居続けることは大変なんだと錯覚を起こせるからです。TV番組を観てもほぼ全員のキャストが体の中に自分が居るという大前提でトーク番組が展開されていきます。もしもこの体の中には自分が居ませんよと話すタレントが現れたならば翌週からそのタレントを見ることはないでしょう。