感情

夢の中での要領の良さは至福とは何も関係がない

毎晩見る夢の中で要領の良さを披露しても至福には至れない

毎晩見ている夢の中で要領を駆使して何かを達成したとしても一時的な快楽にしかなりません。次の瞬間からでは次はどうするか?という疑問が湧いてきます。そして次の展開、次の展開と夢は続いていくはずです。夢の中で永遠の至福を手に入れることができないのは次の展開に移ればまた振り出しなのです。これが夢です。ストーリーです、時間が管理する物語です。残酷なまでに感情は一瞬一瞬であり夢の中でさえ自身の感情をコントロールできません。そしてなぜ夢の中で主人公が次々に行動を起こさなくてはならないかといえば不足感が湧き出ているからです。夢の中ではこの不足感はデフォルトです。なぜならばデフォル分離した自分というものを設定した瞬間から全体から離れ孤独感、分離感、不足感が湧いてくるからです。

このリアリティーにおいてもこれは同じ

このリアリティーの世界、現実社会でもこれは同じでして要領の良さで何かを達成しても至福は一瞬です。次の瞬間から不足感、欠乏感、分離感が襲ってきます。この現実社会の中で自分の体を境界線にすることで自他を作り出した瞬間から分離感がひたすらに襲ってきます。この分離感、不足感を何とかして解消しようとして要領の良さを発揮し一瞬の至福感を得ます、ですが次の瞬間にはまた不足感、欠乏感が湧いてきてその解消に努め続けることになるのです。もうお気づきだと思いますがこのリアリティーと毎晩見る夢はあまりに様子が似ています。そうです、このリアリティーは神が見る夢です。

夢もこのリアリティーも覚めるしか解決方法はない

毎晩見る夢にしてもこのリアリティーにしても分離意識、主人公の中に自分があるという感覚を手放さない限り不足感、欠乏感が解消することはありません。我々は物心が付いた時から不足感と戦ってきました、それは夢の中でもこのリアリティーの中でもです。今日は至福の極みだから何もしないでおこう、、こんな日は1日たりとも無かったはずです。安心してください、この夢の中でそんな人間は一人もいません。毎晩の夢の中でもこのリアリティーの中でも至福過ぎて何もする気は起きない、、こんな登場人物は皆無なのです。分離とはそのようなものです。

これが夢であるという事実から逃げない

人間がこれまで戦争や争いを終えることができず、世の中から紛争を無くすことができないのはこれが夢だからです。たった一つのエネルギーが分離して見えるこの世界は不足感体験ゲームなのです。しかもこの不足感は分離が終わるまで延々に続くというオチです。こうなりますともうこれを夢と認識する以外ありません。勇気を持ってこのリアリティーに向き合うほかないのです。人間はあまりにこのリアリティーに長く触れ続けた結果、不足感、欠乏感にどれほど苦しまされてもうこのリアリティーを手放しません。リアリティーに執着しています。だからこそこのようなメッセージ、ノンデュアリティー、悟りと言われるような内容に嫌悪感すら抱きます。

夢の中で「あなたは既に知っている!」

夢の中での至福体験は至福ではない

もしもあなたが夢の中で最上級の幸福を手に入れたとしても幸せすぎて起きてしまったということは少ないはずです。人間がみる夢とはリアリティー全開でミシュランレストランの味覚も、高級ホテルの寝心地も、人間国宝のお皿の渋みも全て再現ししかも感動できます、夢の中で。ですがにも関わらずその夢の中で永遠の至福を手に入れたことはありません。夢の中ですら人間は至福に至れないのです。これかなり重要なポイントです。夢の中で人間は最高の感情を味わうことができます、夢の中で金メダルをとっても涙を流して感動できます。夢の中ってその点においてかなり自由です、にも関わらずその夢の中で永遠の至福を手に入れたことがないはず。結論をお伝えします、夢の中だから至福に至れないのです。夢の中というのは分離体験であり分離体験の主人公が至福に至ことは絶対にないのです。分離しているから。

この現実社会も同じ

この現実社会、あなたが見ているこのリアリティーにおいてもあなたは永遠の至福を手に入れたことはないはずです。勿論一時の幸福、歓喜、喜び、感動を得たことはあるはずです。ですが永遠に続く至福を手に入れたことはないはずです。なぜでしょう?そうこれが分離体験だからです。人間という主人公を使った分離体験だからこそどんなに頑張っても至福に至れないのです。毎晩見る夢の中と同じで一時の幸福しか持てないのがこの現実社会です。つまり毎晩見る夢と、この現実は同じなのです。同じく分離体験なのです。これは神が見る夢です、夢の中で主人公(人間)は絶対に永遠の至福に至れません。夢ですから。

夢の中でも永遠の至福になれないのに、この現実でなれるわけがない

毎晩見る夢と、このリアリティーには共通点があります。それは其々に主人公が登場し、その主人公が右往左往するストーリーということです。ストーリーとは時間が必要になります。空間が必要になります。そうです、時間と空間が存在するこの分離体験ゲームでは永遠の至福は不可能なのです。永遠とは時間ではありません。時間を超越した状態です。この時間軸の中に居ながら永遠の至福は存在しないのです。だからこそ主人公は一瞬、一瞬の幸福をかき集めるという無限地獄を続けます。そしてそのことに薄々気づいているのでこのゲームは苦しみなのです。釈迦が伝えたたった一つのこと、、夢から覚めて解脱せよです、この意味はここから来ています。

これが夢だとして、、だったらどういたらいいか?

この質問こそ腹落ちしていない自我の逃げ

これは夢です。この事実を突き付けたときの自我の反応は様々ですが、、最も多いのが、、それが事実としてではどうしたらいいのか?という質問です。この質問は的を得ているようで実は的を得ていません。もしもこれが夢だということが腹落ちしたら質問は出なくなります。どうしたらいいか?という質問は自我の行動パターンの王道です。自我は何かしらの行動を通じて問題を解決してきたのでこれが夢だという事実を突き付けられた時ですらも「だったらどうしたらいいか?」という行動でアクションを起こそうとします。

これが夢だと腹落ちしたら、、、疑問は無くなる

映画にはまり込んでしまい、、あまりの恐ろしさで泣きじゃくる子供には「これは映画で作り物だよ」と教えてあげます。そうすると子供は安心して泣き止む可能性があります。ただこれだけです。もしもこの事実に対して「じゃあどうしたらいいのか?」と聞く子供は映画という事実をまだ受け入れれてないだけです。ですからこれが夢であるという事実に対して自分の中から「では自分は今後いかにして生きようか?」という疑問が湧いてきたら夢であることをまだ理解していないんだと俯瞰するだけです。

これが夢だということが分かったらそもそも自分がなくなる

夢の中で夢だと気づく時に、、、自分の存在も同時になくなります。これ当然ですよね。、もしもあなたが毎晩見る夢の中で、、夢の最中に「これは夢だ!」と気づいた瞬間、、もう主人公に感情移入しないですよね!!この事実を腹に落としてください。夢だと分かっていながら、、さあ仕切り直して次の展開に進もう!とはならないはず。その瞬間に夢から覚めるはず!これ絶対的に自信あります。つまり覚醒体験、目覚め体験、気づきの一瞥とは、、、拍子抜け、腰砕け、力抜けであり、、、じゃあどうしたらいいか?という心境とは真逆です。

一つのエネルギーが振動数を変えているだけ

TVゲームは光の種類を変えているだけ

TVゲームはTVの画面上でキャラクターが動き、敵が現れて変幻自在に画面の中でドラマが展開されますが実際は様々な種類の光が画面上で点滅しているだけです。そして様々な種類の光というのも波長の長さが違うだけで同じ光であることに違いがありません。全く同じ因子で構成されています。これは実はこの夢、神が見る夢でも全く同じで同じ粒子が速度、回転数を変えて変幻自在に動いているだけで実は全部同じエネルギーです。違ったものに見えるのも、違った硬さに感じるのも、違った匂いに感じるのも振動数が違うだけ。TV画面の光と同じ原理です。

自分がいるという思考も振動数

思考もエネルギーです。物を構成するのもエネルギーです。思考においてこの分離世界を作り出しているのが自我です。この体こそ自分自身だいう思考です。これもエネルギーです。全てを構成しているエネルギーと全く同じエネルギーが振動数を変えて自他を作り出しています。そういう意味では人間の五感とは振動数探知機みたいなものでしょう。見て振動数の違いを発見する機能、匂いで震度数の違いを発見する機能、触って振動数の違いを発見する機能、味で振動数の違いを発見する機能、、、そしてこの体こそを自分とする思考(振動)、湧き上がる感情(振動)を自分のものとする思考(振動)が組み合わさってこのバーチャルリアリティーが形成されます。

一つのエネルギーがこの夢物語を作る

記憶する脳もエネルギーです。脳という記憶装置にエネルギーとして記憶されます。その記憶をもとに過去が誕生しました。人間という個別の存在があるという前提のドラマをしっかりと脳にエネルギーとして記憶することでさもこの人生ドラマが本当であるかのような錯覚をすることができます。映画も同じで全部記憶されています。そしてそれを構成するエネルギーはたった一つです。神を構成するエネルギー、ワンネスのエネルギー、空のエネルギー、全部同じエネルギーですがこのエネルギーが震度数を変えて変幻自在のバーチャルリアリティーを作り出します。

偽りの自分は人を引きずり下ろして不足感を解消する

不足感解消に仁義なし

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中では神は人間に成り切ったゲームを展開します。人間という五感+思考+感情動物を利用してこのゲームを楽しみます。実際には全て幻想ですが五感があることでリアリティーを与えます。さも自分がいるかのような錯覚を感じることができる遊びを展開します。神が人間という不自由極まりない生き物に成り切るわけですから不足感が湧いてきます。しかもこれはこのゲームが続く限り延々と湧いてきます。この不足感が人間の価値観と絡み合うことであらゆる感情のベースになるのです。怒り、妬み嫉み、孤独、退屈、などなどです。人間ゲームに慣れていない神はこの不足感を犯罪、裏切り、理不尽な行為をしてでも埋めようとするのです。これが仏教でいう地獄界です。このようなレベルの人たちが集まる集団に属しているとそこは地獄になります。

不足感解消にルールを守る

不足感解消のために最低限のルールを守れるようになると社会人としてやっていけます。会社、法律というルールを守りながらこの不足感を解消していきます。もちろんこの不足感はルールを守っていても関係なくひたすらに湧いてきますからこれが辛いことに何も変わりはありません。ただしここに居る人たちはルールを破ってでも不足感解消をしない分お互いが楽です。各々が独自に不足感解消に向けて努力していきます。

不足感解消から無我に入る

不足感解消をする努力から無心、無我、無思考に入れる人もいます。茶道、書道、花道のようにそこに携わることでそのまま無我に入り歓喜を得ます。そこに集中し無心に入ることでその場で神を体現します。これが究極の娯楽です。本来であれば苦しみでしかない仕事や労働から悟りに入るこれは人間の究極の形です。そして最終的にこの感覚を理解することから人間の苦悩解明に入っていきます。神が演じるこの人間から意識的に離れる、人間観察者へとシフトしていきます。

偽りの自分はメリットを聞きたがる

偽りの自分は不足感でできている

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神が人間になり切って、人間がいるかのような状況を作り出しこの夢物語を歩みます。人間が実際に実在するわけではありません、人間が実在しているかのように見える世界を神が作ったのです。マリオがいてクッパがいてクリボーがいてスーパーマリオは完成します。同じように主人公(私)と脇役を多数配置してこの錯覚ゲームはリアリティーが出て来ます。これは神が作った夢、ゲームですからリアリティーさにかけては右に出るものはありません。全知全能の神が無知無能の人間を作り出しそれに成り切っているわけですからこのゲーム、夢は不足感全開、欠乏感全開、、これがポイントになります。無知無能の人間が欠乏感全開になった時にどういう行動をとるか?メリットを追求します。コスパを追求します。損得を追求します。これが答えです。

五感+思考+感情、、これに脳の記憶装置を加えて完成

神が見る夢では人間(本当はいない)に五感を与え、見えて聞こえて、触れて、味わえて、嗅げる機能をつけると同時にその世界を現象化、バーチャル化、リアル化しました。人間の五感機能分だけ世界がリアライズされるのです。さらにこれに思考を加え、感情を加えることで不足感をいかに解消していくか、、思考を繰り返しながら観念を作り上げていきます。それに記憶力を加えることで過去を作り出しストーリーが完成します。湧き上がる不足感をあらゆる観念が感情化しそれを思考で解決していこうという試みになります。

不足感全開の無知無能人間は最初はメリットを重視するが、、

神にとって人間は無知無能です。その人間は不足感全開になりそれをなんとかして解決しようと行動します。人間ができることと言えばなるべく損をしないで生きたい、将来後悔しないような人生を歩みたいということになります。周囲から教えてもらう損が少ない人生を目指すようになるのです。進学しかり就職しかり結婚しかりです。ですがどこまで行っても消えないこの不足感は常に自分を追ってきます。この損しない生き方ゲームは死ぬまで続くのだろうか?ということです。神は人間を無知無能に作りはしましたがそれは不幸に浸かれと言っているわけではありません。その状況から神に戻ることを最終ゴールにしています。このブログでは神が教えてくれるあらゆるヒントを掲載します。

偽りの自分は自暴自棄になる

偽りの自分は時に自暴自棄になる

これは神が見る夢です、神が人間に扮して登場する夢です。全知全能の神が無知無能の人間に扮するわけですから強烈な挫折も味わいます。人間扮する神は時に自暴自棄にもなります。神が自暴自棄になるなど信じられないかもしれませんがだからこそ人間に扮している時は自暴自棄をしたくなるのです。神にとっては自暴自棄最高、ということです。神は神の状態ではできないことをこの人間体験中に全部やりたいわけです、神のヤサくれ、神のイジケ、神の投げやり、神の妬み嫉妬、、神が神ではできないことを人間体験で全開にやりたいということです。ということで自分が自暴自棄になっても心配する必要は一切ありません、その状態を神は喜んで認識します。

自暴自棄になろうともそれを意識明瞭に認識する神がいる

自暴自棄になろうと、ヤケ糞になろうと、それを冷静に明瞭に認識する神がいます。どんなに自身が酷い精神状態であろうとそれをハッキリした認識で見つめる神がいます。神にとって人間の精神状態などどうでもいいのです。それを認識し楽しみます。自暴自棄最高、やけくそ最高、妬み嫉み最高です。神が神では味わえない経験は最高の醍醐味です。神が人間に扮するからこそ体験できる感情は至上の喜びです。

麻薬中毒、自殺、DV、、なぜこんな酷いことが、、

ということでYAHOOニュースに載るような無残な事実は、、神にとってはモーマンタイです。神は神であってはできないことを全部経験したいわけですから人間の問題行動を問題視するわけがないのです。ニュースを賑わすような悲惨な事故は神の大好物でもあります。ただしそこが理解できる境地に居るならばもうそれは卒業したい、人間扮する神が神に戻る準備にシフトしたいものです。

損得を超える

損得はこの心身に対する絶対的確信から生まれる

このちっぽけで極小で、無知無能な人間という姿が自分である、、、この感覚に対し圧倒的な確信をしますと、、人はこの最低最悪な状況でいかにこの人生をマシに生きていくかを考えるようになります。損を最小限に抑え、得を最大限に得るかに一点集中します。それが損得勘定です。大人であればあるほどに損得感情ができるようになってしまうのは皮肉にもこれが自分であるという誤解が完成しているからです。これは神の夢です、神が見る夢です、神が人間になり切って見る夢です。本当は神ですから人間役をこなすことは地獄です。地獄ですから損得勘定が強化されていくのです。

無我に入ることを積極的にできるようになると

無我、無心、無思考に積極的に入れるようになると夢を見ながらも神に戻ることができます。思考が介在していない時、神は神に戻っています。この状態を積極的に作っていきます。そうすると損得勘定でいかに得をするかが生きる目的だったのが神に戻ることが生きる目的になります。人生の目的が全く変わってしまうのです。自我ベースで生きているとき生きる目的は損得です。ですが無心、無我、無思考に入ることを覚えると生きる目的は神に戻ることになります。

無我で解決する

多くの方は頭脳で問題を解決しようとします。多くの方は思考で問題を解決しようとします。そうではなく無我、無心、無思考で問題を解決します。問題を解決している最中に神に戻ります。問題を解決している途中で歓喜、安堵、平和が訪れます。剣道で言えば試合中に思考を使えば負けます、思考を使わないように練習を重ねていきます。この感覚をいかに日常生活に取り入れていくかです。思考の出る幕を極限まで排していく、そこにだけは知恵を使います。損得勘定が消え失せていきます。

今こことは何か?

今は時間から外れること

「いまここ」この言葉ほど悟りを探求する人間を惑わす言葉はないでしょう。いまここにありましょう。私もこの言葉には苦戦しました。今は理解できます、この言葉の真意を。ですがこの言葉を表面だけで理解しようとする迷宮入りするでしょう。書道家は無心になって書に向かうときに時間を忘れます、場所を忘れます、経験だけになります。自分もいなくなります。経験だけがそこにあります。この状態が「今ここ」です。実は時間も場所もない状態こそが「いまここ」です、つまりこの言葉の意味と真逆です。時間と場所がない状態こそ今ここです。この感覚が理解できてきますと、、目の前に広がる世界は夢である、ただ夢が顕現しているということがわかります。すると今ここに神が顕現している、空が色として現れているということも分かってきます。それが今ここです。

神は「今ここ」にあった

神とは今ここです。神の顕現が今ここです。目の前に広がる世界がそのまま神です。神の夢です。それ以外は何もありません。何かがあるならばそれは全存在ではなくなってしまいます。目の前に全存在が広がります、それを認識するのも人間扮する全存在です。全存在を全存在が認識しています。認識するという言葉は主体客体の表現ですから厳密には違いますが。今ここだけが神です。神の夢です。神の夢ですから因果を超えています、時間を超えています、空間も超えています。

時間も空間も超えた世界

あの人は面白い、あの人は何か違う、あの人の行動は読めない、、あの人の秘密は時間と空間を超えた状態を知っているか否かです。この夢の中に没入していますと思考全開状態です。思考とは損得計算機です、損得感情、利害感情で行動します。夢にのめり込めばのめりこむほど見える世界は活気を失い苦しい世界を生きるのです。誤解の極限です。そんな世界を生きていると思考全開、自我全開になっていきます。そんな中、無我夢中、無心、無思考、完全燃焼の状態を知る人が現れるとその人は変わった人に映ります。自我ではなく無我をベースに生きています。思考ではなく無思考をベースに生きます。不完全ではなく完全燃焼をベースに生きています。その状態とは平和、歓喜、安堵です。

苦しみを経験しているのは紛れもない神だ

小さな小さな自分が失敗したとしても苦しんでいるのは神

人間とは失敗する動物です、ミスもすればうっかりもする、判断ミスをすれば人を傷つけたりもする、、これは人間が無知無能だからです。神が全知全能ならば人間は無知無能です。だから人間とは失敗をするための道具です。その失敗をして湧き上がる感情、自分なんてだめだ、自分なんて終わっている、自分なんてアホだ、、これらの辛い感情は人間ではなく神が認識しています。人間活動によって追う負の感情を味わっているのは神です。神はこの負の感情を味わいたくてワザワザ人間を夢の中で作り失敗体験を積ませます。

人間は無知無能だから失敗上等、敗戦上等、絶望上等

これは神が見る夢であり、その中で神は人間に扮することで夢物語が進みます。人間には脳があるのでこの脳が夢物語を記憶することでストーリー化していきます。記憶があるから過去が誕生したのであって本当は過去はこの夢の中には存在しません。過去とは記憶する今です。人間とは無知無能ですから失敗はするは、勘違いはするは、ドジもします。それができないならば神は人間体験をする意味が全くありません。辛い、苦しい、悲しい、孤独、悔しい、、これらの感情を味わうためにこの夢を作ったのに、味わえないならばこの夢は無駄なのです。

砂遊びをしている大人は危ない

子供の頃に砂遊びに目覚めて今でもそれが趣味です、こんな30歳がいたら危ないと思われるでしょう。子供の遊びは子供だからこそ面白いもの、それを経験したら次の遊びにシフトします。それは砂遊びではもう失敗できないからです。失敗をしたくて人間体験をしている神は失敗ができない遊びには興味がないのです。ということで今失敗体験を積めているならば万々歳、神の願いが叶っています。積極的に失敗を積みたいならばもう人間ではなく神です。人間であることを忘れた神です。