思考

何かしらの障害が立ちはだかった時そこから無心に入る

例えば筋トレを始めると

エクササイズを通じて、筋トレを通じて無心に入ろうとチャレンジしていきますと肘が痛くなった、首が痛くなった、肩が痛くなったなどの障害、ハードルが出現します。無心初心者アルアルです。多くの場合はじゃあ一旦休もう、痛みがなくなったらまた再開しようとなって無心エクササイズ終了になります。ですがこれは自我の策略です。無心になるエクササイズが簡単にできてしまったらあらゆる自我は簡単に見破られ消滅してしまいます。自我は辞めてもいいようなしかるべき障害を作り出ししっかりと辞めます。もしも肩が痛くなったなら肩の痛みが消えるストレッチにシフトします。そこに無心になって入り込んでいきます。走っていて足がつったならば足のストレッチに切り替えそこから無心に入っていきます。こうしてどんな障害、ハードルも無心への入り口、無我への入り口、真我への入り口に利用します。

デフォルトが無心になると思考は明晰になっていく

思考がなぜここまで人類を発展させたか、それは思考はサバイバルに大変有効だからです。この思考をただ手放すことが正しいことではありません。思考はナイフと一緒で使い方によっては非常に役に立ちます。多くの方はナイフ中毒になってしまって自身を切り刻んでいるのです、何かタスクをこなす度に思考をフル回転、ナイフを振りかざし自身をメタメタに切り裂いているわけです。もしも無心でいられることがデフォルトになっているならば思考は再び有効なナイフとして使うことができます。肩が痛くなった時にストレッチに切り替えるというには思考のアイデアです、ここは思考が大変役に立つのです。

そんな思考も実はただ起きている

本当はこれはただの夢です、ですからあらゆる思考はただ湧いて起きています。夢の主人公も夢の中ではあらゆる思考を巡らし必死にサバイバルしていますがそんな思考もただ起きているだけでその主人公が考えたアイデアではありません。夢の主人公はもちろんこのアイデアは自分のものだと言い張るでしょうがそんなわけがないのはあなたが毎晩見る夢で証明済です。高速な相手とのコミュニケーション、言葉の掛け合いも全てあなた自身が全部作り出しているはずです、夢の中では。これが今この現実と呼ばれる夢の中で繰り広げられています、その夢の製作者はこの現実を認識している存在です。

スポーツ観戦の本当の意味

スポーツに集中するプロフェッショナルは思考が抜け落ち無我になっている

ビールを飲んでスポーツ観戦、これは何十年も前から続く男性の娯楽NO1です。どの国でも何かしらのプロスポーツがあり国民が熱狂します。なぜほとんどの国でこのような現象が起きるのでしょうか。これは決して偶然ではありません。スポーツは基本勝負の世界ですからそこにが戦いがあります、自我は観戦中のスポーツ選手に自身を同一化して勝負を楽しみます。まるで自分が勝負をしているかのような錯覚を味わうことができます。見ている時の自分とは選手のことなのです。そしてその選手がプレイに集中することで無心になっていきますが同時に見ているあなた自身も無心になっていきます。つまり観ている間無心状態、無我状態、真我になっているのです。ここで重要なのは観ている選手自他が無心状態だということです、無心状態の選手に同調して自身の思考も抜け落としていきます。ゲームが続く間大人は全ての思考が解除され無我無心、歓喜、安堵が続きます。観ている人間も観られている人間選手もそこにはいません。無我が無我を見ている、真我が真我を見ている、神が神を見ているのです。

浅田真央はスケート中無我になっている

浅田真央はスケートをしている時、無心になっています。無我になっています。自身は浅田真央だという思考も抜け落ち自我が抜け落ちています。この状態は歓喜、安心、平和そのものです。TVを見ている人々はこの浅田真央を観ることでそこに神を見ているのです。そしてその演技に注目することから自身も無心になり無我になり、真我になります。日本中の国民が浅田真央を応援したのには意味があるのです。

無心になれることに最も価値がある

多くの観戦者はこう考えます、プロスポーツ選手は格好良くて羨ましいが選手生命は短いしそのあとが大変だと。。このように思考は感動を台無しにします。歓喜に泥を塗ります。観戦後すぐに現実という夢に引き戻すのです。本当はそうではなく無心になって人が所作、プレイに入り込む時、その瞬間が歓喜、感動、安堵なのだということを学ぶことです。人間はあらゆる条件が揃わないと歓喜、感動、安堵は手に入らないと思考します。ですが人間が手に入れる歓喜、感動、安堵は一瞬のおやつのことであり、、、本当は無心になって自身が歓喜、感動、安堵になってしまうことを学ぶことが大切です。夢は一瞬で醒めます。

体験の一つ一つに集中することでどこからでも無心に入る

体験に対し思考が湧いてもそれに執着せずそのまま体験にあり続ける

カフェで美味しいコーヒーを飲んだ時に、思考が湧いてきます。これは原価いくらだろうか?このお店は儲かっているのか?この後何の予定が入っていたっけ?これらの思考は体験に入り込むのを邪魔する思考の罠です。美味しい、、その感覚に入り込んだ時思考は実は停止しています。その瞬間無我、無心、真我になっています。自我が抜け落ちています。ですがすぐに思考は巻き返しを図りそこに意味を付けたがりストーリーに連れ戻するのです。コーヒーは美味しかった、、、、そう言えば昨日の用事は済ませただろうか?と無我、無心は一瞬で終わります。そうではなく美味しい瞬間の無我を堪能したらそのまま次の体験にシフトして無我を継続していきます。すべての所作は無我に入り込むために利用していきます。

TV、映画、エンタメは無心になるための遊び

大人がストレス発散に映画やTVを観るのはこれは偶然ではありません。映画をなぜ観るのか、TVをなぜ観るのか?これは何かに人が集中する時思考が抜け落ち、この心身こそが自分だという思考が抜け落ちることで無我、無心、真我になっているのです。真我、全存在、大いなる一つはそのまま歓喜、安心、平和ですから観ている間その状態にシフトしているのです。面白い、楽しい、エキサイティングは感覚であり、、この瞬間思考が飛びます。ですがこれらに危険があるのは故に中毒性があり抜けられなくなってしまうことです。遊びを通じて無我にシフトするのは良いのですが全ての行為にこれを応用していく必要があります。

覚醒剤は脳に直接作用して思考を強制終了し、自我を強制終了させそのまま無我にシフトさせる

覚醒剤の危険さは、薬物によって強制的に無我体験をさせてしまうことで抜け出せなくなってしまうことです。覚醒剤は思考に直接作用することで思考を強制終了し、この心身こそが自分であるという思考も強制終了します。結果自我が抜け落ちることで無我に至ります。これが至福感、恍惚感となるのです。お酒以上に思考に訴えかける作用が強いため中毒性はかなりのものです、一回これをやったら二度と抜け出せないのはこの夢物語では絶対に感じることができない歓喜、安堵を安易に得てしまったからです。重要なことはこのメカニズムを理解することで覚醒剤なんかに頼らなくてもその境地にシフトすることを学ぶことです。そのために思考を利用します。

海であることを忘れた波は夢に夢中になる

夢中になれない夢ならば意味はない

海であることを忘れた波にとってこの世は夢物語、波物語です。波の観念によって大きく様変わりする夢です。リアリティー全開、五感全開の夢ですからこの夢を夢と見抜くとのは至難の技です。思考すればするほどにこの夢は複雑に入り込んでいきます、そしてその夢の中でいかに自由に快適に生きようかと思考をフル回転させればさらに複雑な夢、リアリティーが誕生するという見破れないパターンが進みます。

全存在がこの世を作ったのは夢にどっぷり浸かるため

この夢がなぜあるかと言えばまずはこの夢にどっぷりと浸かるためです。最初からバレバレな夢ならば夢から醒める感動は皆無です。ですから先ずはいかにこの夢にどっぷり浸かるかが重要です、どっぷりと浸かり深刻に人生を考え、重く将来を憂うことから人生はスタートするのです。だからこそそこから夢を見破ることに価値はあるし夢から醒める感動もあるわけです。

簡単に醒めない夢だから価値がある

この世が簡単に見抜けてしまう夢ならば価値はありません。この夢の醍醐味とは夢から覚めたときの感動です。あまりにリアリティーがあって夢とは思えないからこそ夢から覚めたときの感動があるのであって簡単に夢だと気づけてしまうのならばこの夢の価値は半減するのです。この心身こそが自分であるという錯覚を作り出すエネルギーは紛れもなく全存在のエネルギーでありこの夢は悪意で創造されたわけではありません。全存在が自身のエネルギーを使ってこの心身が自身であるという錯覚ゲームを創造したのです。ツッコミどころ満載、アラ全開のこのゲームを愛おしいと思うぐらいの余裕があればいいのですがそうではこのゲームの醍醐味は薄れます。

夢というのはリアリティーがあればあるほど醒めない

退屈な夢は醒めやすい、刺激的な夢は醒めにくい

毎晩人間が見る夢は刺激的な夢のう方が長く見ていられる気がします。退屈極まりない夢だったら途中で覚めるかもしくは怖すぎても起きるかもしれません。今我々が居るこの現象界は夢です、そしてこの現象界をストーリ化しているのは自身の観念。どんな夢を見るかは自身の観念が決めています。要は思考ということになります。どのような思考を信じているかでこの夢の内容は変わってくるということです。思考が積み重なり何十層にもなっていけばいくほどにこの夢、ストーリーは複雑怪奇になっていき緻密な夢になります。故に誰もこれを夢とは見破れなくなるのです。

自身の思考でこの夢を複雑にし、複雑故に疲れ果てていく

思考を重ね複雑に考えれば考えるほどにこの夢物語、海物語は複雑さを極めていきます。複雑であればあるほどに誰もこの夢を夢だと見破ることはできなくなります。こんな複雑で緻密な夢があるわけがないと信じ込むようになるのです、というよりも疑わなくなります。生き抜くためにあらゆる思考を手に入れて逆に生き辛くなった人間はこの苦しみから逃れるためにこの世の真実を探すという旅に出かけます。どうやら思考を積み重ねていってもこの現実は楽にはならないと諦めていくわけです。こうして人間を主人公にしたこの全存在の夢は覚めるための夢物語にシフトしていきます。この夢物語の中から覚めるためのヒントを探していくようになるのです。

先ずはこれが夢なのだと自覚することからスタートする

これが夢だということ、この事実を先ずは受け入れることからスタートします。そして明晰夢の状態でこの夢を生きていきます。これが夢だと覚めるために人生を費やしていきます。ですがこの発見のために過剰な努力をしたりムキになったり、思考を重ねてもそれは無駄に終わります。なぜならばその個人の囚われこそがこの夢を永続するシステムだからです。この個人がいないということ、これが夢だということの発見のために個人が頑張れば本末転倒です。なぜこの夢は苦しいのか、なぜこの夢には平和がないのか、なぜこの夢には本当の愛がないのか、、このように夢を観察する、、そして無我に入るとなぜその時だけは平和が訪れるのか、なぜ無心になるとその時だけ歓喜が訪れるのか、、このように夢の傍観者として生きていくことがスタートです。

自我は思考、体に集中すると自我は抜け落ちる

この心身こそは自分という錯覚は思考で行われている

この現象界にあるエネルギーは全て全存在、海の表現です。ですから思考も勿論その表現の一つです、表現の一つである以上悪いとか良いとかは一切ありません。つまり思考は悪ではありません。そしてこの思考を使って人類は発展してきました、思考こそが人類繁栄の主役です。この事実は変わりません。ですがこの思考はこの心身こそが自分自身であるという錯覚を引き起こす張本人でもあります。海であることを忘れ波が自分だと勘違いさせている真犯人です。全存在ではなく個人であるという勘違いを引き起こす真犯人です。人間の苦しみは間違いなくこの思考こそが生み出しています。これもまた事実です。ではこの思考を抜け落とし自身を全存在、海であると腹落ちさせるにはどうしたら良いのでしょうか。それは思考ではなく体を使うことです。体に全意識を集中するとそれに反比例して思考は弱まっていきます。例えば火事の時に子供を助けに行く母親の行動は体がおこなっているのであってそこに思考が入り込む余地はありません。オリンピックの短距離奏者が思考を使いながら走るということもありません。剣道の真剣勝負に入ったら思考の出る幕はありません。この時自我(この心身こそ自分という思考)は抜け落ち剣道術者は人間ではなく全存在になっています。マイケルジョーダンがプレイに集中する時に自分はマイケルジョーダンだという思考は抜け落ちしています、彼はプレイ中神になっています。

思考を観察するという行為に無心になる

思考を観察するという行為の凄さの理由は、思考を観察するのは自我にはできないということにあります。思考こそが自我ですから思考を観察するのは自我ではなく無我です。そう波になる前の海です。自我が形成される前の全存在、神、大いなる一つです。思考はこの存在以外に観察できないのです。だからこそ思考を観察するという行為は大変効果的です。ですがこれができない方は日々のあらゆる雑務に集中することで自我を抜け落とし無我に入ります。自我が抜け落ちた時には常に無我はそこにあります。なぜならば自我は無我の中でしか存在できないからです。自我がなくなった時に無我が現れるのではありません、自我は常に無我の現れです。無我を隠す無我の表現です。

空は常にあるがそれを隠す雲

私たちが生まれてきてこれまでの期間で空がなかった日はありません。空は常にありました、ですが空を雲が覆い隠し一時的に空が見えなくなってしまった時間はあります。自我と全存在、自我と大いなる一つの関係はこの雲と空の関係に似ています。全存在は常にあります、全存在がなかった日はありません。ですが時に自我がこれを覆い尽くし全存在が見えない時間があります。自我がない時は快晴です。自我が空を覆い隠す時は全存在は隠れて見えないということになります。大人になると自我は常に現れていて全存在を隠す時間が増えていきます。空が見えないからといって雲が必死になって活動すればするほどに空は雲で覆い隠されてより隠れてしまいます。これが我々人類を苦しめるメカニズムです。苦しい時は自我(思考)を活動させるのではなく自我(思考)にお暇してもらいましょう。思考を徹底的に観察する、もしくは無心になって何かに取り組むことで思考は行動を控え全存在が姿を表します。雲が消えれば空が見えます。

海であることを忘れた波は今日は明日のためにある

思考は今にはない、思考は常に過去、未来を俳諧している

海であることを忘れた波は、思考を駆使して生き延びていきます。そのため思考を手放すことを極度に恐れます。心身こそはこの私であるという思考も思考です、そのため思考を駆使して生きていれば苦しい日々が続きます。この心身こそ自分であるという思考は分離意識を常に強めていきますからこの分離意識を弱めたければ思考を手放す以外ありません。ですが現場が苦しければ苦しいほどに自我は思考を使って生き延びようとするのです。明日のために思考を駆使します、来年のために思考を駆使します。そして駆使すればするほどに分離意識が強まりますからより苦しくなるのです。

思考こそが海から分離した波をさらに分離に追い込む張本人

思考があるからこそ自身は波であると思い込むことができています。思考がなければ自身が波だという思い込みはできません。思考が海を波に分離し波物語というストーリーに誘っています。にも関わらずこの思考を使って生きようとすれば波は永久に波物語から解放されることはないのです。思考とは波を波の次元、時間空間次元にい続けさせるための張本人です。もしも波が海に戻るならばこの思考を落とし欠落させ、無心、無我に入り込むしかないのです。

将来のために今に入る、体に入る、所作に入る、思考を観察する

とはいえこの体を持ち、生き抜いて行かないのは事実ですから将来に対しヤケクソになるのは得策ではありません。自暴自棄になってもしょうがありません。そうではなく将来のための準備、明日の準備に入り込む、所作に入り込む、仕事に入り込むことでそのまま無心になります、無我になります。波は将来のために海になるのです。もしくは思考がグルグルするならばその思考を観察するという所作に入り込みます。思考を観察することに無心になって臨むのです。エックハルトトールは思考を観察することから大いなる一つになることを推奨しますが観察することに無心になる、観察道に入ればいいのです。思考を観察することに体を使うのです。体は常に今にあります。

人類を発展させ続けてきたこの思考こそが苦しみの根源とは、、波には理解できない

思考こそ人類を動物よりもはるかに進化させた黄金の道具

人間は考える葦である、思考がなければ人間は動物と同じ、思考で成功せよ、、、思考は今現在の社会では絶対王者、思考が優れた人間はこの社会ヒエラルキートップに君臨します。偏差値とは思考の優劣を判断するもの、SPIテスト、IQ、学歴、、、知能が謳歌しています。だからこそこの知能、思考こそが人間を苦しませ続けるというメカニズムは盲点中の盲点、古畑任三郎、コロンボでもこの真犯人は発見できないわけです。過去にこの真犯人を発見し世の中に大体的に発表したのが釈迦やキリストですが彼らが死んで何十年も経たないうちにこれらの教えは自我の配下に戻りました。

真犯人はこの体、思考こそが自分自身だと嘘ぶき洗脳に成功した

文明の進化にしよって人間の思考信仰はこれから益々進むはずです。より優れた思考を手に入れた人間がマウントを取り続けていくでしょう。思考によるマウント合戦は今後弱まっていく予感はしません。ですがこれらの思考勢力に打ち勝つ方法があるのです、それは簡単、自身の嘘を見破るだけ、これが自分だというこの思考が実は勘違いであることを見破るだけです。実はこの波物語、人間ゲームは主人公であるあなたがいて全部成り立っています。全ての現象はあなたの五感とセットで成り立っているのであなたの初期設定を変えてしまうとこのゲームそのものが変わってしまうのです。この波物語、人間ゲームが幻想と呼ばれる所以はあなたの五感なくして成立しないからです。

だからこそこの五感を使って幻想を見破る

この現象界が現象界であるためにはあなたの五感が必要なのです。あなたが五感を使って感知しなければこの現象界は存在できない、あなたなくしてこの現象界は存在できないのです。だからこの現象界に翻弄されるのではなくその五感を使って悟りに入る、海に戻る、全存在にシフトするのです。五感を集中させて無心に入り無我に入る。そこに至福、歓喜、平和は常にあります。そこが分かるともうこの現象界に翻弄されることができなくなります。

海であることを忘れた波は本能に翻弄される

湧き上がる欲求は欠乏感が変異したもの

海であることを忘れた波は欠乏感が溢れてきます。自身を波だと勘違いすればするほど欠乏感が溢れてきます。これは当然のことライオンが自分は弱いと勘違いすればストレスは相当なものです、本当は強いことをどこかで覚えていますから。この不足感、欠乏感が波こと人間の欲望、本能の根源です。こん欲望の形状が個人によって全く異なるため個性というものが生まれました。あの人は目立ちたがりや、あの人は見栄っ張り、あの人はマイペース、あの人は恥ずかしがり屋、、、などなどです。これらは全て不足感、欠乏感が変異したものです。

本能を昇華する

この本能を無かったことにする、この本能を抑えていくのがこれまでの宗教の多くのです。キリスト教では十戒、仏教では八正道、断食や、禁酒などです。ですが現在の資本主義経済全盛の時代においてこれらのシステムは合わなくなってきました。そこからは欲を肯定していくような大乗仏教的な思想が広く拡散しています。ですがこの欲を肯定しながらも苦しみをなくしていくという大乗仏教的システムもなかなか上手くいっていません。どのような状況であっても自我は必ずその中から抜け道を探し出し延命措置に成功するからです。欲望を無心になって見つめそこから悟りに入るか。欲望をきっかけにして所作に入りそこから無心に入る。こういった本能の昇華が必要です。

欲望を無心になって見つめる

エックハルトトールはこの欲望を無心になって観察しなさい、欲望、思考が起こったらそれを冷静に見つめそこから悟りに入りなさいと説きます。思考、欲望を観察する意識そのものでありなさいと説きます。思考が起こると同時に海、全存在、大いなる一つになってしまうということです。このアイデアの素晴らしさは自我が出しゃばることで意識になれるということです。悟りに自我を逆に利用するということ。思考の湧き上がりこそを無心、無我、大いなる一つに戻るきっかけにしてしまうということです。

海であることを忘れた波は依存傾向にある

自分自身を弱いと感じる波は何かに依存したがる

広大無辺な海が自らを波である分離した存在からこの波物語はスタートします。広大無辺な海であったことを微かに覚えているため波は常に自身を弱い存在と勘違いします。そのため波は何かにすがりたい、何かに依存したい、何かに頼りたいという欲求が強く湧き出ててくるようになります。これは子供よりも自我が完成した大人の方がより強く依存傾向にあります。そのため大人は子供に向かって「このままではどこにも就職できないよ」とどこかに依存しなくては食べていけないことがデフォルトのような発言をします。そして他の大人も同じような意見であることからそれが真実であるとさらに錯覚を強めていくのです。

何かに依存しても苦しみは解消しない

自我が完成し自身を弱い存在、何もできない存在と錯覚した人間は何かしらに依存して生きていくことになります。それは会社だったり、親だったり、国などの大きなな組織、もしくはパートナーです。依存が成功し表面的には平和が訪れますが自我はさらなる不足感を湧き出し続けますからその解消方法を探し回ることになります。それはギャンブルだったり、お酒だったり、子供だったり、エンタメです。何かに依存することで弱さを感じることを避けれても不足感が湧き出ることを抑えることはできません、それは自身が海だったことを波は覚えておりゆえに何に頼っても本当の強さを手に入れることはできないからです。二元の世界で対象を手に入れて感じる強さは全てマヤカシです。総理大臣の妻になったとしてもこの不足感が消えることが絶対にないのです。

依存すれば依存先の顔色を伺わなくてはならないという第二の苦しみにシフトするだけ

会社に依存すれば会社の顔色を伺い、結婚相手に依存すれば相手の顔色を伺います。クライアントに依存すればクライアントの顔色を伺うことになります。こうして弱さ克服のために手に入れた依存先によって次の苦しみが湧き上がっていきます。ひたすらに苦しみが変容してシフトしていくだけです。これが人間ゲーム、波物語です。重要なことは自我から湧き上がる不足感、恐怖心、欠乏感、退屈感を対象を見つけてそこで解決しようとするのではなくこのメカニズムを理解することで波から海にシフトすることです。自身が海であったことを思い出すことです。それは決して難しいことではなく掃除に集中することで無心になる、仕事に集中することで無心になる、読書に集中することで無心になり、思考である自我を抜け落としていきます。体の感覚に意識を集中することで思考が入り込む余地を無くしその場で海、全存在、神にシフトしてしまうことです。人間はいつどこでもどんな状況でも実は無我になれます。それが本当の強さ、安堵、平和、歓喜です。そして1日のほとんどの時間をこの状態で過ごせた時にこのメカニズムが腹落ちします。波は幻想でこの世には海しかない。つまり強さしかないということを。強さが弱さを演じているだけです。