思考

思考モードの人の行動は予想がつかない、無心モードの人の行動は予想がつく

思考モード全開の人は常に反応を繰り返している

思考モード全開、自我モード全開の人の習慣は反応に次ぐ反応のみです。何かしらに反応をし続けているのが思考モード、自我モードです。毎日朝起きたら何をするかが全く決まっていません、その時その時に反応し続けているだけなのでやたらと忙しく見えます。そしてやたらと顔が疲れています。感情の起伏が激しくなり、思考の起伏も激しいという共通点があります。

無心モード全開の人は常に同じことをしている

無心モードの人の特徴は同じ所作、作業をくりかえしているという点です。無心モードに入ったらその行動を続けることが一番の歓喜、平和、安堵ですから自ら進んで他の行動に切り替えるなど基本しないのです。そして飽きたら違う行動をとり、そしてまた元に戻っていきます。外から見ていると3パターンぐらいの行動をひたすらに取り続けているように見えます。所作に入り込むことが重要であり1日にいかに多くの雑事をこなすかには興味が湧きません。

思考モード全開は夢に埋没している

無我モード、無心モードは現実にいないような印象がありこのモードは夢の中にいるかのように思えますが実は真逆です。無我無心モードこそがこの夢物語から一瞬抜けた状態なのです。夢物語にいないということはどこにいるのか?それは全存在、空、ワンネス、大いなる一つです。そして思考全開、自我全開の状態こそが夢物語どっぷりになるのです。いかに長い時間を自我による勘違いした状態から脱却できるかがこの夢物語を軽々と生きていけるかになります。

電気自転車が最もわかりやすい

最初だけ電動、途中から自走

昨今電動補助付きの自転車がメジャーになってきました。この電動自転車は自我と無我の切り替えを大変上手く比喩できるのでこれで説明したいと思います。自転車は最初の数分だけ電動補助が起こります。そして勢いがのっら自走に切り替わります。電動は初動や、坂道のみ、あとは自走です。本来人間の思考もこのように使えれる大変便利です。これから何をしようか?では始めよう。ここまでは思考モード、自我モード、、、そして集中できてきたらそのまま無我モードです。お茶を入れよう、ここまでは思考、自我モード、、、お茶を入れ始めたら無我モード、、、書道、茶道、剣道の基本です。

自我モードは疲れる、自走モード、無我モードは疲れない

自我モード全開は大変疲れます、思考がめぐれば巡るほど心身こそは自分自身という自我が発動され大いなる一つと分断された状態です。不足感、欠落感、孤独感が湧き出てくる状態です。そして無我モード、無心モード、無双モードは大いなる一つそのものの状態、この状態は全く疲れないのです。歓喜、平和、安堵の状態になっています。いかに自我の時間を減らし、いかに無我の状態を増やすかこれがコツです。

無我モードで自走していて雑念が湧いてきたら即切り替える

無我モードでの自走運転モードは全く疲れず歓喜、平和、安堵の中にいるわけですがそれでも人間の体を持っている以上どこかで飽きます、雑念が湧いてきます。そうなったら思考モード、自我モードに切り替えて次の所作、動き、作業に切り替えていきます。そして初動負荷を乗り越えたらまた無我モード、集中モード、無心モードに切り替えるのです。ほとんどの時間を無心、無我、無双モードになると歓喜、平和、安堵そのものが1日を占めるようになってきます。何かを渇望したり、何かに執着したり、何かに囚われる日々からここで初めて解放されるのです。

仕事中毒の解説

仕事も中毒になる

常に孤独感、欠乏感、不足感が湧き出てくるこの人間という生き物は仕事すらも中毒化してこの感情を感じないように努めます。少なくとも仕事をしている間はこの不足感、欠乏感、孤独感を感じずにいられるからです。ですがこれらの感情から逃げるための仕事は大変疲れるために結局違う苦しみになって取って代わるだけです。体力を消耗し、思考を消耗し疲れ果てていきます。仕事をしていないと不安になるのはただ不足感、欠乏感を感じないように逃げているだけなのです。

仕事に集中し切ることでそこから悟りに入る

仕事に集中し無我の状態に至りますと、即歓喜、安心、安堵に至ります。仕事に入り込むことで安堵、歓喜、安心を体験できるのです。そうなりますと人はいつでもどこでも平和、安心、安堵に至れることを学習し仕事以外にも興味を覚えますし、スポーツ、エンタメ、あらゆるところから悟りに入るコツを掴むのです。集中している時は歓喜、安心、安堵そのものになれるのです。ですからもう仕事中毒にはなりません。

仕事中毒と集中は全く違う

中毒と集中は似ているようで全く違います。中毒はただの逃避であり集中は思考を削ぎ落とし歓喜、平和、安堵そのものになる行為です。中毒である逃避は一時的なごまかしを延々と続ける行為です。中毒行為に至る人はやればやるほどに疲れ果てていき、集中に専念する人は元気そのものです。なぜならば無我とは元気そのものだからです。

熟睡時は意識だけがある、熟睡とは意識だけの状態

熟睡時の記憶がないのは、、

熟睡時は記憶がありません。それはなぜか?脳が完全に休んでいるからです。記憶の機能をストップしています。ですが熟睡から覚めると人は安堵、平和の状態を少し覚えています。その時気づきの意識から夢に戻ったのです。熟睡時は気づきの意識のみ、そして起きると気づきの意識が人間活動を意識し始めます。そして人間自体が湧き上がる感情、思考を自分のものとして勘違いするという状態を気づきの意識が認識します。

気づきの意識は全部を気づいている

気づきの意識は熟睡時は人間活動を停止して気づきの意識そのままの状態になります。この時の記憶がないのは人間の記憶脳が停止しているからです。人間が夢を見ている時、人間の脳の記憶を使って気づきの意識は夢を見ます。この時に夢を見ているのも気づきの意識です。人間の脳をフィルターにして夢を創造しそれを観察します。人間が起きれば今度は人間の五感を使って夢物語を創造しそれも気づきの意識が全て認識します。認識するという言葉が実は的を得ていないのは認識するという主体客体の世界ではなく認識そのものです。ただこれ以上は言葉で説明することができません。認識するという言葉は人間が作った言葉であり人間は主体、客体の世界でしか存在できないのでこの言葉は誤解を生むのです。

空即是色

空即是色は素晴らしい言葉でこれはやはり分かっている人が書いたモノです。空はこれ即ち色である。本当にこれだけなのです。ここに動詞が入るということはありません。なぜならば動くという現象には動くための場所が必要になりこれは二元の世界の話なのです。ということで本当は空即ちこれ色だけです。色とはあらゆる現象でありそこに人間という独立した(勘違い)存在を湧き起こしこの色の世界を完成させました。

勉強も運動も仕事も全部楽しめてしまう人

集中すればなんでも楽しい

集中すればなんでも面白くなってしまうのがこの夢の仕掛けです。人間が思考している時、それは人間になり切っている気づきの意識の状態です。この状態は苦しみが湧き出てきます。人間になり切っているからです。ですが完全集中して思考が抜け落ちている時、これが自分自身であるという思考も抜け落ちていますから気づきの意識そのもの体験だけがある状態です。この状態は安堵、歓喜、平和そのものです。ですから物事を始める時は簡単思考が抜け落ちるまで集中できることをすればいいのです。夢としての人間は完璧ではないので雑念が湧いてくることはやらないことです。集中できればなんでも楽しい、集中するように1日を組み立てていく、これがポイントです。

have toで物事に取り組むと集中できない

これもあれもやらなくては、、タスクを決めて処理をしていくと人生は苦しくなります。思考がぐるぐる回転します。そうではなく集中できることだけで人生を構築していきます。どうやったら集中できるかに専念します。集中さえできていれば思考が抜け落ち、歓喜、平和、安堵がそのまま湧いてきます。湧いてくるという表現は間違いで歓喜、平和になってしまいます。

飽きたら即切り替え

集中できているかが全てです。集中できなくなったら即切り替え、他のことに替えます。集中できていないも関わらずダラダラと継続すれば思考がぐるぐると湧いてきます。するとこの心身こそが自分自身であるという思考も湧くので途端に苦しくなるのです。思考が湧いてきたら苦しくなるというここを理解できるかです。思考とは集中と集中の切り替え時ぐらいに使えばいいのであって基本は使いません。もしも湧いてきたらその思考を観察します、これは気づきの意識への強制シフトです。

空即是色とは

空は常に色として現る

ブッダが2500年前に発見したこと、それは空即是色です。この世に見える世界は空が現象化した幻想でこれは空が見る夢です。この夢は空が作り出しその夢を人間という生命現象を通じて夢物語を体験させていきます。この夢物語を歩むのは人間ですが人間が体験する内容を認識し、意識するのは当然空です。空がこの夢を体験する以外に体験者はいません。体験者という者は実際にはないのですが体験者という幻想を使ってただ体験だけがあります。全部は夢ですから空が自身を変幻自在に現象化してただ体験があります。

なぜこの体験は基本苦しいのか

釈迦が発見したこと、それはこの世は苦であるという。これが最初いまいちわかりませんでした。なぜわざわざ空は苦しみを人間に味合わせるのか?それが分かりませんでした。今はわかります。実は苦しんでいる人間はこの世にはいません。なぜならばこれは全て夢だからです。全て夢ならば感情を味わっているのは夢を見ている張本人しかあり得ないのです。ではなぜ人は苦しいとか悲しい、とかいう感情を持っているように感じるのでしょうか。それは実は感じていません。感じているのは全て感じる存在、気づきの存在です。それを人間が感じていると常に勘違いしているのです。夢の中で苦しんでいるのはいつでも夢を見ている張本人で登場人物ではないですよね。ですからこの苦しみも実は勘違いです。信じられませんが人間はこの感情を自分のモノとしているだけで今まで全感情を味わっていたのは夢を作り出した全存在です。

エックハルトがいう思考の観察は今までも普通に気づきの意識がやっていた

これは夢ですから夢の創造主はいつもこの夢を見ています。今まで一度たりともこの夢をよそ見したことはりません。そして今もやはりこの夢を見ているのは気づきの意識です。思考を観察せよ、これがエックハルトの言葉ですが気づきの意識は常にこれをやってきました。全ての感情を観察し、全ての思考を観察してきたのは気づきの意識です。感情を認識し、思考をしてきたのは人間ではありません。人間も気づきの意識ですから人間が認識してきたと仮定してもそれも気づきの意識が人間として認識しただけです。要は同じことです。夢を毎晩見ている時に誰がどういう形で感情を抱こうとその感情を認識しているのは夢を見ている張本人しかいないのです。

海であることを忘れた波は疲れている

海であることを忘れると思考フルスロットル状態になる

海であることを忘れた波はなぜか不足感、欠落感、孤独感が半端なく中から湧いてきます。朝起きて寝るまでこの欠落感、欠乏感、孤独感をひたすらに埋めるために思考フルスロットルで動き回るのです。そして動けば第二波、三波の感情が次々に湧いてきますがこれらは先ほどの欠乏感、孤独感が形を変えたものであることは間違いありません。なんとかしてこの感情解消のためにあらゆる手を尽くし、頭を尽くし動きますがこのイタチごっこは半永久的に続くために徐々に疲弊してくるのです。よって人間はどこかで中毒対象を見つけ出し中毒行動でこれを乗り越えようとするのです。それが恋愛だったりTVだったりゲームだったりギャンブルだったりお酒だったりです。

なぜここまで何かに中毒になるのか?

この夢物語の中では常に不足感、欠落感、孤独感が襲ってきますからいかにこの感情を沈めるかに思考はフルスロットルになります。結果多くは何かしらに中毒になることでこれを乗り越えようとします。それをしている間思考を削ぎ落とせるような何かを求め続けるのです。人間にとって中毒とは現実逃避ではなく全く意味がわからないこの欠乏感、喪失感、孤独感を感じなくさせてくれる助け舟なのです。そしてこの思考の削ぎ落としを中毒ではなく全ての人間活動の所作からそこに入れますと夢物語から常に抜け出た次元にシフトできているので欠乏感を感じずにいられるのです。どのタイミングでも意識、気づきの意識に戻れる人は中毒とは無縁で生きられます。

この夢物語では湧き上がる欠乏感を中毒ではなく、思考フルスロットルでもなく、見抜くことで解決する

もしかしたらこれは誰かが見ている夢なのか?そのような疑問が湧いてきたらこの夢から覚める準備ができています。夢を見ているのは主人公ではなくこの夢をただ認識するものです。これまでこのただ認識するものにあらゆる名前をつけてきました。神、ブラフマン、キリスト、仏、空、、、名称は多くの場合この夢の登場人物達によって誤解されていきます。このただ認識するものがこの夢を見ています。湧き上がる欠乏感を主人公のモノと勘違いさせ主人公を右往左往させ時に積極的に時に消極的にこの欠乏感を埋めることを目的に動き続けさせてきました。何かに中毒になっても相決するわけでもなく、思考フルスロットルでも解決はしません。これが夢だと見抜き俯瞰することで深刻さを根本から無くしていくことでこの夢物語から認識するものが覚めるのをただ待つのみです。

苦しみ、欠乏感、孤独感から逃げるのではなく、、

なんとか誤魔化してこの夢物語の欠乏感、喪失感から逃げ続けるのは至難の技ですからそうではなくこれに向き合うこうことが重要です。準備ができた登場人物はこの喪失感に向き合うことでそこから無心に入る、無我に入る、全存在に入っていきます。喪失感の根源は自分自身そのものであり外にこの解決を求めても無駄です。自分自身が全存在であることに気づく以外この戦いは続きます。

海であることを忘れた波は損得でしか動けない

思考とは損得を判断するもの

夢の中の登場人物は思考をフルに使って存在しますがこの思考とは損得機械です。自身にとって何かしらの得があると思考が判断すれば動き、損があると思えば動きません。究極の損得マシーンなのです。そんなはずはない、親が子にかける愛情はどうなんだ?となりますが見ず知らずの子供の世話をする親がほぼいないように自分が腹を痛めた子供だからこその限定的な愛になります。これは本当の愛ではありません。子供を自分と同一視して愛情をかけているだけです。故にこの夢劇場ではどこまでいっても損得での人間関係が広がります。

夢劇場の登場人物に損得以外の期待をしないこと

この現実社会は夢劇場でありよって人間関係はどこまでいっても損得で行われます。どんなに深い関係の夫婦も、友人同士も突き詰めると損得がそこにはあります。自身は人間であるという錯覚をしたこの夢劇場の登場人物である限りこの縛りから逃れられないのです。自身は全存在ではなく別個の人間であると誤解したこの夢の登場人物は本来が全存在であるからしてどこまでいっても不足感の塊なのです。ですからこの不足感解消のために生き続けることになりどこまでいってもこの不足感解消に繋がらない行動は取れないのです。人間の行動のベースは完璧なまでに不足感の解消になります。

不足感をお互いに解消しあえるから関係を結ぶ

どんなに神聖な関係に見える人間関係でも人間=不足感であり、この不足感解消が人間の義務です。この人なら自分の不足感を何かしらで補ってくれる、これが人間関係を結ぶ動機でありこれ無しで成り立つ人間関係は皆無です。だからこそお互いの期待を満たして上げることができなくなるとその関係は破滅に向かうのです。なぜならば不足感を解消できない場合、苦しみと向き合うしかもう方法がないからです。夢物語での人間関係とは究極の損得関係でありここから抜け出すには夢から覚めるしかありません。

なぜ人は故郷に対し不思議な価値を感じるのか

この夢の登場人物は全員が故郷に帰りたい

この夢の登場人物は全員がある場所を求めています。それが故郷です。地方から都会に上京した人間がかつての実家に対し深い感情を抱くようにこの夢の登場人物は全員が故郷(全存在)を求めています。これが初期設定です。この故郷を求める感情が孤独感の正体です。この孤独感を常に他のもので埋めようとする動きがパートナー、親友、両親、子供などへの渇望です。結婚に興味がない、友人に興味がない、、子供に興味がない、、と他人に言えばこの夢物語で変人扱いされるのはこのためです。孤独を感じない人間はいない、それは勿論ですがその本質にはこの故郷(全存在)を求める動きがあります。

その故郷は今目の前にある

この夢の登場人物は全員が故郷(大いなる一つ)を求める旅を続けています。そしてその旅が困難を極めるのは大いなる一つはこの夢物語には落ちていないということです。夢から覚めた時に目の前にあります。そして夢から覚めるのは登場人物ではありません、夢を見ている全存在です。登場人物の中の主人公を通じてみるこの夢物語を意識する全存在が夢から覚めると全存在がそこにはあります。もしくは夢の主人公であるあなたが無心になって何かに取り組む時に思考が抜け落ち自我が解体しその瞬間無我になります、その時実はあなたは故郷にいるのです。なぜならばあなたがいないからです。あなたがこの夢物語にいない時そこには物語は存在できなくなります。あなたと物語はセットだからです。

故郷とは自分自身(全存在)であり故郷を離れているのも全存在が勘違いした存在

故郷とは自分自身のことです、故郷とはこの夢を見ている張本人、その人のことです。故郷(全存在)が勘違いをして個人として夢物語の中に登場しているのがこの夢物語であり帰る先とは自分自身なのです。そこにはやはり自分とは何を勘違いした登場人物が多数登場していてみんなで勘違いを続けています。とはいえあなたが主人公の物語には個人という確固たる存在は実はいるはずがなく(夢だから)個人に見える現象同士が関係を取り合っているだけです。

この夢物語は不足感、欠乏感がひたすらに湧いてくる

湧いてくる感情を自分のモノとしてこの物語は続く

全存在が思考を使ってこの夢物語を誕生させているわけですが、この夢物語は不思議なほど感情がどこからか湧いてきます。物語上はこの主人公の感情ということになっていますが実際はただ感情が湧いていてそれを自分の感情と主人公が捉えるという流れです。自分のモノとするという自動反応が起き続けるのです。感情が湧きこれを自分のモノにするというメカニズムが起き、それによってまた不足感が変換された感情が湧き続けるのです。こういう流れでこの波物語には感情が頻繁に登場するのです。

この心身こそ自分自身と勘違いすることで不足感が湧きそれを思考で解決しようとすることで他の感情に変換されていく

思考と感情はセットです。もちろんそれもただ湧いてきているだけですが。全存在がこの心身こそを自分自身と勘違いする思考が現れることによって不足感が湧き上がり、見かけ上全存在ではなくなったことで全存在の代替品を探すことにまた思考を使います。ところが思考が探してきた代替品はこの夢物語の中にあるモノから探し出してきますからこれは全存在のやはり一部でしかないのです。そうなればその代替品の賞味期限は瞬時に尽きることになるのでまた違った感情が湧いてくるのです。この感情は全て不足感の変容パターンでしかありません。この感情を解決しようとまた思考が湧いてきて全存在の違う代替品を探し出していきます。

ゆえにこの夢物語の中に至福を探すのは疲れる

自分自身(全存在)自分を分離させ渇望感を味合わせ、自身(全存在)の代替品を追い求めさせるのがこの夢物語の基本構造ですかなかなかしんどいゲームであることは間違いありません。ですがあらゆる感情、不足感、欠乏感、孤独感、虚無感、焦燥感、、、これらは全存在が全存在のままでは味わうことが決してできない感情ですから全存在はこの感情を味わえていることに感動します。全存在(感動)が焦燥感を意識することに感動(全存在)しているのです。全存在(感動)が焦燥感を一時的に解消できることに感動(全存在)するのです。ですからアジャシャンティーはこの状況を全てうまくいっていると表現します。