思考

この小さい体に自分がいるという錯覚

世界中でこの小さい体の中に自分を発見した人はいない

ついにこの体の中に自分を発見しました!そのようなニュースを耳にした人はいません。そのような発見をした人がいたらノーベル賞でしょう。国民栄誉賞です。ですが実際はそのような発見が今後されることはないでしょう。というのはこの小さな体の中に自分はいないからです。今私はこのブログを自身の手を使って思考を使って目を使って書いていますがこの体の中に自分はいません。勿論体にナイフを刺してみれば血も出れば肉片も出るでしょう。ですが=自分がいる、とはならないのです。

経験はある、だが経験者はいない

このブログを書くという経験はあります、この文章を書いているという経験もあります、ですがこのブログを書いている経験者がいるというのは錯覚です。これは神の見る夢です、夢の中で人間と呼ばれる者が登場し、自分という者も登場します。ですがそれは全て夢です。夢の中の登場人物に実在の証明をしようとしても無駄です。般若心経では空即是色と言ってこの見える世界を色と表現しました。具体的には色であり、匂であり、触であり、味であり、音です。空がこれらの表現をしています。これを感じるから自分と感じる(錯覚する)人間がいます。バーチャル体験があるから体験者がいるという錯覚を持てます。これだけの多様な感覚があるのだからそれを経験する経験者(人間)がいるという錯覚をできる、これが神(一なるエネルギー)が創造した夢です。

諸行無常を経験できる、、だから経験者がいるという錯覚

スーパーマリオというゲームは非常に楽しい、クリぼうには手こずるし、クッパの動きは読めない、ヨッシーは頼りになる、、ピーチ姫は可愛い、、と感じる、、だからマリオは絶対にいる、、、こういう錯覚です。我々はこの空想、幻想の世界で明らかな体験を経験しています。疑いようのない感覚、経験です。だからこそ自分(人間)は実在しているという錯覚ゲーム、神の夢を見ることができるのです。地球に裏側まで飛行機で行けばそこにはブラジル大陸があって、間違いなくブラジル人がそこにいることを発見できる、だから自分は居るんだ、これが夢です。

人間とは神の欲望体験機

神では経験できないことを代わりに体験する道具

体験という言葉が非常に的を得ているのは、人間が行う経験は全部体験に決まっているわけでこの言葉に体が入る必要は本来ありません。ですがなぜ体験という言葉が存在するのか?それはこの現実が神の見る夢であり神が人間体験をしている場所であるということです。現実という言葉もやはり的を得ていて実が現れると書きます。現れるとは夢の中であらゆる登場人物、状況が現れることです。夢だからこそこの現れるという表現はベストです。神が人間としてこの現実を体験する、それが神の夢です。

神はそのままで完璧故に欲がない

神は完璧です、ゆえに何かになりたいとか何かを叶えたいという欲が湧きようがありません。だからこそ神が夢を創造しその中に人間という主人公を起きました。この主人公は神に比べてひ弱で、脆弱、知能も低く、想像力も低い、、ということで神は初めて欲を手に入れることができたのです、より強いもの、より優秀なもの、より大きなもの、より創造的なもに対してです。人間という体を自身と勘違いできている間はこの欲望をベースにした人生を歩むことができるのです。

この事実を分かったところで一体どうすればいいのか?

人間の欲望に限りがなくだからこそこの人間物語は延々と続いて行くわけですが、では今後どうしたらいいのでしょうか?私が推奨するのはこの欲望を叶えることで逆に神になってしまうということです。欲望を叶えることに無心、無思考になることで人間であるための条件、思考を抜け落としその場で神に戻ってしまうということです。神の人間体験を利用して神に戻るのです。意識を今に集中することで時間の世界(夢)から抜け出し神になります。神と人間を往復します。ほとんどの時間を神で入れる人間を覚醒者などと人は呼びますがメカニズムを知れば誰でもできます。TVゲームに集中している子供はその場で神になっています、思考が抜け落ちていますから。大人はこれを意図的に行います、大人はこれを積極的に行うことができます。

欲望を安易に無視をしてはいけない

欲望とは神の渇望

これは夢です、神がみる夢です。この夢の中で神は人間(主人公)に成り切りこの夢物語を歩んでいきます。全治全能の神が人間という無知無能に成り切るわけですから強烈な不足感が湧いてきます。この不足感を経験しているのは人間扮する神です。この不足感を変換したのが人間の欲と呼ばれるものです。ですから欲望を無視するという作戦は失敗に終わります。仏教では足を知るという言葉で無欲を勧めますが上手くいかないのは当然です。欲の出どころを掴んでいないからです。

欲を安易に無視すれば欲に破壊される

人間扮する神が感じる不足感が変換されたものが欲ですからこの欲は延々に湧いてきます。欲が収まるわけがないのです。若者達の間で悟り世代といって無欲な若者が増えているという話も聞きますがPC、スマホ、タブレッドなどが普及して安易に欲を満たすことができているからだと思います。人間の欲望の根源は神から湧いていますからその欲が少なくなることはありません。ですから自分や欲が少ないと思って欲を無視し続けると無自覚に欲求不満が膨れ上がりいずれ潰されます。

この人生は欲望をいかに昇華し充実に持っていけるか

欲望は人間扮する神から湧いていますからこれを人間が止めるなどできません。どのような欲が湧くかもコントロールできるわけがないのです。そうならば逆に欲を肯定的に受け止め欲を満たすことに集中することで無心に入る、無思考に入る、無我に入ることが重要です。集中して欲望を叶えていけばそこから無心、無我、神に戻ることができますからその場で歓喜、安堵、平和になれます。欲望を積極的に叶えることでそこから神に戻るということです。

嗜好品は人間に扮した神を一時的に神に戻す

嗜好品は神の救済アイテム

コーヒー、チョコ、タバコ、お酒、ケーキ、アイス、、、これら嗜好品と呼ばれるアイテムは実は神による神の救済アイテムです。これは夢です、神が見る夢ですがこの夢の中で神は人間に扮して人間活動を行います。夢の中で活動する時、神は人間のふりをするのです。ですがこの活動は大変ストレスが溜まるもの、なぜならば全知全能の神がこんな小さくて狭く力のない人間に成り切るのです。窮屈極まりない役に没頭しているのです。毎日演じているだけで死ぬほど辛いということです。そんな中神は自身に救済アイテムを多数用意しました、それが嗜好品と呼ばれるアイテムです。思考品には人間の思考を緩める作用が施されていて口にすることで一瞬神に戻れるのです。一時ではありますが人間扮する神が人間の殻を破って神に戻ります。

この世から嗜好品が無くなることはない

国によってはお酒が禁止、タバコが禁止、大麻が禁止、と嗜好品を禁止する法律は存在しますが嗜好品を全部禁止する国は存在しないはずです。それは国民が全員病気になってしまうからです。神が人間という極小の存在に扮しているということがいかにストレスフルかこれは想像を絶するストレスなのです。ということで嗜好品を無下に我慢するのは辞めたほうがいいでしょう。それよりもなぜ人間が嗜好品を欲するのかに着目する方が得策です。

快楽主義は間違っていない

快楽主義というと刹那的で浅知恵なイメージがありますが、人間を神が演じているというこのストレス状態を理解すると決してこれは間違った生き方ではありません。いかにストレスを上手く解放するかは充実した人生を歩む上で避けては通れない課題です。むしろ積極的にストレスを解放することが人間という役柄と上手く付き合って行く方法です。神が人間として無理して生きているという事実を直視してみると快楽主義の意味が違って見えてきます。

サーフィンで至福を体験する

サーフィンは小さな悟り体験

サーフィンというスポーツがヒッピー文化の象徴の一つになったのは納得できます。波乗りをしている瞬間人は全部の記憶が飛びます、過去のことを思い出しながらサーフィンするのは不可能です。サーフィンは波に乗るスポーツですが波のパワーは凄まじく波に乗った瞬間記憶が飛びます。記憶が飛ぶということは自分が人間であることを完全に忘れるのです、その瞬間神に戻ります。これは神の見る夢です、夢の中では神は人間になり切っているのですがサーフィンしている最中はその事実を忘れます、うっかり神に戻ってしまうのです。人間活動に没頭していた神がその瞬間だけ神に戻ります。半沢直樹になり切っていた堺雅人がサーフィンをしているその瞬間堺雅人に戻ります。サーファーは毎週人間から神に戻るために海に向かうのです。

サーファーがより大きな波を求めるのはより大きな神に戻りたいから

私もサーフィンをしていたので分かりますが、サーファーは実力がついてくると徐々に大きな波を求めるようになります。恐怖すら覚えるような波をあえて求めて車を走らせます。それはなぜか?大きな波であればあるほどに乗れば思考がぶっ飛び、記憶もぶっ飛び、自我が外れ、時間が外れ神に戻るのです。その瞬間この夢から覚めて神に戻ります。神は人間活動をするための条件、思考が外れます。全感覚、意識が体、波に向きその瞬間神は自分が人間であることを忘れて神そのものに戻るのです。

何かに集中すると至福が襲ってくることを学ぶ

私自身サーフィンにハマっていた時はなぜこれほどまでの至福感に包まれるのか全く分かりませんでした。その至福感は海から出て数時間も続きます。この感覚はなんだ?多くのサーファーはなぜかは分からないこの至福感が忘れることができず海を目指します。サーフィンは波という自分ではコントロールできないパワーと向き合うスポーツゆえ集中力が研ぎ澄まされます。考え事をしながらできないのです。要は集中せざるを得ないスポーツということです。この原理はなんでも応用できます、集中できれば至福が襲ってくる、集中すれば神は神に戻る、、何をするにしても自分が人間であることを忘れるほどに集中することは大切です。

運動を毎日のリズムに取り入れる

無心になって取り組めるエクササイズは神に戻る行為

毎日のエクササイズ、これは実は重要です。これは夢です、神が見る夢ですがこの夢の中では人間は不足感発生器、神が人間になり切っているわけですがその状態は苦しいのです。何をしていても不足感全開です。ですがこの人間になり切った神が神に戻れる瞬間があります。それはスポーツをしている時です、なぜか?体とはこの夢の中で夢から覚めるための重要な道具なのです。体は今にしか存在できません、体を過去や未来に連れて行くことはできません。思考は過去や未来に馳せることができますが体はそういうことには至らないのです。ということで強制的に今にあることを可能にするのが体に意識を向けることなのです。今とは何か?今とは夢の外に出ることです。夢の中のストーリーは過去から未来へと流れる時間軸の中です。過去の影響を一切受けない主人公はこの夢の中にはいません、主人公は常に過去の影響を受けています、つまり過去に縛られているのです。時間軸に縛られていると言ってもいいでしょう。ですが体に意識を向ける時、過去から解放されます。過去のことを考えながらスポーツはできません。過去から抜け出す、時間から抜け出す、つまり夢から覚めて人間から神に戻っているのです。

体に意識を向けると思考の柵から抜ける

思考の柵に取り憑かれている間、人間扮する神は人間から脱出ができない状態です。ところがこの人間の体に意識を向けると思考の柵が取れ、この心身こそが自分という思考(自我)の柵が一時的に抜けるのです。一時的に人間から神に戻ります。一時的に歓喜、平和、安堵にシフトします。このメカニズムを知ると1日に何度もエクササイズするのが楽しくなります。1日に何度も至福、歓喜、安堵に戻れるのです。結果を出すことに焦らなくなります、結果を出すことよりもその途中に安堵、歓喜、平和を発見してしまいます。悟りを開かなくても、覚醒体験を得なくても、一瞥体験を得なくても、、毎日エクササイズ中は神に戻れます。

仕事中も、エクササイズ中も、掃除中も、、神に戻れる

幸せの青い鳥の話ではありませんが、、、幸せは直ぐ近くにあります。登山家が頂上を目指して登山を始めたその瞬間、無心になって歓喜に入れます。毎日のエクササイズも無思考になれって体に意識を向けるとその瞬間に歓喜に入れます。仕事に関しても何度の反復でこなしていけばそこから無思考に入り無我、歓喜に入っていけます。人間活動をしているのは紛れもなく神ですから実はいつでも神に戻れるのです。書道、花道、武道の真髄はここにあります。

最後までやらない、、、

長時間かけてまとめてヤらない

あえてまとめてヤらない、これ重要です。多くの方は効率を重視するのでまとめてそして最後までやり切ろうとしとしますしそれが会社では評価されます。ですがそれをやりません。最後までやらない、これ重要です。むしろ一度で出来ることを細切れにしてやっていきます。毎日の中で何度も反復してそこに当たります。最後までまとめてやろうとすると思考が邪魔してきます、思考の知恵が入ります。これが邪魔です。思考が入ると無思考、無心、無我からの歓喜、平和に入れません。あえて思考を入れない、、そのためには最後までやらない。。

効率重視、コスパ重視、、、苦悩

現代人は直ぐに効率重視、コスパ重視に走ります。これが大失敗です。効率を重視すると必ず思考が入ります、コスパを重視すると必ず思考が耳元で囁きます。この思考の知恵が行為を台無しにします。思考のこの知恵こそが行為から無心、無我に入ることを邪魔します。思考の知恵が行為を茶道、花道のように道に入らせることを邪魔します。そこには歓喜が存在しません。茶道でもしも自動抹茶製造機を取り入れたらもう茶道ではありません、ただのお茶入れ教室に格下げします。茶道とはお茶を入れることから悟りに入る方法を体現するものです。お茶を入れることで人間から神に戻ることです。

思考で神になることは出来ない

これは神が見る夢です。この夢の中では思考は大活躍します、人間をより逞しく生存させていきます。ですがいかに人間としてサバイブしてもこの夢の中にいる限りは至福を手に入れることができません。夢の中で地位名声安定を手に入れてもそこは無限地獄のままです。この夢の中で唯一至福に至る方法、それは思考を手放すことです、この心身こそが自身であるという思考(自我)を抜け落とすことです、人間意識を殺すことです。そのためには思考に頼らない、全て反復、反復、で達成していきます。思考が思考を支配することはありません。無思考(神)が思考を支配します。思考を無思考(神)の支配下に収めます。

覚醒法とは反復

あえて反復に全て持ち込む

私が推奨する覚醒方法は反復です。どのような作業、タスクも反復活動で片付けていきます。例えば私はこのブログ発信を反復で発信しています。一つのブログにかける時間は5分間です。それ以上の時間をかけることはありません。ブログを書こうと決めたら五分間で片づけます。これを1日の中で何度もやります、気が向いた時にブログを書く、ただこれを繰り返していきます。結果に拘らず生活の一部にしていきます。するとブログを書いているときは無思考、無心、からの無我に入ります。書いている時が至福状態になります。ブログを書いている瞬間が至福、歓喜、安堵に入ります。結果が出る前からその状態を手に入れることができるのです。

公文式は日本が誇る禅勉強法

公文について詳細はわかりませんが公文での勉強方法は反復が基本になっています。何度も似たようなレベルの問題を解き続けます、無心、無思考、無我の状態になるまで解き続けます。すると不思議いつまにか自身の学習レベルが上がっている。九九を覚えていたらいつの間にか割算に進んでいる、この期間に思考が入り込む余地はありません。先生の授業すらありません。私は公文式とは禅、書道、花道を取り入れた日本発勉強法と読んでいます。無心、無我、無思考状態はそのまま歓喜、安堵、平和です。勉強中にそのゾーン、変性意識状態に入れます。

仕事、家事、体力作り、全てを反復に持ち込む

よく考えてから動く、効率を考えてから動く、結末を考えてから動く、、、我々はいつの間にか思考を使ってから動くことを学びます。いかに効率よく、手際良く、無駄なく動くか。無思考で動く人間を知恵が足りないと呼んで卑下します。勿論思考は重要です、人類発展の立役者です。ですがそれでは至福、歓喜、平和には至れません。何を達成するかを決めたらそこからは全て反復作業で達成していきます。あえてどんなに遠回りでも反復を駆使します。反復で達成できないことなら「やらない」こう決めてもいいでしょう。ある成功者の言葉で感銘を受けた言葉があります「毎日できないことは最初からやらない」これは痺れました。週一のゴルフ、週一のテニス、週一の楽器勉強、週一の自己啓発セミナー、週一の掃除、、、、これらを辞めます。反復で至福に入れることのみで1日を構築していきます。

夢の中のこの主人公こそが混沌と破壊の原因

まさか主人公が混沌を作り出しているとは?

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神は人間という主人公(私)を作り五感を使ってバーチャルリアリティー、リアルドリームを作りました。さらにそこに感情、思考を加えてよりリアルな夢の世界を構築したのです。神が主人公ですからこの人間という役柄は大変ストレスがかかることになります。性格には不足感、欠落感ということになります。神と人間のこのギャップ、神が人間に成り切ることで生まれる違和感こそがこの人生を覆い尽くすストレスになります。なんとかしてこのギャップを埋めたいと動き回るこの喜劇こそが人生と呼ばれるものです。

釈迦は王様で全てを手に入れたのち、山に籠った

釈迦はインドのある地域の王様でした、王様ですから朝から晩まで遊べ踊れの生活、何の不自由のない生活をしたのち人間とは何なのか?という謎を解くべく山に篭ったのです。全部を手に入れた状態でなぜさらに次を求めるのか?これが人間活動の答えです。人間活動とは不足感を感じ続けるものなのです。一国の王様が突然国から脱出してしまうわけですから周囲はたまったものではありません。この夢の主人公とはそういうものなのです。主人公がこの不足感、欠乏感を埋めようとすれば周囲は混沌、破壊につながります。ですが主人公はこの不足感を見て見ぬふりはできませんから仕方ないのです。この夢において悪者は誰もいません。

人間ゲームは長い、、、

人生はあっという間、、気付けばもう終盤、、これも事実でしょう。ですがこの不足感湧き出しゲームの構造を理解してしまうと安泰がないことは分かります。静かな老後がないことも分かります。そう思えば長い、あまりにも長いのがこの人生です。神がこの人間になり切っているだけですから意識は常に鋭敏です、辛い、しんどい、悲しい、孤独、嫉妬、、全部死ぬまで感じ続けることになります。私は30歳ぐらいの時に辛さや、苦しさに対し見て見ぬふりをするのを辞めて見ました。周囲がそれを我慢しているのだから自分もそれを受け入れようを辞めました。徹底的にこの苦痛を直視することに決めました。このブログもその活動の一つです。

神は夢の中で有名になろうとする

神がなぜ有名になる必要があるのか?

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神は人間を創造し五感を与えこの夢を完成させます。人間に成り切った神は人間の五感を使いこのバーチャルショウを形成します。人間に成り切った神はこの夢の中で有名人になろうとします。芸能人、タレント、著名人などはこの主人公が憧れる一つです。本来神であるものがなぜ人間に成り切ると有名人に憧れるのか?という話です。それは本来神だからこそこのちっぽけな存在、弱い存在ではないことを知っているからです。存在感で言えばこの夢の創造主であるわけでそこを動く人間(主人公)のレベルではないのです。だからこそせめて周囲から注目を集めたい、そう思うわけです。

芸能人になってもタレントになっても人間という枠からは出れない

もしも主人公(人間)が有名人、タレントになって周囲から注目を集めれるようになったとしてもそれは人間としての人気であって神に戻るわけではありません。よってこの不足感、欠乏感がなくなることはありません。本来であればこの夢の創造主である神が注目を集めるぐらいのことで満足するわけがないのです。タレントランキングで一位になっても神には到底及びません。自分が人間であるという錯覚を外さない限りこの苦悩は延々と続くのです。

神ってる、、

神ってるという言葉はYahooニュースでも稀に見ますがこの意味が実は深いものがあります。人間が異次元の活躍をした時にこの神ってるという言葉で称したりしますがまさにその通り、異次元に突入する人間は神に戻ります。思考を抜け落とす、何かに集中する、一所懸命になる、、要は自身の意識を人間から脱却できるとその時に神に戻ります。夢から一時的に覚めます。物事に集中できる方々が芸能界などに興味を持たなくなるのは自身で神に戻る感覚を掴んでいるからです。