幻想

悟りという言葉こそが自我の策略

悟りは遠い世界にあるという作為的思い込み

自我にとって悟りとは自我の消滅です、こんなことが頻繁に起こってしまったら自我は壊滅状態に。自我は考えました自我の壊滅を「悟り」という言葉で表しこんなことは釈迦やキリスト以外達成できない代物という印象を与えようと。「悟り」などこんな胡散臭い世界は遠い先にあると思い込ませようと。自我のこの策略は完全成功し悟り、自己超越などという言葉をTVで聞くことなど先ずありません。自我は臆病ですからみんなが話をしないことなどに興味を持ちません、怖いからです。

この体、思考、感情を自分だと思い込む思い込みを思い込みだと見抜くだけ

ギャグのようなタイトルになってしまいましたが上の文は真実です。我々人間はこの体、思考、感情をひっくるめて三点セットで自分であると思い込むことに成功しました。自我の完全勝利、自我何千年間の勝利です。人類が生まれてきてこのかた自我はこの思い込みを完璧に人間に刷り込み勝利を収め続けてきました。大なる一つ、全存在、全宇宙の「自分」体験です。この自分体験はもちろん幻想ですが一度この幻想に取り込まれたら最後多くの方は死ぬまでこのトリックを見抜けなくなります。

ではこの確実に湧いてくる思考、感情は誰のモノだ?

誰のものでもないのです、、それがこの体の中で起こっただけです。ですがこれを自分のもの、自分だと思い込むことで次から次へと思考感情が湧き出してきます。鶏の卵が先か鶏が先か?理論のように、、、この思考、感情を自分であると思い込むことで、、次から次へと思考感情が湧き出してくる、、泉のようです。そしてこれは不思議なことにこれは自分ではないと気づくと自然と思考、感情の泉が少なくなるのです。そうですこの感情と思考は自分を維持するために湧いてきていたということです。

自分=体、思考、感情の罠から抜けると自分ごとにできなくなる

他人から何か言われても自分ごとにできない

芸人が舞台で他の芸人からいじられる、「お前太り過ぎや!!」これに対して真剣に怒る芸人はいません。なぜならば自分に言ってはいるが「芸人としての自分」にいってきていることを理解しているからです。この体、思考、感情を自分と捉えなくなっていきますと他人から色々言われても自分ごとにできなくなります。どうやら他人はこの体の中の思考、感情を含めた「私」というものに意見があるらしい、、こんなノリになっていきます。色々「私」に不満があるらしいがその私は実は幻想でいない、、こんなすれ違いコントのような状況になります。

自分ごとにしない「私」に周囲はイラつき次々と罵詈雑言を

多少の皮肉を言われれば怯むのが「自分」人間ですがその自分が実は幻想でいないことを理解してしまうと皮肉ぐらいでは止まることができません。そうなれば周囲はさらなる皮肉を言って行動を止めにかかるかもしれません。「あなた」にしっかりと届くようにとより強い口調になるかもしれません。すれ違いコントがギャグでは済まなくなっていくということです。そうなったならばここで初めて思考を使いその皮肉、雑音に対応すればいいのです、冷静に。

全てを「自分ごと」にする周囲とは基本すれ違いだが

全てを「自分ごと」にできない覚醒者と、全てを「自分ごと」にする周囲とはすれ違いが当たり前になっていきます。ですが覚醒者は周囲が全部を「自分ごと」にしていることを百も承知ですからそこは冷静に対応できるようになります。自我を超越した人が自我を超越できていない人の対応を間違えるわけがないのです。自己を超越した人が自己を超越していない人をコントロールできないわけがないのです。

自己超越とは自己を散々味わった人に訪れる

この分離の世界は基本「自分」「自己」を味わいにきています。ですからここではこれが基本、ほぼ全員が「自分」「自己」「自我」からスタートします。ですから散々にこの自分にが苦しまされています、これに苦しんでいない人は100%いません。よって自身に自己超越が訪れたとしても自己に苦しむ人の気持ちが分からないわけがないのです、むしろ誰よりもその苦しみに敏感でもあります。

本当はバラバラではないのにバラバラであると確信を持って生きている人間ドラマ

この世界は今も一つの宇宙現象

我々が観ているこの世界は今も完璧なる一つの宇宙現象です。ですが我々にはそう見えていないはずです。完全にバラバラに解体されているように見えているはずです。目の前にペットの犬がいればその犬は完全に犬以外とは分離しているように見えているはずです。これが人間が観ている分離世界、分離映画、分離ドラマです。完璧なる一つの宇宙現象が人間というフィルターを通する完全に分離した世界に一変するのです。これを覚者は「人間は寝ていて夢を観ている」と表現します。人間は一つの宇宙現象に名前を付けることで分断し細分化し本当に分裂しているように見える世界に今も居ます。

名前を付けちゃったんだから仕方がない

一つの宇宙生命体が、人間という存在を作り出し人間に思考、脳を与えたわけですから人間が名前を付けて分離その世界を上映しそこに住うことに何の問題はありません。これは一つの宇宙生命体が営む遊びです。人間主人公の一つの宇宙生命体分離映画を楽しんでいます。ですが人間からしたら冗談じゃない、、一つの宇宙現象のままがいいに決まっている、、こんな面倒臭いこの世界は終わりにして欲しい、、それが本音ではないでしょうか。ですが実は違います、、多くの人間はそんなことすらも考えません、絶賛分離体験中です。実は見ている世界は一つの宇宙生命体であり分離しているように見えているだけだ、、、こんなメッセージはウザイの一言で終わるでしょう。

覚者は皆同じことを言う「目の前が全て」

覚者はこの分離の夢から覚めた時に、、皆同じことをいいます「今ここが全て」「これしかないんです」「これだけがある」と、、、、、何を言っているんだ??と言う話です。人間にはこの見渡す世界は完全分離、支離滅裂社会でありもはやジャングルと化しています。信じるものは自分だけ、頼れるものは自分だけ、、、同情するなら金をくれ、、のヤサくれ状態です。ですがこの分離壊滅社会を作り出したのはこの思考であり、一つの宇宙生命体には何の罪もないのです。人間の脳が発達しこの体をより確実に生き延びさせるために生命現象に名前を付け文明の進化に大いに貢献しました。そしてその副作用がこの分離壊滅社会です。

分離壊滅社会を抜け出したいならば

分離壊滅社会、分離生気皆無社会をもしも抜け出したいならば、、、簡単です。この分離は真実ではなく人間というフィルターがそう見せていることを見抜くことです。そうです、この分離壊滅社会は幻想、夢なのです。人間が見れば確実に分離分断壊滅意気消沈ですがそれは「自分」が見ているからそうなっているということです。目に目える世界がなぜそうなっているか?ここを完璧に見抜いてください。そうすると目の前に起きた現象にいちいち反応しなくなる「自分」が生まれ始めます。マトリックスをマトリックスと見抜く「自分」が出現し始めるのです。

「体験の主体」が「価値観」という「フィルター」を通じて映画を見ている

価値観は全員違うから見ている映画も違う

この世界は大変優れていて思考が変わると見ている世界が変わります。そして主人公も全員違いますから世界も主人公も異なる千差万別な映画が毎日上映されそれを「体験の主体」が楽しんでいるということになります。主人公の体験は記憶に蓄積されていき、さらに体験は思考と感情という反応を得ていきます。これら全てを脳は記憶して価値観を日々変換していきます。この価値観はこの映画のフィルター、映写機です。価値観が変われば映写機が変わり見える世界は確実に変わっていくのです、我々は生きて死ぬまで毎日変わり続ける価値観(映写機)で毎日移り変わる映画を見ているのです、そしてそれを体験しているのが体験の主体、気づきの主体、全存在ということになります。

映画だと気づいて生きているのはもう卒業間近

例えばあなたが強盗に遭おうとしましょう、すると次の日から強盗っぽい人間、風貌の人間があなたの視界に入るようになっていきます、それまでは全く気にもしなかった風貌の人間があなたが生きる世界に頻繁に登場するようになります。例えばあなたが白人の女性と大恋愛をしたとします、するとあなたの生きる世界、視界において白人がその日から頻繁に登場するようになります。街を歩いていても目に入るのです、確実に。同じ世界を生きているしこれからも同じだと思っていたら大間違いです、人間が大きな体験するとその日から確実に見える世界が変わっています。これを覚者は映画、夢、幻想と表現します。このメカニズムを理解するには人間として体験が必要になります、これを学校の授業で生徒に伝えても恐らく意味が分からないでしょう。

あまりにこの映画は優れている、、、

主人公の価値観で見える世界が変わってしまうような映画は巧妙すぎてこれを知ってしまうともうハリウッド映画を観ていられなくなります。この私が観ている映画の方が確実に完成度が高く緻密でエキサイティングです。ですからこれを映画と確実に見抜いた今でもこの映画への関心が全くなくなるということはありません、むしろ今後映画に出てくるだろう脇役の登場、ドラマの進行にワクワクします。ただし私自身は価値観の変換にはもう興味がなくということで見える世界が様変わりすることもないはずです。

意識がこの体に入り込むことで「自分」が生まれた

「自分」とは体+意識

自分というものが幻想なのは、、体に意識が入り込むことでできているからです。体に全存在が入り込んで「自分」という感覚、メカニズムが起動しました。これはあくまでメカニズムですから意識が体から抜ければそれで終わり、死ねばそうなります。「自分」というものは体+意識のメカニズムのことです。体がなくては自分ができないし意識がなくても自分はできません。そういう意味で自分というのは体と全意識の複合体ということになります。「自分」という感覚は後付けてできたものですが「居る」「在る」という感覚が絶対にあるのは「意識」ゆえです。

「体+思考+感情」を「自分」とする思考を「全意識」が意識する

自分とは全意識の中の突然変異です。全体の中に独自の個別の意識体が存在するかのように錯覚できるプログラムです。全意識はこの体の中に入り込むことで「自分」体験をするわけですが、では「自分」以外を全意識は意識できないか?と言われればそんなはずはありません。全意識とは全部を意識するからこそ全意識なのです。ではなぜこの「自分」は意識しているのに自分以外は意識できていないかと言えば自分以外は全意識そのものだからです。「自分」だけが全体、全意識から分離しているシステム上なっているのでこの体で五感することを意識できているのです。全意識はこの「自分」のみを異物化し「自分」の中で起きることを意識できるようにしています。全意識は異物化した「自分」で全意識(自分以外)を生きるという自分体験をしています。

「自分」はいつも居心地が悪い

全意識が異物化した「自分」は思考というフィルターを通じて全意識(自分以外)を生きます。思考というフィルターを通じて見ますからそこには価値観が投影されます。人間は目に見える世界に名前をつけてラベルを貼り名前が付いていないものは背景化します。ありのまま(全意識)を見ているのではなく思考によってラベル化された独自の世界を見ているのです。全意識が「自分」を経験しているわけですからこの経験は大変エキサイティングになります、そして自分の構成物質は全意識ですから「自分」は同時に全意識そのものに常に戻りたいというストレスを抱えています。「自分」を楽しんでいる全意識と全意識に返りたい「自分」のせめぎ合いが常に起きています。これが人間の面白さであり苦しさです。

この世に真理を求める無駄

この世は個人個人全く違う

この世界は個人個人の価値観で構成されています、人口70億人全員が違う世界を生きているのです、ですからこの世界には真理は存在しません。それが答えです。ですが人はこの真理を求めます、とっておきの真実、とっておきの共通事項を求めるのです。ですがそんなものはないというのが真実です。これを聞いて困るという人はまだまだケツが青いということになります。真実を追い求めてきて疲れ果ててきた人にとってはこの言葉は救いなのです。

真理を求める理由は楽をしたい

とっておきのコツをこの人生に求めるのは当然のことです、もしもそれを得ることができれば一気に人生は楽になる気がします。ですから探究心が強い方はこの世の真理を追い求めるのは当然です。ですがそんなものはあり得ません、もしもあるならば早い段階でそれは発見され共有されているでしょう。これだけ幸福を追い求め幸福に飢えている人間が共有しないわけがないのです。ですが実際にはそれが共有されていないという事実がこれを証明しています。

唯一真理があるとすれば自分とは幻想であるということ

唯一真理なるものがあるとすればこの自分という存在、体、心、思考を自分と決めている取り決め、これが幻想であるということです。私はこの体、思考、感情であるというこの大前提が錯覚であるということこれだけです。この大前提が崩れますと歓喜、平和、安堵が押し寄せてくるということ、これだけが真実です。自分という存在がこの世界の中で発見したことは全てその方の価値観です。どこまで行っても幻想の域を出ません。

今ここに全体として在るから、今ここに思考として在るに

これはトリック

今ここに全体として在る、、、、これが本来の認識です。我々は確実に今ここに在ることを知っています。誰が何と言おうと私は今ここに在る。。。これだけは断言できます。この在ると言う感覚に何一つ疑問はないはずです。今ここに在ると言う感覚は全体として在るのです。ただしこの全体は諸行無常、移り変わる世界です。私は在る、、、の中で見える世界は移り変わっているのです。これが真実です。ですがこの在るという感覚を思考が乗っ取っている、、これが自我のメカニズムなのです。Iam 私は確実に在るを、、、思考が乗っ取り、、、私は今ここに思考として在るに書き換えているのです、常に。だからこそ思考は常に湧いてきて自身の存在を主張し「私は在る」を乗っ取り続けるのです。私は今ここに思考として在る、、は思考の乗っ取りですから、、この人間人生が幻想、ドラマと言われるのです。

思考は常に乗っ取り続ける

今ここに在る、、、これが本来です。本来はこれだけです、、この、、今ここに在る、、、のなかで諸行無常、万物は移り変わっていきます。今ここに在る、、、の中で森羅万象が起こり続けています。この中に体が起き上がり、思考が起き上がる、、、この思考の活動に今ここに在るが同一化し、、、今ここに思考として在る、、が誕生しました。思考の今ここに在るの乗っ取りでもあり、、、今ここに在るのい思考との同一化です。今ここに在る、、は平和歓喜安堵そのものです。これが今ここに思考として在る、、、になると違和感が湧き上がり続けるのです。なぜならばこれは完全なる誤解だからです。

今ここに思考として在る、、はとてつもなく不安定

今ここに思考として在るは、、本来の形ではありません。今ここに在るがスケートボードに乗っているような状態です。そしてこのスケートボードに乗っているを本来と勘違いしている状態なのです。スケートボードは不安定ですから急に降りてしまったりします、、、するとまさかの大変安定感があって安堵が込み上げてくる、、それは当然ですよね。ですがスケートボードは直ぐに「今ここに在る」をボードの上に乗せてしまいます、これが本来だよと。ところがやっぱり何かアクシデントがあると、またボードから外れる、、、すると平和、歓喜、安堵が訪れる、、、、ところがやっぱりボードがしゃしゃり出てきて「今ここに在る」を上に乗せます。これが今ここに思考として在るです。ボードに乗っているのはエキサイティングで楽しいのですがやはりしんどいわけです。

不安定だから「今ここに在る」は楽しいが常に戻りたい

「今ここに在る」の思考同一化体験は大変エキサイティングで楽しい、、ですが同時に非常に疲れます。長くこの思考同一化体験を続けたい気持ちと、、早く「今ここに在る」に戻りたいの両方の気持ちで揺れ動いているのです。思考は「今ここに在る」との同一化により活動を活発化させ「今ここに思考として在る」を助長します。「今ここに在る」は思考との同一化を止めればいつでも「今ここに在る」に戻ります。この状態に意識的に居れる人を覚者と呼びます。「今ここに在る」が本来の姿です、むしろ「今ここに思考として在る」が後付け、錯覚、変異です。「今ここに思考として在る」が「今ここに在る」に戻るためにはあらゆる方法がありますが、全作業に集中することで思考を抜け落とすか、、、湧いてくる思考感情を観察し同一化から脱却する、、、そしてこのブログの内容のように「今ここに在る」しか最初から無かったんだに気づくことです。

限界(体)を所有することで無限を開く

この人間ゲームの醍醐味は限界(体)から無限を見つけること

なぜワザワザこんな小さな体の中に意識を植え付けたのか?真我はなぜこんな小さくひ弱で低脳な体の中に自我(独立意識)を育てたのでしょうか?それはそうでなければならない理由があったからです。人間というのがひ弱で弱小でなければ広大無辺な自身(真我)を見つけた時に感動がないからです。それと自身(自我)が弱小無能であるからこそ自身(真我)をいつか探し当てるからです。広大無辺の本当の自分への憧れがなくなることがないのは自身(自我)が弱小無能だからです。

12歳ぐらいで気付く、、自分はキムタクにはなれない

中学校に入る頃には自分はメッシにも、ロナウドにも、キムタクにも、大谷翔平にもなれないことを知っています。生まれて10年もしないうちにこの体ではスターになれないことをなんとなく分かります。これは一種の絶望ではありますが同時に内面開発のスタートでもあるのです。形でスターになれないのであれば内面で充実になるしかないということです。これがこの人間ゲーム、自我ゲームのセオリーです。形でスターになれないならば形でないモノでなるしかないということです。とは言え人間は諦めが悪く、、では学歴で、では偏差値で、ではお金で、では収入で、では安定で、ではファッションで、、、と形を変えて形にこだわっていくのです。ところがこれらを追い求めてもどこまで行っても心の穴、欠乏感、違和感は埋まらない、、、

限界(体)を自分自身と思うことからの脱却

この限界(体)がなんかしらのアイテム(限界)や何かしらの無形のアイテム(名誉や地位、社会的評価)を得てもどうやら満足は来ない、、、これが素晴らしい絶望なのです。キムタクにもなれずスタープレイヤーにもなれない、では無形アイテムで勝負だ、、地位名誉、社会的評価、安定、、、、、これでも真の満足は起こらない、、ということでこの自分は絶望の果てにこの自分というものを疑うようになるのです。悪いのは社会や才能、周囲の人間ではなく、、、この自分ではないか?そうです、この自分という存在こそが負の感情を湧き出し続ける原因であり、そこを見つめそこから無限に入り込む道具だったのです。有限という体を持ちながら無限に開いていく道具、これが実は体なのです。目に見えるものは全て幻、幻想でありこれを求めるうちは真の幸福は見つけることができません。そうではなくこの体を真我、大いなる一つ、神の通り道であることにいかに気付くかが鍵になります。

何かに集中して無我になり、感情を観察して無我になる

自我は常に忙しく常にあれやこれやと忙しい、、、これをやってあれをやってと思考フル回転、、これが自我全開状態です、苦しみの段階。無我全開状態とは、、、、全作業に集中してこれを行います、全作業を無我に入る入り口にするのです、、、掃除、料理、仕事、睡眠、、、全作業を無我に入る道具にします。茶道、花道、剣道、武道の所作はこれに当たります、思考を一切介在させません。そしてもしも負の感情が湧いてきたならばそれを集中して観察します、その感情によって思考をフル回転するのではなくその感情を観察することで無心、無我に入り込むのです。負の感情すらも悟りへの入り口にします。つまり起きている間中を無心、無我、真我にしてしまうということです、この状態は対象のいらない平和、歓喜、安堵、愛です。

ゲームをクリアしたマリオは探求の旅に出る

マリオゲームクリアの次に来る絶望感

マリオはゲーム進行中はそれほど迷わないものです。ゲーム中はゲームクリア以外にそれほど思考が巡らない。ところがです、いつの間にかクリアしてしまった、ここが実は地獄の始まりです。多くの場合はもう一度ゲームを最初からスタートするか次のマリオゲームにチャレンジする。そういえば友人がマリオカートも面白いと言っていたな、、こういう発想になり次はマリオカートへのチャレンジがスタートします。ところがです、マリオカートもクリアしてしまった、、そうなる次はマリオゲーム最難関のマリオスタジオにチャレンジ、次はマリオインターネットプレイを、、と難易度を上げ続け、、、最終的にやることがなくなる。。。。これがマズローの欲求5段階の流れです。安全欲求から始まり所属の欲求、承認欲求、社会的欲求、自己実現欲求と階段を上っていくわけです。そしてその階段も上ってしまったらどうするか?ゲームを辞めるしかありません、それが自己超越欲求です。マリオとしての卒業です。

そもそもマリオゲームってどんな風に作られているのか?

これがマリオが疑問に思う次の衝動です、散々自分はマリオゲームに時間を割いてきた、、そして次から次へとゲームをクリアしてきた、、もうここからゼルダシリーズに切り替えるパワーも好奇心もない、、、ということでマリオはマリオゲーム製作秘話に興味を持ちます、というよりもそこにしか救いがない。マリオはこのゲームの仕組み、カラクリに興味を持ち始めていくのです。そして調べていくうちに面白い事実に突き当たっていきます、マリオは実は幻想でマリオの中に人格も個人もいないという話。???どういうことだ?この自分がいない?マリオはこの話を聞いても全くピンときません。今まで散々この体に鞭を打ってゲームに没頭してきた、常に一進一退の攻防を繰り広げ生き抜いてきた自分がいない?意味がわからない、、こうなります。

一番の驚きは自分が進んでいたのではなく、画面が動きマリオが進んでいたように見せていた

マリオにとって大きな驚きの一つは、、自分が進んでいたのではなく背景が変化していたということ。自分が前に進んでいたと思っていたら実は背景が変化して進んでいたように見えていたという事実。自分が動いていなかった????自分というものが動こうと意思が働くとなんと背景が変化していたのです。こんな恥ずかしい話あるでしょうか?進んでいたと思っていたのは自分だけで実は全体がそう見せていただけ、、、恥ずかしい。。知らなかったのはこの自分だけ。そうです、このマリオゲームで勘違いをしているのはマリオだけです。クリボーもクッパもプヨプヨもマリオにとっては全体の一部で、マリオだけが自分が動いていると勘違いしていたのです。

人間ゲームに戻ってみる

我々人間も全く同じメカニズムで勘違いしています。自分がこの背景の中を歩いていると勘違いしています。実は全く別です、自分が動こうとすると背景全体が変化しているのです。駅まで歩けば背景が変化し続けていきます。このゲームの中心には常に私が存在し私を中心に背景、全体が動き続けるというストーリーを我々は生きているのです。そしてこの私が経験した全てを記憶機能に記憶させ「我が人生」が作り出されていきます。何か事件があった時にはこの記憶を遡り何が原因かを考えます、そしてこの記憶の中から最適解を探し出し解決を図るのが人間です。

選択を失敗したマリオはいない

選択を失敗したと思い煩うマリオ

マリオがどれほど思い煩い自身の失敗を悔やんでいたとしてもそれは茶番です。マリオがクッパとの対戦で大間違いを起こしジャンプするところをダッシュをしてしまった、、このことについて10年以上悔やんでいる、、これは無意味です。なぜならばジャンプボタンと間違えてダッシュボタンを押したのはマリオではないからです。それはプレイヤーです。もしもマリオに記憶機能があり過去の失敗を悔やんでいても無駄です。記憶機能が作り出した幻想ということになります。記憶ははっきりとマリオの失敗を記憶します、ジャンプではなくダッシュをしてしまったマリオ自身を。ですがこれは記憶違いです。本当はプレイヤーがジャンプボタンの代わりにダッシュボタンを押した、、、これが真実です。

記憶とは勘違いを明確に刻んだモノ

記憶機能とはマリオの行動を完璧に記憶していきます、記憶が重なれば重なるほどにマリオの失敗傾向、気分の浮き沈み、マリオの長所、マリオの交友関係、マリオの対キャラ別成績表が刻まれていきます。最近のマリオは調子がいい、過去何年間は気分にムラがあり失敗が多かった、、、と反省もできるし喜ぶこともできる。ですがこれは全部幻想です。マリオは一度たりとも自身でプレイしたことなどないのです。記憶がそう確実に見せているだけです。5年前のマリオは頭がキレキレで冴えていた。という感じです。残念ながら我々人間もこのパターンです、自分で全部決めていると思っていますが実は決めていません、そう思わされているだけです、記憶と自我のメカニズムによって。

だったら徹底的に自暴自棄になってやる、、、

自分の意思でプレイしていなかったと突然気づいたマリオは、、、絶望し、呆気にとられ、、もうプレイする気力がなくなります。そんなバカな、、、、もうプレイはしない、、、もう冒険はしない、、冗談じゃない、、、こうなります。ヤサくれます。さじを投げます。焼け酒に走ります。、、、ですがまた次の日に冒険に出ました、、、なぜか?マリオに自由意志はないからです。マリオの感情に関係なくプレイは続きます。これは人間も同じ、今日まさかの真実に気づき自分は何も選択していなかったと分かっても明日も何か選択をしていきます、明日からも選択の日々が続きます。ただし人間自分としての選択は皆無です。ただ選択したと思いこまされる日々が続くだけです。