大いなる存在

空が空である自覚を持つと

雲の動きが激しくとも

空が空であるという自覚がある時、、雲の動きがいかに激しくとも、、全く空には影響を与えません。空が空であるという自覚がある時、、真の安らぎが流れます。それが空が空である時の感覚です。「この体は私だ」という思考雲が起こりますと、これが体という雲に反応して、、孤独感という雲が発生します。その雲の動きを空が気づく時、、孤独という感覚を覚えます。「この体が私だ」という思考雲が起こっても、、それを空として観察すれば、、真の安らぎの中に入れます。

それもまた雲である

どのような思考、どのような感情、どのような事件が起きようと、、それもまた雲であり過ぎ去る、、という空の視点を失わなければ常に穏やかに真の安らぎの中に入れます。その思考、その感情、その事件を捕まえてあらゆる思考、感情、行動を起こせば、、また雲が大発生し、、その期間は苦しいを味わうことになるのです。もしも真の安らぎの中に居たければ、、空であるという自覚から離れないことです。

空が雲によって傷つくことはない

多くの方が勘違いしているのは、、いかに苦しい人生(雲の動き)があっても空は何一つダメージを負っていないということです。空は雲によって何か影響を受けることがないのです、、、ところが雲の動きによってしんどい、苦しい、辛い、、という新しい雲が発生するのは事実です。ですがこの雲の発生によっても空は何もダメージを受けません。本当の自分、大いなる存在である空は、、、、全現象である雲の動きに気づき続けるだけです。

この体が消えても

この体という雲が消えるとどうなっちゃいますか????雲が消えるだけです、、一つの。ただしこの体この思考も私という思考雲はそれでも残るかもしれません、それが浮遊霊などと呼ばれる雲です。もしくは全ての経験を所有する私という思考の雲が、、新しい体(雲)を見つけてそこに繋がるかもしれません。。ですがそれらも全ては「この体この思考この感情が私」という雲が生み出す新たなストーリーです。そしてそれも全部雲です。本当は私は空だったんだという気づきは思考のうちは雲です。

なぜ子供の遊びには目的が必要ないのか?

勝敗の要らないゴルフ

子供が外で遊ぶ時に勝敗とか目的とか結果とかを聞くのは無駄でしょう、、子供が外で遊ぶのは「今真の安らぎの中」に居るからです。真の安らぎの中に居るから「遊ぼう!!」が起こるのです。今苦しみの中に居る時「遊ぼう!!」が起きない、、遊んでもいいですよ、、その場合はメリット、目的を教えてください、、です。ゴルフをする時に大人はハンディをつけてでも勝敗を付けて遊びますね、、そしてゴルフは人間関係の潤滑油だったり、商談だったり、、何かその後の目的があったりします。

自我が形成されてから

我々は自我の形成と一緒に目的、メリット、結果がないと動けなくなったのです。なぜならば今苦しいから、、何か嘘でもいいから見える結果が欲しいのです。何か見える結果を見せてくれないと動けない、なぜならば私は「今苦しい」からです。

これって変だよね

小さい子供が何のメリットも求めずに遊べるにも関わらず大人は何かメリットがないと遊べないって完全に退化です。実際にはこの体を守るための必要悪がこの自我ですから退化ではないんですが、、幸福度でいえば完全に退化です。この体を守ることには成功した、ですが幸福度は確実に下がっている、、というのが一般的な大人の惨状です。

自己形成から自己超越へ

子供とはまだ自我が形成されていない状態、自我未形成期、大人は自我が形成された自我完成期、そしてここからは自己超越期です。自己超越期とは自我の動き働きを完全に理解し、、、自我との同一を脱出し、、自我を観察する大いなる存在に自己を戻す時期です。自己超越しても勿論この自分というのは便宜上残りますがそれは便宜上です。もう「苦しい」という感情の湧き上がりが抜け落ち、、ただ全体、大いなる存在としての自分劇場を演じます。

自我は「苦しい」以外は最高のプログラム

「この体、この思考、この感情は自分」というプログラム

自我とはこの体の防衛システムです。この体の中の自分という存在がいると信じることで「体+自分」の二つを守ろうとシステムが起動します。例えば三食しっかりと食事を出してくれる家に住んでいて、、「学校に行くと悪口を言われるから嫌だ」と家に籠もれば、、、、体は絶対に家で守られていますからこれで体を安全保持できます。悪口を言われたは自我であり、、その自我の防衛システムが働き家に閉じこもれるのです。もしも体だけの存在ならば悪口を言われても学校に行くでしょう、、するとリスクは上がります。

安定した就職先

晴れて大手企業に勤めることができたとしましょう、、、この体この思考この感情を自分とする自我が、、、これで体を保持できる、これで社会的評価を保持できる、、、と満足という感情が生まれます。私は大安泰だ、、という思考が感情が生まれます。そしてそれを失いたくはない、、という思考感情も生まれますから、、この体にとっては最高のシステムが完成するわけです。

「苦しい」だけが残る

自我システム唯一の問題点は、「苦しい」これだけなのです。ここだけが大問題なんです。この体の中に自分が居るという思考感覚は、、このストーリーの中でこの自分をリスクから避けるために非常に強力に働くのですが唯一の弱点が「苦しい」なのです。なぜかといえば、、自分、私というのは嘘なので、、ひたすらに本当は誰だ????が止まらないのです。憤りがひたすらに起こるのです。ここだけが自我システムの問題です。

大いなる存在は

この自我システムを発生させたのは大いなる存在です、、そしてこの苦しいを読み込み続けるのも大いなる存在です。だから「私がなんとかしなくては!!!」が起こり続けこのストーリーは続きますが、、でも消えないんです。「この体この思考この感情が自分」が完全なる嘘であることに気づくまでは消えません。

今理解できなくていい

悟りに関する理解

自由意志はないんですよ!!!これを聞いてそうなんだ!!とは絶対になりません。自我がこの手の話を聞いて満足して受け入れるということは絶対にないのです。まぜか??????自分の存在を大きく見せるために何千万円のマンション、宝石、高級車を買ってしまうような動きが、、、、自由意志はない!!を素直に受け入れるわけがないんです。自分を守るために全国中継の記者会見で嘘をつくようなエゴの動きが「自我は存在しない」を簡単に受け入れるわけがないんです。

ですが

ですが、、自由意志はない、自我は偽り、、、、この話を聞いている、読み込んでいるのは誰でしょうか??????私ではありませんよ、自我ではないんです、エゴでもないんです、、、大いなる存在です、、、全部大いなる存在が聞いている、読み込んでいるんです。頭に入らないと思っていますが、、違います、、読み込み拒否をしているんです。この内容を内容通りに読みこんでしまったら、、エゴシステムが消えてしまうんです。自我システムが上手く機能しなくなってしまうんです。だから拒否します。

「私」は年度末で終了です

この会員証は年度末まで、、この免許証は年度末まで、、この「私」は年度末までしか使えません。。。焦りますよね、困りますよね、、、、待ってよ!!!この感情が大いなる存在から湧き上がるのです。「この体この思考この感情が自分」という思考感覚が体に反応しちょっと待ってよ!!!!が起こるんです。だから読み込みエラーが続きます、悟り関係の書籍は読み込みエラーがしばらくは続くんです。

少しずつ大いなる存在の読み込みが始まる

ところが大いなる存在はビビリではありません、大いなる存在は臆病じゃないんです、、、ですから少しづつ確実に読み込みエラーが解けていきます、、、自我のシステムが徐々に緩み始め、氷解し、柔軟になるに従って、、真実の内容を大いなる存在が読み込んでいきます。救われるには、苦しみを終わらせるには、、、真実に戻る以外にないことは大いなる存在が一番分かっているのです。

完璧の概念

過去を振り返って

過去を振り返ってみます。生まれてきて自我が形成されるようになり小学校に通い、、、あらゆる経験を重ねて今があります、、、、過去にはあらゆる選択ミス、後悔もあるでしょう、、、ですがその全てにおいて自由意志は一切ありませんでした、、すると過去は完全に人任せで行われてきました。。。人とは誰か???大なる存在です。大いなる存在の完全完璧な映画を我々は歩んできたんです。

今後の未来

今後の未来も、、、完全に自由意志がない状態で人生は進んでいきます、、では誰の人生なのか?????大いなる存在によって完全完璧な自動反応による人生です。これからも大いなる存在による人生を歩んでいきます。つまり私たちは私により私のための私の人生を歩んできたつもりであって、、、本当は完全な大いなる存在の映画を生きているだけなのです。

完全完璧

ですから、、、本当は全員の人生が完全完璧なのです、、完全完璧じゃないと思って後悔するのも完璧なんです、、そして実は完全完璧でそれに気づいていきていくのも完全完璧です。完全完璧じゃないと思って後悔しながら焦りながら生きていく完全完璧な人生と、、既に完全完璧であることに気づいて生きていく完全完璧な人生があるのです。

自由意志があるという感覚は残る

全て受け身の感覚で生きていけばいいんですね???違います。。。どれほど積極的に生きても、、その選択は最初から用意されていたということです。受け身で生きよう、積極的に生きよう、、というこの選択が実は用意されていたということです。自由意志を選択しているという感覚はこれからも変わらないでしょう。ですがその最終選択は用意されていたということです。これによって後悔、焦りという感情が湧かなくなっていきます。後悔、焦りは「私には自由意志がある」という思考が生み出したものだからです。

欲望とは分離感覚で起きる

楽しみは「在る」から起きる

子供時代、何かをして遊ぶ時に欲望を発散しているという感覚はありませんでした。ただ面白いから遊ぶ、、それだけです。ところが大人になってくると、、、「欲望の発散」動機の大元になります。ただ集まって食事しよう!では人は集まらず、、、出会いを求めて、、仕事を求めて、、人脈を求めて、、と何か欲を満たす要因がないと集まらないのです。子供時代の楽しいから、、、じゃない、、もっと重い感情に支配されているのです。

大人になるにつれて

大人になるにつれて、、、体の中に自我が形成され、、そのれによって分離意識が形成されます。これはそのまま孤独、分離感を生み出し、、苦しいがわき起こるのです。「苦しい「」がデフォルトになるのですから、、楽しいからおいでよ!!!では集まらないわけです、、苦しいを取らないと楽しくないことは分かっていますから。ということで何のために???という欲望を満たす要因でなければ楽しくないのです。

欲望を満たせば

結局のところ欲望を満たすのは「分離感」の一時の解消なのです。自分は分離しているという錯覚を、、、何かを手に入れることで一時的に解消しているのです。ですからこれは楽しいではなく「一瞬の楽」になることです。楽しむとは、その行為自体が面白いということであり、これには目的がないのです。

子供はなぜ欲望ではないのか???

子供はなぜ欲望ではなく純粋楽しいをできるのか???それは分離感覚がまだ薄いからです。この体の中に自分という存在が育っていないからです。だから行為そのものを楽しめるのです。では大人はどうしたらいいのか???育て上げた自我、自己意識を再び解体するのです。自我自己意識を俯瞰してそこにエネルギーを注がない、、自我、自己を観察し、、現象の一部に戻するのです。すると観察する存在、、大いなる存在、気づきの意識に戻ります。まだ自我が形成されていなかった子供のようにただ楽しい、、が起き始めます。

充実

面白い漢字

充実って面白い漢字です。実が充ちるって書いて充実。。。。。充実した毎日って、、、どういう時に使います????何か新しい体験とかやりがいを感じる日々だったり、、とにかく今している活動に対して満足度が高い時を言いますよね????その時に実が充ちると表現する。この世界は実ではなくて虚なんです、、この現れては消えていく現象は虚です。消えちゃうんですから。その虚をただ眺める、、、例えば公園で空をずっと眺めてたんですよ。。。。。と友人に話して「充実してるじゃん!!」とはならないんですね、、なぜかと言えば、、、実がないんです。。。虚を眺めるだけって、、、、この虚の世界では、、、経験だけが実なんです。だけど逆に言えば毎日全員経験しかしてないから、、実しかないとも言えます。

結論

この体の中に自分という感覚があって、、その自分があらゆる経験をするって、、、、実は妄想、空想です。全くもって虚の世界です。ただ暇つぶしに何かするって、、、ずっとずっとこの自分って感覚(虚)が抜けないんです。ずっと虚の世界なんです。。自我の世界ってひたすらに幻想なんです。ところが無我夢中って言って、、、自分がないほどに何かに夢中になると、、、、自分を忘れます、自我を忘れます、自分って感覚が消えるんです。その時経験だけがあるんです、、経験は実なんです。自分が歩むストーリーという幻想が抜け落ちて、、経験という実しかなくなります。

無我夢中になって

無我夢中になって充実した毎日を送っていますと、、、実は自我ではなく大我、、、大いなる存在、、そのもので生きているんです。自分を忘れてますから。。。そしてその感覚、、本当のゆらぎ本当の安心本当の癒しが、、、自己意識を薄めていきます、、自己という感覚にエネルギーを注がなくなります。そうするともっともっと無我、大我、大いなる存在の状態に入りやすくなります。

寸分違わず孤独を感じるためには

非孤独にしかこの芸はできない

私はこのぐらい孤独だ、、、私こそうつ病になるほど孤独だ、、私なんて死にたくなるぐらいですよ、、、、どちらがどのぐらいに孤独かは、、誰にも分かりません。。なぜならば比較のしようがないし、、全ては自分にしか感じることができないからです。ですがそれと同時に、、自分の孤独感は言葉では表現できませんが寸分違わずに感じているはずです。今日は孤独感をいまいち感じづらい、、本当はもっとあるはずなんだけど、、、とかないですよね。なぜか??????孤独を感じているのはこの私という感覚ではなく「非孤独」だからです。

「非孤独」が寸分違わず今「孤独感」を 感じているのだ。

孤独感を寸分違わずに感じるには全く孤独でない「何か」でしかできません。混ざり物なしの「何か」です。それは非孤独です、、、孤独が全くない存在、、、つまり神とか大いなる存在とですよね。。。。そうです私の本質はこの「非孤独」であり大いなる存在であり、神です。孤独で本当に死にたいぐらいですよ!!!!を感じているのが非孤独、神、大いなる存在です。孤独感が全くない存在でしか孤独感を寸分違わず感じることはできないのです。

世界中の全ての不幸を背負って

世界中の全ての不幸を背負ったような顔をして、、、、ですがそれを寸分違わずに感じることができているのは「神」「非不幸」だからです。不幸混じりっけゼロの存在でしか世界中の不幸を寸分違わず感じることはできないのです。え???????じゃあ私は今神なのですか?????そうです。間違いなくそうです。神が「私が居る」という感覚を作り出しその私が「世界中の不幸を背負っている」という感覚を作り出し、、全感情を味わっているのです。混じりっけゼロの神です。

神ならさっさとこの自分という感覚を消してよ!!!!

無理です、、神には「ああしよう、こうしよう、こっちにしよう、やっぱやめよう」なんて意思はないんです。神は全部ですから全可能性が起こるんです、、全くの未知、全可能性、だけしかありません。何が起きるか全くわからない、、これだけが真実です。もしかしたら今日それが起きるかもしれない、明日かもすれない、、、

偽りの自己はイメージだから過去未来に存続しやすい

過去未来もイメージ

過去を後悔し未来になぜ夢を見るのか????それは偽りの自己(この体この思考が自分)がイメージだからです。そして過去、未来もイメージです。ゆえにこの偽りの自分を主役にしたストーリーは過去未来を思い描くのです。偽りの自分はイメージでありこの自分を主役にしたストーリーもイメージです。だから過去未来というイメージ、時間の中に住まおうとするのです。

今偽りの自分を意織する????

今偽りの自分(この体この思考が自分)を意織するってできますか????今できることは思考することだけでしょう偽りの自分を。今に集中すれば無我夢中になり偽りの自分は消え去ります。無我夢中とは偽りの自分が無い状態です。本当の自分を発見したいのならば無我夢中の状態の時に偽りの自分がいないことに気づくべきです。偽りの自分が居ない時が幸福????つまり偽りの自分こそが幸福を拒む要因なのです。

本当の自分は偽りの自分が抜け落ちた時に

偽りの自分が本当の自分になる、、、これは不可能なのです。なぜならば偽りの自分は「この体この思考が自分」という思考であり本当の自分は全てだからです。偽りの自分が消え去った状態が本当の自分です。この世界から偽りの自分(この体この思考が自分)が居るという思考が抜け落ちた時この世界そのものになるのです。自然無為、全体、森羅万象、大いなる存在です。

偽りの自分は将来に夢を描く

本来は存在しないからこそイメージに固執する

将来はこんな風になって活躍した、将来はこんな家庭を作って幸せになりたい、、、偽りの自己は本当は存在しないからこそイメージに固執するのです、もしくは過去という中で偽りの自己は実在していたことを強く主張します。過去に未来にイメージを強化することで自己存続にかけるのです。全ての行動原理は自身が偽りゆえの延命行動なのです。

本当は過去にも未来にも存在できない

セルフイメージが今に存在できるわけがなくゆえに未来にセルフイメージを作ることで意識をそこに向かわせます。もしくは過去にセルフイメージを作り自身の存在を保持しようとします。ですが「この体この思考は自分」というのはイメージですから、、、どこに意識を向けようと存在はしていないのです。

意識が将来に向いている間

本当の自分とは今この瞬間そのもの、今この瞬間を作り出す全てです。今この瞬間において「この体この思考が自分」という思考は真実ではなくフェイクですから、、今ここに意識を向けることを嫌うのです。偽りの自分を肥大化するためにはここに意識を向け続ける必要がありゆえに未来にそのイメージを意織し過去にそのイメージを意織することでこれを保持しようとします。今この瞬間に意識を向ける(大いなる存在)ことと偽りの自分を保持することは相容れないということです。