仕事

思考に優劣はない

素晴らしい思考など存在しない

あの人の考え方は素晴らしい、あの人の考え方は幼稚である、、、考え方を所有するその人は存在せずそれゆえ考えとはただ根源から湧き続けるもの以上のものではありません。それゆえ固定化された考え方などあるはずもなくただある考えがある人を通じて湧き上がっていきます。何かを成し遂げた人は自分の考え方は素晴らしいのだとそこから「自分」を誇らしく思うという考えに縛られていくのですがこれはもう苦しみの入り口としか言いようがありません、なぜならばその自分も思考であり思考の世界に没入していきます。

本当の幸福は思考が湧かない瞬間

本当の幸福は思考が湧いていない瞬間、自分など忘れてしまっている瞬間、五感に浸っている瞬間(音楽、食事、会話、仕事、芸術、自然)です、五感で感じる事実に向き合っている時は思考が入り込む隙間がなくそこには根源、至福があります。ここに触れれば触れるほどに思考が自然と湧きあがらなくなっていきます。事実は思考とは何も関係がなくただ湧きあがりますから思考に振り回されるメリットは皆無です。

シナリオが淡々と続く

事実、現象はただ淡々と起こっていきます、ここに自己という存在、自己を前提とした意向など全く無意味、無介入、無力です。個人はただ起き上がる現象を都合よく切り抜いて個人のストーリーに仕立て上げるのですがそのストーリーを信じる限り苦しみが湧き続けます。実際には個人とは全く関係なく事実が起こり続けていきます。学校の入学、退学、転校、入社、転職、結婚、子育て、、、、全て個人の意思とは何も関係なく起き続けていきます。

ただ事実だけを見てみる

「私は居る」は想像

我々人間は多くの時間を想像に費やします、私が居る、友人Aは悪い奴だ、学校の先生Bは優しい人だ、私の親は何も分かってくれない、、、これらは全部想像です、、、先ず「私」は想像物です、そして友人Aも体は実在しますがその中居るはずのAは想像の域を出ません、学校の先生も体は実在しますがその中に居るはずのBは名前であって実態を証明できません。私の親にあっても体は実在しますがその体の中に親の自我を見つけることは不可能です。想像物である「私」とこれまた想像物である「A」「B」「親」との関係もこれまた想像でしかありません。この想像上の人物同士の関係について悩むという思考が湧いていて苦しんでいるのです。

人間関係が苦しいのは実態がないから

職場では人間関係だけが苦しい、家族でも人間関係だけが苦しい、親との人間関係だけが苦しい、、、この苦しさは全て想像上の想像物の関係性から生まれています。体は間違いなくありますがその中に「自我が在る」というのは間違いなく想像です。間違いのない想像物同士の関係は事実とは無関係のフィクションですからこれは苦しいのです。事実とは根源であり、根源から湧き上がる想像物の中に入り込んでいけば苦しさが根源から湧いてきます。

苦しいのが好きならば

苦しい思いをしたいのならば徹底的に人間関係の中にどっぷりと浸かってみてください、想像VS想像の世界は思考の駆け引きが起こり苦しさマックスになっていきます。人間関係の中に飲み込まれても決して思考を野放しにしないことです、あいつはこんなことを考えているのでは?あんな悪巧みをしているのでは?腹の中では実は自分を嫌っているのでは??このような思考の波に飲み込まれないことです、感じたら感じ放し、湧いたら湧き放し、、人間関係が至福に誘ってくれることはなくそこに期待しないことなのです。そうではなく事実に徹底的に向き合うことこそが至福への入り口であることを悟ることです。

事実とは

事実とは体の五感です、そこに人が居るのを感じる、そこに音楽が流れているのを感じる、そこにスポーツ中継があるのを感じる、食事を感じる、仕事を感じる、、、人間の面白い会話を感じる、、ここに徹底的に向き合うのです。この向き合う先に思考ではない本当の至福があります。人間という思考上の幻想ゲームにのめり込むのではなく五感にのめり込んで行く、、感じるという事実に徹底的に向き合うことで常に根源に触れ続けるのです。

こうなったらワクワクは思考の策略

大金持ちになったらワクワク

結果を期待してのワクワクは嘘のワクワクです。実際にそのような状況になるかは分かりませんし、そのような目的での行動では全体との調和が起こりません。例えば10億円を得れるからと10年間絶対にやりたくない仕事を我慢してやろうということになったとします。10年後のワクワクを期待するわけです。。。すると毎日が不調和な日々に襲われます、毎日毎瞬ごとに不調和が起こります。感情が湧き出し、思考が湧き出し、、自我が強化され全体との分離が進みます。恐ろしい不快感を感じながら10年間を過ごすようになります。

10年後のことを考えて何とか心を落ち着かす

10年後には10億円、これを考え続けることでなんとか精神状態を維持しようとしますがこれすらも思考です。思考が湧けば湧くほどに自我が強化されて全体との分離が進み全体との不調和が起きます。もしかしたら10億円を手に入れることができるかもしれませんが10年後には体は病み、人間関係は破綻し、家族も失いと、、、とんでもない状況が待っているかもです。

10億円手に入れたとて

10年間の忍耐の結果10億円を手に入れたとしましょう、、、、散財に散財をして豪華絢爛な生活をできたとしましょう。。。これで本当に心が晴れると思いますか???この豪華絢爛な生活は全部お金の力であって本人の力ではありません。どこまで行っても自信がつきません。これによって本当の人間関係が築けれることはありません。さらに、生活に飽きてきたときにそれを解消するにはまたお金が必要になります。そこでまたお金を使う生活をすればいくらお金があっても足りないのです。

最初からワクワクにいく

最初からワクワクすることをします。最初からワクワクすることを行います、見返り結果を一切期待することなく。これによって最初から全体との調和を味わうことができます、最初から平和、安堵の世界に入り込みます。自分が求めていたことがここだったという気づきが起こります。これさえしていれば最初から幸福だったんだという気づきが起こります。良い人生を送るって最初からできるのだという気づきです。結果を期待することで不調和が起き苦しかったという気づきが起こります。

個別体験を積むための機能=エゴ

エゴ、自我は悪者ではない、、

自我、エゴとは個別体験、小さな神体験を積むための機能です。この機能を機能以上に負荷をかけていくとネガティブな反応を起こすようになります。これが人生を苦しめる要員です。とはいえこのエゴ、自我を敵対視すれば人間としての生活ができなくなります。そうではなくこの自我を機能以上に働かせない、これが大切になります。エゴとの調和、自我との調和が整った時にエゴ、自我はまるで無いのでは?という状態になります。これが覚者と呼ばれる人の境地です。今までの自我、エゴとは決別できている状態です。

自我、エゴに余計なことをさせない

自我、エゴが悟りの世界では絶対的に敵対視されてしまうのはこの自我、エゴにあまりに多くの仕事をさせているからです。思考がフル回転、常に作戦を立てる、、全部が全部思考重視、これによってアンバランスを生み出しそのアンバランス分が苦しみを生み出します。人間はエゴ、自我に対し無自覚であるため、、思考フル回転に陥りやすく結果自らバランスを失います。思考する回転は自我全開になりアンバランス全開です。

自我拡大、エゴ拡大に無抵抗

多くの人間は自我拡大、エゴ拡大に無意識です。思考すればするほどに苦しみが生まれますがそこを自覚していません。そのため何か問題があるとすぐに思考をフル回転させ自ら首を締めるのです。そうではなく思考フル回転は自我フル回転であり、、、これこそが苦しみを生み出すことを自覚すべきです。そうすればバランスの取れた自我活動にシフトします。

マインドは目の前のリアリティを隠すのに必死

目の前には常にリアリティがある

目の前には常にリアリティがあります。リアリティはどこか遠くにある桃源郷ではなく、、今ここに広がっています。ですがマインドはこの事実に気づかせないように必死です。今マインド越しに見ているこの世界はリアリティには見えません、なぜならばマインド越しのこの景色は自分にとって間違いなく曇っているからです。ですから私はこれを真の自分、真の世界、望んでいる世界だとは絶対に認めないのです。

そんな曇った世界を私は見て、、、

なんだこの現実は、、しょうもない、、、本当の私が望む現実はどこにあるのか????こうして思考ががっつりと湧いてきます、この思考こそがリアリティを曇らせる張本人です、自分はこの思考と完全に同一化し益々目の前の世界を曇らせていきます。これによって個人は目の前に広がる真実、リアリティに気づかなくなっていくのです。

もっと、もっと、、

私が望む世界はこんなもんじゃない、、もっと違う良い環境が、、もっと違う良いパートナーが、、もと違う良い仕事が、、、、このもっともっとは思考の特徴です。私の目の前に広がる環境を曇らせている張本人が思考です。ですが目の前の現実が曇っているのも事実だから「自分」はまた思考にしがみつき、思考に変化を期待するようになるのです。これが人間を夢遊病者に閉じ込めるメカニズムです。

PCの機能は全部プログラム言語で成り立つ

言語は言語ではない

人間は日常生活で使う言葉を無意識に使います、言語とは仕事やプライベートを円滑に進める道具だと思っています。ですが実際にはそんなモノではありません。言語とはこの世界を構築しているのです、この世界は実はあなたが使っている言語でできています、意味不明ですね。なぜならば、、、もしもあなたが言語を何も知らなかった場合、、、、全くの別世界に住んでいるからです。そんなはずはない、、、同じ人間が見る世界が、、異なるはずはない、、そう思っていますよね、、全然違うのです。実は我々はたった一つのエネルギーを言葉によってモノ化、者化しそれを見ているのです。例えば宇宙人が地球に降り立ち人間を見れば眼鏡は体から特出しているように見え、洋服は体の模様として移ります。そしてスマホは完全に体の一部、、、全く分離していないのです。靴を脱げば、、、足が取れたと驚くはずです。

価値観は、、、

それらの言語、そして自分としての積み重ねが、、、価値観として形成されるわけですが、、、これらは我々が世界を見る際に大きく影響します。例えばBMWを買いたいと思っていると街中にBMWが溢れてきます、ミニクーパーを買いたいと思うと街にミニクーパーが溢れます。ナイキの靴が欲しいと思うとナイキの靴が街で溢れます、、、つまり人間とは意識したモノしか視界には入っていないのです。価値観とはそのままその人の世界なのです。何に注目するかで視界に入る情報が全く変わってしまうのです。言語、そして言語で成り立つ価値観は、PCのプログラム言語と全く同じでPC内の環境を全く違うモノにします。

最後は言語を超える

悟りとはこの言語を超えた場所になります。言語は単純にこの大いなる一つ、まっさらなPC環境を独自の世界に変える力です。言語には半端ない力がありますがその言語を超えた場所こそが悟りです。見ている世界、構築されたシステムが言語、プログラミング言語で設計されていることを見抜くことが重要です。どの言語を選ぶか、どの言語で新しいシステムを構築するかに意識が向かっている間は人生ゲームのデザインに興味があるということです。これは悟りの本質ではありません。

自己実現とは自我の緩みの証拠

自分が好きなことで食べる

自分が好きなことで食べよう!YOUTUBEが世の中を席巻した時のキャッチフレーズです。この自分が好きなことで食べるというスローガンに多くの方は  ????になります。なぜならば自分が好きな事など考えてきていないからです。そのような感情は自我ベースで生きていると感知していないのです。だから好きな仕事と言われても意味不明なのです、そんな事感じたことがない。。。。自我ベースで生きてきて、、自我の目的をしっかりと遂行していきますとマズローの欲求五段階ではないですが欲求のレベルが上がっていきます。すると最終的に自我に対する俯瞰した視点が養われ次第に自分の好きを感じることができるようになります。それが自己実現のスタートです。

自我は生き残ることに必死

戦後の日本で好きなことで食べようなど意味不明な発想でした、、、生き残るには何をするか???これだけです。ですが時代が進み生き残るを着実にクリアーし、社会的評価を得た、、、すると次に何かを達成しようと試みる中で自分の好きなこと、、、という感覚を感じることができるようになります。この感覚は全体から湧いてくるわけですがこれを強烈に感じることができるようになります。そしてこれを達成することに思考を使えるようになっていくのです。

自己実現すら達成

自分の中から湧いてくる衝動を感じることができ、さらにそのために思考をフル回転できるようになるとその衝動すらも形に変えて生きていけるようになります。これが自己実現です。この境地を達成すると、、、自分とは何か???という疑問が湧いてきます、、これが自己超越、悟りへの入り口、誘いです。この段階では自我の最後の抵抗が起こります、湧いてくる衝動を叶えようとすると自分という存在に構っていられない、ですが自我は自己主張を繰り返します。こんなことをやったら恥ずかしい、こんなことをやったら周りに示しがつかない、、自我との最終決戦です。

仮面ライダーとして生きていく

自分とは仮面ライダーのこと

自分というのは実は仮面ライダーと同じです。子供の頃に仮面ライダーに成り切って色々な遊びをするわけですが、、、仮面ライダーとして喧嘩や戦いごっこをします。この仮面ライダーになりきる感覚こそが、、、全体が自分に成り切っている感覚と全く同じなのです。子供は仮面ライダーとして喧嘩をして負ければ泣き叫びます、、仮面ライダーとして遊具でジャンプしてみたらつまずいて転んで泣きます、、、仮面ライダーになったつもりだからこそこの失敗はあるわけです。そしてこの自分も全く同じです、自分という存在があるという大前提があるからこそあらゆるチャレンジをし失敗を重ねることができるわけです。ですが本当はこの自分は居ないのです。

自分が居ると思うから、、、本気で受験も、就職も結婚も子育ても、、全部やってこれた

自分という存在が居ると真剣に思えたからこそ、、、全体はあらゆるチャレンジをしてきました、サッカー選手を夢見てみたり難関高にチャレンジしてみたり、上京してみたり、、、就職してみたり、好きな仕事にチャレンジしてみたりです。ですがこれもそれも「自分」が居るという思い込みが成功したからです。ですが本当はこれは思い込みです。全体が起こした錯覚です。

本当は自分が居ないということを自分だけ分かっても、、、

本当は自分がいないということを分かったところで周囲は自分が居ると思って生きていますから一体全体どうすればいいのか???仮面ライダーごっこに途中で冷めたところで周囲は夢中で懸命仮面ライダーに成り切っています。どうすればいいのか???どうすればもこうももう「自分」を真剣にやることはできません、実在しないにも関わらずどうして真剣にそれをできるのか?という話です。ただそれだけの話です。

今日からは仮面ライダーではなく演者として生きる

仮面ライダーごっこに飽きた子供は普通に本人として生きていくことになります。これは人間同じ、自分という存在が実は居ないということが分かったら後は居ないことを認めて生きていくしかありません。自分というのは思考が作った錯覚なのだと自覚して生きていくだけです。そしてそれでも思考は次々に湧いてきます、自分という存在が居るという前提で、ですがもうそこには本気で構えなくなるという話です。自分はなぜ孤独なのか?自分はなぜ理解されないのか???これが湧いてきても相手をしないことです。いずれこのような思考は湧いてこなくなるはずです。なぜならばその思考に構えなくなるからです。

人間とは考える分裂切り裂き機

切り裂いて切り裂いて重苦しい世界を生きる

人間とはこの世の切り裂き魔です。人間すらもこの世から切り抜きました。そしてその切り抜きは自分に留まらずあらゆる分野に及びます。TVニュースを一日中見てみてください、世界が重苦しくなりませんか???これが切り裂きです。ニュース、そして解釈を暗記することでその分世界が切り裂かれます。このニュースは果たして人を幸福にするのか??しません。ですがその分人間という体を生き伸ばす情報にはなったかもしれません。ですがそれだけです。

幻想の世界に降り立った自分

自分という存在をまずはこの全体から思考は切り裂いて見せました。そしてこの自分はこの存在を維持すべくさらに情報をかき集めて維持させていきます。どこに収入があるか、どこにお金になる仕事はあるか、どこに安定はあるか、、と情報をかき集めていきます。そして情報をかき集めれば集めるほどに世界は重く苦しくなっていきます。ですがこの自分は維持しやすくなっていきます。

生きるための情報は手にした、、だが苦しい

生きるための情報は手に入れてきた、、自分を老後まで生き伸ばす方法はわかった、、だが苦しい、、、これが幻想の世界に降り立った人間です。この苦しみはどうすればいい???この苦しみは自分、自我が生き延びるためにかき集めてきた情報、知識、解釈がそうさせています。先ずはこの親しみまくってきた思考を手放すことからしてみてはどうでしょうか、、この分裂世界を作り出した思考と距離を置くことからスタートします。思考が湧いても放置です。

完璧でしかないこの世に不満を持つための道具「思考」

完璧が不満を持つためには「思考」が必要だった

我々の本質は完璧です、完璧しかありません。ですから今見える世界の本質も完全に完璧です、本質は。ですが実際には今完璧に映っていないはずです、完璧に。完璧である本質がなぜ今完璧に見えないのでしょうか?その答えが「自分」と言う存在の出現です、自分という存在が現れるとこの完璧な世界が完璧に見えなくなるのです。そしてこの自分を維持する機能こそが思考です。

思考が湧きそこにしがみつく

先ず大前提として見える世界が不完全に見えます、完璧に見えません。なぜ不完全に見えるかと言えばそれは思考がそのように見せているからです、自分に。そこでそこから思考が湧いてきます、こうすれば完璧のなるかもよ、仕事を変えたら完璧になるかも、パートナーが出現したら完璧に見えるかもよ、、、この思考に人間は直ぐにのっかります。そこからは思考に延々と引きずられていく、、この思考こそが自分の正体です。そしてこの自分の存在こそが完璧な世界を完璧では見えなくしています。

思考を手放すと

思考を手放すとどうなるか?そこには五感の感覚しかありません、それでも最初は不満足な世界に見えるかもしれません。そこで思考がわいてきます、こうしたらああしたらと、、でもそれを無視します、放置します。すると思考が湧かなくなります。これを繰り返します。するとまさかの見える世界が輝いてきます、不完全が不完全ではなくなっていきます。見える世界は完璧になってきます。思考の出る幕を止めていたら安堵が込み上げてきます。