仕事

手に入れた瞬間の安堵感を求めて

何かを得た瞬間、、安堵感が広がる

我々は常に何かを求めます、、異性、お金、地位、名誉、仕事、家族、安定、、、なぜこれらを常に求めるのか???それはそれを得た時の安堵感が欲しいからです。。。????対象でる、、、異性、お金、地位、名誉、、、、、などは実は何でも良くて、、、それを得た際の安堵感が欲しいのです。。。なぜ???それは今が苦しいからです、、、、今苦しから、、、、なんとかしてこれを拭いたい、、、これを拭う唯一の瞬間こそが達成なのです。

そのやり方は疲れる

しかしながらこのやり方は疲れます、、キリがない、、、、生きている間中、、、何かを目指さなくてはならない、、、、苦しい、、、、そうです、、、結局これも苦しのです。。。ということで我々はこの安堵感を目標達成から得るのではなく、、、、ダイレクトにそれを得たい、、、、これが悟り、ノンデュアリティ、覚醒です。

事実をただ理解する

そのためにはどうすればいいのか????事実をただ理解するだけです。。。この世界がどうなっているかに気づくだけでいい、、、何もしなくていい、、、気づきの意識がこの事実に気づくだけでいいのです。。。私ではなく????そうです。私が気づくのではなく、、、気づきの意識が私が居ないことに気づくのです、、そして私が居ないどころか、、、見える世界に広がるあらゆる対象(分別区別)が実は分離していなかったということに気づくことです、気づきの意識が。

私が気づくのではないならば、、不可能???

私が気づくのではなく、、、気づきの意識が気づくのならば、、、不可能ではないか???気づくの意識が気づくの待ちならば、、、こっちは完全な無力じゃないか?????まさに!!!その通り、、、、個人は常に無力なのです、、個人には何の気づきも起こせないのです、、、生まれてこのかた、、、個人が気づくというのは、、現象以外全く起きていないのです、、、全部は気づきの意識が気づいてきました、、、だから今回も気づきの意識の気づき待ちです。

ただ在る

動詞も名詞もない

本当は動詞も名詞もありません、、これは脳が勝手に作った感覚です、、本当は名詞も動詞もないを、、、意識していきますと、、、目の前には、、生命現象だけが在ること気づきます、、本当にそれでいい、、いつでも静寂に包まれることができます、、、これ以外要らないが湧いてきます、、、個人としてのこれがしたいが抜け落ちていきます、、、

明日は何をするの?

この質問で気づきます、、そうか個人は休みは何かをしたがるもんだったなーという気づきが起きます、、、そんな時もあった、、、ですが今はただ静寂に包まれているのがいい、、この自分が包まれるのではありません、、ただ静寂そのものになるのです、、、本当は名詞も動詞もない、、、、そんなものは脳が作り出したものです、、、

私が見る、、なんてなかったという気づき

私が見る、私が食べる、、、こんなことは元々無かったのです、、私など最初はなかったし、、見るという動詞も、食べるという動詞もあとから教わったもの、、、最初は何もなく、、、それだけで静寂にいつでも包まれる、、、全ての行為に動詞という名前がつき、、、静寂が落ちた、、、ただそれだけ、、、

名詞も動詞も無かった、、に気づきの意識が気づく

私がこの仕事のためにパソコン仕事をしている、、、全部名刺、動詞の世界です、、、私も、仕事も、パソコンも、全部後天的につけられた名詞、動詞です、、、何も無かったのです、、もともと、、、その何も無かったに立ち返ると、、、静寂に包まれます、、、なぜならばこれに気づいたのは気づきの意識だからです。

何の制限もない世界から急に制限の中に閉じ込められた

この世の閉塞感とは??

おかしい、、小さい頃は全くの自由だったのに、、、いつの間にか不自由な檻の中に閉じ込められてしまった、、、なんかよく分からないけど、、、不自由な感じがいつもする、、、小さい頃よりもお金も得ているし、好きな服も、好きな靴も、好きな食べ物も食べているにも関わらずなぜ不自由感が溢れているのか???何かがおかしい、、、そうです、、我々はいつの間にか、、、不自由な檻の中に閉じ込められてしまったのです。

名前を覚えてこの私が食べれるようになったら、、

学校ではあらゆることを暗記させられますね、、、これはりんご、これは魚、、から始まり、、最終的には化学記号、二次方程式、英語、、世界中の国の名前、、、まで、、、これによって我々は、、この現象しかなかった世界に名前が付けられた現象の世界を重ね合わせました。これによってこの名前が付けられた「私」は食べていくことができる仕事が与えられて、、生きていくことが許されたのです。しっかりと名前を覚えればしっかりした仕事が与えられます。職場ではやはり仕事で使う名前を暗記させられ仕事を任されます。

食べれるようになったら、、、

食べれるようになったら、、、次はこの苦しみのメカニズムを覚えていきます、、、実は自分は元々はいなかった、、途中から名前が付けられただけ、、、実はあらゆる生命現象には名前はついていなかった、、便宜上つけられただけ、、、、実はこの私の自由意志はなかった、、、便宜上あるとされてきただけ、、、実はこの私のストーリーは錯覚である、、便宜上そうあることにしているだけ、、実は全ては気づきの意識の中で起こっているだけで、、それ以外何もないこと、、、実は気づきの意識は自由そのもので何も必要がないこと、、、と不自由な檻の中に閉じ込められていた何かは存在せず、、自由そのものしかないこと、、

気づきの存在は気づきの存在であるために努力を必要としない

気づきの存在であることの安心感

全ては気づきの意識の中で起こっています、この自分という感覚も、、音も光も、会話の全ても、、気づきの存在の中で起きています、、、この事実に気づくことの大切なことはもう努力がいらないということです、自らが気づきの存在、全体であるという気づきに至った時、、ここからさらに努力して何かになる必要がなくなります。我々は個人として生きてきたので、、、努力を必要としてきました、、今が苦しいから、、努力して、、、明るい未来を手に入れようとしてきました、、ですが気づきの意識そのものであるという気づきが起きるともう努力のしようがないわけです。

自分の存在、思考が起きていなくても、、、

自分が居るという感覚がなくても、思考がなくても、、、ただ気づきの意識だけは確実に在ります、、、何かに没頭していても、、没頭していなくてもそれに気づく、気づきの意識があります。我々はこの気づきの意識なのです、、、それ以外であるわけがないのです。この気づきの意識の中に一時的に自分をこしらえただけ、、こしらえていない時もそれに気づく気づきの意識、、、

徹底的に気づきの意識になって起こりを楽しむ

私は気づきの意識だ、、この意識が芽生えてもそれでも自分は登場しますし、、友人も、仕事仲間も、、みんなこの気づきの意識の中で登場します、、それをただ気づきの意識として楽しみます。この体から出てくる思考、行動を楽しみます、、友人の体からでてくる言動を楽しみます、、、安心の場所で事の起こりを楽しむです。

計画は人間を能動的な存在であるという錯覚を強化する

計画をしっかり立てて

人間という存在をしっかりと理解しますと計画はあまり意味がないことが分かります、、ただその体を通じて言動が起きていますから、、明日から二週間後まで予定をビッシリ埋める、、というのはこの人間のメカニズムに反しています。その瞬間瞬間やりたい衝動は異なるので、、予定でこの体をしっかりと縛りつければ苦しくなるはずなのです。ですが自我はそうは言いません、予定をしっかりと立て時間を無駄使いしないようにしよう。

計画は計画、、、この割り切りができるか

計画を立てようが全体から起こりますから計画を立てることが悪いのでは断じてありません、、ですがその瞬間瞬間にこの体を通じて衝動が起こるので計画通りにその衝動が起きるとは限らないのです。ですからあくまで計画は計画、、そしてそれを遂行するか否かはその日次第、、、こんな緩い感覚が事実に合っています。

そんなことでは仕事ができないのでは???

違います、、そんなことを今までもやってきたのです、、、この体には自由意志はなく、、、ただ起こるが起きていたのです。。この事実をしっかりと認めましょうという話です。さも自由意志がこの個人の中にあるかのような発想を持つと、、それだけで苦しくなりますよ、、という話です。ただ言動が全体から起こり続ける、、、この事実をしっかりと理解して計画を立てるのは問題が起きません。

無我make自我

無我が自我を起こした

無我が自我を起こしました、、、無我から自我は起きたのです、、、無我は至福、自我は苦しみです、、至福が苦しみをこしらえたのです、、そしてそれを感じるのは無我です。自我の完全活動中は無我は自我に成り切ります、、自我を意識するのではなく自我そのものになるのです無我が、、、この状態になって初めて苦しいが湧きます、、、そうしたら自我を観察する無我に戻るのです、、、自我の活動、思考、言動は完全に無我からただ湧いていることを把握します、、自我の活動を無我の活動であると意識します、、、これで無我に戻ります。自我を観察する無我になります。無我=自我から自我を見守る無我そのものになります。

私はこの体の中に存在する者である

私はこの体の中に存在し自由意志を発揮する者である、、、これが自我ですが、、、この言葉は一体どこから生まれたのでしょうか、、、この言葉がどこかから生まれなければこの自我は存在しません、、、どこから???無我からこの言葉がただ起きたのです、、このプログラム言語がただ無我から起きました、、、無我がこの言葉に成り切る、意識を集中しすぎると、、、苦しみが湧き上がります。無我=自我ではないからです。自我とはただの言語であり、、無我の一部でしかありません。

無我から起こった自我

自我は無我からただぽこっと起きた言語です、、この言語に無我の意識が向くと、、、このファンタイジーの世界が湧き起こります。そのファンタジーの世界は苦しいので、、、ファンタジーの世界の中で、、パチンコ、お酒、異性、食事、などを使って無我に帰ることをします。熟睡は完全なる無我、、、ゲーム熱中も無我、、仕事集中も無我、、です。そしてこれらは自身が実は自我ではなく無我であることを教えてくれるヒントです、無我から湧き出した。

悟りに興味が出るだけ奇跡

悟りに興味は起きない

見かけ上の私は、、とんでもない好奇心旺盛な人間で、、興味の湧くことは片っ端から極めていこうとしました、、幼少期は動物、昆虫遊び、、小学生になるとTVゲーム、、中学は受験勉強、、高校はスポーツ、大学は異性関係、就職後は自己実現、、一直線にそれを満たしていきたい、、そう思う人間でした、、、就職後にどうしても仕事が合わず、、かつ次にやりたいこともない、、、ここで八方塞がりに突入しました。この八方塞がりは見かけ上の私の人生史上最大の壁になり、、さすがに現実から逃げたいという欲求が渦まきました、、、結果仏教、善の悟り関連のメッセージに自然と救いを求めるが起きたのです。

趣味は徹底した、努力も徹底した

自己実現の壁に出会った時に、、、なかば諦めの境地が来ました、、、もしかしたら今回は不可能かもしれない、、何もやりたいことがない、、、、参った、、、その時に染み渡ったメッセージが釈迦、禅などの悟りメッセージだったのです、、ですがこの時は本当の意味など分かるわけがなく、、、ただそこに真実があることだけは分かっていました、、。最後はここに行けばいいのだという、、、

自由意志を手放すには

自由意志を手放すのは怖いものです、、、なぜならば自由意志でこの人生は守られていると本気で信じているからです。ですからこれは完全な人体実験が必要になります、、、何も考えず、、何も計画を立てず、、生きてみよう、、、やってみよう、、、すると不思議何も問題なく行動が起きるのです、、、何も準備なくしっかりと行動が起きます、、、え???本当だっ、、、という気づきが起きます。

彼が浮気しても、、、

ただそれが全体から起こった

彼が浮気したとしても、、ただそれが全体から起きました、、、それが事実です、、あの時に私が何かをしてしまったからか???もっと大切にしていれば、、、、あらゆる思考がそれでも湧くでしょう、、、事実は全体からそれが起こっただけです、、、因果関係は人間が理解できるようなシンプルなことではありません。この事実に向き合うしかありません、、、すると悲しみ続けることができない、、、

別れる別れないもただ起こる

別れるべきか、、別れないべきか、、、、三日三晩考え続けるでしょう、、、ですが事実はその判断すらも全体から起きます、、、二度と顔も見たくないが、、起きるかもしれない、、、今回は許そうが起きるかもしれない、、、これも全体からただ起きます、、、「決めるのは私でしょ」違います、、、決めることができる自分が居ないのです、、これも事実です。

彼の浮気に私は無力なのか????

見かけ上の私の言動が浮気に関係することも当然あるでしょう、、、見かけ上の私が仕事が忙しすぎることが影響するかもしれません、、、ですがその仕事が忙しいという事実は全体から起きているのです、、、そこをコントロールできる自分が居ないのです。ただ起こりを観賞するしか我々には選択肢がないのです、、、そして観賞する存在になることを諦めた時に突然至福に包まれます。これを追い求めて今までがあったという気づきが起こります。

コンサートに夢中になって行くのは自分を忘れるため

目の前のアイドルに自分を奪ってもらう

コンサートに熱狂的になって行く人はアイドルに自分を奪ってもらいに行くのです。その瞬間好きなアイドルしか見えなくなり、、自分が消滅します、、、自我が消え去り、無我に入り至福に包まれるのです、至福そのものになるのです。そしてアイドルは目の前の熱狂的なファンを喜ばせようと、、自分を忘れ去り、無我に入ります。至福の共演です。

ファンの興奮を永続させる

ジャニーズ事務所がなぜ凄いのか????ファンの期待を裏切らない、、、ファンの心を奪ってあげることに忠実なのです、、定期的にコンサートを必ず開き、定期的に音楽を発表する、、定期的にファンミーティングを開き、定期的にドラマで主演をする、、、、こうやってファンの心を奪い続けてくれるのです。

そうか、、、無我になればいつでも至福に入れるのか???

ですがどこかで人に頼って無我に入ることを諦めなくてはならなくなります、、、なぜならばその興奮が永続するとは限らないからです、、無我に入る対象を仕事に変えればその場で無我に入れます、、もしくはこの事実を徹底的に理解し、、、思考の観察者(無我)になってしまう、、、アイドルに夢中になった状態を覚え、、何にでも集中することで毎日無我に入るトレーニングになります。

何かに集中する、瞑想の極意

瞑想とは目を閉じるだけではない

日本の武道、茶道など、あれは瞑想です。動きに完全集中することで無我に入っていきます。型に入り込むことで型になりきり自分が型に溶け込んでいくのです。この時自分はこの世から無くなります。人は何かに集中し始めると、、自分が居なくなるのです。目の前の人との会話に集中しますと、、自分が居なくなります。この状態を人は無意識に気づき毎日のことでこれをやっています。仕事が好きな人は仕事に集中しやすいのです、キャンプが好きな人はキャンプに集中しやすいのです。人とのお酒が好きな人は会話に集中しやすいのです。

楽しいは実は集中

集中からくる無我状態を覚えてしまうと、、刺激を求めるという行為に興味がなくなります。多くの人がパチンコ好きなのは大音量の音の中に入り、パチンコ玉が入るか入らないかで持ち金の増減が決まりれるというリスクを背負うことでゲームに集中できるからです。つまり集中できるならばなんでもいいのです。集中すると自分が消え去り全体にその場でなれます。集中からくる恍惚状態は全体そのものです。何かに集中していれば、、1日何回も瞑想をしているのと同じです。

その場で集中に入る方法

ではその場で集中に入る方法をお伝えします。ただ目を閉じます、、そして先ず視覚から入る現象を完全にシャットアウトします、この時、、視覚から入っていた目の前の現象は完璧に無くなります。無くなっているように見えるのではありません、無くなるのです。視覚から入る蜃気楼が完全に無くなります。そして聴覚から入る蜃気楼に集中します、触覚から入る蜃気楼に集中します、嗅覚から入る蜃気楼に集中します。五感ではなく三感から入る蜃気楼に集中するのです。視覚から入るこの自分の体という蜃気楼は完全に無くなっていますから耳、肌、鼻という蜃気楼はもう存在していません。ですからそこには音、感触(触)、香り、、そのものが起き上がっているだけなのです。それを感じる自分(蜃気楼)は消えています。この三つに完全集中するのです。全体からの湧き上がりに完全集中します、、するとはっきりとそれらが静寂から湧いていることに気づきます。この静寂こそが全体です、そして音、感触、香り自体までも静寂に包まれているのに気づきます、音、感触、香りが静寂として湧くのです。激しい音の中に静寂を感じることができます。全て静寂で出来ていることが分かります。色(現象)が空(静寂)から湧いているのを感じます。そしてそこから静寂(空)に入っていきます、静寂そのもになっていきます、、最後に静寂だけになります。