仕事

自我を優しく見守る無我になる

自我の行動を観察する無我

自我はいつでもバカな行動を取り続けます、、、損にも得にもならないような行動を取り続けます、、、見てくれのために大借金をしてバッグを買う、、見栄のために高級マンションを買う、、、モテるために何百万円かけて整形をする、、、、これさえ手に入れれば幸福になるのでは????のために自我はエンドレスに動くのです。その行動をじっと観察する無我で居ます、、、全人類の自我の行動を観察する無我で居るようにします。この場所が平和、静寂、絶対幸福の場所です。

周囲では常に争いは絶えないが、、、

周囲では常に争いが絶えない、、、全く関係ありません、、、、自我の抗争を観察する無我でいます、、この場所が静寂の場所、、、そこに自分が出て行って、、、こうだ、、ああだは、、しなくていい、、してもしなくても無我の場所にいる以外に静寂はない、、、これが事実です。TVを見れば芸能人の不倫だ、スキャンダルだ、、が常に放送されていますが、、、これを自我の動きの観察にします、、、無我になって観察します、、、この場所が平和の場所です。

ところ変わって、、、

ところ変わって、、この体にも色々な問題らしきことが起きます、、、、病気になる、、お金が足りなくなる、、仕事が上手くいかない、、、これをただ観察します、、、ただそれが起きただけ、、そして何か行動を起こしたら失敗した、、、ですがそれもただ起きただけ、、、無我になって観察します、、、そこが平和、静寂、明晰の場所です、、、明晰がこの体を通じて行動を起こします、、これで問題が多くなるわけがないのです。

1000ブログを終えて、

これは書道

私は二年近くをかけて1000ブログを制作しました、、この活動は私にとって大きな試みで、、、悟り、真の静寂、真の平和とは何かを馴染ませる活動になりました、、自身の気づきを文章にすることで体に馴染ませていきます。ここまでのブログは覚者と呼ばれる人々のメッセージを読んで新しい気づきが起きた時にそれを文章化してきました、、、今は気づきが気づきを呼んでいる感覚です、、気づきのドミノが倒れている感覚、、それをこれからは文章化していこうと考えています。

悟りを人生のテーマにする

自我は悟りに対してふざけます、、悟りを人生の一番にしようとしません、、、もっと大切なことがあるだろう、、仕事、結婚、趣味、お金、名誉、、、悟り以上に大切なことがいっぱいあるだろう、、、と悟りを遠ざけます、、先ずこの事実を理解します、、、自我にとって悟りとは自我のお役御免ですから、、ここに抵抗しない自我はいないでしょう、、だからこそ悟りをトップに据える必要な時期があるのです。

夢から覚めると、、覚悟する

これは夢です、、、夢だと分かっていても覚めない夢です、、、夢だと分かった上でいったい何をこの夢の中で達成することがあるのでしょうか、、夢だと分かった時点で一番達成すべきことは夢から覚めることです、、、もしくは夢であることを自覚しながら、、、夢から覚める方法を模索していく他ありません。ただしこれが夢であるという気づきが起き始めますと、、この夢の面白さにも気づいてしまいます、、なんという完成度の高さ、なんという展開力、、深刻さが抜けた後のこの夢は面白くなっていきます。これがパラドックスです。

苦しいことにホッとする

思考との同一化に安心する

信じられないことに、、苦しいことに安心するという状況があります、、、思考と完全同一化した意識は、、、、苦しいという感覚に安心します、、、、色々問題が無くなったりすると逆に不安になる、、、何か問題があるのでは???と必死になって問題を探すのです。思考している=偽りの自分の存続ですから、、こうなります、、、何か問題があるのでは????です。

人間関係も揉めることに安心する

人間関係に関しても、、、揉めていることに自我は安心します、、揉めるということは強烈に自分を意識できますから実は安心しているのです、、敵が居て自分が際立つわけです、、、ですから無意識に敵に飢えているわけです、、相手が気になるような言葉をかけることで相手の自我を刺激し、、敵になってもらえるように無意識に促すわけです、、こうして思考の渦にどっぷりと浸かっていきます。

問題があることを無意識に求める

偽りの自己が実は問題をかき集めています、、、問題が全部無くなってしまったら、、自分の存在価値が無くなってしまう、、、問題があればその問題を所有するのがこの偽りの自己だからです。。仕事が上手くいきそうになれば、、問題が起きるように導く、、、、こうして偽りの自我、自己は常に問題が起きるように起きるように動くのです。

状況を問題に変え続ける天才

自我というのは状況を問題に変える天才なのです、、、、無ければ無理やり作ってでも問題化していきます、、この動きに自覚的になることです、、、自我は思考が湧いてくれないと、、、存在が危ぶまれるために、、問題に飢え続け、問題を生産し続けるのです、、、この動きに自覚的になるのです、、気づきの意識として自覚的になっていきます、、、

思考に飲み込まれない瞬間を求めて

何かを達成したいのは

何かを達成した瞬間、、思考が飛びます、思考が静かになります、、、この瞬間を求めて我々は日々朝から晩まで活動しています、、、思考がない時間を得るためならば何でもやります、、、状態です。。。だとしたら、、、最初から思考に飲み込まれなければいいのでは??そうです、、、最初から思考に飲み込まれない状態を作れてしまえば、、、、何も成し遂げなくてもいいではないか。。。

あまりに簡単過ぎて、、、

これはあまりに簡単過ぎるのです、、簡単すぎて、、気づけない、、、、思考という、、この文明の利器が実は人間を不幸のどん底に落とし込んでいるなど、、、気づけない、、、、意識というのは実は何にでもフォーカスできます、、目の前のコップ、景色、仕事、、、多くの人は思考にフォーカスしているのです、、、思考とはこの自分という偽りの自己にフォーカスしているということ、、、だから苦しいのです。

毎日思考を観察する

思考が湧いたらそこに自覚的になります、、思考が湧いたら、、その思考を気づきの意識として観察します。これによって思考に取り込まれなくなります、、思考していることに夢中になり過ぎて、、思考していることを忘れる状態がなくなります。何もしていなくても静寂に包まれる感覚を肌感覚で味わいます、何もしていないのに平和という状態を感じます。この状態が安定しますと何かをしなくては、、が消えます。何かをしなくても静寂に包まれているからです。

自分を極める

他の誰かを目指さない

思考はあらゆることを言ってきます、、あの仕事に就けたあいつが羨ましい、あの顔に生まれたあいつが羨ましい、あの身長に生まれたあいつが羨ましい、、、と、、、こうして他人を羨むという思考がエンドレスに流れてきます、、、ですが本当は自分を極めるのが最も最速最短で幸福になれます、、、、自分を極める????自分はこれ以上の自分にはなれなかいから困っているんだけど。。。もっと能力を高めるってこと??違います、、自分の存在を知るだけです。

自分の存在ならば嫌なほど知っている

自分の存在なんて嫌になる程知っていますが、、、、違います、、、その自分はこの体の中に居ることになっている自分ですよね、、、違うんです、、これは偽りの自分です、、、、実態のない自分のことです、、、私が今話している自分とは、、、私が居るというこの紛れもない感覚の自分のことです、、、はっきりと今意識がありますね、、、これぞ自分でしょう、、、これはもう絶対に間違いない存在です、、、、この絶対に存在する存在、、、この存在はどこに居るのでしょう???体の中ですか、、違います、、その証拠はないでしょう、、、この全体の存在は、、いまここ全部に居るのです。

思考が渦巻いている時、、、

思考が渦巻いている時、、、この絶対なる存在の意識が、、、思考の中に閉じ込められます、、思考のオンパレードに絶対なる存在の意識の焦点が注がれ続けます。絶対なる存在が絶対なる存在ではなく思考に取り込まれ続けます、、、これが苦しいを湧き出します。ただこれだけです、、、思考に取り込まれることが無くなると、、、絶対なる存在は絶対なる存在として起きる全てを観察します、、これが静寂です、苦しみからの解放です。

今に居れないから、、、時間を気にする

今に居ることが出来れば将来不安はない

今に居ることができれば、、、その時その時にその行為に埋没すればいいだけです、、、仕事に入り無我になる、、作業に入り無我になる、、、読書を通じ無我になる、、、なんでも気が向くことに入り無我になればいいのです。。ここは静寂の場所、平和な場所、至福の場所です、、、、誰にも邪魔されません、、、ここに入れない人が、、将来を過剰に心配するのです。

後悔も心配もしなくていい

後悔も心配も自由意志があると信じているからこそです、、、ですが自由意志はありません、、、将来を左右するような決断を自分の意思では一切できないのです。。。これが真実です、、、、だとしたら一体何を心配し悩むことができるのでしょうか????無理です。。。。心配も後悔もできなくなると自然と今に居ることができるようになります、、小さな子供が今に居れるのは、、心配できないからです。

現象として幻想として情報を集める

株のブローカーであれば、、、情報を集めるのは当然のことです、、、この際にはこれは現象、幻想であることを見抜いて集めればいいのです、、、情報という現象から株を精査し次に買うべき株を吟味していきます、、、ですがこのことと、、、静寂、至福、平和とは全く関係がありません、、、静寂、至福、平和は時間ではなく今にしかないのです、、、、ここを理解し、、、情報収集を通じて無我に入ります、、、もしくは株に関して思考が湧いてきてもそこを気づきの意識として観察し今に入るのです。

苦しいに「私」をくっつける

苦しいがただ起きる

痛いがただ起きます、、そこに「私」が痛いのだ、、、という思考が湧きます、、、こうやって人間ドラマが続きます、、、、暑いが起きます、、、そこに「自分」が暑いのだという思考感覚が湧きます、、、これでドラマが進んでいきます、、、、夜寝ている時の悪夢を思い出してみてください、、、ストレスフルな日常の時には悪夢をみやすい、、、そうすると、、その登場人物が辛いというドラマが展開しやすいのです、、、つまり湧いてくる感情に、、「私」をくっつけているだけなのです。

苦しいを苦しいで終わらせる

苦しいが湧いてきても、、、、なぜ私が苦しのだ???私を苦しみているのは誰だ???に持ち込まない、、これをやると、、、あいつのせいだ、、、こいつのせいだ、、、どうやって仕返しをしようか???になっていきます、、、、そうではなく、、、ただ「苦しい」が全体から湧いてるなーと観察します、、、、するとこの苦しいは消えていきます、、、そこに主体客体のドラマをくっつけないのです。主語としての「わたし」をくっつけないのです。

「私」が苦しいとは何事だ????

なんかモヤモヤする、、、、「私」をモヤモヤさせたのは誰だ????あいつだ、、、、どうしたらいいもんか???こうやって人間ドラマは喜怒哀楽劇場化していきます、、、、、モヤモヤする、、、、が全体から湧いてきたことを、、、に気づきます、、、そのモヤモヤは神羅万象のただの動きです、、、ここを理解します、、、「私」を無視します、、、、すると私が居なくなります。。。

被害者に甘んじるのではない

自分という機能として、、、、自分の目的を邪魔する存在を避けるのは何も問題ありません、、、、仕事の邪魔をする業者がいれば、、、避ける、攻撃する、、は当然やるべきです、、、、、重要なことはそこに感情をくっつけない、、、感情+自分という自分劇場に持ち込まないことです、、、機能としての「私」「自分」は淡々と機能を遂行していきます。そしてその動きも神羅万象の動きです。

なぜ自分を忘れることが出来る???

物事に集中する時、、自分を忘れる???

無我夢中になって仕事に取り組む、、、無我夢中になって時間を忘れて友達とお喋りを、、、、自分を忘れている時間って意外にあります、、、自分を忘れる????そんなことがなぜできるのでしょうか???車に乗っている際に、、、車を忘れて、、、右に曲がる、、、車を忘れて左に曲がり・、、車を忘れて自分だけブレーキを、、、できません、、、、車が存在するから車を忘れた行動などできない、、、、自分を忘れてお喋り、仕事ができるのは、、、自分が居ないからです。

私は〇〇です。

私は国会議員です、、私は東大卒です、、、私は父親です、、、私は会社員です。。。。全部肩書きです、、、それは名詞です、、、、自分を直接的に証明するものでは全くありません。。。自分とは実態がないものなのです、実態があるならば、、、データで出せるはずです。。。ない、、、そうです。。。自分とはどこまでいっても架空の存在なのです。

さあ、、、本当の自分を思い出す

自分が居ないならば、、、、この間違いなくある、、、在るという感覚は何だ??間違いなく存在する、、、この感覚は何だ????そうです、、、、存在そのものが在るのです、、、間違いなく、、、間違いないからこそ、、、この体に上手に取り込まれました、、、この体の中に存在が居るという錯覚が起きたのです、存在から。自分は居ないが、、、確実に在るという存在が在る、です。そしてこの存在の中で全てはただ起きています。在るという中で。

大御所が不幸に見えてくるのは???

大御所芸人、大御所歌手、、、これらが不幸に見えるのはなぜ???

才能をフル発揮して生きてきた人々、、大御所芸人や大御所歌手がしかし不幸に見えてしまうのはなぜでしょうか?????彼らは頑張ってきた、、努力してきた、、、、一心不乱に、、、仕事に打ち込み、、、そして圧倒的成果を獲得した、、、、、にも関わらず周囲からは腫れ物に触るように扱われる、、、なぜ????

周囲への判断が始まる、、、、

結果を出してきた社長、、、結果を出してきたスポーツ選手、、、みんな周囲の判断を始めます、、、俺はこれだけやった、、、お前はどうだ????と。。。。これぞ自我の延命戦略、、、、自分を全肯定できても周囲はできないだろ???です。。。周囲との関係の中で自我は延命措置を図るのです。。。。残念!!!!周囲の動きの全て、、、周囲の言葉の全ては、、、、神羅万象の動きです、、、、ただそれだけ、、、完璧な神羅万象の動きがあるのみです。否定できる存在など居るわけがないのです。

この自分の言動も神羅万象の動きでしかなかった

この自分の言動すらも、、、実は神羅万象の現れでしかなかった、、、、これだけの努力、苦労、、全部、、神羅万象の現れ、、、、え?????じゃあ自分が成し遂げたというのは勘違い????そうです、。大勘違いです・・・・・。高らかに周囲に振りかざしてきたこの功績は自分の功績ではないのか????その通りです。

このことが絶対肯定

自分の言動も他人の言動も全て、、、、神羅万象の現れであるならば、、、全肯定するしかない、、、批判すべき周囲も批判する自分も、、、もう居ない、、、、、だって全部神羅万象の現れだから、、、、全部神羅万象の現れならば、、、もう自分なんて存在意味ないですよね????ある意味そうです、、、、自分と他人との差なんてないのです、、、神羅万象には。神羅万象をもしも引き裂くことが出来るならば、、、それは大脳の中だけです、、、

絶対肯定

全部を肯定していく

今までなぜ自分を出して来なかったのだろうか???違います、、ただそれが起きただけです、、、今までなぜあの仕事をやらなかったのだろうか???違います、、ただそれが起きました、、、、なぜ????なぜ????なぜというのは自由意志がある人の考え方です、、、自由意志はありません、、、つまり起きたことはtだ起きたのです、、、完璧に、、、、過去の人生全てを肯定すると、、、、、自分の中に否定が無くなります、、、すると見える世界に否定が無くなります、、、、

周囲の人間を否定しなくなる

なぜこの人はこんな格好を、、なぜこの人はこんな仕事に、、、なぜこの人はいつも怒っているの?????これらの疑問が全く出てこなくなります、、、、、なぜならばそれがただ起こっているからです、、、、あらゆる因果応報、うん億年間の因果応報の結果としてそこにただ現象が起きたのです、、、そこを判断するのは無意味です。すると否定が全くできない、、周囲に否定を作れない、、、自分の中に否定が作れない、、、この自分の存在も人生も否定できない、、、、

ジャックナイフのように生きて、、、

若者は尖っています、、、ジャックナイフのように、、、自分を否定し、周囲を否定し、、、、自分をそれでも守っていく、、、、究極の否定、、、ですが、、これはこの体の生存戦略です、、、誰も信用しない、、、これも一種の生存戦略です、、、、ですが非常に苦しい、、、、ここから全肯定にシフトしていきます、、、先ずは自身の才能を、言動を、、、、そして周囲の存在を、、、、世の中には自由意志は一切なく、、、全部が神羅万象からの起こり、、、それを否定することはできません。世界が完全統合されます、、、自分が完全統合されます、、自分と世界に境目が無くなります、、、そこに気づく空の存在、万物の動き(色)、、、空と色が統合されます。