苦しいに「私」をくっつける

苦しいがただ起きる

痛いがただ起きます、、そこに「私」が痛いのだ、、、という思考が湧きます、、、こうやって人間ドラマが続きます、、、、暑いが起きます、、、そこに「自分」が暑いのだという思考感覚が湧きます、、、これでドラマが進んでいきます、、、、夜寝ている時の悪夢を思い出してみてください、、、ストレスフルな日常の時には悪夢をみやすい、、、そうすると、、その登場人物が辛いというドラマが展開しやすいのです、、、つまり湧いてくる感情に、、「私」をくっつけているだけなのです。

苦しいを苦しいで終わらせる

苦しいが湧いてきても、、、、なぜ私が苦しのだ???私を苦しみているのは誰だ???に持ち込まない、、これをやると、、、あいつのせいだ、、、こいつのせいだ、、、どうやって仕返しをしようか???になっていきます、、、、そうではなく、、、ただ「苦しい」が全体から湧いてるなーと観察します、、、、するとこの苦しいは消えていきます、、、そこに主体客体のドラマをくっつけないのです。主語としての「わたし」をくっつけないのです。

「私」が苦しいとは何事だ????

なんかモヤモヤする、、、、「私」をモヤモヤさせたのは誰だ????あいつだ、、、、どうしたらいいもんか???こうやって人間ドラマは喜怒哀楽劇場化していきます、、、、、モヤモヤする、、、、が全体から湧いてきたことを、、、に気づきます、、、そのモヤモヤは神羅万象のただの動きです、、、ここを理解します、、、「私」を無視します、、、、すると私が居なくなります。。。

被害者に甘んじるのではない

自分という機能として、、、、自分の目的を邪魔する存在を避けるのは何も問題ありません、、、、仕事の邪魔をする業者がいれば、、、避ける、攻撃する、、は当然やるべきです、、、、、重要なことはそこに感情をくっつけない、、、感情+自分という自分劇場に持ち込まないことです、、、機能としての「私」「自分」は淡々と機能を遂行していきます。そしてその動きも神羅万象の動きです。

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