ワンネス

トラブルから悟りに入る

トラブルすらも無心に戻るキッカケにする

日常生活では多くの方はトラブルに巻き込まれます。そしてトラブルに巻き込まれる度に思考フルロットルモードに切り替わり悲鳴します。思考フルスロットルモードは自我モード、夢の中にどっぷり浸かり時間、空間次元に埋没します。ですがこれからはトラブルを利用して無心モードに切り替えていきます。トラブルがあることでルーティーンの行動に戻し無心に入っていくのです。トラブルすらもルーティン、無心、無我モードへの入り口にします。

トラブルがあった時には一度無心モードに入り安堵に戻す

トラブルがあるとそこから人は思考がグルグルになり、思考を止めることができなくなります。ですがここでもその負のスパイラルに入ることなく強制的に先ずはルーティンに戻ります。ルーティンは無心でできること、無我でできること、歓喜、安堵、平和への瞬間シフトです。そしてそこから思考を使いトラブルを解決していきます。

常に無我にあればトラブルを明晰な思考で処理できる

常にルーティン、無心、無我にあることができている人であれば思考を明晰にトラブル解決に向けることで一瞬でトラブルを解決できます。むしろトラブルが楽しいと思える程です。トラブルが楽しいと思えるほどにエネルギーで体が充実しているということです。そこまできていればトラブル即思考で解決ができます。そしてそのトラブル解決が時間を要する場合に関してはその行動をルーティンに入れ、無心に入り、無我に入り、そこから悟り、ワンネスに入っていきます。

思考モードの人の行動は予想がつかない、無心モードの人の行動は予想がつく

思考モード全開の人は常に反応を繰り返している

思考モード全開、自我モード全開の人の習慣は反応に次ぐ反応のみです。何かしらに反応をし続けているのが思考モード、自我モードです。毎日朝起きたら何をするかが全く決まっていません、その時その時に反応し続けているだけなのでやたらと忙しく見えます。そしてやたらと顔が疲れています。感情の起伏が激しくなり、思考の起伏も激しいという共通点があります。

無心モード全開の人は常に同じことをしている

無心モードの人の特徴は同じ所作、作業をくりかえしているという点です。無心モードに入ったらその行動を続けることが一番の歓喜、平和、安堵ですから自ら進んで他の行動に切り替えるなど基本しないのです。そして飽きたら違う行動をとり、そしてまた元に戻っていきます。外から見ていると3パターンぐらいの行動をひたすらに取り続けているように見えます。所作に入り込むことが重要であり1日にいかに多くの雑事をこなすかには興味が湧きません。

思考モード全開は夢に埋没している

無我モード、無心モードは現実にいないような印象がありこのモードは夢の中にいるかのように思えますが実は真逆です。無我無心モードこそがこの夢物語から一瞬抜けた状態なのです。夢物語にいないということはどこにいるのか?それは全存在、空、ワンネス、大いなる一つです。そして思考全開、自我全開の状態こそが夢物語どっぷりになるのです。いかに長い時間を自我による勘違いした状態から脱却できるかがこの夢物語を軽々と生きていけるかになります。

体は今にしか存在できない、だから無我に入るには体が有効

過去を振り返る思考はあっても、体を過去に連れていくことはできない

思考は未来を憂い、過去を悔やむことができます。時間の世界にどっぷり浸かることができますが身体は未来にも過去にも連れていくことができません。身体は今にしかいないということになります。今というのは実は時間軸から離れることを意味します。過去と未来の間にあるのが現在だと多くの方は考えますが現在は同じ軸にはありません。今は時間の中から脱した状態なのです。身体は今にしかいられませんから体の感覚に入り込むとは時空を脱すること、ワンネス、全存在、海になることなのです。

体の感覚に集中している間今にあり続ける、つまり時間から離れ続ける

体の感覚に集中している時、未来、過去にいることはできません。今にしか存在できないのが体ですから今に居ることができます。この今は時間ではありません、時間とは脳が記憶した今の記憶です。今は脳の記憶ではなく今です。時間から脱出できるのです、時間から脱出できれば空間からも脱出できます。時間と空間から脱出した状態、それが海、全存在、ワンネスです。体の感覚に意識を向けるとそのまま海、全存在、ワンネスになります。それは至福、完璧、安堵です。

達人レベルの職人さんが神々しく見えるのは必然

感覚を研ぎ澄まして作品を制作し続ける職人さんの動きが神々しく見えるのは必要です。感覚を研ぎ澄ましている時に自我が入り込む余地がありません。思考が停止しているからです。この時人は人の形をした全存在に変わります。人間の形をしたワンネス、神、大いなる一つに変わります。大いなる一つが人間活動をしている状態になります。自分が今物を作っているという感覚が抜け落ちます。この時職人さんは至福そのものであり、愛そのものであり、平和そのものになります。至福、平和、愛を所有する人間がそこにはいません。

身体で感じると思考は共存できない

書道や茶道は究極のワンネス体験

人間が体全身を使って何かを感じる時、思考はそこに入り込むことはできません。お茶を飲む、食事をする、筆を走らせる、、スポーツをする、、、身体で感じきている時思考は外にいます。思考が存在していないということは「自分はこの心身である」という自我も欠落しています。この時人は無我になっています。無我だけがあります。至高、完璧、平和だけがあります。膝が壊れても走ることを辞められない、、これは走ることで無我を体験している証拠です。

思考ではなく感じることを優先してみる

サバイバルするために人は思考をやたらと使いたがりますが、思考を使えば使うほどに自我が強化されて不足感、欠乏感はより湧き出してきます。そうではなく感じることを優先する、身体で感じることを優先していきますとそのまま無我に入れます。究極の至福、安心、安堵、歓喜が現れます。スポーツをするとストレス発散になるのは体が感じることを意図的に行うことで思考を排除し無我に入っている証拠です。この感覚を日常生活に応用させていきます。

所作に入り込む時自分は存在できない

書道や茶道など所作に入り込む時、思考は完全に停止していますから同時にこの心身は自分だという自我の動きも停止しています。するとその所作を行なっているのは人間ではなく全存在ということになります。体で感じて所作を行い始めた瞬間、そこに自我はいませんから全体がそれを行なっているのです。思考を使わずに感覚でこれを行うということは全体を引き起こすテクニックです。波が書道に入り込む時に自分を波と思い込む自我ありません。周囲から見れば波が書道を行なっているように見えているだけで波に見える海が書道を行なっています。

海であることを忘れた波は死ぬ前に「もっと色々やっておけば良かった」と言う

波は全知全能、完璧に憧れるが、、、海は無知無能、不完全に憧れてこの世を作った

全知全能、完璧な存在である海がなぜ海であることを忘れた波を作り出した(自我)かと言えば無知無能、不完全を体験するために決まっています。全知全能の海がなぜ波としても全知全能を体験するのか、この波は無知無能を体験するための道具であり、ゆえのこの道具は全知全能を憧れはするが絶対にそうなれません。海が作ったこの世界、現象界は無知無能な波体験をするためのステージです。だからこそ上手くいかないのが当たり前、最初から全て上手くいくならこの現象界の価値はありません。

大失敗最高、不安、飢餓最高、、、これが海の本音

全知全能の海がわざわざ無知無能体験を積むために波を作り出したのですから波体験は失敗続き、七転八倒続き、苦多くして楽なし、、これが基本です。そのような失敗続きの中で波が無心になって物事に取り組めるようになった時に結果はともかくとして集中できること、無心に慣れるその状態こそが至福であることにある時気づきます。大失敗したにも関わらず心が完璧に晴れた状態、無垢の状態があることに気づくのです。無心になって真剣に取り組んでおる時に思考が抜け落ち神を味わいます。この時人間はこの見えるだけの存在ではないことに本質が気づきます。と言うよりも本質になり切ることで本質に戻ります。これが小さな悟りです。

物事の結果に拘っても波は常に飽きる、そうではなく結果に執着することで波が海になればいい

波を波たらしめているのはこれが自分だという思考です。この思考が抜け落ちたちきそこには波と海の境界線はありませんから海しかありません。海=至福、完璧、安泰、歓喜です。人間は思考が抜け落ちればいつでも全存在、ワンネス、神になるのです。ではどうやって思考を抜け落とすのか?それは真剣に物事に打ち込めばいいのです。全てにおいて無心になってことに当たればいいのです。結果に拘ろうと、結果に拘らなくても無心になることに集中すればいいのです。その瞬間思考が抜け落ち、これが自分という思考も抜け落ち、波は海になり、人間は全存在、神、ワンネスになります。

海であることを忘れた波は何者かになりたがる

自我は何者かになりたがる

海であることを忘れた波は何者かになりたがります。波は自身を不完全なものであると感じますから自身よりも完璧に見える何かになりたがるのです。例えばサッカーをする少年はメッシになりたがります。もしもその少年がそのままで完璧だと感じていればメッシを目指すことはないでしょうが自分を分離した独立した人間であると錯覚すればそこには不足感、分離感、不完全感が湧いてきて何者かになろうとします。

完璧に見える何者かは実は完璧ではない

海であることを忘れた波が生きている世界において完璧な存在は一つもありません。それはその世界自体が幻想の世界、ストーリーの世界、分離の世界だからです。その世界の中に完璧性を見つけるのは不可能なのです。ですから何者かになろうとする努力は全て無駄に終わります。仮に何者かになれたと感じても虚無感、不足感、飢餓感が抜けることは絶対にありません。ですがその何者かを目指す道中において無心に入り、無我に入ることができるのならばそこで安堵、安心、平和そのものになることができます。何者かになる前に広大無辺の海、全存在、ワンネスになることができます。そこに準備、プロセスは不要です。

波物語、現象界は完璧に入るための舞台

このストーリー、波物語で完璧(海)になることはできません。これは幻想の世界、分離の世界、夢です。これが夢であることを見抜くことでしか実は完璧(海)になることはできないのです。ですが何かに没入する、無心になることで完璧を一瞥することはできます。自分が波であることを忘れるぐらいに何かに無心(海)になることで完璧に触れることができます。完璧はどこか遠くにあるものではなく今この瞬間にそこに至れることを知れます。そしてこの感覚を一度でも知った波はそこから後退することはありません。

既知(波物語)の中から未知(海)は発見できない

私たちが思考を使う時、それは波としての記憶からなる

なぜ思考で海を見つけることができないか、なぜマインドで全存在、ワンネスを発見することができなか、、それはその思考、マインドは海ではなく波として蓄積した記憶をベースに構築されるからです。そもそもが勘違いの初期設定の中で育まれた経験、記憶をベースに沸き起こった思考、マインドで真我を発見することはできません。自我は真我を発見できないのは自我そのものが勘違い、錯覚でありその存在が真我を発見できないのは当然です。既知の中から未知を発見できないとは自我が真我を発見できないと同意です。

心はなぜいつも間違えるのか

心が真我、真理、海、ワンネスを絶対に見つけることができないのは心とは波の記憶からなりその記憶は勘違いの集積だからです。勘違いの集積から生まれた感情、思考が真理を発見できるはずがありません。故に心は常に不安、不快、恐れ、不足に満ちそれゆえ常に新しい経験、安堵を探し続けることになりますが結果見つけることはできません。見つけようとするのは海で在ることを忘れた波であり分離した自我だからです。勘違いした存在(涙、自我)のままで真実を発見することはできないのです。故に人間は至福には至れないということになります。

思考はなぜいつも間違えるのか

思考は真理、真我、ワンネス、全存在を見つけることはできません。それは思考とは波であり、分離した自我であり、分離している勘違いしている人間の記憶をベースに沸き起こるからです。波物語、人間物語の中では真我は発見できません。真我とはこういうものだよ、ワンネスとはこういうものだよと聞いてもそれを思考は波物語人間物語の中で発見しようとしますがそこには真我はありません。真我とは夢から覚めた時に出現するものだからです。夢の外に存在するものを夢の中で探してもそこにはありません。

無心になって取り組んでいたら時間があっという間に経っていた

無心=全存在=時間はなくなる

無心になって物事に取り組んでいたらいつの間にか2時間以上経っていた、、これは何が起こったか?それは無心になることで自我が消えてなくなりその瞬間に全存在になっていた、結果時間がなくなったということです。無我夢中になっていると時間が経つことを忘れると言いますがこれは間違い、時間がなくなったのです。海、全存在には時間がありません、時間があるのは分離意識の世界、海ではなく波、全存在ではなく分離した人間の状態の時です。分離するとそこには空間、距離が生まれます、すると空間から空間まで移動するために時間が生まれます。ですがこれは海の世界、全存在の世界では空間、時間はありません。移動がないからです。

やりたくないことを嫌々やっていると時間が経つのが異常に長い

やりたくないことを嫌々やっている時、時間が経つのが異常に長く感じた経験はないでしょうか。これも当然のこと、思考全開、感情全開、自我全開の世界は無我、ワンネス、全存在であることを最も忘れている状態、、これは不足感、欠乏感、飢餓感全開の状態なのです。究極の時間、空間の世界が広がります。

何かを成し遂げた達人がエゴまみれ、自我まみれに陥るケース

有名ミュージシャンである小室哲哉さんが借金を重ね最終的には詐欺で捕まった事件がありました。あれだけでの音楽家ですから音楽の制作過程においては無心になって無我夢中になってつまり究極の至高状態で作品を制作し続けたはずです。何よりも音楽活動自体を楽しめ活動に専念すればするほどに無欲なっていくはずなのに彼の場合は結果逆の状態にお金を湯水のように使いさらに借金、詐欺と無限地獄に陥りました。これを自我・無我理論で説明すれば簡単、無我夢中、無心で作った音楽活動で得た成果を自我が悪用した結果になります。莫大な収入、地位、名誉を自我が不足感解消に使い続けたわけです、ですがこの自我の不足感が解消することは絶対にありません、つまりどこまでも使い切り最後は無限地獄に陥りました。彼は音楽活動以外の活動時は自我全開、不足感全開状態になってしまったということです。音楽活動で得たはずであろう無心の境地、無我の境地をその他の生活に応用できず、圧倒的に分離した人間活動に利用されてしまったことになります。

自身が海であることを忘れた波は問題点を探す

自身のことを波と捉えれば世界は問題だらけになる

問題など全くない、悩みも何もない、課題も何もない、、という人間がいたら嘘つきと思ってください。もしくは自身の問題を見てみないふりをしている人です。自分が海であることを忘れた波(人間)は不足感にさらされているのが構造的に当たり前なのでこれを無視することはできません。自身を世界と分離している人間と認識している時点で基本構造として不足感が生まれてきます、この得体のしれない不足感を人は世界の問題点として置き換えるのです。例えば付き合っているパートナーの問題点、会社の問題点、結婚相手の問題点、住居の問題点、経済の問題点、収入の問題点として必ずそこから問題点を見つけてきます。そしてそれが解決したらまた必ず次の問題点を探し出すのです、それは自身が人間であるというこの錯覚、誤解が作り出す必然のメカニズムです。

自身のことを波と捉えれば職場は問題だらけになる

多くの方にとって会社はストレスの場所です。上司、部下、給料、勤務時間、残業、会社の将来性、、、全てが問題化します。自分を全存在から分離した人間であると認識した瞬間から不足感が生まれだしこの不足感は会社への不満へとシフトするのです。会社勤めは非常に楽しいと断言できる人がいればそれは仕事を無我夢中になれる道具に使えている人です。仕事を通じて、人間関係を通じて無我夢中に没入し自我を忘れることができる人です。どこに居てもどんな場所でもそこから悟りに入りなさい、と言うマスターがいますがまさにそうその行為に没入する、集中してしまうことで逆にそこから無我に入ることで自身を海、存在に変えてしまう以外に不足感を解除する方法はありません。

仕事の向き不向き、好き嫌いが実は全くどうでもいい理由

本当のことを言えば海であることを忘れてしまった波や、自身を全体から分離してしまった人間と捉えている人にとって仕事の向き不向き、好き嫌いは実はどうでもいい問題なのです。基本不足感の塊ですからその不足感はいついかなる場所でも不満に置き換わりその人を襲うのです。ですからこれからいかにそこに没入するか、無心になって取り組むかに焦点を絞ってみましょう。無心になって取り組めばその時は自我が引っ込みますから即無我、ワンネス、全存在になれます。そこは至高、安堵、歓喜です。勘違いしてはいけないのは波、人間が至高、安堵、歓喜を感じるのではなく分離した波、分離した人間が居なくなることで(無心)至高、安堵、歓喜そのものになるということです。無我、全存在、ワンネス=至高、安堵、歓喜であって、、、人間、波が至高、安堵、歓喜を味わうのではないということを重ねて伝えておきます。

自身が海だったと気づいた時に生まれてきた時はそうだったと気づく

海だった時を忘れているだけ

自身を海ではなく波だと勘違いし続けていてもいずれは自身が海であることを再認識する時は訪れます。本当は海であるわけだから勘違いし続ける方が無理があるのです。もちろんこの勘違い自体を海が行なっているわけですから無理がないと言えばないのですが。どちらにしてもこの大いなるジョークが解けた時に海に戻るわけです、海が海に戻るわけですからそれは感動であると同時に当たり前の感覚に戻ると言うことになります。

海上の波と同様に止まれば波は消えてしまう

波が自身を海であると再認識するために物理的に行うべきことがあるとしたら止まることです。波は止まってしまえば海に戻ります。これは人間も同じで止まってしまえば大いなる一つに戻ります、人間が止まるのは何を止めるのか、それが思考です。思考を止めるとそこには海が広がっています。思考、行動を止めた時に広がる世界それは海、大いなる一つ、存在です。

人間がこの幻想ゲームの中で動き続ける理由

人間がこの幻想ゲームの中で日々慌ただしく動き続ける理由は、このゲームに留まり続けるためです。止まってしまったら波が海に戻るように、人間もワンネス、存在に戻ります。思考を使い続けなければ人間は存在に戻ります。無我で居続ければ自我は無我に戻ります、無我が自我を解体します。自我は自我を存続し続けるために次から次へと思考を必要する行動を取り続けるのです。波が波であり続けるためには動き続け、人間も自我が自我であり続けるために思考し続けます。