ドラマ

夢は次々に関心に吸い込まれる

就寝中夢の中で

就寝中夢の中で次々に関心に吸い込まれていく経験を皆しているはずです。最初は幼少期の自分をやっていると思ったら突然会社員時代の自分に、そして次は社長時代の自分、、、と時間が常にタイムスリップされて展開が読めません。あえて読めると言えば、、関心に向かっていくことだけ。関心が遊びに向けば幼少期に、関心が受験に向けば受験時代、関心が結婚に向かえば結婚期間に、、と次から次へのタイムスリップします。この現実世界はそのようには行かないのですが、、関心が向く方向で情報が集まり始めそこでドラマが転換していきます。お金に全く興味がないにも関わらずギャンブルの知識が増えていくこともなければギャンブラーになることをない。

夢(現象)の役割とは?

この現実という夢は、、自身の関心に対して情報が集まりドラマが展開するメカニズムです。そして自身の観念が投影されたドラマ展開をしていきます。お金を持つと必ず不運に見舞われる、、このような観念を持っていると、、そのような展開になっていく、、それがこの現実と呼ばれる夢です。で???この夢ってなんおためにあるんでしょうか????この夢は無限(絶対、空)から作り出された夢ですから無限の体験をするための場所です。無限(絶対、空)の投影、影は無限の体験が起こり続けるのです。その中では私という主人公も当たり前に生み出され私ストーリーも起こります。ですがこれは観念であって真実ではないので、、苦しい、違和感も起こるのです。

楽しくなきゃ人生じゃない

そう強く信じる人の人生は楽しくなる可能性は高いでしょう、ですが楽しいに関心が強すぎるとそこに振り回される人生に同時になっていきます。そしてどんなに楽しい人生でもどこかで孤独感、不足感、違和感を感じるのです。。それがこの夢の宿命です、、夢の中でのキャラ確立とは全て幻想、思考、嘘です。真我(あえて言えば)が嘘の中にいて至福はないのです。ですからどんな観念に沿って生きても観念の外に出ないと至福はないことに気づく以外にないのです。

普通の日常

普通の日常がいかに奇跡なのか

朝起きたときに、、普通に太陽の光が燦々と輝きます。これって別に当たり前のこと、太陽があって地球があって、、、こう個人は思うわけです。ですが太陽が輝いているというこの映像、、この映像を作り出すためには、、何も輝いていない光が必要になります、その上に太陽の光が重なることでそれに気づくが起こるのです。この何も輝いていない光こそが私の本質です。

友人と会話ができること

会話をするためには音に気づかなくてはいけません、、この音に気づくということを可能にするには音の下に静寂がないといけないのです、、常に静寂が下にあるからこそ、、、音に気づき続けるということが起こるのです。静寂の存在なしに音に気づき続けることは不可能なのです。

自分が居るという誤解を作る

我々が自我を維持し続けるためには自分が居るという思考を保持し続ける必要があるのですがそのためには思考に気づき続ける必要があります。そのためには無思考という状態が元になければならないのです。これが我々の本質なのです。我々はいかなる時でも本質ではない時はなにのです、、本質が本質であり続けるからこそ、、この人間ドラマも成り立つのです。勿論この人間ドラマは苦しいわけです、、その苦しみに気付けるのは、、至福が根底にあり、、我々の本質が至福だからこそ気付けるのです。

明晰夢

夢だと分かって夢が続く

たまにありますよね、、夢の際中にこれって夢かも????と気づきが起きる時。これって自然で何がきっかけかは分からない、、、何故かわからないけど、、、、突然この気づきがおきるのです。この気づきの特徴、、この気づきは夢の中の「私」には起きない、、、私は一切関係ない、、、突然何者かが、、、これって夢かも、、って気づくんです。私の奥にある誰かが。

この現実世界も、、

この現実世界も全く同じ、、、、この私がこれがファンタジーって気づくわけではないんです。。突然私の奥にある何かが、、これって幻想だよね!!!となります。主人公である「私」ではないんです、、、、私が気づくと思い込んでいたら、、、恐らくこの気づきは起きない。夢から覚めるのは私ではなく、、奥にある何かです。

明晰夢では、、

明晰夢では、、、これって夢かもという思いが湧いた後も夢が続きます、、、主人公は相変わらずにトラブルに巻き込まれていきます、、、ですがですが、、、かつてよりも感情移入できない、、、どこかで冷めてる、、、どうせ夢だし???、、、、そしてそのドラマがある程度続いたあと、、、目が覚めます。解放も同じ、、私の奥の何かが、、、これって夢じゃね???と突然気づくのです。

雲の動き(犬と猿)の戦いの勝負に意味はあるのか?

全く無い

ある雲の形状が犬に似ているから犬と名付け、ある形状が猿に似ているから猿と名付けました。やがてその二つの雲の動きがぶつかりあい結果猿の形状が残り、犬の形状は消滅した。ドラマで言えば猿の勝利、犬の敗北です。すると猿の自我からは喜びの感情が湧き出る、犬の自我からは悲しみの感情が溢れる、この戦いに意味はあるのでしょうか??このドラマに意味はあるのでしょうか???真実ベースとしては全部嘘です。ですがストーリーとしてはあらゆる感情が起き上がりそれは事実です。その感情には一切嘘はないのです。

どっちが本当なのか???

真実をベースにすればただ雲の動きがあるだけ、、時間もない、、何もない、、です。ですがドラマで言えば犬猿の戦いがあり感情が揺れ動きます。ドラマとしては100%時間も空間も感情もあるのです。ですが本当は何も起きていないのです。解放とはまさにこのこと、、何も起きていなかった、、そして何も起きていなかったという思考すら起きない、、なぜならばそれが起きる自我が真実では存在していないから。ただ犬が消え、猿が消え、感情が起きないだけ。

それでも雲は動き続ける

それでも雲は動き続けます、勝ち残った猿の動きはそれからも続くのです。ですがこれまでのように犬に勝った、猫に勝った、ネズミに勝った、、という感情は起き得ない、、、真実ベースですから。ただ雲の動きを観察し雲の動きを感じるだけ。吾輩は猿である、吾輩は犬である、、はもうない。猿に見える雲の動き、犬に見える雲の動き、、、という気づきが続くだけです。これは面白いのか???これに感動はあるのか???今までのような感情は湧かないけれど至福が続きます。

世の中の感動ドラマって結局何なんだ?

ハッピードラマを目指す

世の中って七転八倒、右往左往、喜怒哀楽、様々なドラマを歩みそれに感動するストーリーが多いものです。ですがこれって結局悟りの観点からしたら意味ないんでは????となります。そうです意味はないんです。この世界は無限の表現の場所でしかなく、、これがいい、、これが悪いっていう特定の解釈は真実とは何も関係がないのです。真実には解釈はありません、真実とはたった一つのエネルギー。です。たった一つのエネルギーが変化するだけです、そこに意味を付けるのは自我ストーリーの話です。

プールに浮かぶボール群に名前を付けて遊ぶ

幼少期プールの上に多くのボールを投げて遊んだりしました、そのボールが集まって魚の形をしたり、犬の形をしたり、蛇の形をしたりして子供は喜びます、魚が居る、犬が居る、蛇が居る!!と子供は喜ぶわけです。ですがこれらの動物は数秒ごとに形を変えていきます、、、もしかしたら魚と犬がくっ付いて合わさって、、、これにドラマをつけるならば魚と犬が衝突して魚が消えちゃったとなります。ですが実際にはそもそも魚を犬も実在しないのです。

我々はこの現実世界でそれをやっている

我々はまさにこの現実世界でそれをやっています、ある特定の動きに対し犬、猫、魚、花、、、と名前を付けはしますが実はそれは実在ではなく、、ただ見える輪郭に名前をつけているだけなのです。そしてまさかの人間も同様です。つまり本当は何もかも実在ではないのです。輪郭に名前をつけてそれが動くからドラマが始まったように見ているだけです。だからこそ世界は私の思うようにはいかない、、となるのです。

苦しみからの解放

この世界の苦しみとは無いものをあると信じて、、そのドラマに入り込み、、思うようにいかないと嘆くことです。ないものをあると思い込むことで、苦しい、違和感を覚え悩んでいるのです。本当はこの世界には何もなく、、生命の動きだけがあるのです。それが理解できると、、、こう生きねばならぬ、これが我が人生、、とかどうでもよくなるのです。その時本当の解放が起きます。

霊的進化もどうでもいい

それはストレス

進化しなくては進化しなくては、向上しなくては向上しなくては、、、これらは実は全く自由からかけ離れています。全くもって楽しくない、ストレスでしかない。向上した方が良いって誰が決めたんでしょうか????誰も決めていませんよね、、そんな独特ルール無限の存在の表現、あるがままの表現に一切ありません。本当はただあるがままの表現があるだけ、その中で向上しようが湧いてきただけです。

重要なこと、それは楽になること(解放)

とはいえ解放を目的に生きれば今度はそれが素晴らしいことという概念を作ってしまいます、ですからそれを目的にしてはいけない、、そうではなく、、ただ気づきを得ること、そしてそうなったら楽になれるかもと俯瞰すること。そしてそれまでの道のりも完全に意図した生き方はできず完全自動運転であることを悟ることです。自我の動きに振り回されて十分にこれまで苦しんできたのですからこれからは苦しまないで生きていくだけです。

自我を主語にしないこと

軽々しく扱われた、、私をこんな扱いするなんて!!!と自我を主語にしたストーリーを辞めるのです。ただそれが自然現象として起きました、そしてこの体の中のは自我、自分は存在しません。にも関わらず怒るのはおかしい、、です。本来だったら怒るのでしょうが、、自我自分私がこの体の中に居ないことを分かっているので冷静に対処します。

被害者になっても受け入れろ、ではない

お金を払ったのにサービスが出てこない、、もしかしたらこの体(私)が軽く扱われたのは事実かもしれない。ですが残念ながらこの体の中には私は居ないので軽く扱われることはできない、ただ事務的にサービスをお願いするだけです。相手は嫌な気持ちにさせるためにそうしたかもしれない、ですが相手の体の中には自我は存在しないのです、、ただの自然現象です。だからハードドラマになり得ないのです。

分かった

誰も彼もいない

全部が全部自動反応ということは、、、自己というものが完全に皆無な状態でただ何かが起き続けています、、、ただの反応ですからそこには何の意味もなく、、、海の中で何かドラマがあるように見えているだけ、、、魚が海藻を食べ、、その魚を大魚が食べ、、その大魚をアザラシが食べ、、、があったとしても本当はそこには名前はありませんから、、、そう見えているだけ、、、自己という存在無しに完全に動きがあるだけです、、そして厳密には動くというよりも、、、変化があるだけ、、、だから時間も全く存在しません。

自己という活動が起きている

自己意識という活動だけがあり、、、それ以外は何もありません、、、本当は強い意識という実在はありませんからそのような活動が幻想として起きます、、、真実は、、、ただ変化があるだけです、、、そして経験と、、、自己意志というのは本来一緒にはできませんから、、、、ただ感じる感覚だけが起こり続け、、ただ自分がいるという思考が起こり続けます、、、本当にこれだけが起きています。

私が居るという思考が起き続ける

何かを食べている時に、、、自分という存在を感じることはできません、、舌がスープに触れた瞬間、、味覚が広がります、、この時点では自分は居ない、、その後「私が食べた」という思考が湧く、、、ただそれだけ、、、本当は感じるという経験しか起きていない、、、この体は感じるマシーン、、そしてこの体は確実に幻想です、、、この体という幻想が、、、ただ感じるを起こし続ける、、、本当にそれだけです。

でも幸せ

自分が居ないならば、、、幸せになれないのでは???虚しいのでは?????大間違いです、、、自分が居るから虚しいのです、、、自分が居ないにも関わらず「居る」と思うから、虚構が生まれ、、、虚しい世界が誕生します。我々人類は言葉を発明したことで、、、想像という行為を覚え、、、想像=虚構を作り出したのです、、この世界の住人である虚構が生まれ、、、虚の世界、、、虚しい世界に住むことになったのです。

何をすればいいのか????

言葉が作り出した世界が、、虚構であることを完全に見抜くことです、、、言葉は虚構を作り出す道具に過ぎないことを見抜くことです、、、すると世界から深刻さが消えます、、、みんな深刻に深刻にこの世界を捉えていますが、、、この捉えるという思考の活動こそが虚しさの原因です、、、本当は真実しかここにはなく、、真実は静寂、生命、平和でしかありません、、、、この土台の上に今まさに言葉で作った虚構の世界をでっちあげ、、、虚しい虚しいと嘆いているのです。。。。

人生ドラマを操り余裕を作って悟りに至る

本当は操れないが、、、

言葉では矛盾ある表現になりますがそれを踏まえて説明します、、、人生ドラマはその人の観念が織りなすドラマです、、、そのため、、、その観念が変わればその人生が変わります、、、その観念は体に溜まった負の感情をダイレクトに受けます、、、負の感情が溜まった体は、、、その感情を味わうのを避けるために、、思考が湧きます、、、、その思考が重なり合って観念が書き変わっていきます、、多くの場合その思考は感情を味わいたくないがための思考ですから、、真実に繋がる思考ではありません、、結果幻想の中でさらに幻想を作り出し、、擬似体験という真実から遠い場所に安住します、、そこが苦しい場所です。

感情を積極的に成仏する

体のマッサージ、ストレッチなどを積極的にして、、溜まったエネルギーを発散しますと、、、思考でこれを隠蔽する必要が無くなっていきます、、、、結果観念と向き合うということができるようになります。感情はクリアリングされ、、、、残されたのは観念のみに、、、、映し出された世界は、、、観念そのものです。。。。そしてこの観念が反映された世界に対し湧いてくる自動反応、思考、感情を見抜き、、、逃げることなく、、、今に居る時、、、感情を隠蔽するという動きが起きなくなるのです。ただここで感情を観察する、味わうが起きます、、、24時間が瞑想になります。

諦めるとは全く違う

これは感情を諦めて受け入れるというものではありません、、、感情を思考で隠し、、、体に隠蔽していくという負のサイクルを打破する積極的活動なのです、、、、感情が湧いたら湧かせたまま、、、その感情は観念から自動的に湧いただけですからそこを俯瞰する存在になりますと、、、自我OSシシテムが緩み、、ただその場で静寂、平和に包まれるようになるのです。

体が作り出したシステムエラー

体は全部知っています、、体は自我OSシステムの成り立ち、、問題点を完全に理解しています、、、ですから自我OSシステムを卒業する日を実は待っているのです、、、ですが自我OSシステムは自動反応を起こし続けるが故これを止める方法がないのです。意識を体に戻します、意識を体に戻すことで、、、自我OSシステムに縛られない余裕がでます、、、体は学習します、、自我OSシステムが機能しない方が、、、体も楽だと、、、、すると体が自我OSシステムを卒業する方に協力的になるのです。

体は全部知っている

体は自我が必要悪であることが分かっています、、、ですからこの必要悪自我OSシステムを必要がないという状態に導きたいのです。。。そのためには脳に知識を入れ自我OSシステムの不必要性を覚えさせ、、、脳がこの機能を手放すのを待つのです。宇宙全体を動かす、、本当のOSに体をチューニングし、、シフトを促します。。。。ですがこの全ての動きは全自動で起きますから、、これをコントロールする個人は存在しません。

現実だと信じてきたからこその全行動が無駄になる

悟りのメッセージの限界点

人生を長く生きてきた人ほどに、、、私の人生には何か意義があった、、この現実を生き抜くための信念を貫いてきた、、、と人それぞれにこの現実と私という戦い、向き合いに意義を見出しています。。。。ですが悟りとはこの全てを全否定します、、このストーリー、この私が居るという大前提が錯覚ですよという究極のメッセージです。何十年間の努力を無駄にされたようなメッセージなのです。だからこそ多くの方はこの悟り系のメッセージに対し拒絶反応を起こします。

それでもいい

それでいい、、これまでの努力が全部無駄になったとしても意味が無かったとしても本当の幸福にたどりつきたいんだ、、、そのような心境にたどり着いた者が悟りのメッセージを受け入れます、、、ただ今が苦しいだけ、、では難しい、、、なぜならば、、、自我を信じている状態は、、、これまでの努力を必ず報われるようにしたい、、という衝動が働くからです。

身も蓋もない

この私がイメージに過ぎず、、実在していない、、、みんなでイメージを共有しあい、、、そのイメージが実在しているという前提でドラマを作り上げていた、、、これが事実です、、この事実を認めて初めて、、至福に至ります。自己意識が現れるということは同時に集団との共存を強く意識しますから、、そこを捨てるなどというのは大変な恐怖心が湧きます、、、ゆえに、、、そのメッセージを遠いどこかに閉まっておきます。

アイドルに夢中になるファン

アイドルというイメージ

アイドル、、これは芸能人、、、人気イメージビジネス、、、ファンがアイドルA君に夢中になるのはなぜか???それはA君というイメージにあらゆるイメージがさらに加わり、、、ドラマの主人公としてのA君、歌が甘いA君、頑張り屋のA君と、、、A君のイメージが十二分に膨らんでいるからです、、A君というイメージにとんでもない意味が加わっているのです、、、そしてなぜそこまでA君にファンが夢中になるかと言えば、、、A君に集中している間は『私」を忘れることができるからです。

「私」を忘れる?

私も言葉ですからイメージです、、このイメージがあらゆる経験を積んだというイメージが重なることで私にとんでもないリアリティーが加わります、、本当はイメージでしかない「私」がリアリティを持つようになるのです、、これが重い、苦しい、孤独、分離感、、、そこで「私」は私を忘れさせてくれる存在「A君」を求めます、、、「A君』を見ている時は「私」を忘れれるから、、、

これは現実逃避

ですがこれは現実逃避です、、、「私」というイメージ逃避といった方が良いかもしれません、、、私にフォーカスが当たるのを逃げる逃避です、、、イメージ上の「私」が大きくなり過ぎてしまい、、フォーカスが当たり過ぎているのです。。。苦しみから逃げたい、、、この衝動を、、、苦しみを断ち切る方向へベクトルを変えます、、、イメージ上の何かを求めるのではなく、、イメージと見抜き、、苦しみを根本から打破します。これが悟りです。