ゲーム

このゲームを現実と信じるとよりリアリティー感が増す

普通のマリオカートが、、、

最初は普通のマリオカートでした、、、しかし、、、これをゲームではなく現実だと信じるようになりますと、、まさかこのマリオカートがガンガングレードアップして、、、詳細な雨の感じ、エンジン音、落雷、タイヤの滑り、、全ては超現実的な作りに変わっていきます、、もうゲームなのか現実なのか区別が付かない、、、、このような変化が起きます、、、「これが我々がこのたった一つのエネルギー上でやっていることです」

最初は「蝶々」「バッタ」「ママ」が居るだけだった、、、

幼少期を思い出してみてください、、こんなに深刻な世界ではなかったはずです、、もっともっとフワフワしていた世界、、軽い世界だったはずです、、、ところが言葉を覚え、、。名前を覚える度に、、このフワフワした世界にあらゆる登場人物、登場物が増えていき、、、なんかこの独立分離した存在こそが、、、本物だと信じるようになった、、、するとこの独立分離した風の登場人物達が全くフワフワではなく、、超現実的に見えるようになったのです、、つまり観念が書き変わっていったのです。たった一つのフワフワした世界から、、、独立分離こそが真実という世界に生まれ変わっていったのです、見かけ上。

「これって幻想ですよね」、、精神病に入る

そして最後には、、、これって幻想ですよね、、、などと言えば、、、精神病院に入れられてしまうぐらいになります、、、この世界を見かけ上の「私」の観念が作り出したのです。ですがこれって夢かも、、、という観念が定着していきますと、、、それを支える現実(夢)が起きますから、、そこの気づきが助長されていきます、、、一旦振り切れた、、、超独立分離世界が、、、まあまあ独立分離世界、、、夢かも世界、、夢だ世界、、、に変わっていきます。

ああ、そうか

何が起きても「ああ、そうか」

有名な白隠禅師は何が起きても「ああ、そうか」で片付けたそうです、、このエピソードはこの世界が実は幻想、夢、イリュージョンであることを見抜いた発言であることは容易に分かります、、多くの方は何が起きても深刻に捉えます、、なぜならば、、、これが絶対的現実であると信じているからです、、ですが白隠禅師は夢だと見抜いていた、、、この認識の違いは全く異なる行動を生み出します。

絶対的現実と信じれば

これが絶対的現実である、、これが多くの方の信念です、、、この信念、観念はこのたった一つエネルギーをそう見えるように導きます、、、このたった一つのエネルギーが分離独立し(イリュージョン)それが現実であるように見えるようにイリュージョン化します。つまりTVゲームをやっている際にこれが現実だという信念が生まれますと、、そのゲームが益々リアリティーに見えるようにイリュージョン化されるということです。最初はただのマリオカートが、、、あまりにこれを現実を信じるあまりに、、マリオカートが現実であるという勘違いが起きるようなゲーム設定に切り替わっていくということです。するとゲーム中のプレイヤーにこれはゲームだよ(幻想)だよと言っても、、全く理解が起きない、、さらに、、幻想だよと言ってくれる人間(幻想)も現れなくなります。

夢だと気づき始めると

夢かも、、、これが観念の中に定着しますと、、、夢かも、、、が証明されるようなメッセージが多く起こるようになります、、そしてこれは夢だ、、という気づきが起きますと、、もうこの夢が現実だという誘いも起きなくなります、、、、エージェントスミスが、、ネオに「あなたの見ている世界は現実だ」という誘いをしていたのが、、完全な気づきが起きればもう起きません、、なぜならばその誘いは、、自身の観念こそが起こしていたからです。

迷い人

イメージの中は迷い人だけ

この世界がイメージの世界、夢の世界、幻想の世界であることを見抜けていない人は全員が迷い人です、、言葉が作り出したイメージの世界にこの私が居るという認識があるうちは迷い人です、、全員が。大成功者も、人格者も、リア充も、、全員が迷い人です。。。この体の中に居る私が幸福を手に入れるという感覚を持っている人は全員が迷い人です。

状況は一切関係がない

このイメージの世界で、、、何を得ようと、何を獲得しようと、、全く関係なく、、これがイメージであることを見抜けない限り迷い人です。。。このイメージに中には自分が居ないという気づきが起きるまでは完全な迷い人です。。。〇〇太郎という名前がついた個人がイメージであり、、そのイメージの中に実在の自我など存在しません、、自我はイメージです。。。そのイメージが何かを獲得して幸福になるなどあり得ないのです。

イメージが何かを獲得しても一瞬だけ苦しみが消えるだけ

なぜこの人生ゲームの中では目標を達成した瞬間しか、、幸福になれないかと言えば、、実在しないからです。。この私というイメージがありそのイメージが何かを獲得しました、、何かしらのイメージを。その瞬間、、思考が抜け落ち思考が消え失せることで、、一瞬苦しみがなくなります、、それだけです。。本当に個人という存在が居るならば、、幸福が生涯続いてもおかしくない、、、、実在しないからみんながみんな一瞬しか幸福が続かないのです。

個人としての経験が観念を作る

勘違いが強化されていく

個人としての経験の全ては記憶されて、、その人の観念、価値観に強化されていきます、、、例えば、、、人から何回もスリにあった人は、、、人は信用できないという価値観が強化されていきます、、、この価値観は人生が長く長くなっていけばいくほどに、、、強固になり、、、その価値観がこの個人という存在を絶対的にしていきます。。すると何をしても苦しい、何を達成しても苦しい、、と無間地獄に入っていくのです。状況が苦しいのではありません、、この個人としての価値観の強化が苦しみを圧倒的に作るのです。

個人が圧倒的になっていく

個人が居るというのは完璧な勘違いですがその勘違いを元にした経験の全てがデータとして蓄積されることで、、、価値観になり、信念になり、、、その価値観を照らし出した経験をさらにしていくことになるのです。個別の体験が自動的に作り出されていきます、、、、人は必ず裏切ると信じている人は、、、、裏切りそうな人に視点がフォーカスされそのような出会いを続けていきます、、、どのような価値観をその人が形成しようと、、この個人を強化することには変わりはなく、、これが苦しみを生み出すのです、、、価値観の差異はここではどうでもいいのです。

全ては「苦しい」に向かっていく

人が歳を重ねると悟りや仏教、禅などに興味がでてくるのは価値観の形成、価値観の強化に伴い、、個人が居るという価値観が圧倒的に強くなっていき苦しさが押し寄せてくるからです。中年のうつ病などはまさにそれで、、苦しいから逃れられない心の叫びを、、禅や仏教に求めるのです。個人といての経験の全てが苦しみを生み出します。。私の価値観は非常にポジティブだ、、、関係ありません、、、価値観の強化こそが大勘違いを強化するのです、、、全ては目覚めに向かっています、、、全員がテトリスのブロックを積み上げ、、必ずゲームオーバー、、究極の諦めに到達するようにできています。

ポジティブシンキングとかじゃない

ネガティブもポジティブも

物事をどう捉えるか、、、ポジティブ、ネガティブ、、、違います、、、これは夢です、、夢の中に出てくる現象を良く捉える、悪く捉える、、、、、良く捉えた結果として得をするのは誰か???この体の中の私ですね、、、悪く捉えて損をするのは誰か???この体の中の私です、、、、このゲームを続けることが苦しのです、、もしもポジティブに捉えて状況が上手くいった、、、、そうしたら今後の人生のずっとをポジティブに捉え続けようとする、、、、苦しい、、、、

ポジティブに捉えて得をする自分がこの体の中に居ない

ポジティブ、ネダティブ、肯定的、否定的、、、に捉える、、、、それをするのがこの体の中に居る自分、、、この関係性が苦しみを生み出します。。。。そうではなく捉える自分が、、、この体の中ではなく、、、夢全体を見ている観察者であるという気づきを得ます、、、、すると起こる現象は、、、自身の創造物であり、、、この体もその創造物の一つであることが分かります、、、、この体が向かう場所に創造物が出現し続ける、、、そしてこの体がそれに反応を起こす、環境も反応を起こす、、、それを見守る自分という存在、、

関係性の中で幸福を探していた

私たちは関係性の中で幸福を探したりします、、、今日は相手の反応がよかった、、今日は反応が悪かったなー、、なんか今日は気分良く接してもらった、、、などなど、、、ですが、、、これを夢を見る観察者の立場でいますと、、、全部の反応が面白くなるのです、、、良く扱われることも、、悪く扱われることも面白い、、、だって夢ですから、、、この体の中に居ることになっている存在(仮の自分)がどう扱われても本当はどうでもいい。。。ただ面白いことに、、、気楽な気分でこの夢を遂行していますと、、全ての反応に対し、、武道の達人のように振る舞えるようになります、、、そこに何の緊張感もないからです。

探求者

子供の時の感覚を覚えている者

2歳、3歳児はまだ、、これが夢だと分かっています、、この夢を見ているのはこの自分一人で、、、全部自分が作って自分がそれを見ているのを実感しています、、ですから不安感がない、、万能感、、しかないのです。それは全部が全部自分がこしらえた物事だからです。。その中にこの体があり、、楽しんでいるだけ。。朝起きて寝るまで楽しむだけ。この記憶が残っている大人が探求者になります、彼らは、、この現実と称される世界の常識に違和感を感じる、、何かが違う気がする、、、何かおかしい、、本当はこんなんじゃないのでは、、

社会人になると

社会人になると鮮明にこの感覚が蘇ってくる、、それは会社などが徹底的に現実のルールを押し付けてくるから、、もう違和感では済まない、、、受け入れるか受け入れないかの強制収用、、それでもなんとか社会に合わせ生きていく、、でも辛い、、、しかし何が辛いかを言語化できない、、このもどかしさ、、、この状態が極限まで来ると彼らは本当の探求者になります。

悟らないと終わらない

社会に迎合し、、あらゆることを頑張った、、何年か働き、、地位も手に入れた、、家庭も、家族も、、、だが何かが足りない、、この何かは、、、この延長線上にはない気がする、、、、これが悟りへの入り口です、、、この体の中の個人が主人公の幸福探求ゲームは終わりがない、、、このままいくとこのまま死ぬぞ、、、そこまで追い込まれますと、、、悟りのメッセージが届くようになります、、

夢だと気づき夢を生きる

夢だと気づいたとて

これは夢です、、その気づきが突然起きます、、ですがこれが夢だと気づいても、、世界が変わるわけではない、、このコップ、このマンション、この体、この友人、、、全部が残ります、、夢の中で。そしてこの夢の中の生活が続きます、、ですが今までと違うことがはっきりとある、、それはこの体の中に自分は居ないということ、、全経験を所有する自分という存在は夢を見る存在であって、、この体ではない。。という確固たる気づきがあります。

気づいているのは全部夢を見る自分

この夢を見ている存在、それが自分です、真我、神と言ったりします、、、この自分がこの体の全経験を所有します、、鳥の声も夢を見る自分が聞いています、、「聞く」という言葉で表された体験ではなく、、音そのものを感じます、、ただそれだけ、、、夢の中のこの体が全部を経験しているという勘違いがある時と、、、夢を見る存在がそのまま感じている時は感覚に違いが生まれます、、思考の邪魔が入りません、、感情の邪魔が入りません、、衝動の邪魔が入らないのです。

当事者意識が無くなる

これが夢であるという圧倒的気づきがおきますと、、この体に当事者意識がなくなります、、この体をなんとしても幸福にしなくてはという義務感がなくなる、、、この体は存在し続けるツールに成り下がる、、ですがこれは体を雑に扱うことではない、、むしろこの体を使ってこの夢の中の世界にいかに貢献するかが湧き上がる、貢献のためのゲームになる、、だって世の中の反応は面白いから。

夢だと気づき、この体を使い始めると

夢だと気づいた後にこの体を使い始めると、、、重さがないために自由奔放に使える、、だから目立つ、、すると夢の中他の登場人物は、、動揺する、、この動揺による反応に気を付けなくてはならない、、、動揺とは生命の危機と同じ感覚、、、怒り、攻撃の対象になる可能性がある、、自由奔放は楽しいが周囲の反応には慎重に行動を取らなくてはならない、、という感じです。

無欲の勘違い

仏教のイメージは間違っている

禅や仏教と言いますと、、何か無欲の世界、、、といったイメージがあります、、、ただ淡々と静寂、、無欲の体現者の世界、、をイメージします、、、これは間違ってはいないのですが実際には、、お腹が満腹なだけ、、、欲を満たし切ったために欲が湧かない状態なのです、、、ですから多くの方がイメージするような世捨て人的なことではないのです、、、美味しい美味しい料理を食べ過ぎて、、もうお腹いっぱい、、その境地です。

全部が全部自分ならばお腹いっぱいに決まっている

お腹いっぱい、、この夢の原理原則が理解できますと、、、この夢の中の現象、現象物、は全部自分自身だということが分かります、、、夜見る夢の中の登場人物、環境全ては夢を見る人間が作り出しました、、、この現象界界は誰が作っているのか???自分です、、間違いなく自分です、、、ですから、、、全部が自分、その動きも自分、そこで起きる経験も自分です。これが分かってこの体は何を求めるのか???

飢餓状態が当たり前

この思考、この体、この動きを、、自分と勘違いし、、、周囲は全部自分以外と勘違いする、、、究極の不足感を感じるゲームを我々は行っています、、、本当は真逆で、、、、コントールできない世界が自分、、、そしてコントロールしているつもりのこの体も実はそういう勘違いが起きているだけであって実は全くコントロールできていない、、つまり全部が全部コントロールできていない、、、つまり全部自分なのです、、、

自我の防御システムをいかに潜り抜けるか

究極のリアリティは自我には通用しない

私しかここにはいない、、こんなメッセージを自我は拒絶します、、意味不明、これで終わりです、、、そこで自我の拒絶反応、防御反応を起こさせない形での伝達をメッセンジャーには求められるのです、、、ストーリー、物語風にこのメッセージを伝えないと、、自我は基本受け入れない、、今しかない、、ダメです、、こんなメッセージは。時間という感覚は確実に在る、、、ここから入らないと自我は許さない、、

物語に入り込ませる

「あなた」はいつか絶対に幸福になれます、、ここから入らなければ自我は許容しない、、そしていつの間にかこの体の中には自分で実は居ないんだなーという気づきに導きます、、この気づきはどこから起こるのか、、全体、気づきの意識です、、、「あなた」は確実に居て相手も確実に居る、、友人も確実に存在する、、、ですが、、それって夜見る夢と何が違うのか???夜見る夢との決定的な違いはなんでしょうか???ないのです、、こうやって自我の拒絶反応をくぐり抜けます。

先ずは私が居るという感覚を絶対肯定する

自我最大の勘違いが、、「私は居る」という絶対的感覚です、、この「私が居る」があらゆる経験を所有することでこの自我物語は確固たるものになります、、「私が居る」が、、、あらゆる経験を時間の中で所有していくというシステムです。「私はゲームをやっている」という絶対的感覚が、、、この体が穴に落ちた、この体が批判にあった、、この体が称賛にあった、、、を蓄積していくのです。ここにいきなり「私は居ないんですよ」は無理ゲーです、、、だって「私は居る」は100%の感覚だからです、、ここからならば自我は存在を明け渡します。というよりも「私は在る」はこの体の中に居ないを気づくのです、「私は在る」の中で実は全部が起こっていたことに気づきます。

朝起きると瞑想が始まる

朝起きれば瞑想から、、、

思考を観察するというのは、、、瞑想です、、、朝起きて思考を観察し始めますと、、、スッと静かになります、、風の音、鳥の声、太陽の光、全てが静寂に包まれながら起こります。そして昼になり、、、さらにこの瞑想が続きます、、ただ思考の観察をし続けます、、、静寂が増していきます、、、一日中が瞑想になります。

毎日いつでも瞑想生活

毎日いつでも瞑想生活になります、、思考が湧いてきません、仮に湧いてきても、、、直ぐにそれを観察する気づきの意識になります、、悟りが閉じるのは、、思考に飲み込まれて思考していることすら気づかない状態ですからそうならないように気をつけます、、、1日に何度も思考に飲み込まれそうになりますがその度に思考に注意深くなるのです。

思考に飲み込まれた状態が何なのかが分かっていないだけ

思考に飲み込まれた状態が何なのか??ここが分かっしまえばこれはもうほぼ終わりなんです、、思考に飲み込まれている状態とは、、意識がそこに完全集中し、、思考と同一化しているということです、、ゲームに集中している子供は時間を忘れ、自分がゲームをやっていることすら忘れますね、、、思考に熱中するとはこのことなのです、、、思考に熱中し過ぎて我(気づきの意識)を忘れているのです。