ゲーム

体は全部知っている

もしも体が全部知っているならば

「体は全部分かっているんです」そんなメッセージはスピ、ノンデュアリティ業界では多く聞かれる話です、、だとしたらなぜ今充実感が薄いのか???なぜ毎日が退屈なのか?????簡単です、、今の体、今の体のコンディション、、、、にとってベストな行動が取れているだけです、、、、?????え???今退屈だとしても完璧な体の行動が起こっているんですか?????その通りです、、、、今の体に寸分違わず完全な思考、行動が起きているのです。

行動を変えたければ体を変えればいい

簡単な話我々は完全に体に支配されているのですから、、、体が変われば全行動、全行動が変わるという当たり前の事実を受け入れればいいのです、、、、そしてこの体は完全に悟りの現れなのです、、悟りの現れの、、、行動、思考、、、ですから、、、体は全部分かっています、、、、この体の状態を物理的に改善していく、、体をリラックスさせていく、、、体を浄化させていく、、、、するとその体に見合った行動思考が湧いてくるわけです。

思うように行動できない、、、

今の体のレベルにおいて完璧な行動が起きています、、、恐怖のエネルギーが溜まっていれば、、、恐怖を感じないように小説や、映画、などのエンタメを楽しむようになっている。体が浄化されていれば、、、五感を使った現実内での楽しみを選ぶ、、、と、、、、全部が全部体のベスト行動が起きるのです、、、そして今その行動に満足を感じていないのならば、、、、体を浄化すればいい、、、それだけです、、、、

体が健康ならば、、、

体が健康ならば、、、体はTVゲームを選ばず、、、、体はこの現実世界で遊びを探します、、、、体は全部知っていますから、、、その体のレベルに見合った行動を選ぶのです、、、、行動を変えようとしても全くの無駄、、、体を変えてしまうのです、、、次の行動に見合った体を最初に手に入れてしまいます、、、、勿論その行動が起きるか起きないかは、、「自分」は関与できません。

虚という抜け道

現実は苦しいから、、、

現実は苦しいから、、AKBにハマる、韓国アイドルにハマる、、スポーツ観戦にハマる、映画にハマる、小説にハマる、、、、これは、、、虚に逃げる方法です、、、、虚に逃げ続ける方法です、、、擬似体験に逃げる方法です、、、虚とは、、、虚しい、、、、虚しいに逃げているのです、、、刺激的だから、、、安全だから、、、虚の世界は安全なのです、、、、安全だから虚に逃げる、、だが虚は、、、、虚しいのです。

恐れという感情を壊す

虚に逃げる一番大きなポイントは安全だからです、、、、映画、小説、ゲーム、ネットフリックス、、、全部安全の塊、、、その中で擬似体験をして、、、、経験を積む、、、、だかそこは五感という、、、、絶対的な経験が欠落している、、、、だからそこは虚の世界、、、虚の世界は虚しいのです、、、どこまでも、、、、ならば、、恐れの感情を、、、、シンプルに削除してしまう、、、体を徹底的に動かして、、、恐れという感情を、、、手放す、、成仏させる、、、、すると自然と、、、虚の世界ではなく、、、この現実(幻想)の世界で五感を使った体験を始めます。

東洋医学では、、、

東洋医学では恐れの感情は腎膀胱経絡に溜まります、、、、これは体の前後中央のラインに走っている経絡です、、、このラインを通すことで、、、恐れの感情自体を解体できます、、、すると自然と、、、経験したいが湧いてくる、、、自然と五感を使って経験したいが湧いてくる、、、、虚の世界の中で、、、実が増えていく、、実が増えてくる、、、、実が増えれば充実、満足になる、、、、

思考と戯れる

いつでも思考していたい

思考とは妄想です、、思考とはファンタジーです、、、多くの方は目の前の現実(これも幻想)を使って体験ゲームをするよりも、、、思考というファンタジーに逃げ込み、、思考と遊びます、、、妄想のなかでさらに妄想をするという遊びをします。。。。。ディズニーランドに行ってスマホゲームに戯れています、、、山に遊びに行ってスマホゲームをしています、、、、今目の前に完璧な幻想が広がっているにも関わらず、、その中で思考というスマホにハマっているのです。

体の感覚を研ぎ澄ましていく

ストッレッチ、ヨガなどで体の感覚を研ぎ澄ませていきますと、、、現実(幻想)を感じる力が増えていきます、、思考しているよりも、、、体験が面白くなっていきます、、、思考に溺れるよりも、、体験自体に面白さが増していきます、、、ただ歩くだけで面白い、、、が湧いてきます、、、、感じるという本当のゲームが、、、楽しいということを思い出すのです。

思考、感情のトリック

思考、感情と戯れるのは面白ものです!!!なぜならば、、、自分で作っていないから、、、自分で作っていないからこそ、、、何が湧いてくるか分からない、、、、だから面白いのです、、、、ですが、、、これは何度もお伝えしますが、、、妄想、幻想という現実の中で、、、さらなるファンタジーを作り上げているのです、、それが思考の力です。。。

思考というドラッグ

ドラッグとは、、夢の世界に居るような錯覚をさせてくれる毒です、、、思考とはドラッグのようなもの、、、思考に意識を向けるとファンタジーを作れるドラッグです、、、このドラッグに溺れると、、、思考というファンタジーから抜けれなくなるのです、、、、思考、感情がどれほど辛いものでも、、そこは「渡る世間は鬼ばかり」同様楽しいのです。自分を主人公にした「渡る世間は鬼ばかり」を上映しているのです。

現実(幻想)を楽しむ

この現実こそがディズニーランドです、、、ネバーランドです、、、この現実を遊びつくためには思考というドラッグを一旦横に置いて、、、、思考を相手にしないことをお勧めします、、、勝手に湧いてくる思考、感情を無視していますと、、、ファンタジーが消えます、、、そして、、今目の前に広がる本当のファンタジーを楽しむ力がついてきます、、、、

それじゃ無理

シーソーゲーム

体の感覚を鋭敏にしていきますと、、、幸福度が上がっていきます、、、思考で考える概念よりも、、感覚が優位になっていくからです、、、感覚とは真実との接点であり、、、真実をダイレクトに感じる力が増えるのです、、例えば悩み事をしている時、、、料理の味がまずくなります、、、味を感じにくくなります、、悩み事が無い時、、、料理の味が美味しくなります、、、、体の感覚を鋭敏にするとは、、、真実との接点を増やすことなのです。ですがここで得た幸福度をさらに増やしていくと、、、自我が消滅してしまうので自我OSは、、、ここでマッタをかけます。。。全ての功績を自我が成し遂げた、、自我がもっと評価されるべき、、、と思考を起こします。

これだけは見抜けない

評価をされたい、、この欲望を自我OSは使います、、、もっと評価されてしかるべきだ、、、、これぞ自我OSシステムの罠、、、、せっかく体を鋭敏にし、、、幸福度を高めていったのに、、、その功績を自我が握り締めることで、、、幸福度が高い自分を成立させます、、、、自我の正念場です、、、ここで見抜きます、、この功績を握り締めようとする働き、動きこそが、、、これまで苦しみを起こしてきたのだと、、、、この最後の戦いで自我の正体が明るみにでるのです。

自我OSを追い込む

自我OSを追い込みます、、自我の働きを丸裸にします、、、自我の動きは丸裸にされると機能できなくなります、、、、マジシャンのトリックを裸にします、、自我は実は存在しないため、、、経験を「私」がやったとだという思考で、、騙し続けているのです、、、体の感覚を鋭敏にすると、、、真我に直に触れることができるため、、経験が鮮明になり、、、真我そのものに吸収されていきます、、、この動きを止めるが、、、それをやったのは「私」だという思考です、、、もっと評価されるべき!!!という思考が湧いて、、、そこに意識がフォーカスすると、、、また思考に取り込むことができます、意識を。

最後の作戦

自我システムとは、、、意識を思考にフォーカスさせますから、、、あの手この手の思考を湧き出し、、意識がそこに食いつくかを確認するのです、、、全く思考にフォーカスしなくなると、、、この自我OS防御システムは、、パワーを失い、、、消滅に追い込まれます、、、「もっと評価されるべき」「もっと良い暮らしをしていていいべき」「もっと、もっと、もっと」が現れ、、意識に訴えかけてきます、、、、この全ての作戦を見抜ききり、、、思考に全くフォーカスをしない時、、、突然自我OSシステムは崩れ、、、森羅万象、万物を動かすOSにシフトチェンジします。大周天、サマディ、太極、自然無為、悟りなどと言います。

幻想と見抜いてからが楽しい

幻想なんだから

この幻想は見抜いてからが最高に楽しいのです、、、なぜか???周囲は真剣にこれを現実と思い込んでいます、、真剣に真剣にこれを現実と思考して生きています、、、その様子が最高に可愛らしい、深刻なあの人も、悩み続けるあの人も、、、全部がエンタメになっていく、、、その中でこの見かけ上のこの私は、、、周囲にこれは現実ですよ!!!と伝えていくが起きていている。これまではこれが現実だ!!!!と本気で思っていたのだから、、なぜ苦しいかが完全に理解できる、、、だから救いたいが湧いてくる、、、ですがこれは深刻なミッションではなく、、完全なるエンタメです。

悩んでいる「人」は居ない

なぜこれはエンタメなのか????それは悩んでいる様子はあっても、、悩んでいる「人」が実在しないからです、、、深刻そうに見えているだけ、、、人が実在しないのですから。。。。だからエンタメなのです、、、全く救うべき人は居ないにも関わらず、、救済活動だけが起きるのです、、、助けるべきピーチ姫は実在していないにも関わらずマリオは救出ゲームをやります。

会いたい「人」も居ない

会ってみたい人、、、、これは居ないんです、、実在はない、、、全部幻想です、、、ビヨンセに会って涙を流す、、、ビヨンセという活動があるだけです、、、ビヨンセという実在は居ません、、、、マイケルジョーダンという活動があり、マイケルジャクソンという活動がある、、、キムタクという活動がある、、、母親という活動があり、、父親という活動がある、、、幻想が動く様子、、それが活動です、、、

マリオが見た!

マリオが見たことにできる

この世界は幻想です、、、つまり我々はゲーム上のマリオに過ぎず、、、マリオが見るクッパも幻想です、、、ということはマリオがクッパを発見したときに、、「マリオ」がクッパを見たというのは幻想です、、、幻想は主体となってクッパを見ることは不可能です、、、幻想ですから、、、いやそんなことはない、、マリオには目があって、、網膜があり、、そこから中脳に繋がり、、、という一連の流れがあるではないか?????違います、、幻想とうとしてそれがあるのです、、、、幻想がクッパを見るのは不可能です、、、つまり、、クッパを見ることができるのは、、、視界そのものです。。。。「視界」が「視界」を見たのです。。。我々が見る「景色」を見ているのは「景色」です。

マリオが味わったことにできる

マリオが食事をする、、、口の中で味覚が広がる、、、、出来ません、、、なぜならばマリオは幻想であり、、実在しないからです、、、でも間違いなく、、味覚はある、、、舌にある神経が、、、脳に繋がり、、、残念!!!!それも幻想です、、、、「味覚」が「味覚」を感じたのです、、、ディスプレイが、、味覚をそのまま拾ったのです、、、起こる全部はその場で回収されます、、、、誰に????全体です。間違いようもない味覚が、、、「マリオ」「食べ物」の存在を幻想ではなく、、、、「実在」に感じさせていますが、、、これは感じていない、、、思考している。

「経験」を追求すれば、、、それに見合った幻想が広がる

つまりはこういうことです、、、これは無限の幻想ですから、、、、経験のアリバイを発見しようとすれば、、、どこまでもアリバイが続くのです、、、、全経験を証明するアリバイが、、、、この現象界、幻想界では誕生します、、、いつ誕生するのか??????発見しようと試みたその瞬間です。。。。マリオには当初は脳も、舌も、網膜も、神経も、、全く無かったのです、、、人間がなぜ????見えるのか???味わえるのか????と興味が湧き、、そこを探究した結果、、、それが現れたのです、、、全部が全部幻想です、、、幻想が見て、味わって、触れるというのは不可能なのです。

事実と違う解釈を前提にした世界

「私がした」は事実ではない

なぜ浮気をしたんですか???なぜ不倫したんですか???なぜ覚醒剤に手を出したんですか????この質問は「全責任を個人が取ることができる」という前提で話が進んでいます、、、、、ですが実際にはその行動が起きたときに「個人」という存在は実在していません。個人が不在の状態の行動をなぜ責任を取ることができるのでしょうか????この大前提が、、この社会の常識になっているために「生き辛い」という感情が湧くのです。

「私」は何もできないし、、存在すらしない

「私」が本当に実在するならば、、、全行動に置いてこの「私」が確実に認識されていないといけません、、、マリオゲームをやるときに、、、マリオは確実に認識し続けています、、、居ない時は絶対にないのです。だとするならば、、、この幻想のゲーム上でも「私」が消えていい時などあってはならないのです、、ではどうですか??????美味しいビールを飲んでいる時、、「私」を忘れますね、、、感動する映画を観る時「私」を忘れますよね!!!!、、、居ない時間が確実にありますよね!!!!おかしい!!!!

つまり「私」は都合が良い時現れる思考

つまり、つまり、つまり、、、「私」とはたまに現れる思考に過ぎないのです、、、思考の産物です、、全行動、全思考、全感情を作り出すなどの偉業を達成できるような代物ではないのです。これが大前提です、新しい時代の大前提です。「私」など全く存在していなかった、、、です。この新しい大前提をベースに生きるがスタートしますと、、、とにかく楽です、、、だってそれが真実だからです。無理くりこねくり回して作り出した「私」物語が終わります。

あの手この手

幻想の数々

この世界は幻想です、、幻想と思って生活してみてください、、、すると面白いことに気づきます、、、直ぐに現実だと勘違いが起きます、、、あまりにも現実的直ぎて、、、、確実に現実の中に閉じ込められます、、、なぜここまで現実的なのでしょうか???それは私の観念が、、、そう信じ込んでいるからです。鳥のフンが落ちてくる、請求書の山、、家族間のトラブル、、、全部が全部現実的なのは、、、これは現実だ、、、という観念が織りなす世界がこれだからです。

思考が敵

このあまりに現実的な世界を見たときに、、あらゆる思考が湧いてきます、、、ああしよう、こうしようと、、、、これがまた一番の敵になります、、、、この思考に巻き込まれ、、、感情に巻き込まれ、、、また振り出し、、、、ゲームオーバー、、、、この思考を幻想と見抜きます、、感情を幻想と見抜きます、、、気にしない、、

幻想に取り込まれない

幻想に取り込まれない、、、取り込めるのは、、思考、感情です、、、周囲の幻想ができることは限度があります、、、重要なのは、、、こちらから湧いてくる思考、感情、、、ここが一番の敵になります、、、、先ずは目の前の現実を!!!!とワンサカ湧いてきます、、、、それらを全無視し、、今目の前の幻想に向き合う、、そして、、、、感じるという100%真実に浸る、、、すると、、、雑念、雑現、、、に振り回されていない、、本当の自分が現れる、、、それが静寂の場所、平和の場所です、、、、なんだいつだってここに帰れるんだ、、という気づきが起きます。

自分を愛する???

どういうこっちゃ

自分を愛する、、、世間ではこの当たり前の感覚、、、自分を大切にしよう、、、ですがこれは狂気に満ちています、、、自分とは存在しないからです、、、自分という実在は無いのですから、、、自己愛というのは破滅の始まりなのです、、、恋愛の多くが破滅に向かうのは、、、その二人は実在しないのです、、、、居ないにも関わらず居るという前提のゲームを二人でやっているのです、、、このゲームの恐ろしさは、、、幸福感が全く上がらない瞬間が訪れるのです、、、自我とは何をもってしても満足をさせられない存在ですから、、相手への期待は全て泡に消えます、、、相手への満足感が瞬時に消えていくのです。

自我を満たしてあげることは不可能

自我とは実在しません、システムです、、ですからこのシステムを幸福にしてあげることは不可能なのです、、、恋愛の瞬間、、、、満足、ドキドキ、幸福感が襲ってきます、、、ですがこれは瞬間です、、なぜならば、、、幸福感が湧くのは、、、、その瞬間だけ自我の思考フル回転が止まるからです、、、何かをもう獲得しなくていい、、、という安心感が、、、思考グルグルを止め、、、無我に戻っているのです。。。恋愛とは思考グルグル強制止めメソッドです。

恋愛に夢中になる

まさにこれ、、、恋愛とは夢中になること、、、夢中になっている間、、、夢の中に居る、、、、違います、、、この現実という夢から、、、覚めているのです、、、夢中とは、、夢の中で夢の中に居ない状態なのです、、、、、、なぜならばこの夢は思考が作り出すのですが、、、この思考が止まるからです。夢が緩んだ状態、、、だから恋愛中は楽しい、中毒性があるがゆえに、、人は恋愛を求めます。

成功とは、、経験のこと

経験こそが成功

一般の成功とはこの私が私が望む生活をすることです、、、経済的成功、精神的成功、、、などなど、、、ですが本当の成功とは、、経験が起きた、、これだけで十分に成功です。この世界は無限の存在である神が自身が無限の存在で在ることを体感するゲームです、、、ゆえにあらゆる経験を無限に積み、、、自らが無限の存在だったという気づきを起こすためのものです。。我々はその経験を積むために用意された反映です。経験はこの体だけでは絶対に起きません、、体と対象がなくてはダメ、体と環境がなくてはダメ、、、よって私(主体)対象物(客体)を神が用意し、そこに経験が生まれたのです。

だから、、、

だからこそ、、、、我々は大金を稼ぎ、全てを手に入れても全く幸福になりません、、、個人は幸福になるように設定されていないからです。個人が幸福になったら経験を積まなくなります、、それは無限なる神が無限の経験を積むことと矛盾します、、、ゆえに我々が考えるゴールは実在しないのです。ゴールなどあっては、、経験が終わってしまいます。私(無限の存在)はやはり無限だったという気づきが起きるまではエンドレスに続きまます。

個人が幸福になるという嘘の世界から抜ける

個人は幸福になれません、、、個人はただの経験を生み出す道具です、、、そこを早く見抜き、、個人を機能として経験を積んでいきます、、、その経験とはこの私(無限なる存在)は無限だったという気づきが起きるように。。。。主語を全体、神に戻すことで経験を変えていきます、、、個人としての経験を神の経験に戻します。経験は全て気づきの意識に回収され、、、その気づきが起きるのは絶対の存在、空、たった一つの存在、無限なる存在が在るからだという気づきが起きます。