お金

至福エネルギーがなぜ不幸を経験できるのか?

最重要ステージに到達

この物理次元を構成しているエネルギーは至福エネルギーです。至福(全体)が作り出したこの現象界は至福エネルギーで完璧に構成されています。見えるモノ全ては至福エネルギーで構成されている、我々はまるでネバーランドにいるかのようです。ですが実際の我々の感情はどうか?至福に満ちているのか?答えはノーです。至福どころか不幸、孤独、不安、悲しみに満ちている、、、、どういうことか?至福エネルギーでこの現象界、物理次元が構築されているのに何が起きているのか?自分の人生はジョークなのか?!

そうです、ジョークです

至福(空)が現象化したのが色(至福)の世界です。この二つはどっちも至福です。我々がみている世界は色(至福)です。この世にあるのは至福エネルギーだけなのです。ですから至福(空)は何か新しい体験をしたいと思ったが至福しか体験できない、、、退屈。。。ということで無理くり作り出したのが私(体)です。この体(至福)を自分であると勘違いする意識を作り出すことで分離感の発明に成功したのです。至福会のノーベル賞ものの発明です。至福は至福ゆえに至福しか経験できない、だから体に自分という意識を作り出し分離感をむりくり作り出した、、、自分という実在しない虚像ストーリーならば苦しみも、悲しみも、孤独も全部味わえるということです。

至福である存在が孤独を経験することに成功

お金持ちは本来貧乏を経験することは不可能です。お金がありすぎて貧乏を味わえない、、、もしもお金持ちが貧乏を味わうならば貧乏人に成り切るしか方法はない、、、つまり勘違いの中でしか貧乏人を経験できないのです。まさにこれがこの人間ストーリーです。全知全能、至福である全体であるが孤独を経験するには自身が人間であると勘違いするしか方法がないのです、人間になり切ってしまえば安心して孤独、貧乏、地獄を味わえます。ですがこれはあくまで後付けの勘違い、至福の中で舞台でしかありません。人間に成り切るという勘違いがバレてしまえばバッドエンド、お金持ちはお金持ちだったと思い出すように、全体(至福)は至福に戻ります。

自分というエネルギーの葛藤

全体が分離を作り出すという自己矛盾

お塩で作ったケーキを想像してみてください。なんか複雑な感情が湧いてきます。お塩は塩っぱい、辛い、、ですがそのお塩でかなり甘そうなケーキを作ることできますね。これお塩のケーキ体験です。お塩はお塩ゆえにどうやっても甘くなれない、、だからせめてケーキをお塩で作って甘そうな体験だけしてみる。これが全体の人間体験です。全体は全体ゆえに分離というのが分からない、力がにというのが理解できない、弱いということがどういう意味か分からない、、、孤独という感情をどうしても感じてみたい、、、これらの感情が爆発してこの人間体験を作り出しました。ただいざ人間を作り出してみても構成物質は全体です、この構成物質は全体そのものです。全体とは至福、歓喜、安堵です。この物質で孤独や苦悩、悲しみ、地獄を味わうってなかなかに難しいことです。人間体験とはどこまでもこの矛盾を抱えた体験なのです。

歓喜(全体)が苦しいを体験している

お塩がケーキを体験する、女性が男装して男を体験する、男性が女装して女を体験する、お金持ちが役で貧乏人を体験する、、、この人間体験は上記のように矛盾を抱えているのです。だからこそ常に衝動が生まれる、渇望が生まれる、歓喜、全体への帰還に憧れつつ、この自我を維持しようとする矛盾を抱えています。幸福に憧れつつも不幸を味わいたい、永遠の仲間に憧れつつ孤独を味わいたい、、全部このパターンです。

若者が実家を出る感覚

若者は実家にいれば安全で人間関係も楽、生活も楽と楽々続きです。ですが一部の若者はだからこそ家を出ようとする、、、若者は孤独を感じ、貧乏を感じ、不便をあえて味わいたい、、、これが全体から人間になった衝動と全く同じなのです。ですが心の奥底には間違いなく安全、安心、安堵への渇望を抱えている、、、この自己矛盾こそが人間です。人間の構成物質はどこまで行っても安堵、安全、歓喜であり、あえてそこから不安、孤独、危険に向かっていきます。そしてそれを味わい尽くしながら再び安堵、安全、歓喜(全体)に帰るのです。

これをマリオのゲームと捉えると完璧過ぎる

熱海駅に降りて沖縄に着くことがない、、、

これをマリオのゲームだと思って見てください。人間ゲームです、視界に広がる世界をゲームだと捉えるととんでもない事実が理解できます。通常人間が制作したゲームは欠陥だらけ、BGMがいきなり止まってしまったり、同じ人に何度も話しかけると全く同じ回答しかもらえなかったり、クッパはマリオが後方移っても振り返ることができない、、、ところがこの人間ゲームは恐ろしいほどにこの欠陥がないのです。熱海駅に降りたら沖縄だった、、さんまを食べたらカラスミの味がした、、こんな事故がゲーム上で起きないのです。もしもこれがゲームだとしたら完璧過ぎるのです。

ゲームにのめり込むのではなくこの完璧性にのめり込む

ゲーム上のクリボー、パタパタ、ノコノコ、クッパにのめり込んで戦うのではなく、、、この人間ゲームの完璧さにのめり込んでみてください。この緻密さに驚いてください、、、ヤクザに喧嘩を売ればしっかりと買ってくれる、、お店でお金を払わなければしっかりと通報してくれる、、、友人のLINEを無視し続ければしっかりと怒ってくれる、、歩きタバコをすればしっかりと嫌な顔をしてくれる、、、この完璧さです。このような完璧なゲームは人間が制作できるレベルを完全に超えています。

この人間ゲームが完璧過ぎて全員がゲームであることを忘れている

子供の頃はみんな知っていました、これがゲーム、夢であることを。ところがこのゲームが完璧過ぎて徐々に徐々にそれを忘れていく、、、記憶に過去の経験が積み重なっていくごとにこの自分がリアルすぎる存在になっていく。ゲームであるはずがない、、それほどまでに完璧なのです。人間が持つこの五感、思考、感情、、、そしてこの完璧な舞台、、、神は全員がこれをゲームであると忘れるほどの完成度でこのゲームを作り出しました。

自分が突然総理大臣に選ばれることがない、、、完璧

もしもこのゲームがポンコツゲームだったらこのブログを書いている私が突然総理大臣に選ばれるという奇跡が起こってもおかしくない、、ですがそれは絶対にない、あり得ない、、、これがこのゲームの完璧さの証明です。この私に突然長澤まさみから連絡が来て求婚されることが絶対にない、、これが完璧なのです。多くの方はこの現象をシビアと白けていきますがここがこのゲームの緻密さ、完璧さ、詰めの深さです。この視点でこのゲームを観察しますとこのゲームに対する全く違った感動が生まれます。

深い眠りから目覚めた時は体の疲労回復以外の何かが起こっていることを知っている

深い眠りとは人間から神に戻っている

深い眠りを侮ってはいけません。深い眠りとは人間に扮している神が神に戻っている時なのです。だからこそ熟睡時から目覚めた時はとんでもない充実感、安堵を感じるはずです。あの安堵感をお金で払って手に入れることはできません。人間としての活動であの境地の安堵を経験できないのです。あの安堵は人間を同一視する状態から外れた神の状態です。熟睡の安堵とは神そのものの安堵です。

人間は毎日神を思い出している

人間の熟睡とは神への帰還です。人間扮する神が神に帰還している状態、それが熟睡です。主体客体の世界、人間が何かを得たり、達成したり、日々のストレス解消では絶対に得ることができない境地です。それが熟睡、神、ワンネスです。そしてその神が朝目覚めて起床すると人間に戻ります、人間の記憶装置が稼働して我は人間あり、我は〇〇何べいである、、我は会社員である、我は長男である、、、と記憶が蘇り自分劇場がまたスタートするのです。そして神は今日も人間に成り切って生活をスタートします。マリオをスタートする人間と全く同じメカニズムです。

熟睡とは記憶装置をオフにすること

熟睡時の特徴とは記憶にないことです。何時間熟睡したという感覚は寝起きにないはずです。つまり記憶が働いていないのです。人間は記憶がなければ自身の存在を維持できないもの、その記憶をオフにすることで神に戻ります。人間は起きている間でもこの状態に近づくことができます。何かに没頭する時に実は記憶機能がオフになっています。自分の存在を忘れます、無我、無心の状態とは記憶がオフになっている状態でもあります。この時人は神に戻ります、自分の存在を忘れています。人間扮する神が扮していない状態です。

朝起きた時に過去の記憶が蘇り、我々は夢に戻る

我々は記憶の中、夢の中で生きている

マリオがなぜ毎回大冒険を継続できるか?それは記憶があるからです、毎回よし今日もクリアー目指して楽しむぞ、、と記憶に支えられた目標が蘇るからです。我々人間も全く同じ、朝起きると自分の名前、職場、環境、兄弟関係、友人関係、配偶者、、、、全部が蘇ります。これによって今日も仕事に行こう、、となるのです。記憶に完璧に支えられた生活です。もしもこの記憶がなければ、、まずこの身体の中に自分が居るという設定が外れます、職場も友人も何もかもゼロです。この身体の中に自分が居ると思えないので、、、ただ経験だけがあります。全経験を自分がやったという認識がありません。マリオに成り切るプレイヤーがいなくなるように、人間に成り切る存在がいなくなります。経験する個人が抜け落ち、ただ経験だけがあるという状態になります。

記憶によって毎日自分劇場に戻される

朝記憶が完璧に抜け落ちていれば、、、自分という存在を忘れています、ただ動く体が目の前にあるだけです。自分の手柄、自分の名誉、自分のお金、、、そんなものは存在しません。自分とは記憶によって成り立って居るからです。ただ動く体があり経験だけがあります。昨日も明日もありません、ただ今目の前の景色が変わるのみ、これが真実です。人間はこの体に名前を付け、身体の中に自分という確固とした存在しているという暗黙のルールを設定しました。これによって自分が今日も職場に行くということが起きるのです。

記憶に支えられた自分が完成すると、、、

記憶に支えられた自分が完成しますと、全体の中に全体とは完全に分離した別物体ができることになります。本当は分離できませんが、、、完璧に分離しているという勘違いが完成します。プレイヤーがマリオに成り切るように、全体が人間に成り切るのです。プレイヤーがマリオに成り切るということはあの小さい画面に閉じ込められるということ、突然戦うしか能がなくなるのです。何もしなければ退屈至極です、結果動き出すということになります。全知全能の全体が無知無能の人間に成り切ります、何もしなければ退屈至極です。結果人間は全体によって活動を余儀なくされます。

気づきの意識にとってクッパもマリオも同列

マリオは勿論主人公だが、、、

スーパーマリオをプレイするプレイヤーにとってマリオも、クッパも、ピーチ姫も、クリボウも同列で重要です。マリオだけが重要でクッパは必要ない、クッパは必要だがクリボーはいらない、、、とはなりません。ゲーム上のキャラはどれも重要であり重要でもない、、、少なくとも優劣が存在しません。マリオが大好きだと言っても敵キャラが出現しなければ何も面白くないのでマリオも同時に要らなくなります。スーパーマリオをプレイする人にとって全キャラが大切ということ、それだけ。この人間自分ゲームも全く同じで出てくる登場人物無くしてこのゲームは成り立たないものです、色々な人間との出会いがあるから面白い、、生涯一人しか友人が居なければつまらない、、、この自分とされる人間も大切だが同列で出会う人々も大切です。

何かを経験すれば全部この体の中に居る自分が経験したと取り込む

旅行に行きます、、旅行に行けば全部この体の中に居る自分がそれを経験したと取り込むのがこの体の中に居る自分です。飛行機に乗った、旅先のホテルに泊まった、海にいってビーチを楽しんだ、美味しい料理を食べた、、、全部この体の中に居る自分が経験したと取り込んでいます。本当は全部それを気づきの意識が認識しただけです。全体がそれを経験しました。この体を使って旅行という経験を全体、気づきの意識がしました。全体、気づきの意識にとってはこの体も旅行先のホテルマン、現地人、全員が同列です。同価値です。

ピンチの時こそそれをこの体の中の自分が取り込もうとする

道で赤の他人から暴力を振るわれた、、、、体には傷が付き、服は引き裂かれ、バッグからはお金を取られる、、、こんな時体は自分の中の自分を発動させ、、、なぜ自分がこんな目に遭うのか?なぜこんな悲劇を私が背負ったのか?なぜ自分が狙われたのか???と体の中の自分がこの事件を取り込もうとします。ですが真実を話せば気づきの意識がそれらをただ経験しただけです、この体が傷つけられ、この体が纏う服が引き裂かれ、この体が所有するお金が盗まれた、、、これを気づきの意識が経験した、、、、となります。本当にこの事実を認識すると「なぜ自分ばかりが狙われるのか?なぜこんな不幸な目に?何かわることを普段しているからか?」という思考のループが湧かなくなります。

美味しい料理に大金を払う理由

なぜお金持ちは美味しい料理に大金を払うのか?

美味しい料理に2万3万円を払うと言っても驚く人はいません。世の中では美味しい料理にはそれだけの価値があると普通に思われているからです。ですが冷静に考えてみてください、栄養分を取るだけならば500円をかければ人間の必要な栄養素は取れるでしょう。なぜ人間は美味しい料理にそれほどのお金を払うのか?です。そして銀座のクラブで一晩何百万円使う人が現れるのか?です。

人間は自分を忘れさせてくれるものに大金を注ぎ込む

人間というのは自分でいる時間が一番苦しい時間です、信じられないかもしれませんが自分がここにしっかりと居るという時間が最悪最低の時間なのです。例えば目を閉じて何もしないでいてください、、と言われれば多くの方は5分間と耐えられないでしょう。それほどまでに苦しい存在、それが自分です。そのためこの自分は自分を忘れさせてくれる場所に大金を払って行くのです。目の前に美味しい料理があるとき関心が料理に移ります、目の前に綺麗な女性がいればその女性に関心が移る、目の前に美味しいワインがあればそこに関心が移るという仕組みです。

世の中のサービスは全てこの仕組み

なぜレストランは何千年万円もかけて空間にお金を使うのか?それは入ってきたお客さんの関心をその空間に向けさせるためです、お客さんが空間に没入すればするほどに自分を忘れれるという仕組みです。なぜ高級クラブは大きなシャンデリア、綺麗な女性、高級なソファーを用意するのか?それは関心を全てそこに移させたいからです。関心が自分から自分以外に移っている期間は自分が欠落し全体になります。全体とは歓喜、平和、安堵、愛そのものです。

夢の中の娯楽は至福とは関係がない

夢の中でいかに娯楽を楽しもうと永遠の至福に至れない

毎晩見る夢の中で主人公(私)がいかに娯楽を楽しもうと永遠の至福には至れません。パチンコ、競馬、競艇、Netflix、どんなに充実した娯楽に興じようとも永遠の至福をそこで得て夢が終わるという風にはいかないわけです。楽しめるのは一瞬でありその一瞬を長引かせつのは不可能です、夢の中ですら。それはなぜかと言えば夢の中で主人公という分離した存在を作り上げたからこそです。夢の中とはいえ分離した自己を作り上げた途端に分離感、不足感、孤独感が襲ってきます、夢の中でです。この結果主人公はあらゆる娯楽に興味を持つことでこの分離感を解消しようとするわけです。

一方リアリティーでは

ではこのリアルな世界ではどうでしょうか?いかに主人公である自分が娯楽に興じようと永遠の至福を得ることはできません。あまりに娯楽が楽し過ぎてそこから娯楽を求めなくなった、、、そんな話を聞かないのは娯楽でえれる満足は一瞬であるからです。この時間軸の世界において一瞬の幸福を得れたとしても次の瞬間にはそれは消えてなくなります。故にこの体の中に自分がいるという分離意識の世界においては至福はいつまで経っても一瞬なのです。至福すらも消えて無くなるのがこのリアルな世界のルールです。麻雀で荒稼ぎしたからもう辞めた、、こうならない理由は次の瞬間から不足感が襲ってくるからです。

夢の中もリアルなこの世界も娯楽で永遠の至福には至れない

夢の中もこのリアルな世界も時間という存在がある限り永遠の何かをそこで手に入れることはできません。多くの方は何十億ギャンブルで儲けれたら永遠の至福が迎えにくると信じて疑わないと思いますが残念ながらお金で買える幸福が終わり次第、人は不足感を湧き続け人を破産まで追い込みます。つまり大金を手にした人間が悟ことはお金では満足は買えないということです、そしてまた湧いてくる不足感を解消するために動き周る日々に戻るのです。夢の中だろうと、このリアルな現実の世界だろうとこん体の中に自分がいるという仮定を信じた瞬間に不足感、分離感に襲われます。

夢の中の安定は至福とは何も関係がない

夢の中で安定をもぎ取っても退屈なだけ

毎晩見る夢の中で主人公(私)がアラブの王様と結婚し究極の安定を手にしたとしましょう。その瞬間は歓喜が襲ってくるかもしれません。ですが次の瞬間にはもしかしたら退屈が襲ってくるかもしれませんし、第二夫人、第三夫人との争い、言語問題、暑さ問題が襲ってくるかもしれません。少なくともその後の展開は至福しかない、永遠の至福を手に入れて終了。とはならないはずです。恐らくはあらゆる展開に移りながら次の問題を片付けていくでしょう。夢の中でしかもアラブの王様と結婚してもです。

一方リアリティーでは

一方このリアルな世界で一生の安泰を得た人はどうなるか?例えば資産家と結婚した女性の離婚率は低いのか?正確な数字は分かりませんが10パーセント近くの人は離婚しているはずです。それはなぜか?浮気、価値観のそ相違、嫁姑問題、、などあらゆる要素はあるにせよ、、、資産家と結婚=永遠の至福達成とはなりません。なぜか?このリアルな世界では自分がいるというこの大前提が不足感を発揮するからです。この体の中に自分がいるというこの大前提が分離感、孤独感、不足感を湧き起こします。資産家との結婚、安定がこの不足感を解消し続けれるわけがなく、そうならば離婚は起きません。

夢の中もリアルな世界も安定が至福には至らせない

毎晩見る夢の中も、このリアルな世界も安定が人間の不足感発生を抑えることはできません。宝くじで3億円当たれば一生の安定をある程度満たしてくれあとは倹約生活を続ければそれで済みます。もしも安定が不足感を補ってくれるならばそこからの散財は皆無なはず。ですが実際にはほとんどの当選者は何年後かに破産します。要は3億円が不足感を満たしてくれなかったわけです。それどころかいくら散在しても全く不足感は消えない、、結果破産です。多くの方は言うでしょう、当選者は金銭感覚が狂ったのだと、、、そうではありません、お金を使っても不足感が癒えないから使い続けただけです。

この体は全体との境界線であると信じ込むことで孤独が生まれた

この体は聖域

この体、この体を全体との境界線であると信じ込むことでこの分離ゲームはスタートします。この体は全体とは分離していないと信じていれば小さな子供のように無邪気なままです。大人は子供に対してあなたは個別の存在であると徹底的に教え込みそして孤独感、分離感、不足感を植え込みました。子供から無邪気さが無くなる瞬間です。勿論、この体は全体から分離しているように感じることはできます。五感が機能することでこの体が外界をその五感で感知できます。感知できるからこの独立した体が個別にあるという初期設定が完成します。

苦しみのメカニズムを全部この境界線で説明できる

私は基本何でも疑います、先ずは信じて何でもやってみますが根底には実験という感覚を常に持っています。人格を磨けば人生は楽になる、霊的進化を遂げれば人生は楽になる、高収入、安定を手に入れれば人生は楽になる、、、これらは全部試してきました。独自の実験で淡々と試してきましたが人間の苦悩がこれでは解消しないことは次第に分かってきました。友人の数も信頼の数も、お金の数も称号の数も、、人生を楽しくしてくれますが楽にしてくれるわけではありません、全て一瞬のこと、時間限定です。

もう一瞬の楽を追い求めない

金メダルを達成しても本当の安堵は取った瞬間のみ、次の瞬間から次回のオリンピックへの意気込み、プレッシャー、お世話になった人へのお礼、スポンサー廻り、母校巡り、、、そこからの講演会、、、とやるべきことが押し寄せてきます。人間はこの体を外界との境界線と信じ込んだ瞬間から延々と続く不足感、孤独感との戦いが始まりました。苦しみのメカニズムを理解できたらこの人間境界線ゲームから脱人間境界線ゲームへの大きなシフトが重要です。