いまここ

偽りの自分は結果を急ぐ

結果を急ぐのは無知無能の証拠

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中では神は人間に扮して活動しています。人間に扮した神が見る世界が広がり、香る世界が広がり、触れる世界が広がります。人間の五感で感じれる世界だけが実は広がっています。この夢において神は全知全能から無知無能に生まれ変わりました。結果そのものから結果を出さなくてはいけない人間に変わりました。ということで人間は結果を気にします。結果が出ることを焦ります。結果至上主義に陥ります。

結果を出してもどうせ不足感は消えない

無知無能、不足感全開の人間は結果を出してもすぐにまた次の不足感が湧くようになっています。つまり結果を出しても意味がないのです。結果を出せばまた次の結果を渇望します。結果が出してくれるのは一瞬の解消でありこれは永遠ではありません。重要なことは結果を出すことではなく結果を出すために無心に入ってしまうことです、結果を出すために無我夢中、完全燃焼、無思考に入り込むことでその場で「結果」そのものになってしまうのです。

結果を出すことから「無心」に入る

書道はテクニックを学ぶ場所ではありません、茶道はテクニックを学ぶとこでもありません。それらは無心に入るコツを学ぶ場所です。無心とは実はすぐそこにあります。無心、無我は遠い場所にあるのではなく「今ここ」にあります。結果をだしても直ぐに不足感全開になる人間のために大切な機会を失う必要はありません。我々は神です、神が一時的に人間に変化しているだけ、人間に不足感に振り回される必要はありません。

非二元だった

非二元とは一元ということ

主体客体の世界、、これがこのストーリーの基本です。見るものと見られるもの、触るものと触られるもの、、匂うものと匂われるもの、、、このストーリではこれは基本です。何も疑いはないでしょう。ですがおかしい、この世界は元々一つなるものからできていて何故いきなりここに分離の世界が広がっているのか?一つなるものが何故二つ以上なるものの世界に変わってしまったのか?どちらが正しいのか?もちろん一つなるものです。ということでこの二元に見える世界は二元風世界ということになります。二元風世界=非二元。

二元風世界だから経験はいつも一つ

分離が完全に実在であるならば、今ここでブログを書いていることを認識する神は、隣でお茶をする友人が感じているお茶の味も、外を歩く老人の足の感触も、、全部認識しているはずです。ところが現実には私はこのブログを書いているこの事実、そして目を移せば友人を視覚で感じること、さらに目を移せば老人を視覚で感じること、、とたった一個のことしか認識を同時に経験できません。分離が進みあらゆる分離体があらゆる経験を積んでいるように見えてもそれは見えるだけ、、認識が感じているのはたった一個です。一個の経験のみ。

100人の友人と集まっても

100人の友人が集まる同窓会に参加しても認識できるのは私が話をし、話を聞き、食事を食べ、とこの経験しか認識していません。友人が各々に感じていることを認識することはできません。全存在である神がたった一個の認識しか認識していない。分離が完成し分離体各々が各個に経験を積んでいるというのがあくまで予想でしかありません。友人の同窓会の感想を聞くことはできます、ですがそれは聞くという経験だけしか事実ではありません。

今こことは何か?

今は時間から外れること

「いまここ」この言葉ほど悟りを探求する人間を惑わす言葉はないでしょう。いまここにありましょう。私もこの言葉には苦戦しました。今は理解できます、この言葉の真意を。ですがこの言葉を表面だけで理解しようとする迷宮入りするでしょう。書道家は無心になって書に向かうときに時間を忘れます、場所を忘れます、経験だけになります。自分もいなくなります。経験だけがそこにあります。この状態が「今ここ」です。実は時間も場所もない状態こそが「いまここ」です、つまりこの言葉の意味と真逆です。時間と場所がない状態こそ今ここです。この感覚が理解できてきますと、、目の前に広がる世界は夢である、ただ夢が顕現しているということがわかります。すると今ここに神が顕現している、空が色として現れているということも分かってきます。それが今ここです。

神は「今ここ」にあった

神とは今ここです。神の顕現が今ここです。目の前に広がる世界がそのまま神です。神の夢です。それ以外は何もありません。何かがあるならばそれは全存在ではなくなってしまいます。目の前に全存在が広がります、それを認識するのも人間扮する全存在です。全存在を全存在が認識しています。認識するという言葉は主体客体の表現ですから厳密には違いますが。今ここだけが神です。神の夢です。神の夢ですから因果を超えています、時間を超えています、空間も超えています。

時間も空間も超えた世界

あの人は面白い、あの人は何か違う、あの人の行動は読めない、、あの人の秘密は時間と空間を超えた状態を知っているか否かです。この夢の中に没入していますと思考全開状態です。思考とは損得計算機です、損得感情、利害感情で行動します。夢にのめり込めばのめりこむほど見える世界は活気を失い苦しい世界を生きるのです。誤解の極限です。そんな世界を生きていると思考全開、自我全開になっていきます。そんな中、無我夢中、無心、無思考、完全燃焼の状態を知る人が現れるとその人は変わった人に映ります。自我ではなく無我をベースに生きています。思考ではなく無思考をベースに生きます。不完全ではなく完全燃焼をベースに生きています。その状態とは平和、歓喜、安堵です。

神は人間に成り切ってはいるが「私はある」というこの感覚は神の感覚でしかない

今ここに「居る」という感覚は神の感覚

これは神夢です、神が創造した夢です。人間を主人公(私)にしてこの夢を創造しました。神は人間に成り切ることでこの夢はスタートしていますがでは神感覚と人間の感覚はどのように区別すればいいのでしょうか?区別はできません、なぜならば人間も神の創造物だからです。思考が湧き、感情が湧き、五感を感じているのは全て人間扮する神です。神が今この瞬間も自身を人間と勘違いしながらこの夢、ゲームを堪能しているのです。

この世に苦しめる神など存在するのか?

この人間活動を認識しているのは神ですから苦しみも切なさも、息苦しさも、孤独感も神が感じています。人間のフリをして。神以外が認識することはできません、人間とは姿形の生命現象であってこれは独立したものではありません。神がこの夢の中を活動するための仮の姿です。マリオに感情はありません、マリオを使ってゲームをクリアした時に喜んでいるのはプレーヤーです。これはこの夢物語でも同じです。マリオを使ってに喜怒哀楽は全部プレーヤーが感じているのであってマリオではありません。マリオの使い勝手の悪さも、マリオのジャンプ力の低さに対する苛立ちも、マリオが横にしか動けないもどかしさも全部プレーヤーが感じています。

人間としての孤独感は、一番の勘違い

人間活動の最も大きな要素は孤独感をいかに感じないようにするか?これをクリアするために朝から晩まで我々は人と触れ合い続けています。どんなに人間関係が苦しくてしんどくても我々は人間を求めます。神が作ったこの夢で主人公はこの私ですがそれ以外は全部神が作った脇役です。主人公とは全くの別物、別次元です。ですからこの夢の中で多くの友人、知人、家族に囲まれてもこの孤独感が埋まることはないのです。神が扮するこの主人公(私)が実は神であったと気づくまでこの孤独感は続きます。

神にもどることを忘れた神は現実逃避を続ける

飲む打つ買うは全部夢からの脱出

これは神の夢です。今ここに繰り広げられている現実とやばれるこの世界は神が見る夢です。神が人間という役に成り切って人間活動をする夢です。夢ですから主人公以外の行動、脇役の行動全ては神が決めています。神がコントロールできないならば神の夢ではありません。神が見る夢ですから全て神のコントロール化にあります。主人公は神がこの夢を楽しむための道具です、この人間という体はそのために作られました。そして神はその主人公になりきりそしてこの夢の没入します。あまりに没入しすぎることでまさかの自身が神であったことすらも忘れてしまいました。当然神にもどる方法も忘れています。

夢の中は非常に苦しいから飲む打つ買うで夢からの緊急脱出をする

この夢の中は非常に息苦しい世界です。神が人間に成り切っているのですから異常に疲れます。全知全能の神が道無能の人間活動をしているのです、それだけでも想像を絶する地獄です。そうです、この夢の世界、人間活動は地獄なのです。ということで神(人間)はこの人間活動の一時をなんとかこの夢から脱出を図ります、それが飲む打つ買うなどの娯楽です。お酒を飲んでいる時だけ、ギャンブルをしている時だけ、キャバクラ、クラブで遊ぶ時だけ、、意識を強制的に人間活動から緩めて神にもどるのです。夢から脱出して酸素をいっぱいに吸います。飲む打つ買うをしている時だけは遊びに意識を全集中することで人間活動をしている自分を忘れます。神にもどるのです。

夢からの緊急脱出だけではもう酸欠が補えない

神は人間活動をしている間酸欠状態です。神は酸素抜きで人間をしています。途中途中遊びの中で酸素を補ってはいきますがいずれこの遊びでは酸素を補えなくなってきます。酸素を一時的に補うのではなく酸素を常に補いたいと思うようになるのです。その方法が書道、茶道、花道、剣道などの道の世界にヒントがあります。書になりきる、お茶になりきる、花になりきることで呼吸ができます。酸素を吸引できます。身体感覚に全集中することでいつでも酸素を吸うことができます。神が人間活動をする時には思考が必要になります、この心身こそは自分自身であるという思考が機能している時に人間活動を維持できます。逆に言えばこの思考が抜け落ちている時は人間活動ができません、花に集中する、茶に集中する、剣道に集中する、仕事に集中する、、、この瞬間自我が抜け落ち神に戻ります。呼吸ができるようになります。

全存在しかいないこの視界以外に存在があっていいわけがない

今この現実を認識している存在こそ全存在

今、この瞬間今を認識しているのが全存在です。今この瞬間認識していないことは何もないのです。もしもあるとしたら全存在が認識しないところで何かが起きているということになります。そんなことがあっては全存在が全存在ではなくなってしまいます。よってこの現実だけが今ここで起きておりそれが全て、地球の裏側では何も起こっていないし太陽系のどこかでも何も起きていません。この目の前の現実だけがあり、そこで五感を通じた認識、経験が全て、それ以外で経験が起きていたらそれは全存在が認識していない認識があることになり全存在はそのまま全存在でなくなってしまうのです。

10年前に別れた友人は今何をしているだろう?

10年前に別れてしまった友人は今どこで何をしているのか?答えを言います、いません。視界にいない人間はこの世にいません。もちろん卒業名簿をから電話番号をかけて10年ぶりに会ったとしましょう。会う瞬間その人はこの世に出現します。その瞬間までは声だけの出現でしょう。小学校時代の友人たちは今この瞬間にいなければいないのです。もしも居たとしたら今この現実を認識している全存在が認識しています。今全存在が認識していないならばいないのです。

会社に行っている間奥さんは自分を待っていないのか?

会社に行っている間、奥さんが姿が見えないならば居ません。存在が消えています、あなたが家に帰ったその瞬間までこの世にいないのです。あなたが会社にいる間退屈に待っているたんだと言ったとしてもそれは今言っているだけであって証拠は何もないのです。全認識が認識していないことは何も起こっていないのです。それだけです。全認識は全部を認識するから全認識であって全部を認識できない全認識は全認識ではないのです。

今ここ以外に事実が隠れているという思い込みから不足感を生産し続ける人間活動

今は平和だが将来はわからない

今は平和に生きれているが将来は不安だから毎日準備を続けよう、これは多くの方が抱き続けている思考のパターンです。今ここは平和だが、、、これが勘違いです。今ここに入り込めれば戦争中だろうが、火事場だろうがそこは平和、安堵、歓喜なのです。これ以外はありません。今ここはいつでも歓喜、安堵、平和なのです。今ここを離れ思考の世界(夢の世界)にどっぷり入り込むとそこから不足感が湧き出してくるのです。歓喜な状況、平和な状況、安堵の状況はないのです。今ここに一つになった時に歓喜、安堵、平和にシフトするのです。

将来のことは分からないが、まずは今ここで平和になる

今ここで平和、歓喜、安堵になれなければ将来なることもできません。そもそもそのような条件はないのです。今ここが歓喜、平和、安堵です。今ここが不足感、孤独感、欠落感ならば恐らく将来もこの状態でしょう、なぜならばこの事実を知らないからです。平和、歓喜、安堵とは条件を揃えて人間が手に入れるものではありません。平和、歓喜、安堵とはそれを求める自分が実はいないことを悟ることです。平和、歓喜、安堵とはそれを探し求める自分ストーリーの夢から覚めることです。

今ここで平和そのものになれてなぜ将来を心配するのか

将来の不安のほとんどは平和、歓喜、安堵になれない人の心理状態です。ですからそのようなものに振り回される意味は全くありません。平和、歓喜、安堵を手に入れる条件と勘違いしている人間活動者の思考がこの将来不安を生み出すのです。全存在の自我ゲームがこの将来不安を生み出します。自我ゲームから降りてしまえばそこには全存在(歓喜)しかないのです。全存在が将来不安を抱えるほどバカらしいことはありません。もちろんこの将来不安ゲームを楽しんでいるのも全存在ですから万事OKです。

究極的に言えば事実以外は何も起きていない

私は生きているということすらも思い込み

全存在が全存在体験をしているこの現象の世界では今起きている事実以外は何も起きていません。もしも起きている事実以外のことが起きているとしたらこれは全存在ではなくなってしまいます。全存在が全存在であるここで全存在以外の現象が起きているわけがないのです。今ここ=全存在です。ここでいう今とは時間とは全く異なります。時間とは脳の記憶が作り出した創造物です。創造物を超えたものが今です。私は生きている、これも思考です。生きているっていうのは多分人間として生きているということでしょうが、その事実はありません、というか認識していないはずです。私がただある、ただこの体が動いている、、ただ語感が作用している、これは事実です。全存在がこれを認識しています、ですがこの私(人間)が生きて人生で歩んでいるというのは思考です。事実ではありません。全存在が認識していないことは何も起こっていないということです。

実は人間活動のほとんどが思い込み

将来のために今勉強をしないと大変なことになる、、だから勉強をしよう。これは思い込みです。勉強しないと大変なことになる、、という事実はここにありません。思考の中、夢の中にどっぷりと浸かる思考です。今起きていること、これが全てです。これ以外は存在しようがありません。私は認識していない事実があってだからこそ今のうち色々な準備をしよう。これは現実ではありません。事実は今ここで起きていることが全てです。事実のみを受け入れているとそこに思考が入り込む余地がないのでそのまま至福、歓喜、安堵に入ります。この事実を理解した時に人(全存在)は思考への取り憑きを辞めます。今ここで至福に入れるのに何の準備が必要なんでしょうか。

今ここから至福に入れる人間(全存在)が準備をしなくては至福に至れないと勘違いするメカニズム

主語を人間とするか全存在とするかで行動が全く変わってしまいます。人間を主語にすれば至福とは準備に準備を重ねて苦しい山を上りようやく辿り着くというストーリーに入ります。主語を全存在にすれば全存在そのものが歓喜、至福、安堵ですからその状態にシフトするだけです。そこに準備は一切不要です。思考を完璧に抜け落とさせれば人は全存在に強制シフトします。なぜならば心身がこと自分であるという思い込みは思考だからです。事実ではありません。今ここで至福、歓喜、安堵になれるのにわざわざ準備に準備を重ねて山登りをする意味はないのです。もちろんその山登りも全存在の苦しみ体験ですからそれもまた良しです。

目標を達成してもしなくても地獄

不足感を解消してもしなくても地獄

人間は不足感を抱き続ける動物です。人間が私は人間であるという自覚を持った瞬間に不足感が生まれます。全存在、いや存在しかないこの世界に個人という錯覚、幻想を抱いた瞬間に個人以外の他が生まれます。極小の自分の誕生と同時に壮大な他の世界が誕生します。ですがこれは自身に対する無価値観も同時に生み出すのです。それはそうです、見える世界全てからこの体だけが自分に縮小化された存在は息苦しくて仕方ないのです。そしてこの自分と称する存在に浮かび上がる思考は自分では到底コントロールできないという始末、無価値にも関わらずさらに思考する全くコントロールできないという無限地獄に苛まされるのがこの人間ゲーム、自我ゲームの真相です。これで人生最高、幸福、ハッピーしかないと宣っている人間がいたらそれは大嘘つきということになります。

苦しくて当たり前、苦しくないとしたら頭がおかしい

全存在がこの人間という体、思考のみを自分自身と勘違いすることからこの人間ゲームはスタートするわけですから人間のデフォルトは苦痛、不足、欠乏です。苦しいのがデフォルトであって幸福がデフォルトでは決してありません。ですから人間は普通に生きていれば苦しさだけがあります、この事実を先ずは認めなくてはなりません。その上でいかにこの苦しみから解放されるかが唯一の目標、夢になります。なぜ人間はお金持ちと結婚したら、良い会社に就職できたら、良いパートナーに巡り合えたら、、、いつか幸福になれると幻想を抱き続けるのはこの苦しみから逃れる方法があると思い込んでいるからです。ですが実際はそのような不足感を埋めてくれるような対象などあるわけがないのです。なぜならばそもそも対象と苦痛とは何も関係がないからです。

対象と苦痛とは何も関係がないにも関わらず

対象と苦痛が何も関係がないにも関わらず人間はなぜ埋めてくれるだろう対象を探し続けるのか。それはそれにしか希望が持てないからです。目に見える何かしか私の欠乏を埋めることができないと信じるぐらいしか希望がないのです。故に人間は愛人、お金、地位や名誉、安定という対象を求め続ける人生を歩むのです。ではもしもこれらの対象が人間の不足感を埋めることができないとしたらどうしたら良いのでしょうか。そうです、不足感を対象で埋めるのではなく苦しみの根源である自我を追いやるしかありません。行為に没入することで無我の状態に入り徐々に無我の状態にシフトしていく。今ここで無我に入ることで自我を追いやる、これしかありません。夢から覚めた感覚、至福の感覚を今感じることで至福に見つけてもらうことしかありません。無我に入り込むことで無我に見つけてもらうしかないのです。

成果を上げるために日々動き回る現代人

今日は明日のための1日

茶道とは美味しいお茶を入れるための作戦ではありません。茶道とは美味しいお茶を入れるためのノウハウではありません。茶道とはお茶を入れることで無我に入り至福に至るための行為です。剣道も相手を叩きのめすためのノウハウでもツールでもなくその行為を通じて無我に入るための道、修行です。勝ち負けに価値をおいているわけではありません。つまり結果は二の次三の次、その行為を通じて自我を解放する行為です。

成果を上げても至福には至らない、成果は個人を解放しない

成果が人を至福に至らせるならば億万長者、成功者、著名人、金メダリスト、などで自殺者はいないはずですが実際はそうでは無いです。成功の可否に関わらず自殺者が存在するのは成功が人を至福に至らせないことを証明しています。日本人の多くが今日を明日、明後日、将来のための準備期間に使うわけですがこれは全てこの理論、今日を成果のための道具にしてしまっているのです。美味しいお茶を入れるために今を犠牲にしているのです。これは茶道ではありません。

成果が個人を至福に至らせないならば成果を気にする生き方をやめよう

これまでの人生で成果や結果が個人を至福に至らせたことがないにも関わらずなぜ人はまた成果に依存した生き方をするのでしょうか。今まで一度たりとも成果や結果が永遠の幸福を保障してくれなかったのになぜまた成果、結果を期待した生き方に依存できるのか。これこそが自我の策略、自我の陰謀、自我の存続方法です。次の人参こそはあなたを永久に幸福にするはず、今まではたまたま間違えただけ、たまたま違っただけだ、、、これが自我の存続方法です。もういいでしょう、もう十分でしょう。この策略に振り回される生き方は。成果が人を至福に至らせるのではなく、成果を得るというきっかけを利用してそこから無我に入りましょう、そこから無我の境地、至福に入りましょう。成果と至福を物物交換しようという浅知恵は捨てましょう。至福は今ここで入れます。それは個人が入るのではなく個人を忘れた時、個人が抜け落ちた時に入れます。