非二元だった

非二元とは一元ということ

主体客体の世界、、これがこのストーリーの基本です。見るものと見られるもの、触るものと触られるもの、、匂うものと匂われるもの、、、このストーリではこれは基本です。何も疑いはないでしょう。ですがおかしい、この世界は元々一つなるものからできていて何故いきなりここに分離の世界が広がっているのか?一つなるものが何故二つ以上なるものの世界に変わってしまったのか?どちらが正しいのか?もちろん一つなるものです。ということでこの二元に見える世界は二元風世界ということになります。二元風世界=非二元。

二元風世界だから経験はいつも一つ

分離が完全に実在であるならば、今ここでブログを書いていることを認識する神は、隣でお茶をする友人が感じているお茶の味も、外を歩く老人の足の感触も、、全部認識しているはずです。ところが現実には私はこのブログを書いているこの事実、そして目を移せば友人を視覚で感じること、さらに目を移せば老人を視覚で感じること、、とたった一個のことしか認識を同時に経験できません。分離が進みあらゆる分離体があらゆる経験を積んでいるように見えてもそれは見えるだけ、、認識が感じているのはたった一個です。一個の経験のみ。

100人の友人と集まっても

100人の友人が集まる同窓会に参加しても認識できるのは私が話をし、話を聞き、食事を食べ、とこの経験しか認識していません。友人が各々に感じていることを認識することはできません。全存在である神がたった一個の認識しか認識していない。分離が完成し分離体各々が各個に経験を積んでいるというのがあくまで予想でしかありません。友人の同窓会の感想を聞くことはできます、ですがそれは聞くという経験だけしか事実ではありません。

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