いまここ

しばらく会っていないあの人

最近何してるかな?

私の目の前に登場していない人はこの世界には存在していません、同窓会で10年ぶるに会った友人は10年間存在していなかったのです、あるがままの世界に。10年ぶりにエネルギーが変化してこの世界に登場しました。では10年間は何をしていたのか????何もしていない存在しないのですから。あるがままの世界はたったひとつのエネルギーですから今ここに実在しないのであれば存在しようがないのです。

電話はしたけど

電話はしていたしFacebookでは活動を見ていた、、、つまり音、画像としては存在していたのです。体ではなく、、たった一つのエネルギーが音、画像として表現していた、、ただそれだけです。つまり一年間誰とも会わなかったら私以外誰も存在しないということでしょうか??その通りです。この世界はたった一つのエネルギーですからここ以外にエネルギーが存在してしまったらたった一つではなくなってしまうのです。

東京に上京した息子が心配で

大丈夫です、あなたが見ていない瞬間、、、子供は存在していませんこの世に。あなたが電話をしたときにだけ声だけ登場します。今何をしているだろう???大丈夫です、存在していませんから。しっかりと食べているだろうか?????存在していないのですから何かを食べるということは不可能です。では痩せちゃうのではないか???それは分かりません、あるがままがどのような表現をするかです。

見えていない世界に関心を持たなくていい

今目の前に広がる世界だけが全てです、これ以外に世界はないのです。ですから見えていない世界の心配をしても意味がない、地球の裏側では、、、お隣の韓国では、、、全て無駄、、、存在していないのです、いまこの瞬間。息子の将来が心配で心配で、、、時間がないのですから息子の将来などないのです、、ただたった一つのエネルギーが誰の関与も受けずに変化するだけ、、、つまり誰にも何もわからないしコントロールできない、、これが真実です。

無限の変化を感じる場所

1日として同じ日はない

これは無限の鏡です、、いまここは無限の鏡の現れです、、ゆえに毎日毎日変化します、そしてその経験、感覚は全く同じものではない、、なぜならば無限の現れを感じているからです。毎日同じパンを食べていたとしても、、この体は毎日のように衰えますから、、味覚は確実に変わっていきます、、、パンの素材の小麦も毎日のように品質が変わります、、、麦が育つ大地、水が変化するからです。同じ日、経験は一回たりともないのです。

同じ人

毎日一緒に過ごす人が居るとしましょう、、ですが初めて会った日と、、今日ではその人の印象は変わってきているはずです。。。そうです、、毎日徐々にその人の印象は変わるのです、、、なぜならば、、、その人は、、毎日老衰していっているからです。。これがこの世界が無限の現れである証拠です。どこかにユートピアがあるのでは??そのような夢を持つ人がいますがありません、、なぜならば、、、この世界は無限の現れですから、、完璧という決まった形状が存在しているのならば、、そこは無限の現れではないのです。

自分

自分という存在が絶対的に存在しない理由は、、自分という固定された存在が存在してしまったら、、、ここは無限の現れではなくなってしまいます。自分という不動の存在は存在しえないのです。体は毎日のように老け込むにも関わらず自分という絶対不動の存在を疑う人は居ないでしょう、、ところがそれではこの無限の鏡にそぐわなくなります。。。ゆえに自分の存在を信じる人は苦しみ続けるのです。。。そうです、、人類の多くが苦しむ理由がここにあります。ですがこの苦しむという体験すらも無限の現れの一つです。ゆえに何も問題はないわけです。

五感

なぜ食に走るのか????

五感が鈍れば、、、、楽しくない、、、、、結果、、、、食に走る、、、お酒に走る、、、仕事に走る、、、、異性に走る、、、、何かに走らざるをえない、、、、なぜか?????退屈だからです、、、、、五感が鈍り、、、何をしてもつまらない、、、、状況になる、、、、、、、

思考に走る、、、、、

五感が鈍れば、、、、思考に走ります、、、退屈だから、、、、退屈だから、、、、思考という刺激に走るのです、、、、、結果、、、、、思考中毒になる、、、、、でもこれでは五感が鋭敏になることはない、、、だからこの思考中毒は無くならない、、、、、益々思考中毒になっていく、、、、重要なことは五感を開くこと、、、五感を開いて、、、、今ここに居て感動できる体にすることです。

体を作る、、、

体を作ります、、機械運動ではない、、、、体の柔軟性を作り上げます、、、子供のような柔軟性を取り戻します、、、すると、、、、五感が開いてくる、、、、今ここに居て感動が起きる、、、今ここに居て楽しいが起きる、、、、すると何かに走るという中毒が消える、、、、何かをしなくてはという中毒が消えます、、、、ただここで楽しいが起きます。

退屈に責任を取る

退屈がスタート

あれ????なんか暇だ、、、なんか退屈だ、、、なんかつまらない、、、、いつの間にか人間はこの退屈地獄に入り込みます、、、なんだかしらないが退屈、、、、これが普通でしょう、、、、ではなぜ?????退屈なのか????簡単です、、、この世界、、この無限の世界を感じる力が落ちたのです、、、ただ感受性が落ちたのです、、、それだけです、、、、

退屈ゆえに思考にふける

退屈だから、、思考にふけり、、、嗜好品にふけり、、、TVにふけり、、、スマホにふけるのです、、、全ては退屈がスタートです、、、退屈しのぎに、、、思考を利用するのです、、、、ですがこれは全て現実逃避、感受性逃避、、五感逃避です、、、これでは、、、益々現実は退屈になります、、、、

五感を開く

退屈故に、、退屈逃避をしていただけだった、、、、ただこの場所、、いまここが退屈だから、、、、何か夢中になれること、、何か意識を集中できることを探しているだけ、、、、これではいつまで経っても同じこと、、、いい加減、、、退屈と真っ向勝負をしなくてはならない、、、、、、そうです、、いまこの場所が大満足にならなくてはならない、、、今この場所に、、、ただ居るだけで、、、、大満足、、大充実、、、にする、、、五感を開いて、、、、五感を開く習慣を持つ、、、ただそれだけ。

全員が今に居ない世界

今過去を思い出している

私を生きてる全員は過去を生きています、、残念ですが、、、過去を思い出すことを毎瞬やっています、この瞬間、、、過去を思い出しています、、、、いやいやそんなことはない、、、、私は今ここに居ます、、、残念!!!!それはない、、、私とは何ですか?????思考です、、、この思考は過去が作り出した「私」です。。。過去を振り返らなくては、、、、この私は消え去ります、、、私は、、、、と言った瞬間、、、記憶を意識しています、、記憶とはデータです、、、記憶の集大成である「私」が今に居ます、、、おかしい、、、

私を想像すること、と今に居ることは不可能

「私」を強く強く意識しながら、、、ゴルフをする、、、集中できない、、、なぜか????「私」とは記憶だからです、、、、記憶を意識しながら、、、今プレイをする、、、不可能、、、、です。。。。多くの方はこうして生きています、、、私を思い出しながら、、、行動をします、、、意識のベクトルがバラバラなのです。。。記憶と行動の組み合わせ、、記憶と行動の、、、錯綜状態です。

私の嘘を見破ると

私というのは絶対に存在しない、、、ここに気づきますと、、、私に注目するという行為、私にまつわる思考のあれこれ、、感情が消えていきます、、、隙間が生まれます、、この隙間から静寂が入り込んでくる、、この隙間から平和が入り込んできます、、、、私が消えれば消えるほどに、、、隙間風が心地いい、、、私など、、暗号、名前、コードネームに過ぎない、、、この理解が「今ここ」に居る感覚を掴みます。

真実を探す

今ここにある

真実とは予測、推測ではありません、、、真実とは間違いようのない事実です、、、これを我々の日常で探すとどこにあるのか?????コーヒーを飲んだ瞬間の味、、、温度、香り、、、この経験だけが真実です、、コーヒーは名前、真実とは異なります、、、コーヒーという実在、、、、これは分かりません、、、本当に実在しているという証拠は分かりません。。。。

この体

この体が本当に実在しているのか????全く分かりません、、、、ただし触れる感覚、香り、思考、感情を感じているということ、、、これだけは真実です、、、、これをずっとやっていると面白い事実が見えてきます、、、、物があろうとなかろうと、、、人が居ようと居まいと、、、経験という紛れもない事実だけがガンガン進んでいく、、、重なっていく、、、現れては消えていく、、、、、、あれ????これを生まれて死ぬまでやるんだという紛れもない確信が湧いてきます。

経験しかない

どうやら経験だけが真実でそれ以外は真実ではないぞ、、、、思考を寄せ集めた観念や価値観は、、、真実とは何も関係がない、、、、真実とは経験の寄せ集め、、、経験は有るが、、これは物体ではない、、、真実とは、、、物体がない経験の寄せ集めではないか??????真実とは実在しない経験という寄せ集め、、、無限の経験が集まった、、実在しない無限、、、、

何を焦って成し遂げることがあるのか??

究極の安らぎ

今ここに究極の安らぎがあって、、、何を一体焦って叶えることがあるというのでしょうか???今ここに完全な至福があるのに、、、なぜ焦って何かを掴もうとするのでしょうか????これは完全なジョークです、、、人間は脳が進化することで、、その脳が言葉を生み出し、、言葉がイメージ、幻想を作り出し、、、その言葉を絶対的なものであると信じたことから、、、我々は幻想に閉じ込められました。。。。この幻想の中でなんとか幸福になろうともがくのが我々の本質です。

言葉を盲信しない

小説では、、、妄想で10人以上を作り上げ、、、楽しむ、、、、小説を人間が楽しめるのはイメージ力、、、これしかありません、、、このイメージ力が、、、、今目の前の現象にそのまま加わります、、、何かを見れば、、その物には名前がありますから、、、名前に不可されたイメージ、意味ががっつり加わります、、、目の前の現象が、、しっかり意味のある現象に切り替わるのです。。。だから全く同じような現象が起きても全く異なった意味が生じ、、、全く異なった感情が生まれるのです。

そして意味を選べない

ではその意味をハッピーな意味に変えちゃえば、、、全部が全部ハッピーになりますよね、、、、となりますがそうではないのです、、、、この世界において、、個人は幻想で居ません、、ですから意味をコントロールできる個人が実在しないのです、、、勝手に思考、感情、行動が湧き上がりますから、、、、どういう意味が付くかは、、、完全に非コントロール状態です。

我々ができることは、、、

つまり、、だからといってこの我々は能動的に意味づけを変えるなど不可能なのです、、、、できることは、、、、この事実に気づくだけです、、、この事実、、、この事実に触れて、、、今この「私」を取り込む状況を確認するしかありません、、、するとこの環境を変えなくては、この状況を変えてやる、、なんとか這い上がってやる、、、、みたいな思考、感情が湧かなくなっていき、、、観念が崩れてきます、、、、言葉が作りだした幻想が緩んでいきます。

鳥の動きが優雅なのは

優雅さの理由

鳥の動きに焦りがなく、小賢しさがなく、優雅なのは、、、そこに自己が不在だからです、、、、在るという感覚の中でただ動きが起こっているからです。。。「私は今飛ぼうかな??明日にしようか、、やっぱり明後日だ???」これらの思考の動きが皆無です。。。私は周囲からどう見られているかな???という思考も湧かない、、、完全に今に在り、、、動きだけがあります。

思考に取り込まれていると

思考に取り込まれ自我全開、完全ストーリーの中に居ますと、、、、鳥の動きの優雅さに気づかない、、音楽の美しさも、植物の神々しさも、、何もかもが、、淀んだ世界に変わってしまう、、、この神の現象が、、、ただのイメージ、概念に浸っていく、、、、本当はただ今ここに神が起こす現象しかない、、、このことに気付いてきますと、、、観念が落ちていき、、その度に、、光が戻ってくる、、、これは幼少期に見ていた景色、、、

全部を神の起こりであると捉え直す

先ずは練習です、、頭でこれが神の起こりであると認識していきます、、全思考、全感情、全行動が、、、神の起こりであると、、、、徐々に徐々に認識が深められていきますと、、。次はそれを体験として感じるようになっていきます、、、体験としてその事実を経験できるようになります、、、次にただそれを感じる状態になります、、、

自分へ帰る

最後の帰省場所

私たちは最終的にどこに向かっているのでしょうか???輪廻転生があるのだとしたら、、最終的には何になるのでしょうか????霊格を高め続けて、、最後は、、、、結論は、、、自分に帰ります。。。自分に帰る????本当の自分です、、今の自分が自分だと「思っている」自分ではなく、、、今の私が「考えている」私ではなく、、、今の俺が「想像している」俺ではなく、、、本当の自分です。我々が知ってる私は思っている、考えている、想像している私です。

私をここに出してください、、、

今ここで私を出してください、、、でませんよね、、、なぜ???だって、、脳が作った存在が私ですから、、、脳が作った???脳がどうやって作ったのですか???脳の思考、創造を司る部位が作り出したモノですから出せません。。。つまり脳が無ければ私は居ないわけですよね、、、脳が現在進行形で作らないと無くなっちゃう存在、、それが私です、、、脳が今作らないと消えちゃう存在、、が私です。

脳が作り出し瞬間だけ登場する「私」

私たちが想像する「私」はまさかの脳に完全に依存しています、、、脳が私を思い出してくれないと「私」は存在できないのです、、そんな柔な存在、しょぼい存在が「私」です、、、、本当でしょうか???この私とは全く関係なく明晰に「在る」という感覚があり続けます。。。脳が完全に「私」を忘れている時も確実にある「在る」という感覚、、、これが私の本性です、、、、脳が作り出した想像物「私」をこの「在る」が気付いた時に、、、「私」は在るというストーリーに入ります。

本当の「私は在る」

本当の私は在るは、、、、脳が作った「私」ではなく、、「在る」この本質の存在のことです、、これが「私が在る」なのです、、、多くの人は脳が作り出した「私」が「在る」と信じています、、、、違います、、、「在る」という感覚こそが私なのです、、、「在る」というゆるぎない感覚が最初にあり、、、そこに脳が作り出した「私」が後付けされました、、、急に「在る」が強烈に小さくなったのです。。。本当は「在る」という感覚の中で脳が作った「私」も、、、全ての登場人物もただ起こっています。

衝動が消えていく

苦しみを隠すための衝動

このイメージの世界に閉じ込められますと苦しい、、どこに苦しみを解消してくれる何かが全くわからない、、そこで衝動が生まれます、、衝動が起きることで今のこの苦しみを隠す、、衝動に意識が向くことで今ここにある苦しみから逃げることができます、、、この衝動とは食欲、性欲、金銭欲、名誉欲、安全欲、、独占欲かもしれません、、これらの衝動は実はこの苦しみを隠すために生まれます、、この衝動を叶えようという動きが今ある苦しみを一瞬忘れさせてくれるのです。

苦しみの根本原因に気づく、、

苦しみの根本原因に気づきますと、、、衝動を満たすことに興味が無くなっていきます、、なぜならばこんな対処療法を一生続けたくはないから、、、だったらさっさと根本に切り込んでいきたいと、、こうなるのです、、、今までの私の衝動は苦しみを隠すために生まれていたんだなーという気づきは大きなベクトル変換になります。。もうこの衝動に付き合わなくていい、、、

衝動を否定する必要はない

衝動を否定して我慢すればいいのではありません、、衝動を衝動として受け止めながら、、これは根本解決にならないことを分かって満たせばいいのです、、、すると徐々に徐々にこの衝動は消えていきます、、そしてこの衝動に対し関心が薄くなっていくのです。。。根本解決への関心が高まっていきます、、根本解決のメッセージに触れていくようになります、、そしてそこを目指すだけでも安心感が湧いてきます、、この場所が私が追い求めていた場所だったという究極の安心感です。それがまた衝動を弱めます。