あるがまま

至福に至るには「私」だ

この私が至福から追い出されただけ

どうやらこの世界には至福が常にあってそれはいまここにあるらしい、時間もなく空間もなくたったひとつのエネルギー至福がいまここにあるのならばこの「私」が絶対に見つけ出してやる!!!自我はこの作戦で至福に戻るのを妨害します。自分という存在こそが至福から幻想の世界に飛びたした張本人にも関わらずその自分がこの幻想の世界でそれを見つけ出してやると意気込むのです。

私があるがままに再吸収される

この私が消滅された時にあるがままは現れます、いつでも、、私という存在があるがままの世界から幻想の世界に入り込んでいるのです。勿論「私」もあるがままの表現の一つですがその「私」がいる世界は幻想のストーリーの世界(あるがままの表現)ここは苦しいのです。この世界に居る限り至福には至れないのです。「私」が至福を見つける時にはまだ「私」が存在します、、これでは絶対に至福に至れないのです。

私を無くすことなどできるのか????

私を無くすことなどできるのか????先ず大前提でこの世界には自由意志は一切存在していませんから意図を持って無くすということは不可能です。ですがあるがままの表現といて「私」があるがままに再吸収されることはあるでしょう、その時がくればそうなります。もしかしたらそうなるかもしれない、少なくとのこの「私」が自由意志を持って再吸収されよう!はないのです、、見かけ以外には。

しばらく会っていないあの人

最近何してるかな?

私の目の前に登場していない人はこの世界には存在していません、同窓会で10年ぶるに会った友人は10年間存在していなかったのです、あるがままの世界に。10年ぶりにエネルギーが変化してこの世界に登場しました。では10年間は何をしていたのか????何もしていない存在しないのですから。あるがままの世界はたったひとつのエネルギーですから今ここに実在しないのであれば存在しようがないのです。

電話はしたけど

電話はしていたしFacebookでは活動を見ていた、、、つまり音、画像としては存在していたのです。体ではなく、、たった一つのエネルギーが音、画像として表現していた、、ただそれだけです。つまり一年間誰とも会わなかったら私以外誰も存在しないということでしょうか??その通りです。この世界はたった一つのエネルギーですからここ以外にエネルギーが存在してしまったらたった一つではなくなってしまうのです。

東京に上京した息子が心配で

大丈夫です、あなたが見ていない瞬間、、、子供は存在していませんこの世に。あなたが電話をしたときにだけ声だけ登場します。今何をしているだろう???大丈夫です、存在していませんから。しっかりと食べているだろうか?????存在していないのですから何かを食べるということは不可能です。では痩せちゃうのではないか???それは分かりません、あるがままがどのような表現をするかです。

見えていない世界に関心を持たなくていい

今目の前に広がる世界だけが全てです、これ以外に世界はないのです。ですから見えていない世界の心配をしても意味がない、地球の裏側では、、、お隣の韓国では、、、全て無駄、、、存在していないのです、いまこの瞬間。息子の将来が心配で心配で、、、時間がないのですから息子の将来などないのです、、ただたった一つのエネルギーが誰の関与も受けずに変化するだけ、、、つまり誰にも何もわからないしコントロールできない、、これが真実です。

時間がないのだから原因と結果はない

因果関係は時間があってこそ

本質の世界、あるがままの世界には時間はありません、そうなると原因と結果の法則はありえないということになります。ですがストーリー、幻想の世界ではあるように見えているだけです。実際には時間は存在しないのですから原因と結果の法則は嘘です。原因と結果の法則があるように見えているだけです、本当はただたった一つのエネルギーが変化しているだけ、この変化を原因と結果の法則に基づいていると自由に解釈しているだけです。

あるがままが起こり、原因と結果の法則が働いているように解釈が起きる

あるがままの世界には一切の時間がありません、たった一つのエネルギーが変化しているだけです。この変化を「私」が観察し原因と結果の法則が働いていると解釈が始まります。「私」はこの移ろう世界に原因と結果の法則があると信じることで生きやすくなりたいわけですが実際にはその法則は成り立ちません、なぜならば時間は実在しないからです。

上手くいっていない時も楽しめるか

上手くいっている時だけ幸せならば

上手くいっている時だけ幸福ならば、、人生の半分は不幸ということになります。なぜならば上手くいくかいかないかは全部全自動だからです。これは苦しい。そうではなく上手くいっていてもいなくても幸福、これならば常に幸福でいられます、なぜならば上手くいくかいかないかは全部が全部あるがままの表現でしかないからです。

上手くいき続ける人生もあるのでは???

勿論あるでしょう、ですがそれもあるがままの表現でしかないのでそれは完全にタマタマです、まぐれです、レアケースです。上手く行き続けるを仮に目指したところでそうなるかどうかは全てあるがまま次第、個人はそこには一切介入できません。逆に言えば上手くいかないまま人生が終わることも十分にありえるということ、その人生は終わっているのでしょうか?そうではないはずです、それもあるがままの表現でしかないのですから愛おしいのです。

究極の不景気に生まれそのまま死ねば

ある国家の究極の不景気時に生まれそのまま50年間で命を落とせばその人の人生のほとんどは上手くいかなかったで終わるでしょう、ですがその人生は悲惨なんでしょうか???そんなことはないはずです、全部が全部あるがままの表現ならばそれはそれで面白いのではないでしょうか。究極の好景気の国があれば反対も当然ある、それがあるがままの表現です。

愛おしいしかない

全生命現象に優劣はない

今目の前に広がる全現象は全てあるがままの現れ、森羅万象の現れです、、、この現れに優劣など一切なくあるのは愛おしいさのみです。もしも現象に優劣がつくのならばそれは個人というフィルターを通しているからです。個人の物差しというものを通して見るから現象に優劣、正悪、長短、愛憎が生まれるのです。そしてこの個人という存在は実は実在しないのでそれは幻想です。幻想の物差しを通じて現象を眺めることで愛憎が生まれるのですからこれは圧倒的に損なのです。

戦争を起こす極悪人も愛おしいのか

戦争という幼稚な行為を起こしてしまうのは幼稚園児のようなものです、幼稚園児を愛おしいと思うことはおかしくないはずです。例えば人を殺めてしまうのもテロリストも幼稚園児のようなものですから愛おしいのです。子供が悪口を言い合って争っている姿は愛おしいですよね、大人が幼稚園児のような精神状態で争っているのが戦争です。戦争を肯定しているのではなく起こす動機が幼いということです。

子供の時は嫌な奴だと思っていたが

子供同士の時はおもちゃの取り合いで争い本当に憎たらしいと思っていた友人も大人からみたら愛おしい存在です。これは大人も同じ、戦争を起こす当事者同士にとって悪魔なような存在に見えても一歩上から眺めれば愛おしい存在でしかないのです。逆に言えば愛おしいと思えない存在は個人という幻想のフィルターを通じて見られてしまっています。

猫同士が真剣に争っている

猫が真剣に縄張り争いをしている時、致命傷を与えるような傷を与えることをあるでしょう。ですがこれを人間が眺めば愛おしい争いです、それぞれが真剣に生き抜くために争っているのですから。何がいいたいかと言えば全てが愛おしく見えるということは決して嘘ではなく本当なのです。あるがままの視点で全現象を眺めるそのような気づきが起きます。

でどうしたらいいのか?ではない

真実に触れるとどうしたらいいのか?は出てこない

悟り本を読む、読んで内容は分かった、、自分も居ない、自由意志もない、時間も何もない、、それは分かった、、ではどうしたらいいのか????と多くの方は疑問に思うはずです。残念ながら、、どうしたらいいのか??が湧いているうちは分かっていないのです、気づきが起きていないのです。真実とは究極のリラックスでありリラックスによって全てが変わってしまうのです。その時にではどうしたらいいのか??は出てこないのです。

不安感とはあるがままを信用できていない状態

不安感が消えなくて、不安がいつもでてきてしまう、、、この状態は個人の自由意思に大きなウェイトが置かれているからこそ出てく状態です。自由意志で人生を個人が切り開いているという気持ちになっている時に湧いてくるのです、なぜならば個人も自由意志も全部本当は実在しないことを本質では分かっているからです。真実ではないことを信じているから不安なのです。

成功してもいつも不安な理由

本人は自由意志で的確な判断を重ね成功に至ったと信じている個人も本質レベルでは自由意志も判断も個人もいないことは分かっています。ですから間違った概念の世界に居ることは本質では分かっているのです、だからいつも不安なのです。成功者の自殺などの悲しいニュースが後を絶たないのはそのようなことを示しています。自分自身が次に正しい判断をできるか常に不安なのです、それはそのはず自由意志など最初からないからです。

成功法則とは不自由法則

こうあるべき、こうあるべし

成功者はその他大勢とは違う、成功者はこう判断しこう行動する!!これらは全て人を不自由にする行動です。判断決断に緊張感が走りますがこれは本当の自由とは真逆ですね、本当の自由とは間違うとか正解とかのない世界、あるがままの世界のことです。成功法則を学んだ自我はこれからの人生はこういう決断を下していこうと、、勢いつくでしょう。ですが実際には自由意志はないのですからただ勘違いが大きくなっていくだけです。全くもって自分で判断などしていないにも関わらず自分で的確に判断を下している、、という勘違いの世界に生きることになるのです。

常識ある社会人とは

子供は大人になるにつれて常識のある社会人とは、、と学んでいきます。そしてその学びに沿った言動をとるようになる、見かけ上。この段階で徐々に生きているのが重くなっていくのです、非常識な選択決断を緊張感を持って避けなくてはならないからです。そして実際には自我がそれをしているのではなくそのような思考が湧き続けているだけです。

良識、常識を学べば学ぶほどに

見かけ上の個人は常識、良識を学べば学ぶほどに、、しっかりとした決断をしようという思考が湧き続けますから重くなっていきます。だから社会的には認められてきたけれどちっとも面白くないという状況に陥るのです、見かけ上。本質は真逆で本質は全くの自由、選択に優劣は一切ないのです。優劣が生まれるのはあくまでも見かけ上の個人が生きる世界での話です。

自由意志がないという完璧さ

迷える人も完璧

この世界に自由意思、個人の自由意志がないということはこの世界は完璧な表現であること言えます。悩みに悩んでいる個人も完璧なあるがままの表現です。個人が居て自由意志があるのならばミスも起きるのでしょうがミスが起きようがないのです。全自動ですから。つまり完璧なのです。ノイローゼになりようなほどに悩んでいる人がいるとしても完璧??そうです、、それが今あなたの目の前に起きているならば完璧だということです。

悩んでいる人が目の前にいるのに

では放置していいと、どんなに苦しんでいるように見えても放置でいいのか????そうです、、完璧なあるがままの表現としてそう見えているだけで本当にその人が悩んでいるという事実はありません、その悩みをあなたが代わりに体験しない限り、、本当とは言えないのです。そして見えている世界は幻想ですから実在ではないのです。

辛そうに見える、痛そうに見える、苦しそうに見える

私の周囲にはたくさんの困った人たちがいて、いてもたってもいられない。。。そうかもしれません、ですがそれは困っているように見えているだけなのです。とてつもなく冷酷な表現に聞こえるかもしれませんが実際に困っているという証拠がないのです、代わりにその感情を味わっていないのですから。何度も伝えますが見える世界は幻想です、幻想ですから実在ではないのです。全てはあるがままの表現、アートであり完璧なのです。

時間

時間は自分が登場してから

時間の存在を疑う人はいないでしょう、時間って必ずありますよね、、、、本当でしょうか???もしもこの世界に自分という存在が存在していなかったら時間って存在しますでしょうか???自分が居ない????そうです、、、自分というパーソナリティーが存在しているからその自分が過ごす時間が登場したのです。マリオが存在しないスーパーマリオゲームには時間が存在しないのです、マリオがゲーム上に降臨してから時間が誕生したのです。マリオが自由意志でゲームを進むこからこそ時間が存在したのです。

自由意志もマリオも居ない

自由意志が存在しないマリオはいません、マリオとは自身の判断でゲームを攻略していく存在です。全自動システムならばマリオは存在できなくなってしまいます。自分でマリオが動くから時間が次の自由意志を行使するために時間が登場します。マリオを全く自由に動かせないのならばそれはただの風景でしかなく、、移り変わる風景のみです。そしてこれがあるがままです。自由意志があると思っているからマリオというキャラは成立しそのマリオが次々に自由意志を行使するために時間が登場するのです。

マリオと自由意志はセット

自由意志が使えないマリオなど存在せずマリオが自由意志を使えなくなったらゲームが破綻します。そうです、これが我々が生きている幻想の世界のポイントなのです。自由意志があるから時間が誕生したのです、、今はこの行動、次はこの行動、その次はこの行動と、、流れができます、、だから時間は存在するという理屈です。魚が生きている世界に時間が存在しないのは魚には自由意志がないからです。

私も自由意志も時間も存在しない

本質は私も自由意志も時間も存在しない世界です。その世界に私も自由意志も時間もあるように感じる世界ができました、ですが本当はないのです。だから虚の世界に居ると疲れます、嘘ですから。人間は眠っている時だけがあるがままです、朝起きて目が覚めると虚の世界に閉じ込められるのです。私が誕生し、自由意志が誕生し、時間が誕生するのです。

レアアイテム

なぜ人はレアアイテムを収集するのか??

車の収集家、カードの収集家、シューズの収集家、バッグの収集家、世界には様々なアイテム収集家がいます。彼らはレアと呼ばれる希少価値が高いものに目がなく、、世界に一台のポルシェ、世界に一枚のカード、世界に一枚のシューズと目を輝かせて集めていきます。一つ面白い点は、、、彼らは世界に一台のポルシェを集めたその3ヶ月後には再び収集の旅に出るということです。満足は一時的で次の何かを追い求め続けるのです。なぜ満足できないのでしょうか???それはそのアイテムに価値が実はないことを本質では分かっているからです。

分離独立した価値あるものなど存在しえない

あるがままは無分別、無分離、全てが一つですから、、その世界の中に独立分離した価値ある存在など存在しえないのです。人間の脳が作り出した価値でありそれは実は幻想です、誤解です。ですからどれほど惚れ惚れするようなレアアイテム、レアシューズ、レアバッグを手に入れてもまた欲しくなるのです。要は満たされていないわけです。そして満たされたはずの個人も実は存在していないので満たしようがないわけです。

おかしい

アイテムの収集家はどこかでそれに気づく日が訪れます、、なぜいつまでも満たされないのか???満たされないということはこの方法では一生満足できないのではないか???と。世界中のレアアイテムを収集し切るまで満足はこないぞと、、、人間の満足とは、、フェイクなのではないか、、実は本質レベルでは全く満足できていないのではないか、、、そうです、、、その通りです。独立分離した個人が居るという大誤解の元に自由意志でレアアイテムを収集し尽くしても満足は起きないのです。その個人がフェイクですから。

何をしていいか分からない

個人の欲望を満たすことしかしたことがない人類にとってそれがフェイクだと教えられたところで一体これから何をしていいか分かりません。個人の欲望を満たしても満たせないことが分かったところでではどうすればいいのか?嘘を見破るのです、個人という嘘を見破るのです、何かを手に入れることでは幸福になれないことが分かったら、、その嘘の本質を見破ることです。そしてその過程においても自由意志は存在しないことを悟ります。もうこれからは自由意志をどう使うかという悩みから解放されます。完全自動、完全受容で本質に気づくのを待つのです。