観念

思考は真実を発見できない

思考はこのストーリーの中で起きる

これが夢であり私物語であり、幻想であることを見抜く、、これが悟りです、、、そしてこの夢を作り上げたのが言葉です、思考です、、、ですから思考とはこの夢の建設請負人です、、、それゆえ思考は真実を発見できません、、むしろ思考がこの夢を絶えず建設し続けています。思考、価値観、観念こそが、、この夢の土台を作る屋台骨なのです。

気づきとはこの思考がいかに夢を作りあげるかを俯瞰すること

この個人という存在が実在する、、そしてこの個人があらゆる経験をしている、、、という圧倒的な大誤解が、、、観念を築き上げ、、、その観念に沿った現実が作られます、夢として。多くの場合、、この個人が居るという前提で思考が起きますから、、思考はこの大誤解を助長することになるのです。観念が新たにリニューアルされていきます、、するとそれに沿った現実という夢が形成され、、イメージとしての個人はそれを経験します。

夢だと気づき始めると

これが夢だという気づきが起き始めますと、、、もう思考はこの私ストーリーを助長する動きを止めます、、私という存在ありきの思考が止まるのです、、これまではこの私が実在しているという大前提で思考が湧き続けましたが、、この私はイメージ、概念、幻想であるという気づきが起きますと、、もうその延長線状の思考が止まります。

波が浜辺で消滅した時に大海に戻る体験をする

波(個人意識)は消滅し、大海(真我)を知る

波(個人)はこの体の死を体験する時に大海(真我)に戻る体験を積みます、、、これが悟りです、、実は波ではなく大海だったという気づきです。波ではなく思考ですから、、、ただ大海である状態を知ります。個人は言葉が作ったイメージ、概念、思考ですから、、これが幻想であることを腹の底から理解しますと大海(真我)だったという気づきの体験が起きます。

究極の体験

我々(波)においての究極の経験こそが大海だったという気づきです。この気づきが起きることが悟りです、、ということでこれを完全に理解してしまいます、、自我形成(波)のプロセス、波と大海の違い、、自我(波)の動きの特徴、、波物語のカラクリ、、波としての経験が観念を作りそれが体験する世界を作り出す、、分離の世界の構築方法、、

確かに私は海だ!

知識の上での、、私は海だ!!という理解は重要になります、、なぜならば我々は腹落ちした感覚を体感するように設定されているからです、、、私は被害者だ、、これを完璧な感覚で信じていると、、被害者を経験します。。私はラッキーだ、、これを完璧な感覚で確信していますと、、これを体感します。。私は海そのもの、真我、、これを完璧な感覚で理解が起きますと、、それを体感する経験が起きます。

悟りを知る、そして体験をする

悟りとは何たるか???

悟りとは何かを感じるためには先ずはこれを知る必要があります、、、どういうことなのか???知識としてこれを知ります、、そして完全なる理解が起きますと、、次はこれを体験できるようになります、、なぜか???人はその人の観念が作り出した世界を経験するからです、、、つまり十二分に理解をしたならば次はそれをこの幻想の世界で体験できるということです、、、

この私が居ない世界がある

今までの私はこの体の中に居る私だけでした、、、ところが悟りとは、、、このイメージとしての私が本当の私ではなく、、、この世界そのもの、この現象そのもの、、そしてそれに気づく存在そのものであるという理解が先ずは知識として起こります、、本当のこの理解が進めと、、次にそれを経験するというプロセスに進みます。「あ、確かにこれは私ではない、、全部が私だという体験」

体験を起こすには先ずは理解する

我々が体験をしているのは我々の観念です、、つまり本当のところで感じている世界観、、これを我々は体験します。。。観念において悟りを全く理解していなければこれを体験することは先ずない、、ということになります。ですから先ずは完璧な理解、頭での理解、、観念に落とし込むような理解が重要になるのです。その先に、、、体験が待っています、、、そしてそれを味わい尽くした時に、、本当の気づきになります。

あるがまま

本当のあるがまま

本当のあるがままとは、、、この個人としての私、イメージとしての私、、が私らしくあることではありません、、イメージの私らしいって意味不明です。。イメージの私は変幻自在にイメージを変えているだけです。。本当のあるがままとは真我の生命現象の全て、森羅万象の動きの全てを許容するということです、、そこにはこの思考、この感情、この行動も勿論含みます。

起こる現象を判断しない

起こる現象の全ては森羅万象の動きのみです、、、どんなに性格が悪い友人の嫌味も、、森羅万象の動きでしかなく、、そこに関与できるような森羅万象の動きを変えれる存在は居ません。「私は私の意思で嫌味を言ってやった」と宣っても、、その宣言こそが森羅万象の動きです、、、その性格が悪い友人の姿形は、、実は見かけ上の私の観念が作り上げています、、、人間という言葉を学び、男という言葉を学び、友人という言葉を学ばなければ、そして嫌味という言葉を学ばなければ、、その存在の言動を理解できないのです、、、つまりそのなのストーリーを作り上げたのはこの私の観念です。だからこそそこの判断を下せば、、そのストーリーをただ延長させることになるのです。

ただ起きた

嫌味を言う友人も、批判をしてくる友人も、妬んでくる友人もただただ森羅万象の動きとして起きました、、この圧倒的理解、絶対的理解をした上で、、その現象をただ見つめます、、、するとほとんどの場合は反応をしなくていいはずです、、、言い返す必要がないケースがほとんどです。。。嫌味を超えて暴力を振るってきたら扉を閉めてしまうか、警察に連絡するだけです、、、これを癖付しますと驚くほどに平和な毎日がやってきます。本当のあるがままとはこの見かけ上の私、イメージの私のことではなく、、全部が森羅万象の動きであることを悟りただその動きと共にあることです、そしてそこから現象そのものであるという気づきが起きます。最後はその気づきも起きない、、現象そのもの、、、そして現象そのものを支える空の存在に気づき、、最後はこの気づきもなくなる、、空と色は一つ、ノンデュアリティ。

このゲームを現実と信じるとよりリアリティー感が増す

普通のマリオカートが、、、

最初は普通のマリオカートでした、、、しかし、、、これをゲームではなく現実だと信じるようになりますと、、まさかこのマリオカートがガンガングレードアップして、、、詳細な雨の感じ、エンジン音、落雷、タイヤの滑り、、全ては超現実的な作りに変わっていきます、、もうゲームなのか現実なのか区別が付かない、、、、このような変化が起きます、、、「これが我々がこのたった一つのエネルギー上でやっていることです」

最初は「蝶々」「バッタ」「ママ」が居るだけだった、、、

幼少期を思い出してみてください、、こんなに深刻な世界ではなかったはずです、、もっともっとフワフワしていた世界、、軽い世界だったはずです、、、ところが言葉を覚え、、。名前を覚える度に、、このフワフワした世界にあらゆる登場人物、登場物が増えていき、、、なんかこの独立分離した存在こそが、、、本物だと信じるようになった、、、するとこの独立分離した風の登場人物達が全くフワフワではなく、、超現実的に見えるようになったのです、、つまり観念が書き変わっていったのです。たった一つのフワフワした世界から、、、独立分離こそが真実という世界に生まれ変わっていったのです、見かけ上。

「これって幻想ですよね」、、精神病に入る

そして最後には、、、これって幻想ですよね、、、などと言えば、、、精神病院に入れられてしまうぐらいになります、、、この世界を見かけ上の「私」の観念が作り出したのです。ですがこれって夢かも、、、という観念が定着していきますと、、、それを支える現実(夢)が起きますから、、そこの気づきが助長されていきます、、、一旦振り切れた、、、超独立分離世界が、、、まあまあ独立分離世界、、、夢かも世界、、夢だ世界、、、に変わっていきます。

ああ、そうか

何が起きても「ああ、そうか」

有名な白隠禅師は何が起きても「ああ、そうか」で片付けたそうです、、このエピソードはこの世界が実は幻想、夢、イリュージョンであることを見抜いた発言であることは容易に分かります、、多くの方は何が起きても深刻に捉えます、、なぜならば、、、これが絶対的現実であると信じているからです、、ですが白隠禅師は夢だと見抜いていた、、、この認識の違いは全く異なる行動を生み出します。

絶対的現実と信じれば

これが絶対的現実である、、これが多くの方の信念です、、、この信念、観念はこのたった一つエネルギーをそう見えるように導きます、、、このたった一つのエネルギーが分離独立し(イリュージョン)それが現実であるように見えるようにイリュージョン化します。つまりTVゲームをやっている際にこれが現実だという信念が生まれますと、、そのゲームが益々リアリティーに見えるようにイリュージョン化されるということです。最初はただのマリオカートが、、、あまりにこれを現実を信じるあまりに、、マリオカートが現実であるという勘違いが起きるようなゲーム設定に切り替わっていくということです。するとゲーム中のプレイヤーにこれはゲームだよ(幻想)だよと言っても、、全く理解が起きない、、さらに、、幻想だよと言ってくれる人間(幻想)も現れなくなります。

夢だと気づき始めると

夢かも、、、これが観念の中に定着しますと、、、夢かも、、、が証明されるようなメッセージが多く起こるようになります、、そしてこれは夢だ、、という気づきが起きますと、、もうこの夢が現実だという誘いも起きなくなります、、、、エージェントスミスが、、ネオに「あなたの見ている世界は現実だ」という誘いをしていたのが、、完全な気づきが起きればもう起きません、、なぜならばその誘いは、、自身の観念こそが起こしていたからです。

幻想と見抜いて幻想を活用する

幻想と見抜くと観念が崩れ落ちる

我々はこのたった一つのエネルギーワンネス常に言葉を生み出し、、分離独立したように見える世界を築き上げました。これがこの夢の登場です、、、分離独立したものが最初にあってそれに名前をつけたのではありません。音を組み合わせた「名前」を覚えることでそれをイメージ化し、このたった一つのエネルギーの世界に、、分離したように見える「物体」を登場させたのです、、これはマジックです、イリュージョンです。この気づきが起きても、、、目の前に鳥は現れます、、、このマジックを見抜いたところでこのマジックは目の前で登場します、、、ですが今までとは全く違うこと、、それはこれがマジックだと知っているということです。

「私」の「物語」というマジック

私の物語は完全にマジックです、、言葉が作り出したイメージ、イリュージョン、幻想です。そこに気づいてしましますと、、真剣にこのマジックに付き合う気はもうなくなります、、、マジックで起きたことに汗を垂らす、、、ないです。ラスベガスで見たマジックを見てその後1週間寝込んだ、、、、聞いたことがありません。つまりマジックと見抜けば、、、もう深刻になれないのです。

マジックを楽しむ

マジックは楽しむものです、、つまり我々は今後この人生というマジックを楽しんで生きていくことができるのです、、マジックと見抜いてマジックを楽しんで生きていきます、、、このマジックの世界は化学反応(縁起)の世界ですから、、何かアクションを起こせばストーリー上、マジック上、、何か反応が起きます、、この反応を楽しんで生きていく、、、

「私」という絶対的現実存在というマジック

「私」という絶対的超現実存在、、これがマジックだったという気づきはこれまでの観念、価値観を根底から崩してくれます、、このビルの崩壊が起きますと、、、急激にこの人生(マジック)は楽になります、、重さが取れます、、、人生こうあるべきが壊れます、、暑苦しさが消え落ちます、、、深刻さが壊れます、、、

気づきは後退しない

知識は忘れるが気づきは忘れない

気づきとは、、後退しないものです。ですから一度気づきが起きればそこから気づきがなくなることはない、、というのも気づきとは個人に起きるものではなく全体、気づきの意識、真我に起きるものなのです。気づきという化学反応が起きたようなものです。これってもしかしたら夢かも、、この気づきが起きますとこれが忘れ去られることがない、、、すると自然とこれが夢であるかどうかが生きていく上での最重要関心になります。

現実だと真剣に思い込んでいた

本当は我々がみている世界は完全に幻想、夢です、、、ですが中学、高校、社会人と進むに従いこの感覚が忘れ去られていく、、、20歳ぐらいになればすっかりと現実であると思い込む、この夢を。この夢を現実であると思い込めば込むほどに、、それを支える現象(夢)が起きますから、、益々そうなります。観念を証明するような夢が起きるのです。こうしていつしかどっぷりとこの現実(夢)にはまり込みます。

どうやってこの幻想、夢が出現するかに気づくだけ

マジックは一度でも種を教えてもらえれば、、もう騙されない、、、これはこの夢、幻想も同じこと、、一度でもこの夢、幻想がいかに成り立っているかを見抜いてしまえば、、、もう騙されない、、、私は20年前にその事実を釈迦のメッセージを読んで気づきが起きました、、確かにこれは我々が思っているような世界ではない、、、もっと本質には違う世界があるはずだ、、と。この20年前の気づきがこの活動をスタートさせました。この気づきが後退することはないのです、気づきは真我の気づきです、個人(夢)ではありません。

幻想の中で幻想をする

思考するということ

この世界で思考するということは、、幻想の中で幻想をすることと同じです、、、、この世界は幻想です、、我々の観念が作り出した幻想です、、この幻想の中で思考にふけるということは幻想の中でさらに幻想をするようなものです、、真実とはかなりかけ離れていきます、、、これは苦しい、、、この世界が分離して見えているだけでもう幻想の中に居るのです。

夢の中で夢をみる

我々は夢の中で夢を見ています、、、夢の中で、、さらに思考し、、夢を見ます、、、これが苦しの大元です、、、そうではなくこれが夢だと見抜き、、、夢だと思って生きて行きます、、すると、、夢であることが見抜けてきます、、、夢の中で本当の現実を見つけます、、、観念が崩れていきます。。。

たった一つのエネルギー

この場所が静寂、平和な場所です、、そこに観念で幻想を作り上げ、、それを現実であると勘違いして生きているのが我々です、、、その幻想の中で、、思考に取り込まれ、、、さらに幻想を作り出す、、、幻想の二重構造の中に居るのが我々です。思考を観察し、思考の取り込みから先ずは脱出する、、、そしてこの幻想を幻想と見抜いて生きる、、、周囲が幻想を現実と信じて生きている中で、、この現実は実は幻想であることを見抜きますと、、真実(現実)が姿を現してきます。そこは静寂、平和、歓喜の場所です。

その人の観念がこの世界を作る

見かけ上の私の観念

言葉は対象のイメージを作り上げます、、それぞれの言葉には意味がありイメージがあります。ロレックスという名前には時計としてのデザイン、高級、金属、伝統的、、、なども意味が付加されます。。つまり言葉を覚えそのイメージを作るあげる人間は、、今見ている景色に、、イメージと、意味を持たせ、、現象を見ます。。。その人の価値観、観念がその人の世界を作るというのは本当です。

現象は動く

現象は何の意図もなく動き続けるわけですがその現象を見かけ上の私が見れば、、そこに言葉のイメージ、意味を加えて見ることになります。ロレックスという言葉に大変価値を置いた場合は、、目の前にその時計をつけた男性を見れば、、、羨ましいという感情が自動反応で起こるのです、、、この感情を引き起こしたのは言葉からリンクするイメージです。つまり現象そのものではなく、、どのような言葉を覚えそこに意味づけをしたか、、それがその人の世界を決めるのです。

だったらこの私にとって都合の良い見方をしたい

どんな感情が湧くかは、、どのような価値観を持つかによる、、、だったら最高の価値観を所有して最高の人生を送りたい、、誰しもがそう感じるはずです、、、ですが残念、、その価値観は個人といイメージが引き起こす経験の全てが積み重なり作られる、、、さらに言えばその個人というイメージが引き起こす言動の全てはただ真我から湧き上がるのみ、、個人はイメージで実在はしないからこのイメージが言動を起こすのは不可能なのです、、

つまりどのような価値観、観念でどのような世界を作るかは決めれない

あなたの人生はあなたの価値観に沿って作られている、、、これは事実です、、ですが、、だからあなたが人生の価値観を決めればそういう世界に住めますよ、、これは間違い、、、その見かけ上のあなた(イメージ)にはあなたの言動を決める力が一切ないのです。真我から起こる言動を通じて個人というイメージはあらゆる経験を見かけ上し続け価値観が自動的に形成されていきます。真我から勝手に起こる言動、それによって勝手に起こる経験、その全てが集積して価値観、観念が作られ、、その世界を感じます。