自分が神ならばなぜこの世はこれほど理不尽なのか?

自分が神でこの理不尽は意味不明

自分が神だとして、、、この理不尽に満ちた世の中は何なんでしょうか?犯罪が横行し、一部の富裕層に今もなお金が集まり続ける、、、こんな世の中を作ったのが自分なのか???という話です。違います、、、この世は完璧なのです、、完璧なのにそれに気づかない人間が富の奪い合いをしているだけです。その証拠に野生動物は食べれる以上の狩を絶対にしません。蝶が必要以上に花の蜜にたかることはありません。どこまで行ってもこの悲惨に写る惨事は人間が引き起こしています。

コンフォートゾーンを「自分」から「神」に

この世はから犯罪をなくすためには自分が神であったことを思い出す以外にありません。コンフォートゾーンを「自分」から「神」にシフトさせます。例えば日々何かに集中すると集中している期間はなぜ幸福なのか?なぜお酒を飲んで記憶が曖昧な時に幸福感があるのか?なぜ絶対絶命のピンチ、火事の状態で心が穏やかになるのか?何かを完璧に諦めた瞬間に安堵に襲われるのはなぜか???全部「自分」というコンフォートゾーンが抜け落ちたからです。

「自分」というコンフォートゾーンは最強

自分が成功者になる、自分が有名人になる、自分が大出世する、、、これらのコンフォートゾーンはできても「自分」を「神」にコンフォートゾーンをズラすのだけは難しい、、、なぜか?この五感、思考、感情が完璧なまでにこの「自分」に縛りついています。五感、思考、感情がこの「自分」をこの世から完全に分離させ分離体験を可能にしているのです。この嘘、仕組みを見抜くのは至難の技です。そしてこんな情報、メッセージはマスメディアに載ることは絶対になく、だからこそ受け身で情報を取る人間には一生届かないということになります。

神であるこなることにコンフォートゾーンをシフトする

自分は神だ、が当たり前になる

本当のところ我々は神です、ですがその事実を完璧に忘れています。これによってこの世の不幸、欠乏感、居心地の悪さが生まれています。どれほど完璧に神であることを忘れたかがどれほどこの世が苦悩かのバロメーターです。例えば老けるのが非常に早い人はこの傾向にあります、私は人間であるという完璧な割り切りは恐ろしいほどの苦脳をその人は抱えることになります、ですが外から見れば自立した立派な大人である可能性はあります。これが人間の矛盾です。

自分は神だ、、はあり得るのか?

あり得るであり何もこれがデフォルトです、神という言葉が誤解を生みますが要は全体ということになります。この全体から脳が進化した人間に意識が完全シフトした状態が「自分」です。コンフォートゾーンが「自分」にシフトしたのです。ですがこの「自分」は神の一表現でしかなくその一表現にコンフォートゾーンがシフトしても苦しいに決まっているのです。本来のコンフォートゾーンは神だからです。ですが「自分」にコンフォートゾーンがシフトした理由は神がそれをやってみたかった、ただそれだけです。ということでこの世に本当の意味での不幸人間は誰一人いません。コンフォートゾーンの位置の問題だけです。

先ずはこの自分は幻想であることを理解する

自分が神であることに確信を得る前にやることがあります、それは「自分」というこの疑いようのない存在の嘘に気づくことです。どうやってこに体、思考、感情を自分と思い込むことに成功したか、、、ここを突きます。これをしないと始まりません。いかに神であることを確信してもこの日常生活はリアリテティーがあり過ぎて直ぐに自我コンフォートゾーンに引き戻されてしまいます。この五感があまりに優秀すぎてリアリティーに負けます。

自分のコンフォートゾーンを全体にシフトする

コンフォートゾーンを自分から全体にシフトする

自分が神であった、、この気づきは自分というコンフォートゾーンが神にシフトした瞬間です。我こそは自分であるというコンフォートゾーンが、、我こそは神であるにシフトすればそれは悟りです。覚醒体験ではなく悟りです。この体、思考、感情を自分としてきたコンフォートゾーンを神=自分にシフトさせます。自分自身が実は神であるという事実を常に自身に突きつけていくことでコンフォートゾーンがシフトする可能性があります。

あなたとはこの体、思考、感情であるという洗脳を受けた幼少期

一万回の呼びかけであなたはこの体、思考、感情であるという概念が受け付けられました。これが幼少期の洗脳です。コンフォートゾーンがこの体、思考、感情になったのです、それまではコンフォートゾーンは全体でした。そして我々の多くはこの体、思考を自分であるというコンフォートゾーンを一生変えずに生き続けるのがほとんどです。ですがそのコンフォートゾーンはエキサイティングですが苦しいものです。

自身は神であることを思い出すまで情報を浴びてみる

結局のところ自分は神であることを思い出すまで思い出すような情報に触れる以外にコンフォートゾーンをシフトする方法はありません。いかに浄化してもいかに行をしてもこの個人に絶対的なコンフォートゾーンが敷かれていればシフトはしません。自身が神であることを思い出した人の書籍やブログなどを読むことでその感覚にリアリティーを作り出しコンフォートゾーンをずらしていきます。このブログもその一つです。

脳の分離錯覚を見抜くと自然と衝動が湧いてくる

この衝動は面白い

私は「神との対話」という本を読んで自分が実は神であった、全体であったことを腹落ちさえました。確かにどう考えても自分が神であることは間違いながない、、、、この事実を腹落ちさせた頃から面白いことが起き続けています。とにかく体の中から衝動が止まらないのです。これを達成したいこれをこれを成し遂げたい、、、これは言葉では限界があるのですがその衝動にしたがって動いていると止まらなくなるのです。いつまでもやっていられる、、、今私の衝動はこのブログを書き続けることです。中から湧いてくるこの衝動をただ形にしています。

衝動を形にするだけで気持ちがいい

この衝動を形にしていきますとひたすらに面白い、楽しいが湧いてきます。そしてこれが形になればさらに面白いでしょうがそれは一瞬の達成感でありそれはその瞬間のみであることも知っています。ですからそれは一瞬のご褒美のみであってそれよりもこの衝動に従っているのが気持ちがいいのです。衝動に従って生きているとそれ自体が楽しいのでそれ以外を求める感覚が薄れていきます。そしてこの衝動に従うにあたっては全部無料です笑

自己実現から自己超越へ

自分が好きなことで世の中の役に立つというのが自己実現ならば、、、自分という存在が無くなりただ世の中のために生きることを自己超越と呼びます。例えば全くの無記名で大金を募金する方などの境地はそれに当たります。そこに自分はもう存在していないのです。なぜそんなことをするのか?多くの方は理解に苦しむとは思いますが実はこの自分という存在がいなことこそが一番の歓喜、平和、安堵なのです。ですがこれは言葉でいくら説明しても意味不明です。言葉を超えた場所にそれはあります。

脳が分離を作り出し不足感が生涯続く

脳のメカニズムは全体が作った分離システムであり大発明

脳のメカニズムは分離を作り出します。実際には完全なる全体など作りれるはずがなくなぜならばこの世界はたった一つのエネルギーで構築されているからです。そうなればこの分離感覚はどこまで行っても錯覚でありにも関わらずしっかりと分離しているように感じることができるこのシステムこそがノーベル賞、国民栄誉賞級の偉業と言っていいでしょう。例えばいきなり誰かから殴られたら全員が怒るでしょう、、、これってもしも自分から殴られたと思ったらそうは行かない、、、地球上の人間全員が他人から殴られたと感じているからこそ怒りの感情が込み上げるのです。

究極の分離感覚は脳の進化の賜物

究極の分離感覚の局地が戦争です、、、他の国の領土、富を人殺ししてでもやるというこの行為は分離感覚なしでは絶対に成り立たないということです。こんな戦争が今でもまだ起きているというこの事実こそが人間の分離感覚がまだまだ残っていることを物語っています。この分離感覚は脳が作り出しているわけですがこの仕組みをまだまだ人間は盲信しているのです。

とはいえこの分離感覚こそを神、宇宙全体は経験したかった

このブログでも何度もお伝えしていますがこの分離感悪は決して悪ではないのです。この分離感覚こそを神は全宇宙は分離体験として経験したがっています。これは戦争を容認しているわけではありません、ですがなぜこんな悲惨なことが今もまだ起こるのかといえば人間とは苦しみを味わうために生み出されてきたという事実があります。宇宙全体においてミスは絶対にありません、そうなればこれまでのあらゆる人類の争いすらもミスではないということになります。ミスではなく分離するということがいかに人間に居心地の悪さがあるか、そしてそこから宇宙全体、神に戻ることでいかにそれが偉大なことかを再発見できます。

今のこの生活に不平不満を抱えているのは人間だけだがなぜだ?

人間だけが居心地の悪さを抱えている

世界中の生物で生きてることに対し居心地の悪さを抱えているのは人間だけです。この紛れもない事実に真摯に向き合えば全問題は解決します。ここを直視しないで、収入、地位、名誉、安定、社会的評価、理想のパートナーなどをまな板の上に載せて議論するから話がまとまらないのです。地球上の生命で日々不平不満を抱えているのは人間だけなのです。この事実から絶対に逃げてはいけません。

人間だけが「自分」という存在を抱えている

人間だけがこの体、思考、感情を束ねて「自分」と定義しています。この定義には実は深い意味がありこれによってこの宇宙全体から一人分離した存在にしてしまっているのです。分離感全開であり、、、いやあなたは宇宙全体であって分離して見えているだけだよと、、、助言しても意味不明です。何を言っているんだ、、、事実としてこの私は自由に動くし、自由に考えるし、自由に感じることができる、、、となるのです。これが「自分」を作り出すメカニズムであることを知らずに。コップに触れば触れた感覚があり、食事をすれば食感がある、これで自分が居ないとはどういう意味だ?となります。この食感、触感、視覚、嗅覚こそが「自分」がいるという勘違いを生み出していることを知らずに。

人間の脳が進化しすぎて分離感全開になる

人間の脳とはこの分離感を感じれるように進化したと考えてみてください。脳全開で分離感を感じているのです。そうなるとこの事実を人間が見抜くのはほぼ不可能です。脳が分離を創造するために進化したと考えるのです。脳が分離を創造するために進化したにも関わらずこの分離の錯覚を見抜くなど不可能に決まっています。ですがこの分離の錯覚こそがこの人間の居心地の悪さを作り出しているのです。とんでもない十字架を背負って生まれてきたものです。これが神の人間体験という途方もない無邪気な遊びです。

全ては自動反応で起きている

世の中の動きを観察してみる

多くの方はこの世界が完璧なメカニズムで運営されていることに気付いていません。例えば水を沸かせば必ず水蒸気になります、、、この事実は何満開実験しても世界中のどこで実験しても変わることは絶対にありません。南極で実験しても北極で実験してもです。これを完璧と表現します。世界中どこの海水も塩っぱい、、どこかの海は甘いということが絶対にない、、、これが完璧なのです。人間が思う完璧とは自分が幸福であるという環境を揃えることです、この完璧と本当の完璧が違うのです。これが人間の不幸を作り出します。

宇宙現象にはミスはない

宇宙の現象を冷静に分析していきますとミスというのが全くありません、鳥声の豚も、ウサギ声の鹿も、南極で泳ぐ熱帯魚も何もない、、、全部が完璧なのです、ただ人間だけがこの完璧な宇宙の中で不満全開で生きています。この事実こそがミステリーです、この事実に誰も気付いていない、、、不幸なのは人間だけなのです。なぜかと言えば人間だけが独自の完璧を追い求めるように設計されているからです。これは究極の神の遊びです。

人間からは不平不満が湧いてもらわないと困る

人間とは不平不満があって当然、宇宙の采配には全くミスがありませんから人間の不平不満すらも完璧に設計されています。人間とは不平不満を抱えて生きていく動物なのです。これでいい。我々の中から自然と湧いてくる不平不満の思考、感情は完璧な采配で設計されています。この完璧な事実、これを見抜けるようになると次のステージに進みます。

今ここに故郷があることを探求者は認めない

今ここにあってはいけない

遠い未来に故郷はあるべきで今ここに故郷があってはならない、、なぜならば遠くにあるという大前提で今まで来たのだし、これからもそうだ、、これが探求者の思考です。今ここが不満足、欠乏、居心地が悪いから探求を続けてきたというのに「今ここ」が故郷だと言われてしまったらもう何もできないではないか、、、という理論です。ですが本当のことを言ってしまえば、、、故郷はここにしかありません。なぜならば今我々が見ている本質は宇宙のアートそのものだからです。にも関わらずそう見えていないのは宇宙のアートを切り刻んでしまった「自分」が存在するからです。

幸せの青い鳥は真実

幸せの青い鳥、、この童話の真意は分かりませんが、、、今ここに全部、故郷があるのは紛れもなく真実です。なぜならば今ここに動く空、色が顕現しているからです。ですが我々はそれを見ることがっできません、我々ができることは切り刻まれた色の世界、色の残骸のみです。今目の前に灰色の景色が広がっているならばそれがあなたの切り刻んだ世界です。覚者は一切の切り刻みを見抜きありのままの色を見ているのです、ありのままの色とは動く神、宇宙のアート、ダイアモンドの変容です。

足を知ろう、、、は間違い

欲を捨てろ、、、これは仏教の常套手段ですが、、、真意を知らないでこれを忠実に守ろうとすればただ絶望的な人生を歩むことになります。確かに故郷はこの目の前にあります、桃源郷は今目の前にあります。ですがそれが見えない、、、、その見えない理由とは何か?それを見れていない「自分」とは何か?ここまで掘り下げていきますと「足を知る」の真意が見えてきます。この「自分」が貪って貪って今ここ以外に幸福を求め歩き続けてもこの不足感が解消することはない、、、これが真実です。この貪る「自分」の欠落、分離の真相を見抜くことで目の前に故郷が再び現れます。

こちらの認識とは何も関係なく、、色は動く

分離の世界を生きていようといまいと、、

こちらの認識とはうっさい関係なく色は動き続けなす。修行無常の世界はただ動き続けます、変わり続けるアート作品のように、神が作ったクリエイティブ作品のように。私という視点がどのような分離の世界を見ていようとそこには何の関係もなく色の世界はただ動いていくわけです。そこに人間の脳は分別、解釈を加えていき一人一人違った世界を見せるだけです。ある人の解釈する世界ではそこには争いが絶えず、ある人の見る世界では罵詈雑言が飛び交っているかもしれません。

こちらの思考の解釈がただある

思考の解釈に優劣はありません、ただその「自分」というものが体験した積み重ねが記憶に構築されそこから価値観が生まれだします。その価値観に基づき分別が生まれ、この大アートを切り刻んでいきます。この切り刻み方が人によって全く違うということです。どこをどう切り刻むかによってこの分離の世界は姿を変え続けるということです。どのような分離の世界を生きるか、、これは全員が違いますが唯一同じことがあります。それは分離の世界はどこまで行っても苦しいということです。だからこそ分離の世界にお腹いっぱいになった順番で悟りを目指すようになります、分離した「自分」が。

宇宙のアートはただ動く、それぞれが自由に切り刻む

本当の本当はどう個人がこの宇宙アートを言葉で切り刻むかすらも決まっているのですが、、そこは横に置いておいて我々個人はこの神のクリエイティブ作品、宇宙アートを独自の言語、単語で切り刻んでいきます。「自分」を切り刻み、見える世界を八つ裂きに切り刻んでいくのです。切り刻み方によって見える世界は変化していきます。切り刻んで切り刻んで切り刻み尽くした時に分別のある大人が誕生しているかもしれません。ですがそこにはアートはすでに存在せずアートの残骸、背景に化した世界が広がっているかもしれません。

究極の分離から究極の融合へ

究極の分離とは自立した大人

自立とは自らで立つと書きます。自ら立つ、、、この自らというのがポイントでこれこそが宇宙アートから完全に分裂し分裂した身としてしっかり立つことを意味します。自立とは自我の完璧な分裂でもあるのです。この状態は逞しくはありますが日々不安感、喪失感、恐怖感、欠乏感が湧いてきます。なぜならば宇宙全体からの完全分離は苦しいことだからです、本当は分離していないから。役者が役になり切っている状態はある種全部が偽りの状態、快楽もないもかもが嘘です。

役に入り込みすぎた役者は、、、、

役に入り込みすぎた役者は、、、食事の趣味も、性格も、好きな娯楽、好きな音楽すらも、、、本来の状態を忘れ全く別人格になります。これは全部が全部偽りの状態、、、どこかで無理がくる、、おかしくなる、、、居心地が悪くなっていく、、、、何かがおかしい、、、が常に頭をノックする、、、、、これが完全分離した大人の精神状態です。宇宙全体は完璧なまでに人間になり切った姿、これが自立した大人です。これが究極の分離です。

究極の分離に疲れたら究極の融合を目指す

究極の分離は周囲からは讃えられるでしょう、素晴らしい、責任感がある、真面目だ、、、ですが実際には本人は苦しい、どこかで違和感を感じています。もしも完全なる分離体験に疲れたら、、、究極の融合体験を目指すべきです。究極の融合体験とはこれまでバラバラに分離してきた情報を再び融合していくことです。情報を整理していくのです。バラバラに散らばった机の中をカテゴライズして整理していくことで頭の中が整理されていきます。頭の中が整理されていくということはこの見える世界が整理されていくことになります。そうなるとどうなるか見える世界が融合していくのです。見える世界が融合されていき見える世界に活気が再び戻ってくるのです。そして究極の融合とは何か?ご想像通り悟りです、要はこの分離して見せてきた世界が実はたった一つのエネルギーだったといういう理解、気づきです。