真実

夢の中の会話

昨日みた夢の中で

あなたが昨日みた夢の中で、、、何人かの登場人物が現れたとしましょう、、、例えば中の良い友人三人組、、、この三人での居酒屋での会話の内容の全て、、、誰が考えているのでしょうか???瞬時に起こる会話の全て、、全くもって詰まることがない三人の会話の掛け合い、、これは考えてやっているでしょうか???あなたは全く考えず、、、ただの観賞者となってこの会話を聞いているはずです。なぜこんなことが可能なのか????一人で三役をやっています、、こんなことなぜできるのか????

会話など何も考えずにできる

会話など何も考えずにできるんです、、完全に湧いてきたことを話しているだけなのです、、1秒でも考えず、、ただ湧いてくるから成り立つのです、、、「私」など全く介在せず、、、湧くがままに口から出ています、、、これが真実です、、、夢の中では一人で三役を演じ、、会話を作り上げるわけです、、、こんなこと考えながらやれるわけがないのです。

自我など存在していない

つまり会話を考える自我、、思考を統率する自我など全く存在していないのです。。。全く存在していないにも関わらず、、、存在していることにして会話をしています、、、そして「あの人は面白い」となります、、ですがその人=自我ではなく、、、その人を通じてその会話が起きただけなのです。。。三人組で会話をしても、、、それを考える「人」「自我」「自分」「私」は一切存在せず、、、ただ会話が起こったのです。

自我が吹き飛ぶ

自我が吹き飛びます、、するとそこに何が残るか????誰もいない、、誰もかもが消える、、、ただ全体だけが残る、、、全体しかないのですから全体という「名前」すらも必要ない、、、、ただ「在るがまま」の状態、、、そこには時間も消えます、、、、そして在るがままに気づくが起こる、、、これは誰が気づいているのか????音でも光でも物でもない存在が先ずあって『空』、、、この投影(現象の全て)が在り、、気づきが起きます。

大いなる一つの思考と個人の思考

考えてみれば明らか

この私の思考というのが本当に私の思考ならば、、大いなる一つとは全く関係ないメカニズムを個人が作ってしまったことになります、、、すると大いなる一つは大いなる一つではなくなってしまいます、、、個人の思考は同時に大いなる一つの思考であることは間違いありません。すると面白いことに気づきます、、大いなる一つと自我という二つの存在が同時に思考を所有することになる???大いなる一つの中に自我というもう一つの存在がいて、、二つの存在が思考を生み出したことになります。大いなる一つは全部だから大いなる一つなのです、、つまり自我とは実在せず、、自我という思考だけが存在することが証明されます。

大いなる一つと「私が在る」という思考

大いなる一つの中で完全独立した「自我ー思考」プログラムがあるのならば、、大いなる一つは大いなるひとつではなくなってしまう、、、すると思考とは大いなる一つから湧き出し、、さらに自我も「私は居る」という思考に過ぎないことが明白になります。この世界は完全なる大いなる一つの現象しかなく、、個人は完全に思考の産物です。そして気づきが起こり続けるのは、、、空の反映が大いなる一つであり、、、空は絶対ゆえに、、大いなる一つの動きに対し、、気づきが起きるのです。

個人の活動を幻想と見抜く

個人の活動が確実に幻想で在ることを見抜きますと、、個人に対する関心が薄れてきます、、、個人というのはアイデアに過ぎず、、これを存在するという信念、価値観のみが存在します。この価値観が強ければ強いほどに、、個人あっての個人物語が強化され、、これは苦しみを生み出すのです。なぜならば真実とは全く異なることを大前提にした旅だからです。

この旅には終わりはない

個人は絶対に完全なる幸福になれません、、個人とは存在せずイメージです、、、この個人をどうやったら幸福にすることができるのか????実在するならば攻略法はあります、、ですが居ないのです。。。にも関わらずこの自我を絶対視しこの自我を満足させようとする動きは苦しみの道になるのです。

究極の安らぎ

全部が全部自動反応ならば

残炎ながらこの世界で自分の意思で何かを行える個人は存在しません、、、自分の意思でやっているという思考は起きます、、、ですがそれは事実ではありません、、、実際には誰も何もやっていない、、、ただ自動反応が起き続けているだけです。ここに個人という存在が居ない以上、、、憎むべき相手も、感謝すべき相手も誰も居ない、、、これだけが真実です。これが本能の安らぎ、、、、平和、静寂です。

この世界が大自然になった

鳥も犬も、蝶も、バッタも全自動システムに組み込まれ動きがあります、、、人間も全く同じ、、全自動システム、、そしてそれを見る「私」も全自動システムの中で、、、思考が起き、感情が起き、行動が起きます、、、、何も誰も全く居ない、、、、完全なる大自然、、、分離も全くない、、、大自然が広がります。

救ってあげなくてはならない「人」は居ない

苦しみはいくらでも起こります、悲しいも起きます、、、死にたいも起きるでしょう、、、ですがそれを感じる個人が居ないのです、、、、個人がその感情を感じていないのです、、、大自然の中でただその感情が起きているだけです、、、救ってあげるべき個人が全く存在しません、、、、そして救う「私」も居ない、、ただの全自動システムです、、、

ど根性

これが真実じゃないことは分かってる

覚者の書物を読めば、、、これが真実じゃない事は絶対にわかるのです、、、覚者は、、、皆、、同じような雰囲気のことは言っている、、、だから今目の前に広がる世界は実は違うんだと、、、、ここは分かる、、、、だけど、、、、分からない、、、、真実が見えない!!!!ア・ベ・シ

騙し絵みたいなもの

悟りに能力が関係があるか、、、全くない、、、悟りに人格が関係があるか???全くない、、、悟りに愛嬌が関係あるか、、全くない、、、全く何も関係がありません、、、、、在り得ないほどに何も関係がないのです、、、、根性だけです、、、騙し絵を見抜く、、根性だけ、、、、

偽りの世界に閉じ込められるなんて冗談じゃない、、、、これは私の本音でした、、、なぜ偽りの中で死を迎えなくてはならないのか、、、冗談じゃない、、、、仕事???どうでもいい、、、プライベート???どうでもいい、、、とにかくこの偽りの世界から出してくれ、、、、です。今は分かります、、、完璧なタイミングでその理解が自動的に起きたことを、、、、そして世界は完璧なタイミングしかないことも理解できます。焦って解決する問題など皆無です。

そんなんじゃない

個人の成長、霊格を高める????

全員を救ってあげなくては、、世界中の迷える人々に光を!!!!!!そんなんじゃないんです、、そう思えるはずがないのです、、、真実に気づいてしまうと、、、、そんな情熱が起こるわけがない、、、、誰もいない、、、という気づきが起きた後に、、、、全員を救わなくては!!!!はおかしい、、、完璧な生命現象が完璧な形で起きているのが分かるので、、、、何も問題がないのです。問題が起きようがないのです、、個人が居ないんですから。

個人が居なくてどうやって会話を?????

個人が居ないのにどうやって会話をするんですか?????不可能です、、、個人との会話は不可能です、、、ですが、、会話はできます、、、いとも簡単に、、、簡単すぎるほどに簡単にできます、、、、個人との会話は絶対にできません。会話を楽しむことはできます、、ですが個人と会話を楽しむことはできません。仕事もそうです、、仕事は簡単にできます、、、ですが個人と仕事はできません。。。

講演会は????

1万人を前に講演会をすることはできません、、ですが、、、1万人というイメージの前で講演会をするのは簡単です、、、講演会をする「私」は居ませんが。。。。講演会は簡単にできます。食事をすることは簡単にできます、、ですがもう個人が食事をすることはできません、、、その観念が抜け落ちるからです、、、個人が食事をするというのはイメージです、偽りです、虚像です、、、ですがそのイメージは完璧です、真実ではありませんが。

個人はただのラベル

全ては全自動で起きている

我々はあまりにも長い期間、、個人が「何かをする」「何かを思う」「何かを信じる」という原理で物事が動いていると信じ込んでしまったのでこの観念が崩れません、、、これが現実であると完全に信じています。するとその観念が反映した世界が人がありますから、、益々その観念が映し出す世界が本物だ!!という経験をしていくことになります。。本当はこれは観念で、、真実、現実とは異なりますから、、この観念の中に閉じ込められている限りは苦しみが続きます、、、なぜならばこれは事実ではないからです。

言葉では分かる

言葉では分かるんですが、、、、、そうなんです、言葉では分かっても、、、、あまりにも長い期間、、個人を中心に物事を構築するのに慣れてしまったので、、、観念を書き換えることができません、、というよりも観念を捨てることができない。これは至極当然のことで、、この個人を守るために言動が構築されてきたのですから、、、簡単に理解できてしまったら危ないのです。

信じる者は救われない

個人が居るという観念を信じる者は救われません、、真実の世界の中で嘘の信念で生きていけば苦しいに決まっています。真実の世界の中で偽りの観念に沿った物語を構築しても、、苦しいが湧くだけです。ただこれを終わらせるだけ、、、ただこの間違いに気づくだけ、、、悟りとは非常に簡単なことです、、ですがシンプルだからこそ、、シンプル過ぎるからこそ、、、拒絶も大きいのかもしれません。

真実からいつまで逃げるのか???

今真実に立ち向かう

自我の存在を信じる人が絶対に聞きたくないメッセージ、、それが「自我は実は何もしていない」です。名前は便利だから必要です、アイデアとして、、、ではその名前が付けられた「私」とやら一体全体何をしているのでしょうか????思考、行動、感情を起こしていますね、、、、起こしている、、起きちゃった????思考をしっかりとこの私が決めています、、、、、、残念!!!!全部記憶の自動反応です。

そんなわけがない

そんなこと誰も言っていないですよ?????嘘ですよね、、、、、違います、、、子供はみんな知っています、、自分など何も決めていないことを、、、、勝手に全部自動的に起きています、、、、夜見る夢は、、勝手に全部自動で起きています、、、、夜見る夢が勝手に全部起きているならば、、、、昼間のこの現実もそれができますよね、、、、自動反応ではない、、という証拠はありますか?????ないです。

自動反応で全然いけてる

夢の中の会話、、、完全自動反応で全部やれています、、、、ではこの昼間の現実は????やれるに決まっている、、、だって夢ではそれができるのだから、、、、これが真実です、、、、全員が自動反応で会話しています、、、、記憶の自動反応が完璧に起こっています、、、、見える世界の全員が完璧に自動反応でコミュニケーションを起こしているのです。

自動反応マシーン=自我

実は、、、

今回のメッセージは多くの人に嫌われるメッセージです、、、実は私とは何も思考せず、行動せず、感情も出していなかった、、、、実は記憶から勝手に反応が起きていただけだった、、、だからこれからも「私」は何も決めれず、、、ただ自動反応が起きる場所の名前でしかない。、、、これが真実です。この事実をしっかりと認識し、、自身の言動を確認してください。

本当だ、、、

このメッセージを読んだら本当にそうかを確認してください、、、恐ろしい実態がわかります、、、本当に自動反応がただ起き続けているのが分かります、、、記憶をベースにした価値観、観念による自動反応しか起きていません、、、とんでもない事実です、、、私は何もやっていなかった、、、やっていたことにされていた、、、これからは「私は、、、、をします」は言えない、、、なぜならば事実とは異なるから。。。。

真実を知る勇気があるか????

〇〇という自動反応が「私」を通じて起こった、、、これが真実の説明です、、、真実の説明のみをしていきます、、、〇〇という自動反応が今回「私」を通じて起きました、、、これです。。。。「私」の意味が変わっていきます、、、「私」はただの名前に変わります、、、、本当に名前だけだった、、、、残念!!!!

結果など、、、

個人は結果にこだわるが

個人は結果にこだわります、、、ですが結果は個人を幸福にできません、、個人を幸福にできるアイテムはこの世界には一切ないのです、、、、一切です、、なぜならばアイテムは全てイメージで在り、、この個人もイメージです、、実在しないのです、、、、だからこそ個人が幸福になるという嘘にいつ気づくかが重要になります。

個人とはイメージ以上でもなく以下でもない

個人とは体験を積むために起き上がったアイデアです、、、このアイデアに執着し始めると苦しみが湧きます、、それは嘘だからです。真実じゃないからです。。真実の中で真実ではないことを真剣に信じると、、真実とのギャップが生まれこれが苦しみになるのです。

自我とはイメージ以上でもなく以下でもない

自我を完全になくすのは不可能です、、、社会で生きていく際に便利なアイデア、イメージだからです、、、ですがこのイメージが、、思考し、感情を湧き出し、行動を決めている、、、、という思い込みは事実、真実ではないので、、、真実から離れ苦しみが湧き出します。自我が何かをやっていると信じると、、、全くこの信念とは異なる結果になるので、、、苦しのです、、、、全くもって無駄です。

知りたい

何を知りたいのか?

人間はなぜ学びたいのか、なぜ知りたいのか???小さい子供はなんでなんで????と一日中聞きます、、、なぜか?????知りたいのです、、、全部を、、、なぜ?????自身の本性が全部だからです、、、そしてこの欲求は終わることがありません、、、なぜか????自身の本性が無限の存在ですから、、知るべきことは無限に広がるのです。

新しい経験

個人が新しい経験を積むと、、、嬉しい!!が湧きます、、、これは神から湧きます、、、なぜか???神(無限なる存在)が新しい経験を獲得したからです。。。。家で本だけを読んでいても楽しくないのは、、、読んだ思想、価値観を経験する場所こそがこの世界だからです。無限なる存在は無限の体験を回収したいのです。

全ては無限の経験のために

自分自身が全く何も経験を詰めていない、、そのように思えても反省の必要は一切なし、、、その経験こそがただ起こったのです。。「この私が確実に居る」という思考が起こっている時、、、これは真実ではありませんから必ず極限の苦しみまで入り込みます、、ゴールがない道を歩けば人は必ず途中で諦めます、、、この諦めがおきるから大丈夫なのです、、、自我の性質上、、これしかない、、、究極の諦め、やぶれかぶれ、山頂がない山を歩き続ければ、、、絶対に途中で諦める、、、これが悟りの入り口です。