悟り

思考をあえて使わない生活、、、

比較検討検証をしない生き方

スーパーのチラシを見てください、何%オフ、何割引、残り00個、ポイント何倍デイ、まとめて買うと一割引き、、、、これを見ると人間の思考がフル回転します。思考がいかに得をするか、賢い消費者になるか、いかに損をしないか、、、これを考え始めます。実はこれ人間を不幸にするメカニズムがガッツリと詰まっています。思考を使えば使うほどに負の感情が湧くようになっています、得な消費者、賢い消費者になる代わりに負の感情がガッツリその人から湧き出ているのです。スーパー不幸体質に強制変換されています。

何も検証しない

私はスーパーに行くとこれらのチラシを全く見ないようにします。この商品がいくらか、、これだけです。欲しい商品と値段だけを見て買うか買わないか決めるだけです。もっと極端に言えば知っている野菜や商品であれば値段すら見ません、包装がやけに高級感漂っている時だけ値段を見ます、それ以外は値段すら見ない、、、これで思考を何も使わないで買い物ができます。負の感情を湧き出さずに買い物を行えるどころか買い物という行為に集中することでそこから無心、無我になれます。つまり買い物という行為から悟りに入るのです。

賢いと言われることを放棄する

クーポンと呼ばれるモノも一切使いません、クレジットカードに何ポイント溜まっているかも確認すらしません。思考を賑わそうとする他者の策略に乗らないようにします。手数料なども一切気にしません、その時に最も効率が良い方法を選ぶだけです。これによって思考の介在を防ぐことができます。料理を食べる時も一切順番を気にしません、食べたいモノから食べます、食べることにのみ集中します。すると食事そのものが道、悟りへの入り口になります。思考は色々言ってきます、これから食べないと冷める、野菜が先の方が消化酵素優位に、、、それらの思考の戯言を一切聞かないようにします。それによって食事の時間が無心、無我、悟りに変わります。

人間が話す賢いは全て小賢しさ

思考ができる賢さは全部小賢しさです、これは断言できます。人間とはこの小賢しさ全開で発展した生物なのです。ですからこの思考をフル回転すればどうなるか?小賢しさ全開の人生になります、こんな人生の何の価値があるのか?という話です。そしてこの小賢しさ全開の人生にはついて回るペナルティーがあります、それが負の感情の噴出です。自我が強固に肥大化すればするほどに負の感情が噴出するように設定されているのです。自我とは思考で支えられておりこの思考の強化は自我の強化です。コスパがいい、コスパ最高、、、こんな言葉を自分が使い始めたら要注意思考が人生の幅を利かせています。せっかくの無我無心、悟りに入るチャンスをコスパで失っています。

限界(体)を所有することで無限を開く

この人間ゲームの醍醐味は限界(体)から無限を見つけること

なぜワザワザこんな小さな体の中に意識を植え付けたのか?真我はなぜこんな小さくひ弱で低脳な体の中に自我(独立意識)を育てたのでしょうか?それはそうでなければならない理由があったからです。人間というのがひ弱で弱小でなければ広大無辺な自身(真我)を見つけた時に感動がないからです。それと自身(自我)が弱小無能であるからこそ自身(真我)をいつか探し当てるからです。広大無辺の本当の自分への憧れがなくなることがないのは自身(自我)が弱小無能だからです。

12歳ぐらいで気付く、、自分はキムタクにはなれない

中学校に入る頃には自分はメッシにも、ロナウドにも、キムタクにも、大谷翔平にもなれないことを知っています。生まれて10年もしないうちにこの体ではスターになれないことをなんとなく分かります。これは一種の絶望ではありますが同時に内面開発のスタートでもあるのです。形でスターになれないのであれば内面で充実になるしかないということです。これがこの人間ゲーム、自我ゲームのセオリーです。形でスターになれないならば形でないモノでなるしかないということです。とは言え人間は諦めが悪く、、では学歴で、では偏差値で、ではお金で、では収入で、では安定で、ではファッションで、、、と形を変えて形にこだわっていくのです。ところがこれらを追い求めてもどこまで行っても心の穴、欠乏感、違和感は埋まらない、、、

限界(体)を自分自身と思うことからの脱却

この限界(体)がなんかしらのアイテム(限界)や何かしらの無形のアイテム(名誉や地位、社会的評価)を得てもどうやら満足は来ない、、、これが素晴らしい絶望なのです。キムタクにもなれずスタープレイヤーにもなれない、では無形アイテムで勝負だ、、地位名誉、社会的評価、安定、、、、、これでも真の満足は起こらない、、ということでこの自分は絶望の果てにこの自分というものを疑うようになるのです。悪いのは社会や才能、周囲の人間ではなく、、、この自分ではないか?そうです、この自分という存在こそが負の感情を湧き出し続ける原因であり、そこを見つめそこから無限に入り込む道具だったのです。有限という体を持ちながら無限に開いていく道具、これが実は体なのです。目に見えるものは全て幻、幻想でありこれを求めるうちは真の幸福は見つけることができません。そうではなくこの体を真我、大いなる一つ、神の通り道であることにいかに気付くかが鍵になります。

何かに集中して無我になり、感情を観察して無我になる

自我は常に忙しく常にあれやこれやと忙しい、、、これをやってあれをやってと思考フル回転、、これが自我全開状態です、苦しみの段階。無我全開状態とは、、、、全作業に集中してこれを行います、全作業を無我に入る入り口にするのです、、、掃除、料理、仕事、睡眠、、、全作業を無我に入る道具にします。茶道、花道、剣道、武道の所作はこれに当たります、思考を一切介在させません。そしてもしも負の感情が湧いてきたならばそれを集中して観察します、その感情によって思考をフル回転するのではなくその感情を観察することで無心、無我に入り込むのです。負の感情すらも悟りへの入り口にします。つまり起きている間中を無心、無我、真我にしてしまうということです、この状態は対象のいらない平和、歓喜、安堵、愛です。

負の感情と形あるものへのしがみつき

負の感情解消を思考は形に向ける

人間から負の感情が湧いてきた際に思考は形あるモノを求めます、例えば食事、、、食事を食べると負の感情を一掃できます、勿論一時的ですが。食事を食べて食べて負の感情、ストレスを解消します。この際に思考はなぜ食事がストレス発散になるかを考えません。なぜならばそこを突き詰めると自我の存続に関わるからです。実は負の感情の発生源は自我であることに気づかれてしまいます、そのためそこは考えない。食事などの形あるモノがなぜ負の感情を解消するか?それは大いなる一つの代替品の確保だからです。形あるモノは全て大いなる代替品になる可能性があります、これを手に入れた瞬間思考の回転が止まり自我が解消され負の感情が抹消されます。実はこれが起こっています。手に入れたその瞬間思考が抜け落ち自我が抜け落ち負の感情が解消されるのです。

思考に解決を求めればひたすらに形に依存する

思考が行うことは基本短期的解決です。とにかくショートスパン、その場が取り持てばそれでいいのです。だから負の感情が湧いたら思考は即座に何かしらの形を求めるのです、子供が泣いたら即座にオモチャを探し出し子供に与えます。これを大人になってもひたすらに行うのです。何か負の感情が湧いたら形を探すのが思考の定石です。ちょっと疲れたら即カフェに入る、ストレスが溜まったらお酒を手にする、退屈が湧いたらTVを見る、、、これを一日中やっているのです。思考をフル回転させればさせるほどに自我は強固になっていき負の感情発生量が徐々に増えていきます。このメカニズムが破綻する時まで来ると人は目覚めに興味を持つのです。

負の感情は目覚めるまでひたすらに続く

負の感情の根源は自我ですからこの自我が主導権を真我に明け渡すまで延々に続きます。人間はいかに恐ろしい存在をこの体の中に構築してしまったのか?です。ですがこの自我構築は真我の遊びです、大いなる一つの遊びです。ですから深刻なことは実は何もないということです。真我の中に自我という独立した存在を作り出しこの自我から負の感情が延々と湧き続けそれを解消し続けるというゲームです。自我が王座を真我に譲ればその瞬間に負の感情は湧かなくなるのです。徳川幕府が天皇に王政を戻したのと同じです、これを無血で行うのか流血で行うかです。

自身の事業が完成しても負の感情が湧いてきた時に諦めた

私がなぜこの分野の研究に打ち込んだかと言えば、、、20代に仕事でストレスが溜まり、好きな仕事について世の中の役に立てればストレスはなくなると決めていたからです。ところが実際にそれを成し遂げた時に喪失感が湧いてきました、もう人生で何かチャレンジすることはないのか?とです。自己実現さえすれば自分の人生は終わりと思っていました、だからこそ全てを捨ててこれに当たっていたのです。ところが違った、喪失感が無くならない、、、これは大変なことになった、、、悟りを開くしかない、、こういうことです。

観察することを「考え」ても無駄

今にあることは思考ではない

負の感情が湧いてきた時にそれを観察する、ただ集中してその感情を見つめる、、、これは思考して理解できるものではありません。むしろ思考こそが観察の邪魔になります、思考を削ぎ落とすために観察に集中するのであってそれを思考すれば本末転倒です。今にある、大いなる一つになる、真我になる、無心になるとはどういうことか?ここに思考で行き着こうとすれば矛盾が発生するのです、ここは絶対に思考では入れない世界だからです。じっくりと負の感情、ペインボディーを観察することで思考を削ぎ落としそこから無心、無我、大いなる一つに入っていくのです。そこには歓喜、平和、安堵があります。

周囲の人間に振り回されている、、、

自分自身は今にあることができても周囲の人間がそれができていない、、だから難しい、、、これも頻繁に聞く話ですがこれは論点がズレています。自分自身が感情を観察できていて周囲の人間の感情を観察できない方が不思議なのです。自分の感情こそ自分ごとでありこれには過剰に反応するのが人間です、逆に周囲の人間の感情など容易に観察できるはずです。観察することに集中するのです、そしてそこから悟りに入ります。そこから無心、無我に入り込みます。自分の体から湧いてくる負の感情観察が一番難しくだからこそそこからの悟りは強いのです。

自分関係に比べたら人間関係など楽勝

自分自身の感情、不足感、孤独感、欠乏感、退屈感、、、、この感情の対処には非常に敏感になります。真面目な方はこの感情を無視することができずこの根絶に命を燃やします。ですが解決をすればするほどに負の感情はより勢いを強めて攻め込んできます。真面目な人がうつ病になるのはこのためです。ネガティブな感情、ペインボディーの解消は真面目に思考を働かせれば地獄を見ます。そうではなくただ見つめます、ただ観察します、観察に集中します。これによってそこから無心、無我、真我に入っていくのです。

負の感情は相手の負の感情を覚醒させる

負の感情の連鎖

負の感情は周囲の負の感情を活性化する力を持っています。負の感情を抱いた人間は自身の思考がこの感情の解消に乗り出すわけですがその際に周囲の人間を利用することがままあります。例えば飲み屋で人に絡む場合などは典型的なこのパターンで相手が最も言われたくないようなことを言って攻撃します。自身の思考がこれを買って出るわけです、これによって言われた張本人のが負の感情が湧き出し喧嘩を買うという負のループにつながります。重要なことは負の感情と自我はセットですからこのセットの目的は確実に永続です。周囲に絡んでも上手くいくのは周囲の人間も負の感情と自我のセットを抱えているためその人間もこのメカニズムが発動しその人間の自我永続に一役買えるということにんるのです。

家に帰ってパートナーに当たるメカニズム

負の感情が湧いた私は家に帰って何をするか?その苛立ちを解消すべく思考は人に当たることでこれを解消しようと図ります。要はエネルギーの発散ですね、ですがパートナーからしたらたまったものではありません。いきなり攻撃されるわけですから、、、ですが負の感情+思考のペアはこの安易な作戦が大好きです。結果パートナーは絡まれそしてパートナーから負の感情が湧き出します、そしてパートナーの思考は言い返すことでこれを解消しようとします。これが人間関係のバトルの構造です。私の自我はこれで持続が約束され、相手の自我もこれで持続が約束されます。問題はこれによって永続された自我は肥大化しより負の感情が湧き出しやすくなるということです。

相手の負の感情が湧き出したら

相手の負の感情が湧き出したらどうすればいいのか?その感情から発せられる行動を意識的に観察することです、絶対にその作戦に乗るのではなくその行為を観察者になることでそこから無心、無我に入ります。相手の負の感情湧き出しをしっかりと観察することに集中してそこから悟りに入るのです。勿論攻撃が過激になることがあれば冷静に感情的にそれを止めることは重要です、問題はそこから自身の負の感情を湧き出し、その解決を思考に委ねることです。これでは相互の自我が肥大化しこの戦争は終わることがありません。

負の感情が湧いたらそこから不幸な自分を演じる自我

自我の作戦は常に稚拙

悲しい、苦しい、辛い、、、このような負の感情が湧いた時に自我、思考はどうするか?甘えることに慣れている思考は「不幸な自分」「大変な自分」「落ち込む自分」を演じます。なぜこれをするか?これをすれば周囲の大人が動いてくれることを学習しているからです。周囲の大人、特に両親が自分のために行動してくれることを自我は学習します。これによって自我は悲しい、苦しいなどの負の感情が湧いた時は塞ぎ込んで見せてこの感情解決を図るのです。ですがこの作戦には大きな落とし穴があります。それは感情の解消に思考(自我)を使ったということ、これによって自我は肥大化しさらに負の感情を生み出しやすくなるのです。

大人はこのような稚拙な行動を見抜かなくてはならない

大人が取るべき行動はこのような稚拙な行動を子供が取ったならば直ぐにそこを見抜き改善を図ることです。もしもこれを見抜かずにその作戦に乗ってしまえばその子供の自我はこの作戦を何度も使い続けることになるのです。何か落ち込めば落ち込んで見せるという演技に拍車がかかるどころか、、、無意識(常に)に感情と行動がセット化していきます。結果自我の肥大化は一途を辿り負の感情が毎日湧くような体質にシフトしていきます。

大人とは、、頭脳、IQとは何も関係がない

頭脳レベル、IQがその人の成熟度とダイレクトに関係するならば東大生は皆大人ということになりますがそうではありません。むしろ思考が発達していると負の感情の解決方法を思考に委ねる結果になり負の感情湧き出しからの思考フル回転が定番化します。思考が考えだす作戦は常に過去のデータから湧き出されそれは自我をさらに強化する結果になるのです。自我の肥大化はそのまま負の感情(ペインボディー)の肥大化に繋がり苦しみのメカニズムは完成します。

それでも苦しみは目覚めのためにある

負の感情とそれを解決する思考のメカニズムは勿論苦しみのメカニズムです。ですがそうは言ってもこのメカニズムは悪なのか?といえばそうではなくこのメカニズムは最終的には目覚めを経験させるための苦行のようなものです。宇宙には一切無駄なものはありませんからこのメカニズムは人間を目覚めに誘う荒療治のようなものです。私自身悟り、ノンデュアリティーの学びを始め、、、このエゴ、自我のメカニズムを学んできましたがこの核心にあってはなかなか理解が深まらない、、つまり自我の抵抗に相当に合いました。それだけ人を目覚めに渇望させる大きなポイントなのだと思います。

「最強のメンタル」は存在するか?

存在しない

本屋さんに行けばこのようなタイトルの書籍が数多く並んでいます。最強メンタル、メンタリスト、土壇場メンタル力、朝からフルコミッションメンタル、タスク処理メンタル術、、、これが人間がまだまだ思考というものの本質を理解できていない証拠です。思考というものは使えば使うほどに自我(これが自分であるという思考)が強化されていき負の感情を湧き出させます。思考をフルスロットルで使い倒せばそのまま負の感情が湧き出てくるのです。思考というのはナイフのようなもので確かに効果があり目の前の問題、負の感情を一刀両断できる力を持っています。ですがその思考こそが自我を形成し得体の知れない違和感を湧かすのです。人間として生きていて感じる孤独感、喪失感、不足感、欠乏感を生み出す真犯人こそが思考に基づく自我です。

目の前の負の感情を蹴散らすからこそ人は思考中毒になる

目の前に起こる負の感情、負の問題点を思考はバッサバッサと切り倒し蹴散らす力を持っています。そのため人は思考を一番の友とします。特に思考が回る人ほどに思考を使い倒すことになる、思考と一心同体、思考と心中するかのようです。ですがこの思考を心の友、中毒化した関係を継続しますとまさかの負の感情が増え続ける結果になっていくのです。思考とは自我を作り出すエネルギーでありそれはそのまま自我の肥大化を起こすわけです。

思考中毒から抜け出すには

思考中毒から抜け出す方法は何か?思考を野放しにしないことです、思考の活躍を応援しないことです。朝から晩まで思考をフル回転させないことです。これらを行えば行うほどに負の感情が湧き出してきて負のスパイラルに突入します。そうではなく負の感情が湧き上がったらそのままそれを観察します、感情が起き上がった状態をしっかりと観察し集中し無心になります。今無心という言葉を書きましたがそこに集中すると感情が消え去って無心状態、無我状態に入るのです。負の感情から逃げるのでもなくそれを臨機応変に処理する必要もない、ただそれを見つめます。ここが神、真我、大いなる一つの入り口です。

気晴らしのレジャーは必要ない?

人間が行うレジャーとは退屈、不幸を感じさせないための予定の詰め込みがほとんどです。何かしらの用事を詰め込んでしまえば退屈、不幸、孤独、寂しさを感じないで済みます。だからこそ皆必死になって予定を詰め込むのです。何も予定を入れなければ死んでしまう、、それほどまでに人は負の感情の扱いに困っているのです。負の感情は逃げても常に追いかけてきます、負の感情は逃げてもまた次の日には起き上がってきます。ですからこれと戦うのはもうやめましょう、これから逃げるのではなくそこを観察し集中し、無心になって無我に入ります、悟りに入ります。

全感情は神からの使者

感情とは不思議なモノで絶対にコントロールできない

感情の仕組みを理解しますとどうやらこの感情とどう付き合うかで人間として苦しんで生きるか、神として至福に生きていくかの分かれ道になることが理解できます。それほどまでに感情というものはチャンスであり地獄に落とすものでもあります。人間を人間のままにしておくかそこから悟り神になるかの分岐点、それが感情の扱い方ということです。人間が作り出したポジティブシンキングはそれをどう解釈するかで終わります、どんなに嫌なことがあってもそれをポジティブに捉え成功に導いていくというものです。これはこれで感情を観察するという意味である種意識的かもしれません、ですがどう解釈しようとそこから思考が乗り出していきその問題の解決を図ればそれを達成したのは自分であり自分の思考ということになります。

感情はただ湧いてくる

感情というのは面白いもので絶対に人間はこれをコントロールできません。明日このような感情を湧かそう、、こう決めて寝ても絶対にその通りにならない、、これが感情です。全くコントロールが効かないこの感情が毎日のようにこの人間の体の中で沸き続けるのです。そして人間はこの感情をいかに処理するか、、自身の思考をフル回転していきます。この感情処理の方法こそが人間の優劣、個性を決めているかのように真剣にそこに当たるわけです。ですがこの戦いの勝利者は常に感情、どれほど思考を駆使して負の感情を処理しても次の日には何もなかったかのようにまた湧いてくるのです。多くの場合人間はこの感情との勝負に負け果て勝負から逃げるようになります、そして気晴らしに何かを見つけて慎ましく生きていくようになります。

感情を観察してみる

多くの人はこの負の感情の湧き出す仕組みにすら興味を持てず、それが人間だからと諦めます。もしくはこの負の感情が変幻自在ゆえにそれが無意識で湧いてきていることすらも気づいていないかもしれません。どちらにしても自我の存続プログラムである自我発達→負の感情噴出→思考による解決→自我肥大化→負の感情噴出を見抜いている人はほぼいません。このメカニズムを解消したければ負の感情が湧いてきたらただそれを観察することです、何も思考を働かせずそのまま観察する、、、感情をのさばらせているのではなくただその感情を感じ観察します。集中して集中してこの感情観察をしていきますとそこから無心に入っていきます、そこから無我に入っていきます。するとそこに歓喜、平和、安堵が襲ってきます。これが人間卒業のプロセス、悟りのプロセス、無我への入り口です。

エックハルトトールの偉大さ

人間が書いた本ではない

悟り、ノンデュアリティー、エンライトメントこれらの世界に興味がある人の多くは彼の書籍を読んだことはあるでしょう。彼の本は人間が書いたモノではなく間違いなく無我、無心、真我が自我を介在しないで書いています。彼の本を読んでいると不思議にも思考がクリアー、感情もクリアーになっていきます。クリアーというと何もないという印象を与えるかもしれませんが熟睡した次の日のような感覚を一日中味わえるのです。思考がジャックしていない状態、感情がジャックしていない状態とは熟睡時の感覚であることが肌で感じることができます。

何かをするから楽しいは全部嘘

今日はこんな予定があるから楽しい、昨日はこんな用事があったから楽しかった、、これらは嘘の充実感です。本当の充実感はそのようなモノではなく静かな平和に襲われた感覚です、静かな安堵、静かな愛に襲われた感覚、これが二極、二元、正負を越えた感情による充実感です。何も予定がなくても静かに幸福、、この感覚とは思考、感情にジャックされていない無我、無心、真我の状態です。エックハルトトールはこの状態に意識的に入り書籍を書き上げたことが読んでいて感じます。

彼は思考、感情との同一化からの脱却に終始する

彼の書籍には非二元本特有の非二元ベースの書き方がありません。あくまでも人間という存在をベースに本が書き上げられています。私は当初これではせっかくの内容が最終的に自我に活用されてしまうのでは?と懐疑的に思う部分もありました。ですがこの書籍を何度も反復して読み返していくうちに、、自我のメカニズムを理解するだけで思考、感情のジャックが収まることを体感しました。一番重要なことは自我の乗っ取りから外れた世界の説明ではなくいかに自我がこのメカニズムを維持しているかに精通した方がより確実に無我に入れることだという理解に落ちました。自我は大変巧妙でどのような素晴らしい体験、気づきすらも知らぬ間に自我の手柄にしてしまいます。おかしい、いつの間にか苦しい感情が湧いている、、、このパターンです。エックハルトはこの点どこまでも自我のメカニズム、思考の乗っ取り、感情との同一化とそれだけの説明に終始することで自我のカラクリを壊滅的なまでに見抜いていきます。

思考に絶対的な信頼を寄せる人間の愚かさ

思考はこの世の王者

思考とはこの世の王です、絶対的な権威です。その証拠にノーベル平和賞に選ばれる多くは最高権威の大学を卒業しています。ですが実際にはその思考が生み出したテクノロジーはこの世界を平和に導くどころか混乱を生み出しています。これに多くの方は驚かないのですが実はこれは思考の本質を見抜くチャンスです。思考とはあくまでもこの世界を構築する一つのエネルギーでしかなくそれ以上でもそれ以下でもないのです。思考というたった一つのエネルギーを絶地的王に据えることで人間も世界も不幸に至らせてしまいました。

思考=感情

思考と感情を完全に別に考える方は多い、、、女性は感情的で男性は思考的、、、、感情と思考は別物、、これが世間の一般常識でしょう。ですが実際は違います。思考のエネルギーが感情のエネルギーを生み出しています。私はこの世界でたった一人の存在だ、、これが自我ですがこの自我システムこそが人間に孤独感、分離感、喪失感、不安感を生み出し続ける元なのです。感情豊かなライオン、感情的なシマウマ、など自然界において感情が溢れておかしくなっているような動物はいません。皆淡々と生きています。苦しみという感情は生物のデフォルトではなく人間というこの自我を形成した動物だけがこれを所有します。

人間を辞めよう

野生動物は穏やかで人間は不幸、、こんな悲しい事実を人間は絶対に認めなでしょう。知能、思考というものを手に入れた人間様がなぜ野生動物よりも不幸なのか?あり得ない、、ですが真実です。人間様だけが負の感情を常に生産し続け全世界の不幸を一手に抱えています。人間様だけがこの負の感情を思考によって即座に解決しますが直ぐにまた負の感情に襲われ終始緊張感を漂わせているのです。これが人間の本性です。思考というものを絶対的に信頼しその思考によって裏打ちされた自分を絶対視することで負の感情を生み出し続ける存在、それが人間です。この人間を一瞬で辞める方法があります、それは感情を観察することです、思考を観察することです、湧いてくる感情、思考に、思考を被せてこれを解消するのではなくそのまま観察者になります。そのまま気づきの意識、無心、無我になるのです。自身から湧いてくる感情を自分のモノとして所有しこれをなんとかしなければと思考フル回転になるのではなくそこから悟りに入るのです。その時人間はいなくなります。