自我

コンサートに夢中になって行くのは自分を忘れるため

目の前のアイドルに自分を奪ってもらう

コンサートに熱狂的になって行く人はアイドルに自分を奪ってもらいに行くのです。その瞬間好きなアイドルしか見えなくなり、、自分が消滅します、、、自我が消え去り、無我に入り至福に包まれるのです、至福そのものになるのです。そしてアイドルは目の前の熱狂的なファンを喜ばせようと、、自分を忘れ去り、無我に入ります。至福の共演です。

ファンの興奮を永続させる

ジャニーズ事務所がなぜ凄いのか????ファンの期待を裏切らない、、、ファンの心を奪ってあげることに忠実なのです、、定期的にコンサートを必ず開き、定期的に音楽を発表する、、定期的にファンミーティングを開き、定期的にドラマで主演をする、、、、こうやってファンの心を奪い続けてくれるのです。

そうか、、、無我になればいつでも至福に入れるのか???

ですがどこかで人に頼って無我に入ることを諦めなくてはならなくなります、、、なぜならばその興奮が永続するとは限らないからです、、無我に入る対象を仕事に変えればその場で無我に入れます、、もしくはこの事実を徹底的に理解し、、、思考の観察者(無我)になってしまう、、、アイドルに夢中になった状態を覚え、、何にでも集中することで毎日無我に入るトレーニングになります。

自我は覚者を脅威に感じる

自我にとって覚者は大敵

自我が強固なシステムになっている見かけ上の個人は、、覚者の存在を大いに恐れます、、、それは当たり前の話で、、、本当は存在していない自我にとってそれを見抜きさらにその事実を突きつけてくる行為は殺人と同じだからです。ですが本当は自我は存在しないのですから殺しようにも殺せません。錯覚としての自我が徹底的に覚者の存在を否定するのです。

覚者の扱いに困る自我

覚者とはこの体の中に自分が居ないことに気づいた全体のことです、、この体の外に全体がありこの全体がこの体を便宜上使ったゲームをしていることに気づいた全体です。。。見かけ上は人の体をしていますが主語は全体です。この全体は自我に話しかけます、、、それはないんですよと。。。お前はもう死んでいる、、、こんなメッセージを伝えるわけですからそれは嫌われるわけです。世界一嫌われる人種でしょう、覚者とは。誰もそんなメッセージは聞きたくないに決まっています。

覚者の重箱を突く自我

自我は覚者の重箱の隅を突くでしょう、、、悟ったならばお金がないのはおかしい、悟ったならば成功していなければおかしい、、悟ったならば独身なのはおかしい、悟ったならば性欲があるのはおかしい、悟ったならばお酒を飲むのもおかしい、、とですがこれこそが最後の抵抗です。本当は、、、ただ全体から起こりが言動が起きているだけ、、、その起こりが見かけ上のこの体を通じて起きていることに気づくことだけです。

活躍したい、、、これも自我延命システム

活躍したくて何が悪い???

将来はサッカー選手になって活躍したいです!!これは微笑ましい子供の言葉です、、、ですが実はこれも自我の延命システムが働いています、、、なぜ活躍したいのか???なぜ???今が苦しいからです、、、なぜ国公立大学に入りたいのか???今が苦しいからです。。。そうです、、活躍したいも執着、、これは苦しみを解消してくれる可能性を秘めたことなのです。

反省します、、、

今日の自分の不甲斐ない働きを反省する、、今日食べすぎて反省している、、、この反省も自我の延命システムです、、、反省するという一見謙虚な姿勢こそがこの罠を見え辛くしています。反省するのはいつも自分、この自分の自由意志があり、この自由意志を良い方向に使えなかったことに対し反省しているのです。残念!!!!自由意志はありません、、全部全体からの起こりです。反省するためにはこの事実を無視するしかないのです。

個人はいつも延命装置に乗っかる

個人の延命装置は人によって様々、、、目標を持って延命するか、、反省して自分を作り上げるか、、将来を悩むことで、自分を保持するか、、、、思考は全てこの「個人」ありきの活動をしますから、、、個人と思考は大変相性が良いのです。個人ありきのこの思考をスパッと辞めてみるとどうなるか、、、突然至福に包まれます。何もしなくても至福に包まれます、個人が包まれるのではありません、、至福の漂いを至福が感じるのです。

全体として存在しなぜ人の言葉で傷つくことができるのか???

無我夢中の状態で

何かに没頭して無我夢中に、、、この時至福に居ます、全体に居ます、神に居ます、、この状態で誰かから悪口を言われた、、、、気にならない、、、なぜならば既に至福だからです。至福に居るとは現実離れではない、、、いや現実という現象の中で、、、現象そのものになっている状態です。その悪口すらも現象の現れ、、、気にならない、、、悪口そのもの、、、です。

批判を気にするスターは、、、

批判を気にするスターは、、、全体になりきれていない、、、、成し遂げた功績をこの個人が所有している、、だから苦しい、、、この時に批判を受けると、、、テンパってしまう、、苦しさが重なる、、、功績よりも無我に入るそのことこそに至福を覚えるならば、、、周囲に対する関心が薄くなる、、結果批判も気にしない、、、

自我全開プログラムを脱す

悟りとは自我全開プログラムが落ちることです、、このプログラムは非常に強固で簡単にはアンインストールされません。ですからゆっくりゆっくりこの自分はプログラムであり、、このプログラムを紐解く必要があるのです。音楽とは音の組み合わせであり、、、これに実態はありません、あの曲が好き、、という時、、それは異なった音の組み合わせのことです。。。。この自分というプログラムも、、、言語の組み合わせで形成されており、、実態がないのです。音の組み合わせです。。。

だからこそこう生きよう、ああ生きようとは真逆

もっと自然体で生きようよ、、、、、アベシ、、、、こんなメッセージが一切意味をなさないのは、、、生きるのが個人だからです。。。そうではなくこの個人をいかに解体させるかです。。。今を生きよう、、、、、ヒデブ、、、、今を生きるのが個人ならば、、、何を今やっても苦しい、、、個人に向けたあらゆるメッセージはその瞬間の幸福を得れても、、しれは全て一時的なまやかしです。

思考が全開になるのはもっと良い方法があるのでは??と思考するから

絶対に損をしなくない、、、

一円でも安く買い物をしなくては。。。。あそこのスーパーでは2割引だった、、、だから絶対にそれよりも高くは買わない、、なぜならば損をしたくないから、、、これが思考の特徴です。絶対に損をしない、、、個人に「成り切った」全体はその時点で大変苦しい、、だから思考はこの苦しい「個人」を得をさせるために起き続けます、、思考が悪いのではなく、、、、思考とはそのようなエネルギーであるということです。

全体に触れる習慣が

無我になる習慣がある人は、、、この損得に興味が無くなります、、、だって損得より無我、全体が断然気持ちが良いからです、、、、損得に興味が起こる=自我全開、、、無我に興味が起こる=自我の終焉です。でもそんなことをしたら個人は生きていけないのでは、、、、、違います、、、、無我に入れば至福ですからそこには何も要らないのです。無我になるのにお金が一円もかからないのです。

無我に入れば入るほど、、、何も要らない

来週は旅行に行こう、来週あれを買おう、来週友人と花見に、、、こうやってスケジュールを埋めたがる人は、、、この個人にいかに喜びを与えるかに必死になっています。この個人は今苦しいから、、、ご褒美を与えてあげているのです。。ですがこの方法を続けるのが苦しい、なぜならば、、、それでは一時しか幸福になれないから、、、

このブログの意味

このブログでは、、、自我がどういうメカニズムで苦しみをこしらえているか詳細を記載しています。何度も自我のメカニズム、全体のメカニズムに触れますと、、、自我の自動反応に対し、冷静になる全体の姿が湧いてきます。「鼻を触る癖があるよ」これを言われた人はその後鼻を触る回数が減ります、少なくとも増えることはない、、なぜならば、、冷静に見つめの自分が誕生するからです。これと全く同じです。

神羅万象とは、、

神羅万象しか無かった、、、

この世界を表現する時に、、、神羅万象という言葉を使います、、、この言葉は本当に核心を突いています。神が万物の形のような姿をしている現象界です。。。本当にその通り、、そのままです。。。そうなると一つだけ問題があります、、それはこの「私」はどうなるのか????ということです。この私は何なのか???というわけです。。。神羅万象が広がることは分かった、、、ではこの私は何ものか????これこそが神羅万象の一部に過ぎません、、、神羅万象以外が存在してしまったらこの世界は神羅万象ではなくなってしまいます。

この私も神羅万象

この私も神羅万象、、、そうです、、この体は神羅万象の一つです、、その証拠にこの体は毎日変わります、体調は毎日変わるし、髪も毎日伸びる、、気分も毎日変わる、、、、これぞ神羅万象でしょう、、、じゃあこの自分というアイデンティティ、人格、自我は何なのか????これも森羅万象です、、、神羅万象の表現です、、、いやいや、、、この思考は自分が独断と偏見で行っていますけど、、、、違います、、その錯覚が起こってるのです、、神羅万象として、、、

神は神が作った神羅万象の中で遊ぶ

この自分もこの世界も神羅万象、、、そしてこの世界の中に自分を作り出し右往左往を起こし遊んでいきます。この自分も当然森羅万象の一部、、この経験も神羅万象です。。。神は神であることに飽きて、、、神以外を作った(神羅万象)、、これは神のアートです、、そしてその中に自分というアートを作り、、この自分人生というアートも作ったのです。主人公は神ですからこの自分人生はしんどいわけです、、だからこの自分は悟り(神帰り)を目指すのです。

ゲーム上この「私」は悟っていい

悟りなんて滅相な、、

私如きが悟りなんて、、、私が悟りなんてとんでもない、、、私が悟りなんて時期尚早です、、、この一見謙虚そうな発言こそが悟りの罠です。自我の罠とも言えます。謙虚というのは、、この私は、、大そうな者ではありません、、、という意味ですが、、、「私」が居ると言っているだけこれは事実ではありませんから傲慢な考え方なのです。「私」など本当は居ないのですからにも関わらず「居る」と言っているだけで傲慢なのです、虚勢です、虚偽です。

私は大そうなもの

本当の私はこの全体、空、色、、、全部ですから、、、大そうなものなのです。大そうなものが見かけ上の「私」になりすまし生きています、謙虚に。滅茶苦茶ですね、、、大そうなものが、、、この見かけ上の体の中に「私」が居るという思考を起こし私ゲームをやっているのです。だからこの見かけ上の私は悟っていいのです。最初から大そうなものだからです、そして今もその大そうなものです、、最初から大そうなものだったのです。

偽りの謙虚を辞める

そもそも見かけ上の「私」は大そうなものですから、、、この「私」ゲームで謙虚に振る舞う必要はないのです。勿論このゲーム上横柄に振る舞えば様々な弊害が起きるでしょう、ゲーム上。だからといって本気で謙虚になる必要はない、、本当は大そうなものであるという自覚をしっかりともって謙虚風に生きればいいのです。「私」の謙虚はこのゲームでは偽りで十分です。なぜならば私は本当は大そうなものだからです。

苦行の末に悟りを開く??

感覚だけを、、、

私は苦行というものがなんなのか分かっていないのではっきりした説明はできませんが、、苦行の末に悟りを目指す人々は、、、恐らく感覚を作り続けているのだと思います、、、山を上り、滝に打たれ、川を横断する、食事も粗食にし、断食し、、、、五感を作り続けていく、、、すると思考が自然と収まっていき、、思考が湧かなくなり、、全体と常に一緒になり、、、最終的に自我が崩れ落ちる、、、勿論これも現象ですから、、、そう見えているだけです。

ヨガも感覚を作る

ヨガは全身の感覚を作るのに最適です。ヨガは普段使わない筋肉を刺激し五感を開いていきます。五感が開くと思考が閉じます。五感を開きながら思考を湧かせ続けるのは不可能です。そして見かけ上のこの体の中に溜まって感情を発散していきます。見かけ上のこの体に溜まった感情を成仏されていきます。思考が湧きにくい体にするには五感を積極的に開いていくことが有効です。

五感が閉じれば、、思考が湧く

五感が閉じていきますと、、、思考が湧きやすくなります、、五感から通じた経験が無くなると、思考するという経験が起きるのです。思考という経験が悪いのではないのですがこの思考という経験は多くの場合「自分」という存在ありきであるために「自分」感覚を強化し結果苦しくなるのです。思考はこの「体」をサバイブさせるために発達したのでこの思考を野放しにすると「自分感覚」が強化され苦しくなります。

それでも自由意志にしがみつく自我

自我最強兵器「自由意志」

自由意志なんてないんですよ、、、この言葉に多くの方は激情します、怒り、がこみ上げてきます。。なぜならば自由意志を否定してしまったら自我は存続できないからです。自由意志があるからこそ「自我」はこの体の主人を気取ることができるのであって自由意志がないと証明してしまったら自らの存在を抹殺することになるからです。その手の情報をホイホイと聞くわけがないのです。

記憶が「自我」を確固たるものにし、、、

自我の最強兵器は「記憶」と「自由意志」でしょう。この二つは自我を盤石なものにします、、記憶、自由意志がある、、これで自分の存在を疑う者は皆無になります。こうやって人間同士はお互いの体の中に「自分」が居るというゲームを繰り広げるのです。このゲームが楽しいだけならいいのですがとんでもない、苦しいのです。楽しい時すら苦しいのです、苦しい時も苦しい。いつも苦しい。それは「自分」という存在がこの苦しみを起こすツールになるからです。

自由意志があっても苦しい、、、

百歩譲って自由意志を認めることにしましょう、、ではそれでこの苦しみは無くなるのか、、、絶対に無くならない、、、、それも分かっています。じゃあ自由意志が無いを認めてしまえばいい、、、自由意志がないを認めてしまえば楽になる、、、、でもどうしてもそれだけはしたくない、、、なぜならば今までの功績が全部無くなってしまう、、、あの時の努力、あの時の辛抱、あの時の忍耐、、、、だからできない、、、

大谷翔平の存在

大谷翔平はいつでも無我に入っている

これはあくまで見かけ上の話です、本当は大谷翔平はただの現象ですからその中では何も起きていません。ですが中に中身が在るという想定で話を進めます。大谷翔平は勝負中無我に入ります、無我への入り方を知っています、練習中も無我に入る、恐らくオフの時も無我に入っています。彼の毎日の生活はほぼ無我なのです。ルーティンということをスポーツ選手はやりますがあれは思考を一切介在させずその場で無我に入るテクニックです。

無我が気持ちが良い

無我とは我がないこと、これは全体、悟りのことです。自分が全く居ないのですから、、全体に戻っているのです。スポーツ選手は練習を通じてこの無我への入り方を学ぶのです。無我の状態を覚えるとその場所が最も気持ちが良い場所であることが分かるので率先してそこに入ろうとします。そしてあらゆるスポーツはこの無我への入りで上達し結果が出やすくなります。

ただし大きな落とし穴が

スーパースターが破産、犯罪、、、これもニュースに付きものです。無我に入って出た結果を自我が抱え込むのです。無我に入って大きな功績を残したが自我がしゃしゃりでて威張り散らします。本当は自我が居なかったから結果が出たにも関わらず自我がそれを一人占めするのです。なんという茶番、なんという喜劇、なんという詐欺でしょうか。自我は詐欺師なのです。ですがこれも全体からただ淡々と湧き上がるゲームです。誰も悪役は居ないのです。全体は自我を作って、、このゲームを楽しんでいます。