悟り

社会人にこのメッセージが意味あるか???

普通に働いているけど、、意味を感じない

普通に毎日働いている方にこの悟りメッセージは意味があるのか???使い道がない、、、、違います、、天動説が地動説に切り替わる以上の影響力です。。。。意味があるのか??という質問が出ている時点でまだ理解が進んでいないのです。。。人間の多くは後悔、と心配を多くの時間を割いてしていますが、、、これが無くなります。。。。後悔も心配もこの私が自由意志で決断をするから、、起きるのです、、、、怖い、、、ですがこれをできる個人が存在しないのです、、、個人というラベルのはその実力がないのです、、、、後悔、不安全く関係のない話です。

何を焦り何を求めるのか???

焦りとは、、この今の決断が、、今後に影響するのでは????という大前提で起こります、、、ところが、、それができない、、、今起こる決断はこの個人というラベルとは全く関係なく起こり続ける、、、何を焦ることができるのか????勿論どうなるか分からない真我からの起こりは怖いのは確かです、、、ですがそれは全員が同条件。。。全員が全く平等に真我に振り回されている、、、終わり。

上手くいくもいかないも

見かけ上上手くいっている人は、、そのようにさせられているだけ、、、見かけ上上手く言っていない人は、、そのようにさせられているだけ、、、ここに何か感情思考は湧くでしょうか、、、、湧くわけがないのです、、、そこに個人の自由意志が働いていると信じるからこそ、、色々思考が巡るのであって、、それが湧かない、、、変わった、、、起きている時間の思考の反応が明らかに変わります。これが人類の新しいパラダイムシフトです。

自我の根っこをぶった切る

勘違いの大元

自我の活動、反応は、、勘違いという大きな土台の上で起こる化学反応です、、化学反応ですから、、これを静止できる個人、自分は存在しません、、、化学反応を止める唯一の方法は、、この勘違いという土台に完璧に気づく以外に道はないのです。。。その大きな勘違いとは、、、この自分が自由意志で物事を決めているという勘違いです。これが嘘だった、勘違いだった、、、という大どんでん返し、天動説が地動説に切り替わるようなパラダイムシフトを超こします、、すると自由意志がある個人を前提にした、、思考、行動が湧いてこない、、もしくは途中で気づくようになります。

地動説を信じ切った後に。。。

地動説を信じ切った後に、、今日の太陽は早く動くなーとは思いませんね、、全く同じメカニズムです、、、全ての言動は真我から勝手に起こっている、、、これを腹の底から信じた時に、、感情、思考、行動が変わってしまうのです、、、勝手に。蜃気楼を見て早くあそこに行きたい、、とは思いません、蜃気楼という気づきが起きたあとに、、その衝動がもう起きないのです。

これは人類の新しいパラダイムシフト

個人の思考、行動、感情が、、、全部真我からただ起こっていただけだった、、、この気づきは、、、人類のパラダイムシフトです、、この気づきは地動説後の人類の発展と同じです、、、それぐらいに大きな気づきです。この気づきが今人類に起きそうになっています。情報革命が進み、、悟り、ノンデュアリティのメッセージが徐々に世間に浸透し始めています、、これは奇跡です。

難しい入り方

こうした方がいい

こうした方がいい、、このメッセージは、、、こうすればもっと楽になりますよ、、幸福にんりますよ、、苦しみがなくなりますよ、、、という意味を含みます、、、ところがこのメッセージの功罪は、、、それを受け入れることができる自己意識、自我がまるでいるかのような書き方になってしまいます、、、相手は分かりました、、そうしてみます!!となる、、、、この勘違いが苦しみを生んでいます。。。ですが、、、本質の部分では、真我の部分では、、このメッセージによって反応が変わる場合もある、、ということです。。勘違いを起こすリスク、真我からの起こるが変わるメリット、、、この両面、矛盾を常にはらむのがこの悟りのメッセージです。

歯に海苔がついているよ

相手の歯に海苔がついている時、、、このメッセージを当然言いますね、、、相手は気づき、、直ぐに海苔をとる、、すると相手は、、私が海苔をとった、、、と思う、、、この当たり前のやりとりに人間の苦しみが隠れています、、メッセージを聞いた相手の中で、、、、「海苔を取らなきゃ」という思考が真我から起き、海苔を取るが起きた、、、そして最後に「私は海苔を取った」という感覚が起きる、、、これが全てです。。。この理解、この実感が湧かないがゆえに、、、、全ての苦しみが生まれます。

物事を良くしたい、、という不幸

もう少し売り上げが高ければ、、もう少し天気がよければ、、もう少し睡眠時間が取れれば、、人間とはこの連続、、毎日毎分、、この心理状態に犯されています。。。。。もう少し、、がなくなることは一生ないでしょう、、、ですが、、、、今この目の前の現象は神、真我、根源から起こった現象です、、明日も明後日も、来年も、、ずっと、、、この現象を変える力は個人には一切ない、、、、この事実が腹落ちしますと、、、急に楽になります、、もう何も改善しなくていい、、もうこの世界に私は何も責任を取らなくていい、、この脱力が起きます。。。。。人生で初めての脱力、、、それがこの事実を理解することです。

仮に変えたいという衝動が起こっても

仮に仮に、、この世界をこう変えたいなーという衝動が起こっても、、、それも真我、神、根源から起きています、、、、自己意識が起こした???とんでもない、、そんな力は一切ありません、、自己意識自体が真我からの起こりです、、、悟りのドミノはここから倒れます、、、身も蓋もない、、この事実から悟りのドミノが倒れていきます。

ユニフォーム(私)はただの番号

ユニフォームが突然、、、

スポーツ選手のユニフォーム、、ユニフォームには選手の動きの全てを、、、何もコントールする力はなく、、ただの番号として機能します、、ここを勘違いする人はいません、、、ところが、、、これを「人間」に当てはめると、、、体に付けられた「名前」これはユニフォームでしかないのですがこのユニフォーム「名前」がなぜ全思考、行動のコントロールをしている、、、という大勘違い起きます、、、ここで重要なのは、、、私は名前「ユニフォーム」であるという動きは、、、ユニフォーム「名前」にはできません、、これをできるのはこの体から思考を起こす存在、真我です。。

自己意識という罠

多くの方は自己意識、、この体の中に自分が居る、、という発想はこの体の中から起こっていると信じていますが違います、、、この体の中に真我からそれが起きているのです。。自己意識は神、真我作り出したものです、、この辺りが悟りを非常に難しくします、、、、この世界で何かを起こすことができる存在は神、真我、無我であり、、、この体、ユニフォームには何の力もないのです。。。

私の自己意識が、、、やっちまって

私の自我が、、私の自己意識が、、、私のユニフォームが、、、全部勘違いです、、、この説明こそが苦しみの元なのです、、、自我、自己意識、ユニフォーム、、、ここには力がないのです、、何かを起こす、、、起こすことができるのは神、真我です。。。ここさえ整理がつけば、、、あとはドミノが倒れるように、、気づきの連鎖が起きます。。。「昨日もううちょっとお酒を押さえておけば」、、、、、違う違う、、、それを決めることができる個人、自我、、ユニフォームは居ないのです。。。。動きは全部根元、神、真我から起きます。

真我の勘違いを前提にした自動反応=自我

自我という言葉の功罪

自我という言葉をハッキリと理解する、、これはもう悟りの全てです、、、ここが理解できてしまえば、、もう人生は苦しむことができません、、、ですがこの自我、覚者によって説明が曖昧ゆえに、、、混乱を究めます、、、、、そして自我に対応する言葉、、真我、無我があることで益々混乱が起こるわけです。。ここを整理したいと思います。。。

自我は実在はしない

自我という、、、物質はまず完璧に実在しません、、、この体の中に自我があって、、、自我は物質ではない、、、この体の中に「私」という存在が在ってこの私が言動の全てを行っているという勘違いが起き、、その勘違いを元にした全ての反応を自我と呼びます、、、要は人間の発言、行動はほぼ自我そのものです、、これを自我がやっている、、、という表現が出ることで、、、自我という、、実態がないものがまたここで生まれます。。ここが悟りを非常に難しくします。

つまり人間の動きは自我そのもの

あの人の自我が、、、というよりも、、勘違いを前提にしたその動きが自我です、、、悪口を言ったら、、、相手が怒り出した、、、、この動きが自我です、、、全ては真我、根源から言動が自動的に起こっている、、この理解が起きていない、、真我から起こる動き、、これが自我です、、、逆に言えば周囲の見かけ上の人間全ての動きが自我です、、、、自我が居て、、、この表現が混乱を招く気がします。

勘違いを起こしたのはユニフォームではない

ここで重要な

体が真我、、ユニフォームは自我、、、体が動きユニフォームは番号に過ぎない、、にも関わらずいつのまにか、、ユニフォームが体の動きを決めている、、、という大勘違いが起きました、、そして今も起きています、、、、その勘違いはユニフォーム(自我)がしたんではありません、、、体(真我)がしたんです、、そして今も。。。ですからユニフォーム(自我)には全くもって罪はないのです、、、

悟り業界では自我の悪口が多くなるが、、、

ここが非常に難しいところ、、悟り本では自我の悪口が列挙します、、、ですが本当のところ、、自我(ユニフォーム)には悪さをする力がない、、悪さをするのは体(真我)です、、、、しかしそこも本当のところ、、真我の動きも自由意志はなく、、、勝手に起こっています。。。ユニフォームが全部が全部を決めているんだ、、という勘違いが真我(体)から起きちゃった、、、ということです。この気づきが悟りです。

本当の自我とは

悟り業界でいう自我とは、、、真我がユニフォームに全部を決める力があるという勘違いが起こりその勘違いを前提にした真我の反応=自我です、、、自我とは反応です、、、ここを覚えてしまう、、、あまり深く考えずにここを理解してしまいますと、、、悟り本で何回も出てくる自我という本性が見えてきます、、、すると、、、自我は実在などするわけがなく、、、それは真我の勘違いを前提にした自動反応(自我)であることは腹落ちします。。そしてその腹落ちは、、ユニフォーム(仮の私)でもなく自我(自動反応)でもなく、、真我そのものから勝手に起こるのです。

音が鳴った瞬間

音は音が起きた瞬間に、、存在が気づきます、、、ストーリー上は、、鳥が音を作り、、それを人間が鼓膜で広い脳で認識する、、になります、、、ですが真実はその場で音が起こり、その場で音に気づきます、、、存在が。人間が鳥の声を聞く、、これはイメージの世界の話です。。人間というイメージが、、鳥と声というイメージの音を聞くというイメージです、、、本当は独立した人間も独立した鳥も存在しません、、なぜならばこの世界はたった一つのエネルギーしかないからです。

味が起きた瞬間

味が起きた瞬間、、、私が今ステーキを食べました、、、というストーリーが起きます、、本当は美味しいという味が起きただけです、、それしか起きていません、、、人間もイメージ、ステーキもイメージです、、、たった一つのエネルギーにイメージを当て込み、、そのストーリーをでっち上げたのです、、だから本当は味覚が起きただけ、、、イメージを削ぎ落としていきます、、イメージを削ぎ落とすと味が鮮明になっていきます。

風を感じた瞬間

風を感じた瞬間、、、、私が自転車を漕いで風邪を感じた、、、というストーリーが起きます、、本当はただ風が起きた、、です。。私もイメージ、自転車もイメージ、、私が漕ぐもイメージです、、この現象界に独立分離したものなど一切ありません、、言葉でイメージを作り、、そのイメージでこの現象界を切り抜きました、、結果としてこの私が自転車を漕ぎ風を感じる、、というストーリーが生まれたのです。本当は風を感じる感覚しか起きていません、、、経験以外実は何も起きていません、、経験以外はイメージがでっち上げたストーリーです、、

ここを見抜く

経験以外の全ては完全にイメージ、幻想、ストーリーです、、言葉で切り抜いたイメージをこの現象に当て込み、、イメージ同士が動くことで、、、経験のみが起きました、、、この動きでストーリーを信じるという動きが起き、、このストーリーに閉じ込められます。。ですが冷静に観察すると経験しか起きていません。悟りとはイメージをイメージと見抜き、、経験しか起きていないことに気づくことです。経験しか起きていない時見かけ上の私は何も経験に参加していないことに気づきます。経験だけがただ起き、、それに気づく気づきの意識があります。

アイドルに夢中になるファン

アイドルというイメージ

アイドル、、これは芸能人、、、人気イメージビジネス、、、ファンがアイドルA君に夢中になるのはなぜか???それはA君というイメージにあらゆるイメージがさらに加わり、、、ドラマの主人公としてのA君、歌が甘いA君、頑張り屋のA君と、、、A君のイメージが十二分に膨らんでいるからです、、A君というイメージにとんでもない意味が加わっているのです、、、そしてなぜそこまでA君にファンが夢中になるかと言えば、、、A君に集中している間は『私」を忘れることができるからです。

「私」を忘れる?

私も言葉ですからイメージです、、このイメージがあらゆる経験を積んだというイメージが重なることで私にとんでもないリアリティーが加わります、、本当はイメージでしかない「私」がリアリティを持つようになるのです、、これが重い、苦しい、孤独、分離感、、、そこで「私」は私を忘れさせてくれる存在「A君」を求めます、、、「A君』を見ている時は「私」を忘れれるから、、、

これは現実逃避

ですがこれは現実逃避です、、、「私」というイメージ逃避といった方が良いかもしれません、、、私にフォーカスが当たるのを逃げる逃避です、、、イメージ上の「私」が大きくなり過ぎてしまい、、フォーカスが当たり過ぎているのです。。。苦しみから逃げたい、、、この衝動を、、、苦しみを断ち切る方向へベクトルを変えます、、、イメージ上の何かを求めるのではなく、、イメージと見抜き、、苦しみを根本から打破します。これが悟りです。

ありのままなど誰も見ていない

作り上げたイメージを見ている

言葉とはイメージです、、言葉を覚えるとはイメージを覚えることです。。 イメージですからそこには意味が加わります。。例えば「ロレックス」という言葉を覚える際には「高級、海外、高く売れる、ゴツい」なども意味を加えます、、、そしてロレックスをつけた男性を見る際に、、、人はこのイメージをそこに見ます。ですから、、、人はありのままでは人を見ていないのです、、、そこにイメージを重ねて見るのです。

この「私」もイメージ

この「私」も言葉だから完璧にイメージです、、、このイメージにあらゆる経験が加えられていきレイヤーが何十層にもなっているのがこの「私」というイメージです。。あらゆる経験を重ねた「私」としてのイメージです、、「私」というイメージにとんでもない意味が加えられれば加えられるほどに苦しみは大きくなっていきます。「私」の肥大化は「苦しみ」の肥大化です。なぜか?「私」と思っている「存在」は本当はこんなに小さくないからです。

「存在」は「存在」で居る時に至福になる

存在とは存在そのものであることが完璧な至福です、、存在が「私」というイメージに焦点を当てると、、苦しくなり、、なぜばらば「私」というイメージではないから。存在が存在そのものである状態を無我と呼びます、、つまり「私」というイメージに焦点が当たっていない状態。「私」というのがイメージ過ぎないことを思い出しますと、、存在は「私」への焦点を緩めます、、、この「私」に焦点を当てると苦しいという気づきが起きますと、、焦点が「私」から外れます、、、これが悟りです。

ストーリーの中で頑張って生きる人々

このイメージの世界に居ることに気づかない

このイメージの世界、言葉が作り出したイメージの中に閉じ込められていることに気づいていない人々は、、この世界の中でなんとか生き延びようと必死です、もしくは享楽的にただこの苦しみから逃げようとする、この苦しみを直視することなく、、周囲の人々に合わせまあこんなもんだよと、、迎合する。。ですが本質に目覚めれば分かります、、これはただの苦しみの延命措置です。

苦しいからこそ打算的に生きる

このイメージの世界、ストーリーの世界は基本は苦しい、、ですから多くの方は打算的に生き、、少しでも苦しみの少ない人生を送ろうとします、、絶対的幸福はこの世界には存在せずだからこそ、、苦しさがより少ない人生を歩もうとするのです、、、ですがどんなに苦しみを解消しようとしても、、このストーリー、イメージの中に居るのが苦しいのであって何一つ根本解決にはならないのです。

本質に気づき本質に生きる

本質とはこの現象界そのものです、現象を作り出す存在、、それが我々の本性です、、この体はその一部でしかなく、、この体の中には私はいません、、、全ては本質から一時的に現れた現象でしかなく、、この体は便宜上、、名前が付けられた機能でしかない、、この体、、体以外に便宜上名前がつけられ、、便宜上の私と私以外の世界が誕生しました、、ですがこれは便宜上の話であって、、イメージです。ところがこのイメージの世界にどっぷり浸かりますと、、イメージであることを忘れてしまい、、苦しみの渦に自ら飲み込まれていきます。

本質でしかない

これが言葉によって作り上げられたイメージであることを見抜きますと、、もうこの体を幸福にしなくては、この体をなんとしても安全に生き伸ばさなくては、、常識に従って生きなくては、、の柵が抜け落ちます、、それよりも本質であることを思い出すことに関心が移ります。。この体を安全運行するよりも、、究極の本質であることを思い出すことに関心が移るのです。

ベクトルが横から縦に移る

我々が現実と呼ぶこの人間が生きるストーリーの世界は横軸の世界、、そして本質の世界は縦軸の世界、、この夢はこの本質によって支えられています、、本質から全てが生み出され、、人間というイメージが想像され、、その人間が経験する全てを本質が回収し、、この体が全てを経験しているというストーリーが生み出されました、、想像として。個別活動があるというストーリーは、、個を生き伸ばすには成功しましたが、、苦しみが伴います、、この苦しみを終わらせる活動こそが悟りです。