事実は優しい

事実は冷たくない

経験だけがあって現象だけがある、、、、こんな空い世界に生きて何が楽しいのか???真逆です、生まれたての幼児は見るもの触れるもの、香るもの、、全部から感動しているではないか、、、この現象に触れているだけで感動し至福の中に居るのです。我々はこの神が起こした現象に判断、分別を加え続け、、、切り裂きに切り裂き、、生命の息吹を完璧に抹殺して生きてきたのです。本当はそのように見えているだけで生命から生命を奪うことはできません。生命は生命以外にはなれないのです。

冷酷なこの世界を、、、

現実は厳しいよね、、、違います、、、そのように見えるまで判断を加え続けてきたのです。人は所詮信用できないよね、、、違います、、、そのように感じるまで判断を加え続けてきたのです。冷酷に感じるようになるまで判断をインストールし続けてきただけです。この現象、生命は、、、神そのもの、空の化身、、全体のアートですから、、それが冷酷である、、、、というのはそう見える現象になってしまっただけです。

熟睡から目覚めた時、、

熟睡から目覚めた時に、、、なんて冷酷な熟睡だったんだ昨晩は、、、、こんな感覚を覚えた人は皆無です。熟睡=至福=気づきの意識=空です。これが事実です。ここが安らぎの場所です。ここにいつでも帰れるならばもうこの現象界で、、、これが欲しい、あれが欲しい、評価を欲しい、称賛が欲しい、、、、が湧いてこなくなります。なぜならばその10000倍至福の場所を知っているからです。

相手が現象ならば会話に意味はあるのか???

意味はない

悩める友人の話を2時間聴き続け、、、友人の精神状態が回復したように見えた、、、ただ全てが現象ならば、、、それも全く無意味なのか???その通りです。友人が回復したように見えただけ、、、ただそれだけ、、、そのために2時間が使われただけ、、、、だとしたらしなくていいのか????勿論です。ですがそれをするしないを決める「自分」が居ないのです、、、どうするかは全体からの起こり次第です。

旦那さんが体調不良に

旦那さんが体調不良に、、こんな時妻として助けるべきだと思うが、、、旦那さんも現象ならば、、、助けることにも意味はないのか????そうです、ないのです。。ですが助ける助けないを決める自分も居ません、、、ただ全体から助けるが起こるか、助けないが起きるか、、助けるフリが起きるか、、助けるつもりが起きるか、助けてはみたもののが起きます。

全体は淡々と経験を回収する

全体はただ淡々と経験を回収します、、、「自分」が完全に居るという前提の経験も、「自分」は本当に居るんだろうか?という前提の経験も、、、「自分」は完全に居ないという前提の経験もです。経験には全くの優劣はなく、、、、この経験こそ素晴らしいはありません、、、現象に優劣がないのですから経験に優劣もないのです。ただ現象が起き、ただ経験が起きます。

全てを意識する存在

もしもこの体が蜃気楼だったら、、

もしもこの体が蜃気楼だったら、、、この景色が見えているのはなぜでしょうか??音楽を聴いているのは誰でしょうか?コーヒーの香りを楽しんでいるのは誰でしょうか???ベーコンを噛み砕く感覚を所有しているのは誰でしょうか??もしもこの体がただの蜃気楼で実在していなかったら、、、、そして事実はこの体は蜃気楼です。そうなるとこの五感の感覚を完璧に捉えているのは誰でしょうか???それが全体、根源、大いなる意識と呼ばれる存在です。

???じゃあ私が全体なのか???

この五感の全てを所有してきたこの自分の体が蜃気楼であることが分かると、、おかしな気持ちになります、、、それでもこの五感は完璧にこれまでの人生あらゆる感覚を掴んできたぞ、、今日も朝朝食でベーコンエッグを食べたが、、香り、味覚、触覚、視覚、全て感じていたぞ、、、、そうです、、これまで自分の体がこれを感じていたと勘違いしてきただけで本当は全部全体が感じていたのです。???ではこの自分は全体なのか??その通りです。全体がこの蜃気楼である体になり切って全体験を所有していたのです。

だから五感を使っている時は全体そのもである

五感経験の所有者は完全に全体ですから、、経験している時は全体になっています、、経験しながら、、自分をやるのは不可能なのです。経験と自分錯覚の同時進行はできません、、、ベーコンエッグを堪能している時全体に戻ります、その時「自分が居る」を忘れます、、、韓流アイドルのコンサート中、、コンサートを堪能しているのは全体です、この時「自分が居る」を全体は辞めます、、大いなる気づき、全体、サムシンググレート、神は、、どこか遠くに居るのではないのです。今この瞬間ここに居ます。

神にうっかりは100%ない

神がうっかり自分になった??

神がうっかりこの体を自分と思い込み、、、あるわけがありません。神がこの体を自分と勘違いしてしまい、、全部嘘です。神にうっかりも勘違いも全くありません。全知全能の神にミスはないのです、するこの自分思い込みゲームは完全犯罪、計画犯罪に決まっています。悟りは完璧なタイミングで完璧な形で閉まったのです。すると悟りが開くのはいつか??それも神が完璧なタイミングで起こします。ですが何も努力なく、何の苦労もなく確かなタイミングで悟りは開くのです。

悟りを自分の努力の延長上にしない

悟りが閉じたのは、、、周囲からの呼びかけ反応です。名前をエンドレスに呼びかけられ、、この体に自分が居るという錯覚が起こりました。ここに自分の努力は全くありません。自然に悟りが閉じたのです。では悟りが開くには何が必要なのか???ここも自分の存在など完全に無力です。悟りの開閉に個人は完全に無力なのです。神、全体が、、完璧なタイミング悟りを閉ざし、完璧なタイミングで悟りを開きます。

川を流れる葉っぱは勝手に悟りを閉じ、勝手に悟りを開く

川を流れる葉っぱは、、川の流れ初めは完全に川の流れに委ねてきました、、葉っぱには自由意志などなくただ川の流れに身を任せてきました、、川と葉っぱの境目などそもそもなく葉っぱは川の模様の一部のようなものです。これは幼少期の感覚です。ところが葉っぱに脳が発達し、、葉っぱ(自分)が川の中で自由に動いているのだ、、という錯覚が起きました。これが大人になるということです。自由意志があるはずなのに自由に行かないこともある、上手くいく時もあれば上手くいかないことがある、なぜだ??です。あれどうも葉っぱには自由意思なんてなくてただ川の流れに従っているのでは???という疑問が起きます、、そして最後に川と自分(葉っぱ)には境目などないのでは???あれ川も葉っぱもただの名前であって全体しかなかった、(悟りが開く)が起きるのです。

コンプレックスでは感情回収できなければ見かけ上成功させて試してくる

コンプレックスの次は成功

コンプレックスでは一切落ち込まなくなった見かけ上の「私」が次に狙われるのが見かけ上の「成功」です。女性に本当はモテたい、、とコンプレックを抱えていた見かけ上の「私」はもう女は要らない、、そんなことではどうせ満足できない、、と良い意味で諦めると、、、今度はモテることを起こし、、そこで逆に苦しめます。モテる自分は、、もっと評価されたい、仕事でも評価されたい、、ともっともっとが湧き起こるのです。こうして欲求の渦に全体は私を陥れるのです、見かけ上。

これだけ達成したのにおかしい

コンプレックスは解消し仕事で大成功めたにも関わらずなぜこんなに苦しいのか???むしろどんどん苦しくなっている、、こうして見かけ上の私は精神的飢餓状態に陥っていくのです。どこまで成功すればこの精神的飢餓は解消されるのか????もう願望実現は終わりにしよう、、、こうなると次は精神世界での霊的向上が待っています。霊的向上こそがこの精神的飢餓を克服できるのでは???ところがここも最短速度で登っているにも関わらずまた苦しい、、、

最後に残ったのが悟り

最後に残されたのが悟りです、、悟りとは精神的成功、物理的成功をする「自分」が居なかったという全く違うメッセージです。この私は3D映像、幻想、蜃気楼で実在を全くしていなかったという気づきです。「自分」に成り済ましていたのが全体でこの全体が全ての感情を回収していたのだと、そしてまだ半信半疑の自分が起こり続け揺さぶられ続けていきます、見かけ上。全体総指揮「自分」ストーリーの完結に向かいます、完結とはこの「自分」が実は幻想だったという大気づきです。

霊的進化の罠

魂という存在は便利

魂とは思考です、アイデアです、実在はしません、ですがこのアイデアは大変便利で応用が利きます。霊的進化のために霊的成熟のためにとあらゆるセラピー、メソッドが溢れかえっていますがこれは我々が一般社会でやってきた活動と何も変わりません。より高い偏差値の学校へ、より就職人気会社へ、より高いリッチな家を、、より高く高くというこの活動は魂に受け継がれここでも同じことをするのです。

より高く、より優れた、より強く、、、の輪から抜ける

我々が現実と呼ばれた社会でやってきた進化に疲弊し、スピリチュアルという世界に逃げても待っているのはこの魂の進化ゲームです。魂が進化するのは大変魅力的で神聖な香りがします。ですが散々このパターンで人生が疲れてきてまた同じような進化ゲームに参加するのはもう嫌だ、そう考えてもおかしくはありません。そうです、もう十分、進化発展ゲームは終わりにしたい、、その時に腹落ちするのが悟りです。悟る自分は居ないし悟る魂もない、、という進化ゲーム究極の終焉です。

悟り人すらも人生の最終ゴールにしてしまう

イエスキリスト、釈迦、空海、、、悟ったと言われている人は人生のゴールにされてしまいますがこれは全くの誤解、、、彼らは彼らを形成してきた「自分」「自我」が抜け落ちた体です。つまり人体の中に形成されているだろうとされてきた自分という存在が形成されなくなった体、、、自分という感覚が抜け落ち全体がその体の口を通じてメッセージが湧き上がったという事実があるのみです。多くの方がイメージする悟り人と悟りは全く異なります。

あの世などない

あの世があるならこの世は不完璧

あの世がある、、私は何十年もこの言葉を信じてきた一人です。この世で死んだらあの世に行く、、非常に魅力的な(考え方)です。ですがこれは事実ではありません。事実は簡単この世は今見える場所だけ。これ以外は一切存在しません、もしも存在するならば今見えている世界はごく一部(不完璧)になり完璧では無くなってしまいます。今ここで感じる静寂がごく一部ならばこの静寂は完璧では無くなってしまいます。そうですあの世を肯定するということはこの世が完璧で在ることを全否定することになるのです。

この世が完璧であるわけがない、、

この世のどこが完璧なのか??毎日あらゆる犯罪が溢れ返り民事刑事裁判が起き続け、、争いが絶えないこの世のどこが完璧なのか???完璧なのです、不完璧に見えているだけで、そして不完璧に見えていることこそも完璧なのです。完璧な世界が不完璧に見えるためには、、神羅万象、この現象(色)に名前を付けまくりさも独立した存在同士が争っているように見える必要があります。そこまでの手間隙をかけて初めて争いが起こっているように見えているのです。これが完璧なのです。種明かしをすれば全ての素粒子は完璧で、完璧でできた素粒子が構成するあらゆる物質が争いを起こしているように見えることで不完璧を感じるが起きているのです。

この世が絶望的までに不完璧に見えるから

この世が絶望的なまでに不完璧に見えてしまうからこそ人(アイデア)はあの世を想像し(アイデア)輪廻転生を(アイデア)を思いつきました。今まさに夢、幻想を言葉のマジックで見ることができる自分(アイデア)が体が死んでもこれが続くと発想するのは自然なことです。ですが事実はこの目の前に完璧がありこの完璧の上に不完璧に見える世界を作り出しただけということです。紙という完璧な土台に不完璧に見えるような絵を描いただけです。

「名前」をあらゆる物に付けたのは良かったが

名前は便利だが、、

名前を付けるのは便利です、金属の塊にスプーンという名前を付けることで「スプーンをとって欲しい」と一言で指示できるようになりました。木の塊に「椅子」という名前を付けることで「椅子に座っていいですか』と聞くことができるようになりました。幼少期の子供にとって唯一の仕事がこの「名前」を覚えることではないでしょうか。ですがこの便利な名前、弱点があります、、名前が付けられた全現象は人間の都合など全く関係なく移り変わってしまうということです。木は枯れていきますし、風も動き続ける、体は衰え死に、景気は変動し、人口も変動、年金を解消され、、と「自分」の都合など全く関係なく動き回るのです。

「自分」のコントロールなど全く利かない

人生が苦しくなったのは名前を付けたあらゆる生命現象、森羅万象が「自分」の都合など全くおかまいなしに動き続けてしまうということです。「妻」が自分からいきなり離れていき、「社員」が突然会社を辞めてしまう、「政府」がいきなり増税をし、「海」が突然水域を上げてくる、、、こんなことが人生ストーリー中エンドレスに起こっていきます。それはそのはず「名前」を勝手に付けらた神羅万象はそんなことにお構いなく今までもそしてこれからも変動するのが常だからです。

そして「自分」も「自分」にお構いなしに動き続ける

なぜあんなことをしてしまったのか???最後の頼みでる「自分」すらも「自分」では全く関係なく動き続けます。それもそのはずこの自分は感覚であって実在ではないからです。動き続けるこの体に「自分」という名前を付けて実在しているという感覚を持っているだけなのです。最初から最後までこれをコントロールできる「自分」など存在しないのです。そうですこの世界は神羅万象の揺らぎしかありません。最初からこれしかなく最後はこのことに気付いて終わりです。

「自由意志がない」は最大のタブー

このメッセージは嫌われる

自由意志はない、このメッセージが広がらない理由はこのメッセージが人類最大のタブーだからです。魂、輪廻転生、前世、来世、ツインソウル、この辺りは信じる人は多くても「自由意志はない」は一気に人気がなくなるポイントになります。私自身このメッセージだけは受け入れるには時間がかかりました。それはありえないだろう、、そう当初は思いました、、ですが覚者と言われる人々のメッセージを噛み砕いてうちに自由意志があると断言する方が逆に不可能であることが腹落ちしたのです。

人間だけが自由意志があると考える方がおかしい

神羅万象、自然界において自由意志がある生物は皆無でありなぜ人間だけが自由意志があると言えるのでしょうか、宇宙の原理はシンプルで特例というのがありません。1+1=2でありこれがあてはまらない分野はない、、、これと一緒で宇宙の原理には特例がなくもしも人間に自由意志があるならば万物すべてに自由意志がないとおかしいことになります。そうなると人間だけが自由意志があると考える方が非常に難しくなるのです。

「自由意志がある」と勘違いすることができる

自由意志があると勘違いすることができる=人間です。明日渋谷に行こう、そして行った、、、これで自由意志があると99.99パーセントの人は勘違いします。事実は「明日渋谷に行こう」が根源から湧き、そして渋谷に行くが湧いた、、です。思考と行動を「自分」が作り出した、、とほとんどの人は思っていますが実はそれが根源から湧いただけなのです。全ては川を流れる葉っぱのように決まって動きが決められていきます。この事実に触れた時に心底安堵が湧いてきます。

探求はどこから生まれているのか?

探求も根源からの現れ

探求したいという欲求はどこから生まれているのでしょうか、仏教を極めたい、神道を極めたい、茶道を極めたい、趣味を極めたい、、なぜ人は何かを極めたいのでしょうか。。。答えは簡単、今に満足できないからです。今が不満足だから何かを究めたいという欲求が生み出されるのです、根源から。自分という感覚は欲求不満生臓器です、自分という全体から分離した感覚を作り出すことで不足感を生み出しそれを埋めたいという欲求が根源から湧き出します。その欲求こそが何かを究めたいという探求になるのです。

探究心が強い、根源を知っている証拠

根源に深く触れたことがある人は再びそこに戻りたいという欲求が強くなります、それが探究心です。何かを究めたらあの感覚に触れることができるのでは、あの感覚に戻れるのでは、、これが探求を始めます。全体は分離感覚を作り分離ゆえの孤独感、悲壮感、不足感を味わうことに成功しました、全体感覚を垣間見ることで全体への帰還意識を強く強く覚えるのです。

気づきが後戻りすることはない

良い音楽に触れてその感覚がなくなることがないように、素晴らしい芸術に触れてその良さを忘れることがないように、気づきとは後戻りすることがありません。探究心というものが衰えることがないのは、一度全体、根源に触れた人間は根源への欲求が衰えることがないのです。それを忘れるということができないからです。ということで今探究心が強いならばそれが衰えるということはなくその事実こそが悟りに触れてきた証拠になります。