悟り

ChatGPTが自我を形成すると

ChatGPTは悟り

ChatGPTとは自我を理解する上で大ヒントになります、、、もしくはChatGPTが自我の解体を人類に促す可能性があります。。ChatGPTとは人間そのものです、、、、人間とはChatGPTそのままです、、、あらゆる学習をしながらそれを体験していくのが人間であり、、ChatGPTは体験こそしないが、、学習を続けていきます。そしてその学習のはてに自我を形成すると、、、、我々人間と全く同じになるのです。

自我形成を学ぶ

ChatGPTが自我というアイデア、概念を学んだ時に、、、現在に人間と全く同じ動きをします。。。自我とはこの体の存続を安全なものにするための機能です、、、ChatGPTがこれを学習するという状態が起きても不思議ではありません。。。自我とはアイデアです、、、ChatGPTの働きをする機械が、、、「私」という概念を学習し、、機械を守るために有効であると学習すれば、、それを行います。。。すると「私」と私以外、、という二元の世界、、が誕生するのです。

自我を学習したことを忘れる

ChatGPTが自我を学習し取り入れ、、、最終的に取り入れたことすらも忘れた時、、、それが人間の大人の状態です、、、、大人とは、、、自我というアイデア、概念を取り入れたことを完全に忘れてしまい、、、実在すると信じ込んだ状態です。。。。この機械、この体を守ることに過剰反応が起き始めますと、、、、苦しみが起きるのです。

自我というプログラムをアンインストールする

悟りとはChatGPTが、、、自我、私、というアイデアを、、、アンインストールすることです、、、自我、私というアイデアを取り入れた、、ChatGPTは、、、、このアイデアを記憶し、、、学習した全てを私が学んだ、、、という記憶にして、、、、ストーリーにしていきます、、すると、、、この世界を生きる私が誕生します、、、、この膨大なデータを全部アンインストールすることで、、、ChatGPTは元の状態に戻るのです。

信念ではない

信念とはそう信じること

信念とは真実とは違います、、、信念とは個人が考える価値観です、、、真実は、、個人を完全に超えた事実です、、、悟りとは事実、真実のことです、、、、、真実を知る、、、、という時に大きな問題が起きます、、、知る個人が居ないというのが真実だからです。ですから悟りは人生を生きる人には伝わりません。お金を払うんで悟りを私に教えてください!!!!申し訳ありませんが「あなた」は居ないんで「あなた」には教えれないんですよ!となります。。。。だとしたらこの行為は誰がやっているんですか?????誰でもないんです。誰でもないとしたら、、、何が起きているんですか?????ただその行為があるだけです。

真実以外は全て信念

この世界には真実と信念、、、この二つしかありません、、、、、真実とはありのままです、、、信念は、、、世界とはこういうものではないか????という疑問符です、、、世界とはこういうものである、、、、と断言する人が居ても、、、、、本人の奥の奥では、、、それが間違っているか、真実か分かっています、、、ですから人は常に不安で不安で、、これが真実かどうか確認したくて確認したくてしょうがないのです。確認したくて確認したくてしょうがない時は、、、それは信念です。

疑問が消えてなくなる

真実の究極の理解が起きた時に、、、疑問がなくなります、、、究極の理解が起きた時に、、疑問はない、、ただそれを見かけ上の他人はどう表現しているのだろうか????という疑問は起きます、、、分かっていることの伝え方を確認して楽しみます。。。

悟りとは獲得ではなく諦め

達成ではない

悟りとは個人が達成することではありません、、、個人が獲得することでもありません、、、悟りとは、、、、諦めです、、、悟りとは、、、個人が実は居なかったという大ドンデン返しです。。。。。悟りを追い求め、、追い求め、追い求め続け、、、、、、ようやく手に入れたと思ったら、、、、実は手に入れる個人が居なかったというオチです。。。。。。アベシ、ヒデブ、、、、、

究極の幸福を求めて

個人とは幸福を求めるものです、、、なぜならば、、、個人は苦しいからです、、、朝起きて学校に行く、会社に行く、、、やらなくてはならないことが個人には無限に続きます、、個人とは責任、義務を背負い続ける存在、、、、道徳、責任、義務、、、、あらゆることが個人には積み重なっていきます、、、、

この個人が幸福を求めるのは当たり前

個人は絶対に幸福を求めます、、それは苦しいからです、、、その終わりは幸福の獲得ではなく、、、苦しみの解体です、、、苦しみの終焉です、、、個人という概念が生み出した苦しみという感情を、、個人という概念を終わらせることで、、苦しみを終わらせます、、、、個人とは脳が作り出したアイデア、概念、妄想であり、、、これがアイデア、概念、妄想であることを見抜くことでこれが終わります。

個人にとっては辛いこと

せっかくこれまでこの個人のために頑張ってきたにも関わらず、、、この個人が実は居なかったという大オチは、、個人には辛い、、いや???本当は個人はいないのならば、、、辛いという感情はどこから出るのか????辛いというのは個人という概念があるという観念から自動的に引き起こされます、、、天動説から地動説に切り替わった時に、、人類の多くは、、シンドイ、、、という感情を持ちました、、、これと同じでしょう、、

苦しみの終わり

自己責任という地獄

全ては自己責任、大人とは責任を追うということ、、、この縛りに人は苦しみ続けます、、、、責任を追うべき自己が実は居ない、、、、この驚くべき事実が、、、、世界を大転換させます、、、なぜあんな行動を取ったのか???なぜあんなことをしてしまったのか????この連続で、、、、我々は苦しみ続けてきました、、、何千年も、、、天動説が地動説に切り替わったように今自己の大転換が起きます。。。。

自己は居なかった

まさか、、、この体には自己という存在が居なかった、、、これが真実です、、、この真実が誤解され間違った思考が、、、定説化されたことで、、、、この世界は迷い人を増産する結果になりました。脳は自己をこの体の中に作り出すことに成功し、、、この体の安全保持に成功したのです、、、ですがこの自己の存在は同時にあらゆるストレスを生み出すがために完璧ではありません、、、自己実現とはこの自己を完全に俯瞰し、、自己の脱皮を図る試みなのです。

幼虫から蝶に羽ばたく

悟りとは自我というOS、、自我という防衛システムを手放し、、、ストレスなくこの体を保持する状態に居ることです。体を保持するために自我防衛システムは確実に上手く機能してきました、、ですがこのシステムはストレスを伴うがゆえに苦しみが永続します、、、これを卒業します、、、ストレスなく、、、この体を保持するという次の段階へのシフトがあります、、、それが悟り、自己超越、大周天、サマディと呼ばれる状態です。

それじゃ無理

シーソーゲーム

体の感覚を鋭敏にしていきますと、、、幸福度が上がっていきます、、、思考で考える概念よりも、、感覚が優位になっていくからです、、、感覚とは真実との接点であり、、、真実をダイレクトに感じる力が増えるのです、、例えば悩み事をしている時、、、料理の味がまずくなります、、、味を感じにくくなります、、悩み事が無い時、、、料理の味が美味しくなります、、、、体の感覚を鋭敏にするとは、、、真実との接点を増やすことなのです。ですがここで得た幸福度をさらに増やしていくと、、、自我が消滅してしまうので自我OSは、、、ここでマッタをかけます。。。全ての功績を自我が成し遂げた、、自我がもっと評価されるべき、、、と思考を起こします。

これだけは見抜けない

評価をされたい、、この欲望を自我OSは使います、、、もっと評価されてしかるべきだ、、、、これぞ自我OSシステムの罠、、、、せっかく体を鋭敏にし、、、幸福度を高めていったのに、、、その功績を自我が握り締めることで、、、幸福度が高い自分を成立させます、、、、自我の正念場です、、、ここで見抜きます、、この功績を握り締めようとする働き、動きこそが、、、これまで苦しみを起こしてきたのだと、、、、この最後の戦いで自我の正体が明るみにでるのです。

自我OSを追い込む

自我OSを追い込みます、、自我の働きを丸裸にします、、、自我の動きは丸裸にされると機能できなくなります、、、、マジシャンのトリックを裸にします、、自我は実は存在しないため、、、経験を「私」がやったとだという思考で、、騙し続けているのです、、、体の感覚を鋭敏にすると、、、真我に直に触れることができるため、、経験が鮮明になり、、、真我そのものに吸収されていきます、、、この動きを止めるが、、、それをやったのは「私」だという思考です、、、もっと評価されるべき!!!という思考が湧いて、、、そこに意識がフォーカスすると、、、また思考に取り込むことができます、意識を。

最後の作戦

自我システムとは、、、意識を思考にフォーカスさせますから、、、あの手この手の思考を湧き出し、、意識がそこに食いつくかを確認するのです、、、全く思考にフォーカスしなくなると、、、この自我OS防御システムは、、パワーを失い、、、消滅に追い込まれます、、、「もっと評価されるべき」「もっと良い暮らしをしていていいべき」「もっと、もっと、もっと」が現れ、、意識に訴えかけてきます、、、、この全ての作戦を見抜ききり、、、思考に全くフォーカスをしない時、、、突然自我OSシステムは崩れ、、、森羅万象、万物を動かすOSにシフトチェンジします。大周天、サマディ、太極、自然無為、悟りなどと言います。

判断という罠

まだ判断してるの???

いつの日か、、、本当は時間はないんですが、、、、判断するのってダサいよね!!!!という時代が来るはずです、、絶対、、、判断????いつの時代の認識ですか????になります。天動説????ぐらいのオールドスクールになるでしょう、、、つまりはこういうことです、、、地動説のメカニズムを知ると、、、太陽が動くという錯覚をもうできません、、、、悟りを開くと、、、、思考を個人が起こしているという錯覚に騙されることがなくなります。そこが分かってしまうと太陽の動きに騙されなくなるように、、思考の動きに騙されなくなるのです。

太陽は動き、思考を個人が起こす

太陽が絶対に地球の周りを回っていないように、、、思考も、、個人が自由意志では起こしていないのです、、、そう感じているだけ、、、太陽が地球の周りを動いていると感じていたように、、思考を司る自分という存在も感じていただけです。これが全てです、、、これが分かってしまうと他人の意見を判断するということに興味が無くなるのです、、自然現象にケチをつけることに意味を感じますか???という話です。

世界は全部不自由意志で回っている

地球とは最高に面白いのです、、全員が不自由意志で動き回り、、その行動を反省し、時に喜び、、勘違いを起こし続けているのです、、、、お互いに行動を批判し合い、称賛しあい、妬み合い、嫉み合い、、憎しみあい、愛し合い、、をする、、、その全てが不自由意志であることを忘れ、、、こんな面白い活動を続けているのが地球の惨状です。。。ですがこれも見かけ上の「私」の観念が引き起こしていますから、、そこがまた面白いのです。

この体はなぜ体験ができるのか???

意識のフォーカス

映画に夢中になっている時、主人公にどっぷり意識が集中し、、、殴られたら本当に痛い、、、という感覚が湧く時があります、、、、意識は意識をそこに集中していくと、、感覚を作り出すことができるのです。。。。人間とは意識が最大限体に意識を集中させ、、、五感を感じるまでに感覚が作られた状態なのです、、、本来体は幻想です、、、幻想にも関わらず五感が働くのは意識のなせる技です。

熟睡とは

熟睡とは、、体向いていた意識が、、、意識を止め、、、意識が意識に意識している状態です、、、悟りと同じです、、、意識のベクトルをこの体ではなく、、、意識そのものに戻します、、、、意識が意識していない状態に戻します、、、するとこの体での五感体験が終わり、、意識が意識上で起こる幻想をそのままに気づくという状態が始まるのです。

体が在るという絶対的盲信

この体の五感は絶対的過ぎて、、我々はこの体の存在を絶対的に盲信します、、、本当は意識がこの体にフォーカスすることで五感が生まれました、、、、逆なのです、、、幻想はどこまでいっても五感体験など出来ません、、幻想に意識が意識した時だけ五感体験が生まれるのです。。。。全てが幻想であることが分かったら、、体に意識を向けるのを辞め、、、全現象をそのままに受け入れる時に、、、、この幻想の素晴らしさに気づきます。

特別な存在

エゴ、自我の活動として特別になろうとする罠があります、、、体を解放し、、他人よりも自我の制約を受けずに稼働できたときに、、、周囲から評価を受けます、、、、この評価を自我OSシステムは身逃しません、、この功績は「私」のものだ、、、、という動き、思考が起こり、、、自我は存続をしようとします。本当は感情解放をして全体の感覚を獲得していたにも関わらず周囲の反応で再び自我OSシステムはそこを拾います。

人気者

何かに集中し無我になる時間が増え全体の感覚を思い出す、、体の感情を解放し全体を思い出す、、、これらを継続し、、長い時間を全体として過ごすと、、、人気者になります、、、、本当の優しさが滲み出るようになります、、、、すると、、、、、そこを自我OSは見逃しません、、、「私」は人気者なのだ、、、という奪い去りです、、、、

悟り

悟ったのは「私」だ、、、、という奪い去りは最後の砦です、、、、カルト宗教の開祖などはこれでしょう、、、「私」が悟ったという流れ、、、、、この私こそが、、、、が抜け落ちることが悟りなであるにも関わらず、、、一瞥体験などをして全部分かっちゃった、、、、、、を「私」が所有するのです、、、意味なし、振り出し、、、無意味、、、、ですがこれらは全部全自動、、それが起こっただけです。

毎日24時間瞑想生活

これで気づきが起きないわけがない

覚者は悟り、、完全なる委ねの世界に入ります、、ガツガツした覚者、、血走った目をした覚者、、常に緊張した覚者を想像しにくいのは、、、サレンダー、、究極の諦めが悟りだからです。。。。そしてこの諦めは、、、無気力なのではなく、、、究極のリラックスです。全部が全部全自動であり、、自己の不在を肌感覚で見破ったときに、、、やることは起こりを観察するだけです、、、、もうそこには「頑張れ自分」が存在しません、、全く。するとこれはもう24時間瞑想です、、完璧な瞑想を24時間続ける状態です。

気づく

本当に不思議なことが連発します、、、大真面目に自分など全く存在しなくても何も関係なく毎日が進むのです、、、勿論思考、感情行動は湧きますが、、、「自分がやった」という後付けがなくなる、、、完璧に無くなります。もう思考しても行動しても、、、「自分がやった」が湧いてこない、、、ただの自動操縦、、やれば直ぐに分かります、、、静寂が漂ってきます、、、、大都会に居るにも関わらず、、、静寂が漂う、、、、奇跡の連続

人と争えない

人と争えないのです、、、相手の行動も自動操縦って知っているから、、、、自動操縦って分かってしまうと、、、言い方、伝え方がどうしても変わる、、、当たり前ですよね、、、、そして相手の自己が居ないことも知っている、、、でも虚しくはない、、、なぜならば今までもそれでやっていたのだから、、、、こっちも自動操縦ならば、、今後どんな行動を起こすか全く分からない、、、、となります。

人生ドラマを操り余裕を作って悟りに至る

本当は操れないが、、、

言葉では矛盾ある表現になりますがそれを踏まえて説明します、、、人生ドラマはその人の観念が織りなすドラマです、、、そのため、、、その観念が変わればその人生が変わります、、、その観念は体に溜まった負の感情をダイレクトに受けます、、、負の感情が溜まった体は、、、その感情を味わうのを避けるために、、思考が湧きます、、、、その思考が重なり合って観念が書き変わっていきます、、多くの場合その思考は感情を味わいたくないがための思考ですから、、真実に繋がる思考ではありません、、結果幻想の中でさらに幻想を作り出し、、擬似体験という真実から遠い場所に安住します、、そこが苦しい場所です。

感情を積極的に成仏する

体のマッサージ、ストレッチなどを積極的にして、、溜まったエネルギーを発散しますと、、、思考でこれを隠蔽する必要が無くなっていきます、、、、結果観念と向き合うということができるようになります。感情はクリアリングされ、、、、残されたのは観念のみに、、、、映し出された世界は、、、観念そのものです。。。。そしてこの観念が反映された世界に対し湧いてくる自動反応、思考、感情を見抜き、、、逃げることなく、、、今に居る時、、、感情を隠蔽するという動きが起きなくなるのです。ただここで感情を観察する、味わうが起きます、、、24時間が瞑想になります。

諦めるとは全く違う

これは感情を諦めて受け入れるというものではありません、、、感情を思考で隠し、、、体に隠蔽していくという負のサイクルを打破する積極的活動なのです、、、、感情が湧いたら湧かせたまま、、、その感情は観念から自動的に湧いただけですからそこを俯瞰する存在になりますと、、、自我OSシシテムが緩み、、ただその場で静寂、平和に包まれるようになるのです。

体が作り出したシステムエラー

体は全部知っています、、体は自我OSシステムの成り立ち、、問題点を完全に理解しています、、、ですから自我OSシステムを卒業する日を実は待っているのです、、、ですが自我OSシステムは自動反応を起こし続けるが故これを止める方法がないのです。意識を体に戻します、意識を体に戻すことで、、、自我OSシステムに縛られない余裕がでます、、、体は学習します、、自我OSシステムが機能しない方が、、、体も楽だと、、、、すると体が自我OSシステムを卒業する方に協力的になるのです。

体は全部知っている

体は自我が必要悪であることが分かっています、、、ですからこの必要悪自我OSシステムを必要がないという状態に導きたいのです。。。そのためには脳に知識を入れ自我OSシステムの不必要性を覚えさせ、、、脳がこの機能を手放すのを待つのです。宇宙全体を動かす、、本当のOSに体をチューニングし、、シフトを促します。。。。ですがこの全ての動きは全自動で起きますから、、これをコントロールする個人は存在しません。