悟りとは獲得ではなく諦め

達成ではない

悟りとは個人が達成することではありません、、、個人が獲得することでもありません、、、悟りとは、、、、諦めです、、、悟りとは、、、個人が実は居なかったという大ドンデン返しです。。。。。悟りを追い求め、、追い求め、追い求め続け、、、、、、ようやく手に入れたと思ったら、、、、実は手に入れる個人が居なかったというオチです。。。。。。アベシ、ヒデブ、、、、、

究極の幸福を求めて

個人とは幸福を求めるものです、、、なぜならば、、、個人は苦しいからです、、、朝起きて学校に行く、会社に行く、、、やらなくてはならないことが個人には無限に続きます、、個人とは責任、義務を背負い続ける存在、、、、道徳、責任、義務、、、、あらゆることが個人には積み重なっていきます、、、、

この個人が幸福を求めるのは当たり前

個人は絶対に幸福を求めます、、それは苦しいからです、、、その終わりは幸福の獲得ではなく、、、苦しみの解体です、、、苦しみの終焉です、、、個人という概念が生み出した苦しみという感情を、、個人という概念を終わらせることで、、苦しみを終わらせます、、、、個人とは脳が作り出したアイデア、概念、妄想であり、、、これがアイデア、概念、妄想であることを見抜くことでこれが終わります。

個人にとっては辛いこと

せっかくこれまでこの個人のために頑張ってきたにも関わらず、、、この個人が実は居なかったという大オチは、、個人には辛い、、いや???本当は個人はいないのならば、、、辛いという感情はどこから出るのか????辛いというのは個人という概念があるという観念から自動的に引き起こされます、、、天動説から地動説に切り替わった時に、、人類の多くは、、シンドイ、、、という感情を持ちました、、、これと同じでしょう、、

(Visited 1 times, 1 visits today)