言葉

友人からの悪口にすら全体を感じる

全ての発言は全体からの起こり

全発言は全体からの起こりです、、、悪口も称賛の声も、無駄話も、、全部が全部全体からただ起こっています。友人から痛烈な悪口を言われてしまってもその言葉は全体からただ起こりました、、、これが理解できますと会話の一つ一つに全体、神、至福を感じることができます。全体以外から湧く言葉はないからです。

個人にとって有益か否か

この視点に立てば世の中のほとんどの会話には興味が湧かないでしょう、、、なぜならばその会話のほとんどは個人には無益だからです。ですがその会話が全体から起きていることを腹落ちできますとそこから全体を感じます、神のアートを感じます、神そのものがそこに在ります。個人は常にその会話を判断します、つまらない、面白い、と。ですが全部全体のアートです。

老人の戯言のも

朝から晩まで不平不満愚痴を言っている老人のその言葉の全ては全体から起きています、個人と成り切った全体からの叫びです、、そう捉えて観察していきます。個人として生きることがどれほど大変なことか理解できます、ご苦労様、、という気持ちが自然と湧き上がります、、ですがそれも全て現象でありそこを深刻にとる必要はありません。3D映像、五感で感じる蜃気楼です。

神羅万象とは、、

神羅万象しか無かった、、、

この世界を表現する時に、、、神羅万象という言葉を使います、、、この言葉は本当に核心を突いています。神が万物の形のような姿をしている現象界です。。。本当にその通り、、そのままです。。。そうなると一つだけ問題があります、、それはこの「私」はどうなるのか????ということです。この私は何なのか???というわけです。。。神羅万象が広がることは分かった、、、ではこの私は何ものか????これこそが神羅万象の一部に過ぎません、、、神羅万象以外が存在してしまったらこの世界は神羅万象ではなくなってしまいます。

この私も神羅万象

この私も神羅万象、、、そうです、、この体は神羅万象の一つです、、その証拠にこの体は毎日変わります、体調は毎日変わるし、髪も毎日伸びる、、気分も毎日変わる、、、、これぞ神羅万象でしょう、、、じゃあこの自分というアイデンティティ、人格、自我は何なのか????これも森羅万象です、、、神羅万象の表現です、、、いやいや、、、この思考は自分が独断と偏見で行っていますけど、、、、違います、、その錯覚が起こってるのです、、神羅万象として、、、

神は神が作った神羅万象の中で遊ぶ

この自分もこの世界も神羅万象、、、そしてこの世界の中に自分を作り出し右往左往を起こし遊んでいきます。この自分も当然森羅万象の一部、、この経験も神羅万象です。。。神は神であることに飽きて、、、神以外を作った(神羅万象)、、これは神のアートです、、そしてその中に自分というアートを作り、、この自分人生というアートも作ったのです。主人公は神ですからこの自分人生はしんどいわけです、、だからこの自分は悟り(神帰り)を目指すのです。

無意識という言葉の意味

意識が無い

無意識に何かをしてしまう、、自覚なく何かをしてしまうことを無意識と言ったりしますが、、、これは間違い、、、無意識とは、、、全ての言動を自分がやっていると勘違いしている状態です。。。????え、、、じゃあほとんどの人は無意識に活動しているではないか????そうです、、、ほぼ全員が無意識に生きているのです、、意識が無い状態で生きています、、、だから苦しいのです。

全ての言動は大いなる気づきの意識から起きている

実際には我々は全部を意識しています、朝起きて寝るまで意識が欠落することなど皆無です。ですが重要なポイントはこの自分がやっているという勘違いなのです。この自分が言動を作っている状態、、これが無意識です。本当は大いなる気づきの意識から言動が起き、それを大いなる気づきの意識が気づいているのです。この最重要なポイントを掴んで人と話をしてみてください、面白いことが起きます。

言葉が減ってくる

大いなる気づきの意識から言動は起き、それを大いなる気づきの意識が認識をする、、、このことに気づきますと、、無駄な思考が全く湧いてこなくなります。無駄な言動が減ってしまう、、、、ああだ、こうだの言動が減っていくのです。代わりに何が起きるか、、、大いなる気づきの意識としての自覚です。大いなる気づきの意識として「私」から出てくる言葉に気づくという気づきが起きます。

それでも自由意志にしがみつく自我

自我最強兵器「自由意志」

自由意志なんてないんですよ、、、この言葉に多くの方は激情します、怒り、がこみ上げてきます。。なぜならば自由意志を否定してしまったら自我は存続できないからです。自由意志があるからこそ「自我」はこの体の主人を気取ることができるのであって自由意志がないと証明してしまったら自らの存在を抹殺することになるからです。その手の情報をホイホイと聞くわけがないのです。

記憶が「自我」を確固たるものにし、、、

自我の最強兵器は「記憶」と「自由意志」でしょう。この二つは自我を盤石なものにします、、記憶、自由意志がある、、これで自分の存在を疑う者は皆無になります。こうやって人間同士はお互いの体の中に「自分」が居るというゲームを繰り広げるのです。このゲームが楽しいだけならいいのですがとんでもない、苦しいのです。楽しい時すら苦しいのです、苦しい時も苦しい。いつも苦しい。それは「自分」という存在がこの苦しみを起こすツールになるからです。

自由意志があっても苦しい、、、

百歩譲って自由意志を認めることにしましょう、、ではそれでこの苦しみは無くなるのか、、、絶対に無くならない、、、、それも分かっています。じゃあ自由意志が無いを認めてしまえばいい、、、自由意志がないを認めてしまえば楽になる、、、、でもどうしてもそれだけはしたくない、、、なぜならば今までの功績が全部無くなってしまう、、、あの時の努力、あの時の辛抱、あの時の忍耐、、、、だからできない、、、

事実の前に観念は崩れ落ちる

観念も湧いてくる

観念すらも湧いてきます、観念とはこの見かけ上の「自分」が経験したことと知識を混ぜ合わせ一体化したものです。観念とは記憶から成り立っていますからこの記憶が見かけ上の脳内に内臓されます、、しかし実際にはこの現象界は全部現象であって事実ではありませんから、、観念という記憶は全体、空に保存されていきます。そして何かのタイミングでこれが湧き出てくるのです。

「自分」の存在に対する理解が深まると

自分という存在、理解が深まりますと、、、観念が湧いてこなくなります。なぜならばこの世界、現象界で起こることは全部全体の現れであり、、そこに良否、善悪、高低などあるわけがないのです。全体のアートに良否があるならば全体は欠陥品になってしまいます、全体のアートに善悪があるならば全体は粗悪品になってしまいます。ただ淡々とこの目の前に現象が起きているだけなのです、そして目の前という言葉も実は間違いで、、その目も現象ですから、、実は存在しません、、ただ現象だけが在るのです。

ただ現象だけがあって、、この自分も実在しないならば

ただ現象だけがあって、、この自分も現象、、実在しないならば、、現象のみ、、終わりです。すると一々判断を下してきた存在(自分)が居ないのですから観念も崩れ落ちます。観念が湧いてこなくなるのです。というか自分在りきの観念は一掃されます。ただ現象の揺れ動きだけが残ります。ただ全体の表現だけが残ります、至福がそこに漂うのみです。

筒人間だと思って生きてみる

もしかして筒人間かも

エックハルトいいます、、気づきの意識だと思って自分の思考を観察してみてください、、と私は提案します、、自分を筒人間だと思って生活してみることを。ただ思考、行動がこの筒人間を通じて起こっているだけなのだと。すると本当にこの私から発せられる言葉、行動は自分が決めていないことに気づきます。なんかしらないけど言葉や行動が湧いているだけだということに気付きます。

あれ、、今まで一度も、言動を作っていなかったかも

本当に朝から晩までの行動を自分で決めてやっているでしょうか。。。コーヒーを飲む動き、排泄の動き、歩く時、、友人と喋る時の会話のあれこれ、、全部筒人間としてやっていないでしょうか、、、なんであの時あんなことを言ってしまったのだろう????こんな機会は多いはずです。そうです、我々は筒人間だったのです。筒を通じて起きる言動をこの筒が自分で決めたと勘違いをしているだけなのです。

ではこの言動を作っているのは誰だ???

全体です、、それは分かった、、、じゃあその全体はどこに居るんだ、、どこに隠れているんだ????今ここに居ます、、、???どこ???今ここで起こることに気づいているのが全体です、今ここで音を感じ、光を感じ、感情を感じているのが全体です。。。。????そうです、、今、今を感じているのが全体です。。この私とは全体のことです。

悟りとは経験ではない、、

経験とは個人がするもの

我々が使う経験という言葉は個人が個人として掴んだ感覚のことです、、これを経験と呼びます、、そうなると悟りとは全体だった、、主語が「自分」から「全体」の完全シフトですからこれが経験ではないということになります。騙し絵のように老婆だと思っていたら、、若い女性だったに似ています。個人がこの世界を見ていると思っていたらこの世界が自分だったという突然シフトです。

自分と世界が逆転し

見ている方が「自分」で見られている方が世界だと信じていたら見られている方(世界)が自分で見ている方が自分以外だった、、、いや違う、、、見ている自分も、、見られている自分(世界)も全部自分だった、、という完全シフト、、自分がお風呂に浸かっている思ったら、、お風呂が自分だった、、そして浸かっていた自分も自分だった、、、お風呂、自分合わせて自分、、、

経験とは主体客体がなければできない、、

この世界は主体客体の世界、、二元の世界、、、ですが自分が居て、それを取り巻く環境が無ければ経験は誕生しません、、、りんごを食べる「自分」とりんごが無ければ食べるという経験は成り立たないのです。お風呂に入る「自分」とお風呂がなければこの経験は成り立ちません。そうすると独立した個人など存在不可能であることが分かります。「自分」と「環境」の完全なる二人三脚で経験を積んできました。全体から「自分」を切り離し経験が生まれました。自分とは経験強制体験装置なのです。この装置のスイッチを切った時に、、、全体への強制シフトが起きます。

「今ここ」に居ようとしてはいけない

全ては「いまここ」ですよー、、の罠

覚者の言葉がそのまま鵜呑みにするとまんまと思考の罠に取り込まれます。「いまここ」と言う言葉もその一つでいまここが全てと聞くと、、一生懸命「いまここ」に居ようとするわけです、、、これは全くの誤解、思考、幻想です。いまここは結果です、、、今こことは「居よう」とする場所ではなく、、、結果的に「いまここ」しかなかったという気づきなのです。

今ここに居ようとすればするほどに、、、

今ここに居ようとすればするほどに今ここから完全に離れます。なぜかいまここは個人がたどりつく場所ではないからです。個人は完全にいまここから離脱しています、自分という言葉は全体から自ら分かれた存在でありこの存在はいまここを探すのは不可能なのです。いまこことは全体のことであり、、、全体から完全離脱した自分が全体を探すのは不可能なのです。いまここを探す自分を完全否定した時に「いまここ」はバコっと登場します。

自分を完全否定????

自分なんて居ない、、、、自分など居るはずがない、、、この言葉を放った主人が「自分」ならば何の意味もありません。自分という存在を探してみても、、どこにも見つからなかった、、、これが悟りです。誰が自分を探したのでしょうか、、誰が自分の居場所を見つけようとしたのでしょうか、、、最初は「自分」が探したのでしょう、、「自分」で「自分」を証明しようとしたのでしょう、、、そうしたら証明できなかった、、、ヤバイ、、マジか、、、、これが悟りです。その時にいまここがニョキッと現れます。自分が完全に居ないならば、、ここがどこだ、、いまここです。

ほどほどの幸せでいい、、?

特に欲しい物ないから、、

悟り世代問という言葉がありますが、、、特に何も欲しい物ないし、、特別何かなりたい職業もない、、別段お金持ちになりたいとも思わない、、といった感覚、、これが今多くの方の正直な気持ちでしょう、、一生懸命頑張ったて、、それに見合うような幸せになれるわけじゃないし、、、その通りです、、、まさに真実、、ですがこの状態も苦しいのです、、ほどほどに執着しているのです、、まーまーに執着しています。

今私は「ほどほどだろうか??」を終日気にする

私は今ほどほどかなー、私は今まーまーかなーこんなことを実は日々気にすることになっていきます。子供がテストで100点を取ると、、、これはまずい、、ほどほどから外れてしまう、、、子供が学校でモテまくるようなイケメンであったならば、、、これはまずい、、ほどほどじゃない、、、こうなるのです。頭で考えるほどほどは、、全然「ほどほどの幸せ」じゃないのです。

本当の悟りは違う

悟りとは「ほどほどでいい」みたいな中途半端な感覚では全くありません。悟りとは全部が自分の所有物であったことを肌感覚で掴むことです、、目の前に居る、秀才もイケメンも、美女も、金持ちも、、全部自分の表現だったということです。この時に目の前で起きる現象にいちいち反応できなくなるのです、、周囲かた大称賛されようが大批判されようが、、、反応できないのです、、だって称賛する周囲も批判する周囲も自分自身、自分の表現、自分の現象そのものですから、、そこから本当のほどほどが生まれます。

あんな人にならないように注意しなくては

TVニュースの犯人を見て

女性をストーキングしてそのまま部屋に侵入、レイプをして捕まる、、、そんなニュースを見れば誰でも、、、絶対に俺はそんなことをしないようにしよう、、、こんな感情が起こるはずです。ですがこの心配は完全な杞憂、無駄です。なぜならばそのような行為をするかしないかは全体が決めるからです、というよりも全体からそのような動きが「私」という蜃気楼を通じて起こるかもしれないし起きないかもしれない、、からです。ですから人の振り見て我が振り直す、、ということをできる「私」は居ないのです。「私」とはどこまでいっても五感フル活用蜃気楼、現象、幻想です。

TVニュースを見る意味はないのか???

ないです、はっきり言ってしまえば、、、全ての現象に意味など全くありません、、もっとハッキリ言ってしまえば自分という蜃気楼すらも蜃気楼ですから、、何も起きていないのです。事件も蜃気楼、人も蜃気楼、自分も蜃気楼、、、です。蜃気楼という言葉の意味は実在しないにも関わらず実在しているように見える現象です。ですがそれでも「私」という蜃気楼は毎日生きれいかなければなりませんからニュースを見るのもいいでしょう。

実際には、、、

実際のところニュースを見れば見るほどに、、、「私」という蜃気楼はそれを「自分」ごとに捉えていきますから、、絶対幸福(全体)からは離れていくとは思います。「自分」ごとに捉えるということは自ら分けるをすることなのです、自らを全体から分けるのです、、これが孤独、分離感を生み出すのです。そうではなくTVニュースを、、全体が今日も色々起こしているなー程度に見れれば、、、面白いかもしれません。