至福

究極の至福に触れれば触れるほどに近づいてくる

なぜあの人はあの苦痛に耐えられるのか

ブラック企業に勤めほとんど睡眠時間が確保できていないにも関わらずなぜあの人はあの会社を辞めないのか??実はその人にとってその生活はそれほど苦痛ではないというのが答えです。至福に触れるとより至福に触れることができていきます、至福とは根源、事実のことです。事実は根源からできていますから事実に触れていくと根源、至福が近づいてきます。思考とは実在しない、これはファンタジー、幻想ですから思考に触れれば触れるほどにファンタジー、幻想に取り込まれていきます。ここは根源(至福)が喜怒哀楽を味わうことができる場所です。至福が自分(思考)を作り出し喜怒哀楽を味わうことができる場所です。

辛い時期は根源(至福)が自分(思考)を作り出し辛いを完璧に味わいたいのだ

20代の頃は本当に辛かった、、、これは至福(根源)が自分(思考)を湧き出しファンタジーの世界を作り出し辛いを経験したかったのです。至福は至福のままでは辛いを経験できない、そのために自分(幻想)を作って辛いを味わったのです。自分とは至福以外を経験する道具(思考)です。至福でしかない至福は至福を経験することもできないのです、だからこそ至福ではない状態(自分)を湧き出し自分を使って至福を再発見させるという経験を積んでいるのです。

人生が辛い、、、完璧

至福は至福のままでは辛いを経験できない、、、だから自分が居る(思考)を湧き出し自分になりすましファンタジーの世界を経験しました、それがこの世です。この世とは喜怒哀楽を経験する場所なのです、だから今人生が辛いのならばそれは至福(根源)の狙い通り、、完璧なのです。友人が辛そうで悲しくなる、、その友人の辛い経験こそが至福(根源)の狙い通りなのです、そして辛そうにしている友人は実在せず辛いという経験だけが事実です。辛そうにしている友人の正体は根源そのもの、根源から湧く思考です。

全てが「決まっていないが決められている」世界にようこそ

決まっていないが決められている

川を流れる葉っぱの動きは何も決まっていない、、ですが決まっていないは完全に決められています。これが我が人生の答えです。決まっていないが決まっているのです。我々から発せられる思考も行動もどれも決まっていないが決まっているのです。ですから我々の老後についても決まっていないが決まっているということです。我々の将来は決まっていないが決まっている、、ということになります。これは絶望なのかそれともお気楽なのか、、ということです。私はこれ以上のお気楽はないと思います。

一生懸命考えていますが、、

一生懸命考えていて、、日々慎重に考えて行動していますが何か?どんなに一生懸命考えて決めているつもりでも実はその思考は何も行動には影響されていません、行動は風任せ、、その時の風向きによって決められます、それまでの思考など何も関係がなく、、、これが事実です。では一生懸命考えたのは意味が無かったのか???結論を言いましょう、全くありません。これが答えです。自分たちの行動は何一つ決まっていないのです、決まっていないのだからそれまでの思考など何も関係なく決まるのです。

運任せ風任せ

刹那的にフラフラ生きることを「運任せ風任せ」などと表現しますが、、、いやいやこれしかないのです。運任せ風任せしかない、、湧き上がる思考も運任せ風任せ、、、湧き上がる行動も運任せ風任せです。どちらも運任せ風任せですから因果関係などあろうはずがないのです。そんな人生に何の価値があるのか?という話ですが人生の価値観は喜怒哀楽経験ぐらいでしょう、、、そして喜怒哀楽に疲れた時に至福に出会う、、この出会いは至福ではない場所を経験できないと体感できない、、ということです。

思考が湧いても無視する

思考に巻き込まれればファンタジーの世界へ

ここはファンタジーの世界、全体が自分を遊ぶ場所、、、それは勿論その通りです。ですがこれを維持するためには思考に入り込む必要があります。思考こそがこのファンタジー世界を維持するためのプログラム言語だからです。逆に言えば思考が無ければこのファンタジー世界を維持できない、そして最も影響を与える思考が「自分が居る」です。この思考こそがこのゲームをスタートする絶対条件です。何千万回名前を呼ばれることで「自分が居る」が染み込みこのゲームがスタートしました。そしてこのゲームの中では幸福にはなれません。「自分が居る」が思考、空想、妄想だからです。事実(至福)ではないからです。

思考が湧いてきたら、、、

思考が湧いてきたら、、、そんなものは捨ててしまえばいいのです。思考は事実、現実は何も関係なくわき続けますがこれは事実、現実とは何も関係がないのです。考えることが事実、行動に関係するならば大いに考えることに意味がありますが何も関係がない、、ならば考えれば考えるほど損なのか?そうです。大損です。事実、現実は思考に関係なく淡々と進んでいきます。そして思考も淡々と湧き続けますがその思考は事実には何の影響力も与えないのです。

そんなはずはない、、、毎日思考が行動に繋がっている

ここは最大のポイントです。行動は思考がこれを行わせている、、、これが大嘘なのです。大誤算なのです。行動が起きることが最初に決まりその前に思考が湧くのです。大阪に旅行に行くことが最初に決まりその後に「大阪に行こう」が湧くのです。だから思考が行動に影響を与えると99.999%の人が勘違いしているのです。事実は逆なのです。つまり思考とは全く無視していい代物なのです。思考に価値は全くないのです。思考とはこの人生ゲームを堪能するための道具に過ぎないのです。そしてこの人生ゲームに住んでいる期間は絶対に幸福になれないのです。思考が人生に何も影響を与えていない、、ここを先ずは押さえるべきです。

五感が開く、現実が開く、悟りが開く

五感とは

我々はどこまでいっても現実に対し受け身です。目を開けば視界が入ってきます、匂いが鼻の中に入ってきます、音も耳に入ってきます、感触が手を通じて入ってきます、、、この現実を知るには我々は五感を通じて入れるしかない、、受け身に徹しています。現実とは根源です、この現実を堪能するには五感が開いていなければならないのです、五感が閉じていれば現実(根源)が入ってきませんから重苦しくなっていきます。睡眠不足の時のあの不快感とは五感を通じて現実(根源)が入ってこないからです。

五感を開くことを優先する

外でスポーツをすると爽快なのは五感が開くからです。五感が開く、現実が入ってくる、、根元(至福)に触れるです。サーフィンや登山など自然の中でのスポーツが病みつきになるのはこのためです。思考に触れると思考と仲良くなってしまい、、より思考が溢れてきます。これは空想の世界、ファンタジーの世界、喜怒哀楽の世界です。苦しい世界です。五感が開き現実に触れると、、現実が押し寄せてきます、現実とは根源であり触れれば触れるほどに根源が押し寄せてくるのです。根源とは=至福です。

五感を開けば思考が閉じる悟りが開く

五感を開くとは五感を鋭敏にしていくこと、そのためには自然に触れる、体を動かすことは役に立ちます。自然とは悟りそのもの、このエネルギーに触れると五感が強制的に開いていきます。あとは体を動かすこと、体を動かすとエネルギーが循環し五感が開いていきます。五感が開くと現実、根源が入り込んできますから自然と思考が湧かなくなっていきます。ファンタジーの世界が閉じ、現実(至福)の世界が開いていきます。思考が閉じ、悟り(現実)が開きます。

京都に飛べば世界遺産が目の前に広がる

完璧とは「自分」にとって完璧なのではない

京都に今日旅行に行けば駅に降り立って直ぐに世界遺産が自分の前に広がります。ニューヨークに今日飛べば目の前に高層ビル群が広がります。もしもこれが映画だったら大変とんでもないお金を使って撮影場所を設置しなくてはなりません。この世界が凄いのは一瞬で目の前にパリ、ロンドン、世界遺産、大自然が広がることです。私にはパリに見えるが友人にはロンドンが写るということは絶対にありません。もしもこれが映画ならばこんな凄まじい映画はないのです。

自分にとっての完璧とは

自分にとっての完璧とは、、、一億円を広い、大好きな車を購入でき、大好きな彼女ができて、大好きなマンションに住み、大好きな仕事の恵まれ、大好きな友人に恵まれ、大好きな趣味に恵まれることでしょう。ですがこの完璧さは一瞬で飽きがきて完璧ではなくなってしまいます。もっともっとが一生続くのです。それはなぜか?自分という存在がこの世界に誕生してしまったが最後、思考の世界(空想)に入り込んでしまいそこは喜怒哀楽を味わえる完璧な世界、至福が存在しない場所なのです。至福(根源)とは私というラベルが剥げ落ち根源だけが広がる場所です。自分が居る(思考)を前提に生きれば思考の世界に迷い込みます。

自分が居なくたって完璧

これまでの人生とはこの「自分」を幸せにするための人生でした、ところがこの人生はどこまでいってもお腹が空く、幸福になれない、、、なぜならばこの「自分が居る」こそが空想だからです。事実はこの体の中には「自分」が居ません。居ない存在の自分を幸福にするなど不可能だからです。だから高級マンション、高級車を自分に与えても幸福にならないのです。これが答えです。自分なんて居なかった、、、これに気づいた時目の前に完璧な現実が横たわります。

この世界が苦しい、、当たり前

苦しみも、悲しみも、何もない世界

なぜ人は悟りに興味があるのか???それは当たり前の話です、生命現象に名前さえ付けなければ人はその瞬間から至福の境地に戻るのです。全生命現象に苦しみなどありません、人間が勝手に名前を付け自分も作り出した時に初めて孤独、苦しみ、悲しみ、恐怖が生まれたのです。自分というこの世から完全独立した存在を思考の中で作り出したときに人間は苦しみを開発したのです。人間の脳が苦しみを発明したと言っていいでしょう。本当はただ生命現象が変わり続けるのみでそこには苦しみなど皆無なのです。

名前など一切ない世界に苦しみは存在しない

人間はこの体に名前を付けてしまったがゆえに自分がバカにされた自分が褒められた、自分が虐げられたという想像をするようになりました。事実はこの自分など存在しませんから自分が虐げられたなど空想の世界丸出しです、そして虐げられたと言って涙まで流すのです。思考にはそれほどの力があるわけですが事実は何も起こっていません。虐げる個人は存在せず虐げられる個人も存在しない、、これが事実です。

ユートピアなど大嘘

我々人類はどこか遠くにはユートピアのような平和な世界が在るのではないかと期待をしますが、、こんな滑稽な話はないのです。なぜならば今広がる世界には争いはそもそも全く起きていないのです、人間が勝手に名前を付けて争っているかのように見ているだけなのです。こんな自作自演はありません、本当に間抜けなことを人間はしているのです。この世から名前を無くしてみてください、襲われる個別生命体は存在せず襲う個別生命体は存在しないのです。ただ変化だけが起きています。

どんより重い、空想の世界に居るから

爽快、全快、至福の世界の住人

我々は全員が今も爽快、全快、至福の世界の住人です。というよりもしれしかない世界に住んでいます。にも関わらずなぜ多くの人はどんよりと重い空気を漂わせているのでしょうか。それが空想の世界に片足を常に突っ込んでいるからです。今年は景気が悪い、日本は壊滅状態、要介護者が漠増する、、こんなニュース(思考)を真剣に信じこれに対策をしようと思考し続ける、、我々は事実ではなく常に空想、思考の世界に片足をどっぷりと突っ込んでいるのです。会社を辞めたら生きていくことはできない(思考)老後に備えて2000万円を貯めなくては(思考)将来性ある人と結婚しなくては(思考)どれもこれも思考です。事実(至福)では全くないのです。

なんで日本は生きづらい国になってしまったんでしょうかね(思考)

日本という国が在るというのは思考です、生きづらい国なってしまったというのも思考です。思考思考思考、、、どこまでいっても我々は思考の中に足を突っ込んでいます。事実は日本という国は存在しません、日本というのは人間が名付けた名前でしかない(思考)国というのも名前です、これは事実ではない、、、事実ではない思考に注力するとその場所が苦しいのです。いい加減気づかなくてはならないのです。事実では国もなければ会社もない、将来も存在せず、老後があると思うのも思考です。この思考の中が苦しいのです。

将来性のある人と結婚したら幸せ(思考)

将来性のある人と結婚したら幸せになるだろうというのは思考です、ですからそのために一生懸命婚活をするのも苦しいのです、事実ではないから。将来性のある人は実在せずこれは思考が勝手に思いついたものです、事実ではありません。将来性があるだろう人の中にが自己は実在せずこれも空想、思考です。その人と結婚するために努力する自分も実は実在しないのです、これも思考です。目の前に至福が在るにも関わらず一生懸命思考(地獄)に生きようとするのが人間です。

プールで泳いでいたらいつの間にか海にいた

この脳内映像は完璧過ぎる

スーパーマリオなど三十年前のゲームは詰めが甘く至る所で完成度が低い、穴に落ちて死ぬはずが落ちても死なない、、クッパが同じ動きしかできない、、画面端ではマリオが映らなくなる、、などなどあってはいけないミスが多いのです。ところがこの自分ゲームではそんなミスは一切起きない、、、友人Aと遊んでいたらいつの間にかBに変わっていた、、、プールで遊んでいたら海になっていた、、山を登っていたら家に戻っていた、、こういったミスが起きないのです。この完成度の高さこそがこのゲームの醍醐味、感動です。

当たり前過ぎて誰も感動していない

このゲームの完成度は高過ぎて誰もそれに感動ができなくなっている、これが人間が不幸になるポイントです。それゆえ目標や夢を追い求め刺激から幸福になろうとするのです、ですがこれは邪道、見当違いです。ゲームの完成度に浸ることこそがこのゲーム最大の至福なのです。お金持ちになったらちゃんとタワマンに住める、貧乏になったらちゃんと取り立て屋が来る、、、この寸分狂わないゲームの完成度こそが醍醐味なのです。しかもこの映像は全て感知する体抜きには成り立たないのです。

五感が無ければこのゲームは消滅する

あなたの五感が無ければポルシェの色は消滅します、あなたの嗅覚が無ければ松茸の香りはこの世から消滅します、あなたの触覚が無ければこの世から高級皮のソファーの手触りは消滅します。五感がこの世界を作り出しているのであって体験そのものはどこにも落ちていないのです。全ての体験を作り出すこの五感こそが素晴らしいのであってポルシェの乗り心地も、高級ワインの味も、高級ソファーの手触りも全て人間の五感に依存しているのです。

思考に優劣はない

素晴らしい思考など存在しない

あの人の考え方は素晴らしい、あの人の考え方は幼稚である、、、考え方を所有するその人は存在せずそれゆえ考えとはただ根源から湧き続けるもの以上のものではありません。それゆえ固定化された考え方などあるはずもなくただある考えがある人を通じて湧き上がっていきます。何かを成し遂げた人は自分の考え方は素晴らしいのだとそこから「自分」を誇らしく思うという考えに縛られていくのですがこれはもう苦しみの入り口としか言いようがありません、なぜならばその自分も思考であり思考の世界に没入していきます。

本当の幸福は思考が湧かない瞬間

本当の幸福は思考が湧いていない瞬間、自分など忘れてしまっている瞬間、五感に浸っている瞬間(音楽、食事、会話、仕事、芸術、自然)です、五感で感じる事実に向き合っている時は思考が入り込む隙間がなくそこには根源、至福があります。ここに触れれば触れるほどに思考が自然と湧きあがらなくなっていきます。事実は思考とは何も関係がなくただ湧きあがりますから思考に振り回されるメリットは皆無です。

シナリオが淡々と続く

事実、現象はただ淡々と起こっていきます、ここに自己という存在、自己を前提とした意向など全く無意味、無介入、無力です。個人はただ起き上がる現象を都合よく切り抜いて個人のストーリーに仕立て上げるのですがそのストーリーを信じる限り苦しみが湧き続けます。実際には個人とは全く関係なく事実が起こり続けていきます。学校の入学、退学、転校、入社、転職、結婚、子育て、、、、全て個人の意思とは何も関係なく起き続けていきます。

ただ事実だけを見てみる

「私は居る」は想像

我々人間は多くの時間を想像に費やします、私が居る、友人Aは悪い奴だ、学校の先生Bは優しい人だ、私の親は何も分かってくれない、、、これらは全部想像です、、、先ず「私」は想像物です、そして友人Aも体は実在しますがその中居るはずのAは想像の域を出ません、学校の先生も体は実在しますがその中に居るはずのBは名前であって実態を証明できません。私の親にあっても体は実在しますがその体の中に親の自我を見つけることは不可能です。想像物である「私」とこれまた想像物である「A」「B」「親」との関係もこれまた想像でしかありません。この想像上の人物同士の関係について悩むという思考が湧いていて苦しんでいるのです。

人間関係が苦しいのは実態がないから

職場では人間関係だけが苦しい、家族でも人間関係だけが苦しい、親との人間関係だけが苦しい、、、この苦しさは全て想像上の想像物の関係性から生まれています。体は間違いなくありますがその中に「自我が在る」というのは間違いなく想像です。間違いのない想像物同士の関係は事実とは無関係のフィクションですからこれは苦しいのです。事実とは根源であり、根源から湧き上がる想像物の中に入り込んでいけば苦しさが根源から湧いてきます。

苦しいのが好きならば

苦しい思いをしたいのならば徹底的に人間関係の中にどっぷりと浸かってみてください、想像VS想像の世界は思考の駆け引きが起こり苦しさマックスになっていきます。人間関係の中に飲み込まれても決して思考を野放しにしないことです、あいつはこんなことを考えているのでは?あんな悪巧みをしているのでは?腹の中では実は自分を嫌っているのでは??このような思考の波に飲み込まれないことです、感じたら感じ放し、湧いたら湧き放し、、人間関係が至福に誘ってくれることはなくそこに期待しないことなのです。そうではなく事実に徹底的に向き合うことこそが至福への入り口であることを悟ることです。

事実とは

事実とは体の五感です、そこに人が居るのを感じる、そこに音楽が流れているのを感じる、そこにスポーツ中継があるのを感じる、食事を感じる、仕事を感じる、、、人間の面白い会話を感じる、、ここに徹底的に向き合うのです。この向き合う先に思考ではない本当の至福があります。人間という思考上の幻想ゲームにのめり込むのではなく五感にのめり込んで行く、、感じるという事実に徹底的に向き合うことで常に根源に触れ続けるのです。