画面がないスマホ

存在しない

実は俺のスマホ画面がないんだよ、、、聞いたことがありません。画面が拡大されてPC 並みの機能を持った時からスマホと呼ばれる電話が生まれました。実際には中身はPC であり、持ち運びできるPCです。そしてどんなにその機能が進化しようとも「画像」がなくなることはありません。スマホとは画像をいかに見やすく、スマートに使えるかだからです。ではなぜスマホに画像が必要なのでしょうか???スマホ=真我になぜ画像が必要なのか????全て苦しみはこの画像=世界が誕生したからであり、、、スマホ=真我=至福ならば、、どう考えてこの画像=世界って無駄でしかないはずです。

そうなんです

イエスも釈迦も、老子も荘子も、、、結局はこの見える世界こそが苦しみの根源と言い放っており、、だったら世界消えてよ、、というかなぜ生まれたの???となります。そうです。その通りなんです。にも関わらず必ず朝になると自我が芽生え世界が誕生するのです。これってスマホがOSの起動を止めれば済むように真我が自我を吸収すれば即終了です。ではなぜ????答えを言いましょう、、、自我というプログラムが起動しなければ、、、私とは誰か????という疑問すら起こらないのです。私とは誰か????と疑問を持てるのは「私」以外にないのですから。。。

つまり

つまり自我のミッションとは真我の発見です。そうか、、私は真我だったんだ、、、という自覚を生み出すために生み出されたプログラムだということです。スマホから生まれた自我というプログラム、そしてi OS(自我OS)が生まれだし、、その中で私とは誰か????という疑問が起こり、、、最終的には私はスマホ本体で、、かつての私はそこから現れたプログラムだったと気づくのです。その瞬間自我プログラムが画面の中の何かになろうとするはずもなく、、、画面の中の誰かに憧れることもないわけです。これが真の無欲です。無執着です。

画面の中の何かじゃない

スマホの画面とは私は画面の中の何かじゃないという気づきのために存在し、、、この世界も本当の私はこの世界の何かじゃないという気づきのために起こるのです。そしてこの世界は何が生み出した???自我が生み出した、、ではこの自我は何が生み出した???となり最終的にこの自我に気づく気づきが私だ、、という自我の没収が起こるのです。