生命そのものが生きる目的を探すというギャグ

本来生命そのもの

生命そのものはそれだけで充実感で弾けています、、、生命そのものの目的があるというならば生命として輝くことです、、そして我々は生命そものであって生命以外にはなれないしなったことがない、、もしも出来るならば生命そもものがこの私という名称にフォーカスし、、小さな小さな存在であることに生きるをすることぐらいです。これが苦しみを生み出します、これが閉塞感を生み出します、、これが孤独感を生み出すのです。

ここから生きる目的が必要になった

自然豊かな環境で生きる人々には生きる目的が希薄です、、なぜならばその場で生命が溢れその場で幸福だからです。小さな小さな存在である私を生きることになった全生命は、、、窮屈ゆえに生きる目的を探し始めます。窮屈ゆえに目標を生きる理由にします、、窮屈ゆえに次の目標に生きる理由を見出すのです。ですがこれらの目標は生きるを豊かにはしてくれません。生きるを貧しくしているのはこの私だからです。

社会的動物

社会的動物である我々は「自分」を完全に捨てることは不可能です、、この自分、私にはしっかりと責任がのしかかっているからです。ですがこの私、自分を過剰に意識しなくていい状態にはもっていけます、、なぜならばこの「私」「自分」は便宜上付けられた名称に過ぎないからです。便宜上月9の主役になった俳優は、、それが便宜上であることを知っています、、、我々も便宜上「自分」「私」をやっていることは十分分かっているのです。これによって多くの時間を「私」ではなく生命そのものに戻れるのです。その時生きる目的は必要ありません、すでに十分生きているからです。

(Visited 2 times, 1 visits today)