偽りの自分

私の完全敗北

私には発見できない

全体を私が発見するのは不可能です、なぜか????私が全体から飛び出た時点でもう全体はそこにはないからです。もしも私が全体を発見すととしたら「私が抜け出た全体」です。それは私が抜け出ちゃっていますから全体ではありません。全体➖私です。私が発見したのは「全体➖私」です。だから私は全体を絶対に絶対に発見できないのです。私が悟るはありえない理由です。

私が完全敗北した時に

もう無理だ、、私には絶対に発見できないぞ!!!この気づきが全体から起こった時に、、私が消え去ります、だって「私には絶対に全体を発見できない」という気づきが全体から起こったのですから。その瞬間「私が全体を発見しよう」は起きないじゃないですか。私が見つけるという動きが起きえないのです。だからいいんです、、、この気づきが全体から起きるまでは徹底的に私が全体を探せばいいんです。

私という自己が起きることができない

私には絶対に絶対に悟りを見つけることはできないんだ、悟りを私が開くのはありえないんだ、、、、この気づきが全体から起きた時、、、、私の探求が起きなくなります。それまでは何度でもこの「私」が発見するんだ!!悟るんだ!!!が起きるでしょう。ですが俯瞰した気づきが起きると、、無理じゃん!!!という気づきが起きます。どう考えても「私」が全体を発見するのは無理だし、「私」が悟るのも無理じゃん!!!です。

全体だった

全体だった、、、という気づきは、、、「私」とは全然関係ないところで起きるんです、、「私」の不在時に起きるんです。「私」の在中は、、、、見えるのは全て「全体➖私」です。私を意識しながら見える全体はそれが限界なんです。だから悟りに「私」が関わっちゃだめなんです。逆に言えば「私」が抜け落ちちゃえば、、全体しかありません。

無限が作り出した有限風ストーリー

無限MAKE有限風ストーリー

この世界って本当に凄いと思います、さすが無限が作り出した有限のエンターテインメント、無限は無限ゆえに有限を知らない、、これは無限の影で、、、影の中で有限の体験が無限に起きるシステム。有限とはこの自己意識、、自己意識が有限という錯覚であるもの。有限であるという錯覚を持った自己意識が、、、さらに有限に見えるこの物理空間でドラマを無限に繰り広げていきます。この自己意識にはやはり有限に感じれる寿命がありと、、、まさに無限による有限の有限体験(寿命まで)です。寿命があるという意味では有限ですが、、この先どうなるかについては無限の可能性を秘めています。なぜならば自由意思(有限)があるようでいて実はまったくないからです。

無限は有限を作り出せるわけがない

主語は無限ですから、、残念ならが、、有限を作ることは絶対に絶対にできないのです。そうなると出来ることは有限と感じることだけです、、これならできます、、無限に。つまりこの世界で起きることの全てはどこまでいっても有限に感じることができる世界ということです。私が居るように感じる、猫が居るように感じる、、コーヒーを飲んだように感じる、、です。「私が〇〇○吉です」は嘘なんです、、、言い切ると嘘になっちゃいます。すると本当は誰?????が必ず起こるんです。だって「私が〇〇○吉です」を読み込んだのは無限ですから、、、、無限から「本当の私は誰????」が湧いちゃうんです、、絶対に。だからこの無限作有限風ストーリーは、、、、エンドレスに疑問が起き続けるのです。終わらないんです。

働いていたら急に思考が全く湧かなくなりまして、、、、

あんまり聞いたことないですよね?????こんなストーリー、、、なぜ?????なぜならば「私」という主語を使っているだけで「本当は誰????」が起きているんです。憤りが起きているんです。だって読み取っているのは全て無限ですから。「私」っていうイメージが浮かんだ瞬間に、、、??????が起こるんです。私は仕事で社長賞を取りました!と発言した瞬間から、、??????が起こっているんです。無限から。。。

充実

面白い漢字

充実って面白い漢字です。実が充ちるって書いて充実。。。。。充実した毎日って、、、どういう時に使います????何か新しい体験とかやりがいを感じる日々だったり、、とにかく今している活動に対して満足度が高い時を言いますよね????その時に実が充ちると表現する。この世界は実ではなくて虚なんです、、この現れては消えていく現象は虚です。消えちゃうんですから。その虚をただ眺める、、、例えば公園で空をずっと眺めてたんですよ。。。。。と友人に話して「充実してるじゃん!!」とはならないんですね、、なぜかと言えば、、、実がないんです。。。虚を眺めるだけって、、、、この虚の世界では、、、経験だけが実なんです。だけど逆に言えば毎日全員経験しかしてないから、、実しかないとも言えます。

結論

この体の中に自分という感覚があって、、その自分があらゆる経験をするって、、、、実は妄想、空想です。全くもって虚の世界です。ただ暇つぶしに何かするって、、、ずっとずっとこの自分って感覚(虚)が抜けないんです。ずっと虚の世界なんです。。自我の世界ってひたすらに幻想なんです。ところが無我夢中って言って、、、自分がないほどに何かに夢中になると、、、、自分を忘れます、自我を忘れます、自分って感覚が消えるんです。その時経験だけがあるんです、、経験は実なんです。自分が歩むストーリーという幻想が抜け落ちて、、経験という実しかなくなります。

無我夢中になって

無我夢中になって充実した毎日を送っていますと、、、実は自我ではなく大我、、、大いなる存在、、そのもので生きているんです。自分を忘れてますから。。。そしてその感覚、、本当のゆらぎ本当の安心本当の癒しが、、、自己意識を薄めていきます、、自己という感覚にエネルギーを注がなくなります。そうするともっともっと無我、大我、大いなる存在の状態に入りやすくなります。

我に返る???

一喝されて我に返る???

調子が悪い時期に先輩から一括されて我に返りました。。。ほわっとしていたら電信柱に当たりそうになり割れに返ったんですよ、、、、我に返るって、、、自我意織、自己意識を取り戻す時に使う言葉ですよね。この自己意識ってやつが実は大きな曲者でして、、、自己があると意識することです。その自己はどこに在るかって言われてはっきりとココだって言える人は存在しないんです。つまり本当はないんです、ないんですがあると想定し感覚を作り上げていくわけです。だから自己意識ってどこにあるか???と問われれば分かりません!!!となるんです。

無いものをあると思い作り込む

この練習を散々散々やらされて、、、徹底的に作り込むわけです。そして目の奥あたりに自分って感覚を徐々に徐々に作りあげていくのです。そうするととにかく居心地が悪いんです、憤りを感じるんです、本当の私って誰だ???という疑問が常に湧くんです、実は。それを解消するために意識を目標ってやつに委託します。目標があれば「本当は誰だ???」を感じずに済みますから。だから自我が完成してくるとみんな受験や部活動、色々チャレンジし始めるんです。

受験があって就職があって出世競争があって、、、イベント尽くし

だから人生は常に何かチャレンジが必要なんです、受験、就職、出世、子育て、子供の受験、、なんか変ですよね、、、常に自分からチャレンジを作ってる気しませんか?????何かにチャレンジしてないと何か苦しいような。。。。です。それって全部これなんです、無いものを在ると信じ込んで生きている、、その憤り、その憤りを感じないで済むように前に前にチャレンジして、、何かを得ることに向けて意識を集中してるんです。何にもしなくていいですよ!!!なんて言われちゃったら困っちゃうんです。

暇が一番辛い

暇って辛いんです、暇って苦しいんです。。。。それって変じゃないですか???????動物が何もせずに一日中日向ぼっこしてますよね!!!辛そうですか??????辛いわけないんです、、、自己意識がないですから。何もしていないと辛い、、、、みんな知っていますよね。なぜ辛いんでしょうか????本当の私って誰???これを無視しているから辛いんです。

苦しみを直視すると苦しみが消える

この苦しみは自分という感覚が作っている

最も分かりやすい感覚、、孤独感、、、この感覚はいったいどっから来ているのでしょうか????この感覚はこの世界でたった一人である、、という状況が起こす感情ではないんです。この感情はこの世界にたった一人だという感覚が起こす感情です。感覚は真実ではありません、、感覚とはそう思い込むことで生まれるものです。つまりこの体の中には自分という存在が居るとそう何度も思い込むことでその感覚が生じてくるのです。その感覚こそが、、、苦しみとなり、、孤独感という苦しみが変容した感情になります。この事実を無視して、、いつも誰かと一緒に居よう!を継続しても、、この苦しみが消えたのではなく、、、蓋をしただけですから決して孤独感が消えることはないのです。その証拠にこれは毎日のように襲ってくるでしょう。

全感情は「自分」という感覚が作る

全感情は自分という感覚こそが作っているという事実に向き合いますと、、憤りが大きくなることなくむしろ小さくなっていきます。なぜならば感情を生み出す根本原因を直視するということは、、、問題が作り出される状況を俯瞰することであり、、俯瞰とはまさに本当の自分に戻ることだからです。俯瞰するとは高い位置から「何か」がこの現象を見ることであり、、その何かとはまさに本質の自分のことなのです。

苦しみの出所を直視する

多くの方は今「孤独だ」今「怒っている」今「ムカついている」だから、、、こうこうしようと、、、、インスタントにこれを片付けます。。。ですが本当の本当の苦しみの根源はどこから出ているのか????に関心を持てません。これには自我の巧妙なトリックが働き外に外に関心が行くようになっています。そして外ではなく中では???と気づいた者には、、、人格向上、霊格向上、霊的進化、、、と自我以外に原因があることに誘うのです。ですが本当の本当は「私が居る」というこの感覚です。これが全苦しみの原料になっているのです。

全体が「私」を演じる

渥美清が「寅さん」を演じる

渥美清が寅さんを演じる際に、、、能力の一部が無くなるということはあり得るでしょうか????五感のどれかをな亡くすということはありえるでしょうか???ないです。絶対に。渥美清は全く何も能力を失うことなく寅さんを演じます。ぜは全体がこの「私」を演じる時に、、能力は失うでしょうか???失うわけがありません。ということは、、今の私の能力が全体の能力です。つまり触るという経験、見るという経験、感じるという経験、味わうという経験、、これが全体の全能力です。

私が誕生する前に

私がもしも無人島に生まれていたらこの体と環境の全てを区別するという概念がないんです。この体も私ですし、、環境の全ても私なんです、、、で経験が起きますね、、水に触れば冷たい、、果物を食べれば美味しい、、この経験は全体が作り出しているんです。全体が毎回毎回作り出しているこの感覚を、、「私」が奪ったのです。この体の中に「私」という概念、役が突然生まれ、、この感覚の全てを所有するという概念が生まれたんです。

この体と環境の二人三脚

この体だけでは当たり前ですが、、、ほとんどの経験が起きえないのです、、、川があって、海があって、風があって、、果物があって、、、この環境の全てがこの体と反応を起こすことで経験が生まれるのです。そしてその経験は何によって気づかれているのか????それが全体です。全体がこの反応という経験に気づき、、、その気づきを、、、「私」が気づいているというドラマにすり替えたのです。

全体の全能力を私が所有するというストーリー

思考するのも、感情を生み出すのも、感情を感じるのも、全五感の働きも全部全体の能力です。鳥が鳴く、、、この声に気づくのは全体です。。。この耳では????違います、、全体がその場で聞いているのです。ダイアモンドの輝きに気づくのも目ではなく全体です。全体がその場でその輝きに気づきます。。。その全てを「この私が気づいた」に切り替えているのです。そしてこの私が居るという感覚、この感覚も当然全体が起こした感覚です。

無常を認識できるのは誰だ???

無常には無常は認識できない

今目の前に居る猫は100%幻想です、、あるように見えているだけです、、、つまり蜃気楼です、、、蜃気楼が、、、、何かを見ることは出来るでしょうか????できませんね。そうです「目の前の猫は、、コップを認識できないんです」「目の前の猫はコップを認識しているように見えているのです」幻想が幻想を認識するってありえないんです。釈迦は悟りこの世界は無常と表現しました。無常とは常に移り変わるという意味ですね。ではこの無常を認識しているのは誰か???それは無常ではなく常です。常とは全く変わらない何かです。

全く変わらない「何か」「常」が無常を認識している

この世界が100%幻想、幻影ならば、、この幻想を認識できるのは非幻想です。非幻想とは、、幻、思いではない存在です。それが100パーセント在るんです、、、在るです。「在る」「非幻想」が幻想を唯一認識できるのです。私の本質はですからこの「在る」「常」です。これは100%です。ですから私は一度も何かを失ったこともなければ奪われたこともないのです。

失ったり、奪われることができるのは幻想の「私」

一方幻想の私はしょっちゅう奪われますし、失います、、、見かけ上。だから私は年柄年中悲しくなり、鬱々し、ショックを受けています。ですが私の本質はと言いますと「非無常」「非幻想」「非現象」「常」「在る」「空」ですから、、、、一度も奪われもしないし、失いもしないのです。本質の私とは、、失ったという勘違いの経験、奪われたという勘違いの経験を作り出す源です。

必要とされることは自我にとって重要

なぜ必要とされたいのか???

自我は感覚です、私が居るという思考が感覚化したものです。もしも私が居ると言う言葉が世界に存在しなければ自我という感覚は芽生えていないでしょう。つまり言葉が作り出した感覚、それが自我、エゴです。この感覚は感覚以上のものではない、つまり実在はしないのです。実在しないにも関わらず実在していると信じて生きているので「誰かに必要とされる」と大変有難いのです。必要とされているなーという実感は自我という感覚を強固にしてくれるので安心します。

親として上司として社長として

必要とされたい、、誰かに必要とされない「私」は存在意義がない、、、となります。だからとにかく私を必要としてくれる誰かを探すのです。誰かに必要とされたい人は親になれば、、徹底的に自分の存在を必要とするような教育をします。あなたにはこんなにこれから問題が山積みだから「私」が絶対についているよ、、です。このやり方は上司、社長、友人、親、、あらゆる役割で行われるのです。

必要とされなくなるように

本当の教師とは必要とされなくなるように導く人のことです。ところが自我、エゴは、、必要とされなくなってしまうと本当は実在していないことが明白になってしまい、、そのためそれを強く嫌がるのです。本当は存在しない、、これほどの真実はエゴには耐えられないのです。なぜならばそれは自我、エゴの殺傷事件であり殺人です。

イメージとイメージの人間関係

こういう人に違いない

私たちが言う人間関係とはイメージとイメージの関わり合いです。ある体に対してこの人は「こういう人だろう」というイメージを持ち、、そのイメージとこの私という「イメージ」が交流します。そして相手もまたこの体に対してイメージを持ちそのイメージに対して相手の私「イメージ」が交流しているのです。そこには四つのイメージが確実に存在しコンタクトが生まれます。

イメージとは違った

人間関係の交流が深まるのはお互い同士の「私」というイメージが描く相手のイメージが「私」にとって好ましいイメージだった時に、、、深くなっていきます。ところが実際にはそれはイメージであって、、、そのイメージ通りの言動が続くわけがないので、、深まっては薄れていくのです。この体、あの体を通じて起こる言動は実は勝手に起きているものであって、、、誰にもコントロール不能にも関わらず「私」「相手」はこれをコントロロールできると信じているので、、そのコントロールできているはずの「人格」を信用するのです。ですが実際にはコントロールできる「何か」は存在しないことからこれは多くの場合上手くいかないのです。

良いイメージ

結婚などはお互いがお互いに良いイメージを持つから成立するわけですが、、実際にはお互いをコントロールできる「何か」は存在しないので、、、予想に反して相手の行動が「私」の好みでなくなった時にトラブルになります。もしくは好みの行動を見かけ上の相手が起こし続けても、、、「私」の不足感を相手が補ってくれないという事態(頻繁に起こる)が起こることで、、その責任を相手に擦り付けるという行為が起こり破綻に進みます。

欲求不満をお互いが補えるわけがない

私という存在、この感覚こそが欲求不満を作りだす大きな原因ではありますが、、そのことをお互いが知るわけがないので、、、この欲求不満をお互いがお互いにぶつけるわけです。。。この絶対に解消できない欲求不満を双方が補えるわけがなく、、、これによって人間関係は終了に向かうのです。

私の人生

絶対ありますよね?????

人が亡くなった時、、、亡き父の人生は〇〇〇〇で、、非常に有意義なものだったと思います。。。。のような喪主の挨拶が行われます。この時、、、誰一人、、、「その人の人生なんてないんですよ!!!」なんて言葉を発する人はいないし何を言っているんだ???という話です。ですが実は「私の人生」というのは妄想として100%存在するのです。全部妄想です、、ですが妄想としては100%存在します。

妄想ではあるが実在ではない

私の人生がなぜ妄想で実在ではないと100%言えるのか????それはもしも「私の人生」というものが存在したら私ではない人生も確実に存在することになります。すると、、、この全く分離できない世界に分離が起こってしまうのです。本質には分離はないのです、、にも関わらず分離が起きてしまう、、これはありえないのです。だから私も100%妄想であり、私の人生も100%妄想なのです。この体も100%妄想であり、私の思考も100%妄想なのです。

妄想を実在と信じているから苦しいのだ

父の人生は有意義でした、、に対してそれは妄想ですよ!!!と言えば喪主は怒り出すでしょう。つまり誰もこれを妄想だと思って生きていないのです。父という存在は100%存在し父の自我も100%存在した、、こうなります。ですがその信念が間違っているから、、違和感、不足感、分離感という不快な感情が起こるのです。