偽りの自分

病気になりたがるエゴ

エゴの延命作用

信じられない話かもしれませんがエゴは病気を手放そうとしません、エゴは病気になることで周囲から構ってもらえると、、自身の存在を証明できます。すると病気を手放そうとはせず逆に病気にしがみつくのです。エゴは本当は非連続性の存在であり現れては消える儚い存在なのです、よって確実に永続するためには病気にしがみついて存在を証明したがるわけです。

治るわけがない

つまり病気でもってエゴを確立している人は、、病気を手放すわけがないのです。もしも手放してしまったら大変次は何か他の方法で自身を証明しなくてはならなくなるのです。ということで周囲から心配してもらえる病気はエゴの大好物なのです。万が一病気が進みすぎて命を落とす危険性がある、、そこまで病気が進行した時には本気を出して治そうとします。

この手法に気づく

本当は治したいんだ、、その気持ちが強くなってきた時にはこのエゴの手法を完全に俯瞰します。周囲から構ってもらいがために病気になるという手口をエゴは利用する、、するとエゴはこの手法を使わなくなります。エゴの動きを見抜くのは誰でしょうか?????エゴではないですよね?????エゴではないとすると大いなる存在、本当の自分です。つまりこの手法を見抜く時真の安らぎを手に入れることができるのです。

読み込みエラー

空は悟りの情報をなぜ読み込みエラーするのか?

自我ドラマがまさに今上映中の中で、、あなたなんていませんよ!!自我なんて嘘ですよ!という内容のメッセージは読み込みエラーされます。スリサスペンス映画の上映途中で友人が話しかけてきてネタバレをしてきたら耳を塞ぎますよね。そうです、、自我はこの苦悩、苦しみ、憤りをまさにこのドラマの中で解消しようと集中していているのです。そのような中で水をさされると、、せっかくの活動がまさに水の泡、、ですから悟り系のメッセージは邪魔なのです。特に今何かを手に入れようとしている状態であれば尚更です。

何かを得ること何者かになることにウンザリした時に

悟り系のメッセージを読み込んでくれる時があるとすれば、、、何者にかなりたい、何かを手に入れるという人生にもうウンザリしている時です。この時であれば悟り系のメッセージ「あなたは居ない」は強烈に魅力的に感じます、何か大きな期待が膨らむのです。もう何かを追いかける人生に懲り懲り、結局何かを得たところで、、、この衝動が湧く時がベストタイミングです。

自然に自然に

もしもまだ悟り系のメッセージを読み込んでくれない、全く頭に入らないのならばそれはまだそにタイミングではないということ。無理してそこに執着するよりもあらゆる経験を積んだ方が楽かもしれません。増せた小学生がどうせ人生なんて頑張っても無駄、最初から悟っちゃった方がコスパいいでしょ!のノリで本を読んでも恐らく頭に入らないでしょう。なぜならばそちらに衝動が向かないから。

完璧なタイミングで

全ては完全完璧(空)の投影ですからこの現象界で起こる全ては完全完璧なタイミングで起こります。ですから今その方向に興味がないのならばそれが完全完璧なのです、そして今その方向に興味があるならばそれも完全完璧です。本当はもう苦しみを終わらせたいのに、、そう思っていたとしてもその思いが今出ていることが完全完璧なのです。

雲(自我)の最後の抵抗

固執している関心ごと

本当は私はこの体(雲)ではなくて空だ、、、この体(雲)この思考(雲)この感情(雲)が私(雲)なのではなく、、空そのものなんだ!!!!この気づきがある日突然起きます。ですが、、、それと同時に、、日々の関心ごと、将来への不安、両親との確執、本当はやりたかったこと、、などがフラッシュバックのように流れ(雲)また私(雲)にしがみ付く、、、が起こります。この全ての出来事は全て雲であり、、、この私(雲)を維持するための連発雲(記憶、思考)が起こるのです。

エージェントスミス

マトリックスの映画ではこの状況をエージェントスミス(雲)を使って表現しています。友人知人、両親、、、あらゆる人がエージェントスミス化して攻撃してきます。主人公ネオは彼らと死闘を繰り広げるわけですがそこの関心が行っている時点で実は負け戦なのです。個人の関心とは個人をこの世界に留めておくための戦略なのです。お金、ギャンブル、お酒、異性、マンション、アクセサリー、SNS、、、その人の関心が実はこの世界にその人を留めておくツールなのです。

全ての関心ごと

全ての関心ごとを観察し、そこの執着しない、、そして自身は空であるという自覚で過ごすことができるようになりますと、、過剰な関心攻撃は無くなっていきます。恐らくこれは自我に関心がむかなくなる時の自我の悪あがき、反抗期なのでしょう。本当はアピールしたい、だが直接ではバレる、、そこで関心事を記憶から引き出し、、意識をそっちに向けさせます。

勝負の行方は決まっている

どれほどにエージェントスミスの攻撃が半端なく毎回毎回この自我ストーリーに引き戻されてしまったとしても、、、最終的な勝者は既に決まっています。なぜならば、、雲(自我)が空(本当の自分)になるのではなく、、いままでも空(本当の自分)だったのです。生まれてこの方、空(本当の自分)でなかったときは一度もないのです、、、ただ雲(自我)を本当の自分と勘違いする思考(雲)が漂っていただけなのです。そしてそれによって観念という分厚い雲が現れその雲を通じてこの世界を見るという自我ストーリーが生まれていたのです。ただしどれほどそのストーリー(雲)が分厚いものであっても、、空(本当の自分)は常にそこにあって全くなんの影響も受けずにいました。それらが消え去りまっさらになってもやはりそこには空(本当の自分)が残ります。

最後の観念

実は全部思い込みだった

世の中のビジネスリーダー、成功者、各界のトップ、、彼らの多くは、、、世の中の人たちとは異なった観念を持ち、、それゆえに成功をします。彼らはTVやネットのインタビュー番組で、、世の中の人はこんな風に考えているけど私はこう考えて結果を出しました、、と観念書き換えを促します。みんなこんな思い込みに縛られているんだよ!!!というアンチテーゼです。

覚者とは、、、

覚者とは観念書き換えどころか、、見える世界全てが観念の投影である、、とまで説きます。思い込みがこの世界を作り上げ思い込みが感情を作り上げ思い込みが自身のストーリーを作り上げます。時間も空間も思い込みですよ、、さらにあなたの体の中の「自分」も思い込みですと。ここまで来るとほとんどの人は全く付いてこれなくなります。

これまでが全部思い込みならば

ある外国人が「日本人の労働者は睡眠時間も取れずに働いている、あれならば私の国の刑務所の方がマシだ」と話しました。この話は日本人にとってはショックなのです、、まともな生活をするための社会的な生活を送るために必死に会社勤めをしていたつもりが、、刑務所以下だと思われてしまったのです。これぞ思い込みです。思い込みとはこれほどの破壊力、影響力を持つのです。だとしたらこの「私」も思い込みであるという提案も事実かもしれませんよ、そして事実なのです。

観念を手放すには

観念を手放すためには新しい観念が必要です。その観念が「私は存在せず、本当の私はこの世界そのものである」です。この観念を新たに覚える必要があるのです。この観念本当かも!!!が起こった時に徐々に徐々に「私」は存在しない、、、 にシフトが起こり始めます。

「野垂れ死ぬは最悪」も観念

共通の観念

私たちは何か事件があると「最悪」「悲惨」「地獄」と当たり前のように事件を危惧しますが、これ世界共通ではありません。会社を首になるのは最悪、、これも国によっては当たり前。収入がゼロになる、、これも国によっては当たり前。16歳で村長の娘になる、、これも国によっては当たり前。つまりこの世界の悲惨はその人が作り上げた観念が起こすのです。最低最悪な事件すらも、、その人の観念が作り上げます。

最低最悪な事態

最低最悪の事態をこの「私」「自我」「エゴ」がなんとしても防ぐ、、これが私ストーリー、自我ストーリー、エゴストーリーの定石です。だから「私、自我、エゴ」の存在をしっかりと維持してくださいね、、、忘れたら大変なことになりますよ!!!という常套手段です。最低最悪な事態に陥らないためには「私」が絶対に必要ですから、、、です。

自ら脅し自ら必要とされる

自我とは本当は存在しません、、その自我が常に必要とされるには、、史上最悪な事態を防ぐためのヒーローである必要があるのです。こんな悲惨な目にあったら、、こんな地獄に遭いたくないならば、、これほどの不幸を避けるならば、、、この「私」が必要ですよ。自由意志を着実慎重に行使する「私」が。これによって自我は天下を取るわけです、長期政権です、本当は存在しないにも関わらずです。

自我にとって最悪な事態

自我の戦略とは反対に、、突然事故で全財産を失ってしまった、、突然会社で首になった、、、あれほど恐れていた事態が急遽起きてしまった。。。。やばい!!!!!!最悪!!!!!、、、、、ところがあれ???意外と思ったほどしんどくないぞ、、、緊急事態って無我夢中で現状を処理できて、、ピンチは一瞬だった、、もしくはそれほど辛くなかった。。。。。。自我最悪なピンチ、、、形成が逆転します。。。自我の信頼が崩れるのです。

死にたくなるほど辛いはずが、、、、

あれだけ恐れていた事態にあったにも関わらず実際にはそれほど辛くなかった、、、、これは自我にとっては恐ろしい事態なのです。脅しをかけて自我を必要とさせていたにも関わらず、、その作戦がもはや通用しないのです。観念、思い込みというものに対して、、恐怖心がなくなっていく、、観念を疑うようになるのです。

自我の嘘を見破ってなぜ自我に固執できるか

自我とは完全に虚構

この世界に存在するものは全て幻です、現れては消えていく幻です。現れている時のみ幻想化し消えれば何もなくなります。ですからこの体もこの思考もこの感情も常に現れては消えていくのです。そしてこの体の中に存在すると言われている自我も例外ではありません。これは幻想です。あるという感覚が起こった時のみ現れ忘れ去られているときは消えています。

ところが、、、、

この社会では自我を正式に実在している存在と認めていて、、これも幻ですが、、自我には責任が重くのしかかっています。その証拠に何か犯罪を起こせばその動機を確認されつまりコントロール能力があるという前提で話が進むのです。だからこそこの幻の自我は、、永続する連続する存在という想定でこの社会は成り立っているのです。ところが実際には自我は起きたり消えたりを繰り返す非連続性であることも間違いないのです。

自我の嘘を見破ると

自我はこの現象界に存在しますんで自我は100%幻想です。そのことを完全に理解できてきますと、、もう自我に固執するという発想が起きにくくなります。絶対に存在すると信じて生きてきたにも関わらずそうじゃなかったという大どんでん返しは価値観がひっくり返る事件です。ですが自我を信じて生きている人々のメカニズムも理解できていますから社会的には問題は起きないのです。

情報を得れば得るほどに

TVの垂れ流し

我々はネガティブなニュースを観れば観るほどにそれが真実であるという錯覚を起こすので、、観念を書き換えていきます。このまま行くと大変なことになる、、、この恐怖感が消えないわけです。ですからなんとかこの恐怖から脱げるためにそれを回避するための行動を取るようになるのです。ですがこの行動が楽しいわけがないのでその道には常に苦悩が続きます。

世の中の情報に真実は一つもない

この世界に流れる情報に真実はありません、経済危機、国家財政問題、国際紛争問題、、、あらゆる恐ろしいニュースが流れますが、、これらは全て現象に過ぎません、、現象というのは現れて消えていくものであり、、それを真実であると取ることしかできないのです。本当の真実は、、、全部私の中で起きている、、ということだけです。この開放性の中でただ現象が起きては消えてを繰り返しているのです。

三億円の宝くじ

もしもあなたが三億円の宝くじに当たり、、、全くもって経済的な問題を気にする必要がなくなったとしても、、、実はこの苦しみは消えることはありません。それまでお金の心配をして生きてきましたが、、それが無くなった時に、、、ハッピーな人生が始まるかといえば全然そうではないのです。次の日から苦しみが始まっているのに気づくはずです。それが本当の私は誰だ????という憤りです、違和感です、そこからの孤独感、分離感です。この体の中の「私」をやっている限り苦しみから脱却することはできないのです。

非連続的な全て

心も体も

心はいつも存在しないですよね、何かに夢中になっている時、、姿を消しています。「わたし」もいつもいないはずです、、転んだ瞬間、私なんて忘れ去られています。体も実は姿を消します。画面でPCに向かっている時、、、、足の姿は消えます。この現象界において常に必ず存在する何かってないんです。現象は常にあったりなかったり非連続性なのです。こころは絶対ある、私はぜったいある、、体は絶対にある、、、それは記憶をつなぎ止めて、、あるはずだ、、、と思っているのです。

一方

一方意識は確実に常にあります、朝起きて寝るまで意識はあります、、、意織、、、、この連続する存在、、決してなくならない存在が私たちの本質です。この意識の中でたまに「私」が現れ、、たまに体が現れ、、たまに思考が現れ、、たまに感情が現れるのです。意識以外は、、、たまにこの世界に現れる現象に過ぎないのです。つまり幻です。

幻を実在すると思い込む

この世界に苦しみが沸き起こるのは、、、「私」というたまにしか現れない存在を、、確実に実在する何かと捉えたからです。現象の一つでしかない「私」という概念、感覚を常に存在している絶対的なもににしてしまったことで、、、「苦しい」が湧き続けるのです。

救うべき人は誰もいない

全ては開放性の表現

この世界は開放性による開放性のための開放性のドラマです。このドラマに個人というのが居るように見えるのは非開放性という自我を見かけの上で作ることに成功したからです。ですが実際には開放性の中で起きるドラマですから真の非開放性は存在できないのです。そしてそのドラマに出てくる見かけ上(非開放性)の人々は開放性の上に立つ見かけ上非開放性の人々です。このドラマでは見かけ上非開放性に映る人物しか出演はなくよってその本質は全員が開放性の中に居るのです。

私(非開放性)を含め最終的な運命は全員が決まっている

この舞台は開放性の舞台です、、その舞台の中で非開放に見える存在が現れました、それが私あなた、、その他大勢の人々です。私そして彼らは見かけ上非開放性ですがこの開放性の世界の中に真の非開放性は存在できません。よってこれは全て見かけ上、錯覚に過ぎません。ですから救うべき人は実際におらず、、何も問題がないのがこの開放性の世界の特徴です。勿論ドラマ上は救うべき姿に一見見えますが、それはそう見えるだけ、そう感じるだけです。

かといって

かといって目の前に車に轢かれそうな子供が居れば助けるでしょう、、それで勿論問題はありません。ですが不幸にして助けることができなくても、、それはこの開放性の中のドラマでしかないことに気づかなくてはなりません。非解放に見える全てのキャラクターは実は開放性でしかなくつまり最初から救われているのです。

自我に関心が向かないと

概念であっても

概念であっても知識であっても、、自我は幻、思い込みであることを頭で理解できますと、、自我の欲求を叶えることに関心は向かなくなります。そして今まで自我の欲求達成に向いていたエネルギーが真理探求に向かうのです。事実上自我に関心が向かない、、という状況になっていきます。すると、、自我は痩せ細っていき活力を失い、、益々真理の探求に意識が向くようになるのです。自我の欲求をいかに達成しても成就しても意味がないことは既に分かっているからです。

観葉植物

自我は観葉植物のようなものです、そこに関心が行けば行くほどに大きく成長しそのため欲求も大きくなる。ところが関心を向けなければ痩せこけていき、最終的には枯れて大地に再吸収されるのです。我々は自我を観葉植物として大切に大切に育て上げてきたのです。あらゆる敵から守り箔を付け最重要アイテムとしてこれまで扱ってきました。ですがその方法ですとほとほと疲れ果てたわけです。もう関心を自我に向けなくていいのです。

観察観照者になる

心の声が上がればこれまではその声を最大級大きく扱ってその声を満たすように動いてきましたが、、これからはその声をただ観察者、観照者として見ます。今思考が起きたな、、という感覚です。この声をしかり聞いて欲求を満たしたところで植物としての自我がより大きくなるだけなのです。大きな植物としての自我は多くの水を求めますから飢餓状態に突入します。