偽りの自分

夢(思考)からの脱出

夢は思考が作るのだから

この世界はたった一つのエネルギーでありあるがままです、そこは至福、平和、歓喜の場所です。そこに思考が立ち現れることでその思考があるがままに読み込まれ、、イメージが湧き出てきます、思考通りのイメージです。そのイメージの連続こそが夢です、この夢の中では時間(思考)があり空間(思考)がありと続くのです。この世界(夢)に居るのは苦しく居心地が悪いのです。その中で常に今ここ(あるがまま)に住まう方法があります、それはしっかりとこの体と繋がることです、この体は思考ではないのでいまここにしか存在できないのです。つまりドラマ、ファンタジーに住うことができません。この体は常にあるがままに席を置くのです。

この体を感じる

エックハルトはこれをインナーボディーと呼びました。常に体を感じる感覚を得ることです、体を通じて今にある感覚を構築するのです。そうすると思考に支配されずに夢に引きずられないということです。思考は夢に意識を導き夢を維持しようとしますが体がそれを阻止します。今という場所の至福を忘れないでいられるのです。今は至福しかありません、思考の世界(過去未来)は分離の世界、ネガティブな感情の世界です。

虚(空想)の世界は空気が薄い

居の世界ドラマの世界夢の世界は、、たった一つのエネルギー(至福)が作り出した世界ではありますがここはネガティブ(分離)の世界ですから苦しいのです、、ここに居住し続けると苦しくなります。ですからいまここに居たい、、、そのためには今ここに絶対に存在するこの体に意識を向けるのです、この体を感じるのです。この体を感じているのは誰でしょうか???本当の私、あるがまま、真我です。思考ではなく体に気づくことでいまここに住うことができます。ここは至福、平和、歓喜の場所です。

老後が心配で心配で

今の苦しみが解っていないのに

いまなぜ苦しいのか?今なぜ不安感があるか??今なぜ不満足感があるのか???そこを理解していないにも関わらずもしくは理解していなからこそ人は自身の将来について不安になります。今ですら不満足なのに老後なんてもっと哀れになるのではないか????独居老人、孤独死、、、怖い怖い。ですがこれらが杞憂に終わるのは、、なぜ今苦しいのか????この答えがないからです。

若い時の焦燥感

若い時、体は自由に動き回り頭もキレる、、、、にも関わらず若い時期はなんか尖っていた、、若い時は常に怒りの感情が、、若い時っていっつも寂しくて、、、、聞いたことありますよね!!!!健康なはずがなぜか精神状態は荒れ荒れで、、、、です。なぜか?????「この体と思考が自分」この思考がより鮮明に描かれるからです、イメージ化されるからです。これによって孤独感分離感も鮮明に上がるということです。なんで若い時はあんなに苦しかったのか???それは偽りの自分という存在をありありとイメージできてしまう、、、、こんなトリックがあります。

頭が良い人ほど、、、

鬱病になるって頭が良い人が多いんです、、、こんなこと聞いたことがある人は多いはずです。思考がそのまま感情を作り出しますから、、その思考が真実から離れれば離れるほどにネガティブな感情が湧きます。ネガティブとは分離のことであり、、分離とは真実では絶対にありえないのでこれはあくまでイメージでしかありません。そのありえないことを頭あ良い人はイメージの中で描き続けることができるのです。結果ネガティブな感情も維持し続けることになります。頭が良い人はあるがままの世界の中に壮大な分離の夢を描くのです。

頭が良い人が真実に気づくと

頭が良い人はたったひとつの統合したエネルギー、至福の世界の中に思考でもって壮大な分離の夢、ファンタジー、幻想を描き、、ネガティブな感情を湧き出させ苦しみ続けます。この事実を頭が良い人が理解しますともう同じ過ちを犯さなくなり、、ベクトルは真実追求に向かうのです。イメージしたドラマが真実とあまりにかけ離れていただけだった、、ならば真実に気づけばいい、、となります。真実が思考の先にある真実に意識が向くのです。この体この思考そこが自分という仮説はあまりにもリアリティがあるために騙され続けてきましたが、、これが偽りであることは明白です。なぜならばネガティブ(分離)な感情がそれを証明しています。

毎週毎週みんなでパーティー

Facebookを見れば、、、毎週毎週パーティー三昧、、そんな方を見ますが、、、これって簡単な理屈、、、「この体この思考こそが自分」という徹底的にネガティブな思考がネガティブな感情を生みますから、、、それを解消するためには多くの人と分かち合って再統合したい、ポジティブな感情を感じたいという欲求です。個人という孤独な存在(イメージ)だからこそ多くの人と分かち合い(統合)、、ポジティブ(統合)の感覚を得体わけです。ですがパーティーが終わればまた一人(イメージ)を強固にしますから毎週パーティーが必要になるのです。

イメージが起きなければ

そのまま至福に入る

「この体、この思考が自分だ」この思考が湧き上がりますと、、それは全体に回収され即イメージ化されます。そして「この体、この思考は自分である」というイメージ、幻想、イリュージョンがこの世界に起き上がるのです。自分という言葉は、、世界に完全独立した、完全分離した別個の存在という意味ですから、、それがそのままイメージ化されるのです。この言葉は大変力強い影響を与えます。そしてこれが同時に孤独感を起こすのです。ですが本当はあるがままの世界、たった一つのエネルギーだけの世界が真実です、真実は至福、無分離、非孤独です。言葉が湧き上がる前、、至福でしかなかったのです。

言葉以前の世界

我々は生まれた時、、たった一つの世界に居ました、、、たった一つの世界の住人ではなく、、、たった一つそのものだった、、つまり至福そのものだったのです。。。それが言葉を覚え始め、、、分離したイメージを勝手に築きあげることで、、この至福の世界に、、、孤独という「感情」を作り上げたのです。「今この瞬間に悟れます」というのは真実でそれは至福の上に孤独、虚しさ、悲しさを作り上げているだけだからです。イメージが崩れればそのまま悟り(至福)に入るのです。

「この体この思考が自分」の崩壊

突然自分がなくなり至福に襲われた、、、エックハルトトールはこのような表現で自身の悟りを表現していますがまさにその通りです。「この体この思考こそが自分である」という強いと強い思い込みが、崩壊し、、、このイメージがこの世界に起こらなくなった時、、、そこには至福だけが広がっているのです、いつでも。彼は絵rーとで多くの多くの知識を所有する私というイメージを持っていたに違いなく、、、そのイメージが大きくなり過ぎて、、その重さに耐えられなくなった時、、そのイメージが崩壊しました。。。結果奈落の底に落ちたつもりが至福というセーフティーマットが敷かれていたということでしょう。

「この体この思考は自分」というのは真実ではない

この認識、気づきが、、、本当の私、全体から起こることで、、、強烈なイメージが緩和されます。世界にたった一人、、この体、この思考を所有し立っているというイメージが起きなくなります。これだけで「苦しい」が湧いてこなくなるのです。思考は即座にイメージ化されますからその内容が真実と乖離すればするほどに苦しいのです。本質を学ぶとはまさに強烈な分離からの統合へのプロセスです。

 思考と全体

思考の力

多くの方は思考の力を侮っています。思考とは何でしょうか???例えば「私は世界にたった一人だ」という思考が起こった時には何が起きるか????同時に寂しいという感情が起こります。なぜ起きたのか????「私は世界にたった一人だ」という思考に全体、スクリーン、スペースが気づき、、この言葉を読み込み、、読み込むことでドラマ、イリュージョン、蜃気楼がこの世界に浮かび上がったのです。たった一つのこの世界に「私は世界にたった一人」というイメージが湧きがりました。これによって寂しいという感情も浮かび上がったのです。すると「友人に電話しよう!」という思考が湧き上がり、、それを全体、スクリーンが読み込むことでそのイメージが湧き上がります、、するとまたワクワク!という感情が湧くのです。

ドラマが始まる

思考がこの世界にドラマ、イリュージョン、映画を作り出しているのが分かりますね。文字の連続を読み込んだ全体は、、その文字が指し示すことをイメージ化していきます、、そのイメージは確実に浮かび上がり、、あるがままの世界に誕生するんです、確実に。それに伴い感情も湧き上がりドラマはより重層構造になっていくのです。ですがこのドラマは真実ではありません、真実はたった一つのエネルギーですから。ゆえにこのドラマの世界は居心地が悪く疲れるのです。

人間関係が疲れるのは????

「Aさんは日曜日何やってる????もし良ければカフェに行かない???」という誘いがBさんから起きました????この言葉はそのまま全体に読み込まれAさんという自分がイメージ化されBさんとカフェをするイメージも同時に起こるのです。これによって嬉しい!面倒!などの感情が浮かぶ上がります。Aさんは湧いてくる感情が楽しい!!!ならばOKと答え、湧いてくる感情が面倒!!!ならばNOと答えるのです。どちらにしてもあるがままの世界に「Aさん」「Bさん」というイメージが湧き上がることでその時点で「孤独」という感情も湧きます、、なぜならばAさんもBさんという分離した存在は錯覚でありそのイメージが孤独を起こすのです。

夢の中に居る

私は確実に夢の住人です、なぜならば私という存在はイメージでしかなく真実ではないからです。私がカフェに行く、、、は言葉が作り出したイメージです。私は生きるために働かなくてはいけない、、この思考はそのイメージをこの世界に浮かび上がらせます。夢をその瞬間に作り出しているのです。これらは全部嘘です。本当の私とはこの空間、スクリーン、スペース、、、言葉を読み込みイメージを瞬時に作り出す存在です。この体、この思考が自分というのはイメージに過ぎません。勝手に自分自身を「ちっぽけなイメージ」に押し込みその時点で苦しみを与えているのです。

この体をこの思考を自分だと思っているうちは、、

何をやっても満たされない

釈迦が国王という地位を捨てて山に篭ったのは、、その地位であっても満足に至れなかったからです。マイケルジョーダンが途中バスケットを引退したのは、、三回優勝しても本当の満足には至れなかったからです。北野武が映画を撮り始めたのはバラエティでトップを取っても満足できない何かがあったからです。この体をこの思考を自分と思っているうちは、、本当の満足は得られないのです。なぜならばその思考こそが分離感、虚無感を作り出しているのです。これは完全にトリックです。

この体と思考を自分ではないと思っている奴などいるのか?????

私は今まで生きてきて、、、「この体と思考が自分である」という認識ではない人間に直接会ったことはありません。つまり人類の99.999999%の人は、、「この体とこの思考が私だ」を認識しているはずです。ですが残念ながらそのような思考では釈迦、マイケルジョーダン、北野武のようにトップの立場を捨ててでも他を探したくなるのです。なぜか????「この体この思考が私だ」という思考自体が孤独感、分離感、虚無感を作り出す直接原因だからです。

この体、この思考が自分じゃないなら

この体、この思考が自分じゃないとしたら一体何が自分なんだ????簡単です、全部です、、、今起きている現象の全てに気づいている存在であり現象そのものです。この体、この思考にも気づいていますからこれももちろん自分です、、ですがそれだけではないのです。。その体が持っているコーヒーカップ、そしてその体が身につけている洋服、その体が腰掛けている椅子、、、、、全部です。今目の前に映る映像の全てが私なのです。だからこそ「この体、この思考だけが自分」という思考が湧き上がりそれが読み込まれると、、同時に虚しい、孤独が湧くのです。思考と感情はセットです。

思考が湧き上がりそれが読み込まれる

「この体と思考が自分」という思考が湧き上がった時に、、それを読み込むのは誰でしょうか?????全体です、本当の自分です、、本当の自分がこれを読み込みます、、すると、、、同時に虚しいという感情が湧きます、、それをまた全体、本当の自分が気づくのです。すると、、「この体とこの思考が自分」が〇〇して解消しよう!!!!が湧きます、、それを全体、本当の自分が読み込みます。するとまた虚しい、孤独感が湧くのです。こうやって無限ループに入っていきます。

「この体この思考が自分」という洗脳

幼少期の洗脳

「この体この思考が自分」という思考は真実ではありません、これは思考、概念です。この概念を幼少期に我々は両親から埋め込まれます。なぜ埋め込まれるかといえば「この体この思考」を生き延びさせるためです。確かにこの洗脳によって「この体この思考」は生き延びることができましたが同時に孤独感という感情を発生させることになります。なぜならばその思考は真実とは異なるからです。真実はと言えばこの体、この思考、見える全てを生み出す存在こそが自分です。

便宜上「この体この思考が自分」と学習した、、に切り替える

社会に出れば「この体この思考が自分」という大前提でこの社会が回っていることに気づきます。ゆえにこの概念は完全に定着されます、、、、定着はされるものの、、これは真実ではなく偽りですから、、孤独感が常に湧き上がるということになるのです。結果人はお酒、ギャンブル、暴飲暴食、ゲーム、お喋り、、など何かしらにこの孤独感解消を求めるのです。この大前提のままでは苦しいので、、この事実に早く気づく必要があります。

自分だけ切り替えたって意味ないのでは????

社会の大前提が「この体この思考は自分」で在る以上、、自分だけがこれを切り替えたって意味ないのでは????と思うかもしれませんがこの世界は私の観念が投影した夢ですから、、、切り替えればこの世界が変わるのです。そして便宜上「この体この思考は自分」をやればいいのです。本当は違うのは分かっているけれど、、、建前上これを継続します。本当は地球が太陽の周りを回っているのは分かっているけれど、、天動説に合わせるみたいな感じです。

「この体この思考」が自分という思考

この思考が孤独感を生み出す

私たちはなぜお酒、お菓子、タバコなどの嗜好品を欲するのか????それは「この体この思考こそが自分」という思考が生み出す孤独感を癒すためです。本当は「この体この思考は自分」という思考は真実ではありません。真実はこの体、この思考、そして全ての現象を生み出すスペース、スクリーンこそが自分です。この体、この思考に限ったことではなく、、今目に映る現象の全てを生み出す存在こそが自分なのです。この勘違いにより発する感情が孤独感です。

「この体この思考が自分」という分離思考が分離感(孤独感)を作る

このメカニズムで人は孤独に陥り病んでいきます、、これを紛らわすために、お酒、タバコ、ギャンブル、暴飲暴食、買い物中毒、、と何かに中毒になり解消しようと心がけるのです。ところがこれは当たり前ですが根本解決にはなりようがなく、、、体もしくは経済が壊れるまで続くのです。この体もこの思考も自分ではあるのですが、、実は見える全てを生み出すスペースこそが自分自身なのです。これを認識しながら孤独感を感じることはできません。

思考が感情を作る

ネガティブな感情を作り出すのはネガティブな思考です、ネガティブとは分離のことです、、ポジティブとは統合のことです。ネガティブな思考はネガティブな感情(孤独感、虚無感)を作るのです。つまり我々は感じる感情から思考を確認し、、、その思考が真実とは異なることを認識できるのです。真実は至福でしかなく、至福の中に真実とは異なる思考が生まれる(この体、この思考が自分)ことで体と反応し孤独感が発生します。

ネガティブな感情を見逃さない

本当はここは至福しかありません、本質は至福だからです。ここに思考(この体、この思考が自分)が湧き出しました、、これによって同時に孤独感が湧き出します。この孤独感を解消するために「この体この思考が自分」は思考するか行動を起こします。ですが「この体、この思考が自分」という思考を保持し続ける限り孤独感が消えることは絶対にないので動いても思考してもラットレースのように解決しないのです。この全く解決不能な状態を釈迦は「苦」と表現しました。

浮かび上がる思考を「自分」と思う間違い

思考を自分と思うことで

我々は浮かび上がる「思考」を自分と勘違いする傾向があります。次々に湧いてくる思考をこそを自分と捉えることでエンドレスに湧き続ける思考に対し未警戒であるのです。実際には思考はただ湧いてくる現象に過ぎずこれが自分なのではないのです。ですが実際には思考が湧くことで「自分」が出現したと勘違いしそのことに無自覚なのです。

本当の自分とは

本当の自分とは思考に気づくスクリーン、スペースです。今からマックに行こう!!!この思考に気づくスクリーン、スペースこそが自分自身です。「今からマックに行こう!」という思考が自分なのではなくそれに気づく存在こそが自分自身なのです。究極を言えば湧いてくる思考を含む現象の全ても自分自身ではあるのですが、、人間は湧いてくる「思考」こそを自分自身と勘違いし偽りの自分「思考中毒」に陥るのです。

頭が良い人ほど、、、

頭が良い、思考の回転が早い人ほど、、、この思考こそを自分自身と勘違いする傾向が強く思考中毒。偽りの自分中毒にお陥ります。空いている時間常に思考を回転させ、、自分(偽り)の存在を確認し続けるのです。ですがこれは自分ではなくただの思考に過ぎないのです、、この思考を自分と勘違いすればするほどに本当の自分(スクリーン、スペース)を自分自身とする感覚を忘れるために苦しくなるのです。

偽りの自分自身(思考)の保存法則

思考は自分自身ではありません、ところがこの湧いてくる思考こそを自分自身と勘違いしますと、、、思考に意識が向きこれを保持しようとするために思考がさらに湧き続けるという現象が起きます。思考し続けることに意識が向き続け偽りの自己を保持し続けようとするのです。結果思考中毒になっていきます。偽りの自分(思考)が拡大すればするほどに本当の自分(スクリーン、スペース)は忘れ去られ、、思考に伴う感情に支配されていくのです。

思考の内容は感情を生み出す

思考こそが私だ、、この思考が、、分離感、孤独感という感情を生み出します。思考こそが自分だという思考は体に跳ね返り孤独感、分離感という感情を生み出すのです。この感情が苦しいためなんとかしてこの感情を解消しようと思考を沸き続けさせ解決しようとします、、ところが湧けば湧くほどに偽りの自己は大きくなり、、その思考こそがさらなる分離感、孤独感を起こすという悪循環を起こすのです。

偽りの自分は人を引きずり下ろして不足感を解消する

不足感解消に仁義なし

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中では神は人間に成り切ったゲームを展開します。人間という五感+思考+感情動物を利用してこのゲームを楽しみます。実際には全て幻想ですが五感があることでリアリティーを与えます。さも自分がいるかのような錯覚を感じることができる遊びを展開します。神が人間という不自由極まりない生き物に成り切るわけですから不足感が湧いてきます。しかもこれはこのゲームが続く限り延々と湧いてきます。この不足感が人間の価値観と絡み合うことであらゆる感情のベースになるのです。怒り、妬み嫉み、孤独、退屈、などなどです。人間ゲームに慣れていない神はこの不足感を犯罪、裏切り、理不尽な行為をしてでも埋めようとするのです。これが仏教でいう地獄界です。このようなレベルの人たちが集まる集団に属しているとそこは地獄になります。

不足感解消にルールを守る

不足感解消のために最低限のルールを守れるようになると社会人としてやっていけます。会社、法律というルールを守りながらこの不足感を解消していきます。もちろんこの不足感はルールを守っていても関係なくひたすらに湧いてきますからこれが辛いことに何も変わりはありません。ただしここに居る人たちはルールを破ってでも不足感解消をしない分お互いが楽です。各々が独自に不足感解消に向けて努力していきます。

不足感解消から無我に入る

不足感解消をする努力から無心、無我、無思考に入れる人もいます。茶道、書道、花道のようにそこに携わることでそのまま無我に入り歓喜を得ます。そこに集中し無心に入ることでその場で神を体現します。これが究極の娯楽です。本来であれば苦しみでしかない仕事や労働から悟りに入るこれは人間の究極の形です。そして最終的にこの感覚を理解することから人間の苦悩解明に入っていきます。神が演じるこの人間から意識的に離れる、人間観察者へとシフトしていきます。

偽りの自分はメリットを聞きたがる

偽りの自分は不足感でできている

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神が人間になり切って、人間がいるかのような状況を作り出しこの夢物語を歩みます。人間が実際に実在するわけではありません、人間が実在しているかのように見える世界を神が作ったのです。マリオがいてクッパがいてクリボーがいてスーパーマリオは完成します。同じように主人公(私)と脇役を多数配置してこの錯覚ゲームはリアリティーが出て来ます。これは神が作った夢、ゲームですからリアリティーさにかけては右に出るものはありません。全知全能の神が無知無能の人間を作り出しそれに成り切っているわけですからこのゲーム、夢は不足感全開、欠乏感全開、、これがポイントになります。無知無能の人間が欠乏感全開になった時にどういう行動をとるか?メリットを追求します。コスパを追求します。損得を追求します。これが答えです。

五感+思考+感情、、これに脳の記憶装置を加えて完成

神が見る夢では人間(本当はいない)に五感を与え、見えて聞こえて、触れて、味わえて、嗅げる機能をつけると同時にその世界を現象化、バーチャル化、リアル化しました。人間の五感機能分だけ世界がリアライズされるのです。さらにこれに思考を加え、感情を加えることで不足感をいかに解消していくか、、思考を繰り返しながら観念を作り上げていきます。それに記憶力を加えることで過去を作り出しストーリーが完成します。湧き上がる不足感をあらゆる観念が感情化しそれを思考で解決していこうという試みになります。

不足感全開の無知無能人間は最初はメリットを重視するが、、

神にとって人間は無知無能です。その人間は不足感全開になりそれをなんとかして解決しようと行動します。人間ができることと言えばなるべく損をしないで生きたい、将来後悔しないような人生を歩みたいということになります。周囲から教えてもらう損が少ない人生を目指すようになるのです。進学しかり就職しかり結婚しかりです。ですがどこまで行っても消えないこの不足感は常に自分を追ってきます。この損しない生き方ゲームは死ぬまで続くのだろうか?ということです。神は人間を無知無能に作りはしましたがそれは不幸に浸かれと言っているわけではありません。その状況から神に戻ることを最終ゴールにしています。このブログでは神が教えてくれるあらゆるヒントを掲載します。