神が見る夢

他人を強烈に意識する自我は褒められて安心する

他人の評価しか信用しない

自我は他人からの評価を強烈に意識します。自我は他人から評価されたくて仕方ないのです、そして自身に低評価する人間を腹の底から憎みます。高評価する人間を愛し、低評価する人間を憎んで生きていくのです。これが自我です。これは夢です、神が見る夢です、この夢の中で神は人間になり切って生きています。成り切るためのメカニズムが自我です。つまり自我とは後付け、、存在しないのです。ということで自我は他人からの評価で自身が実在していると保証したいのです、そして自身を低評価する人間を恨むのはその先にある自分の嘘を見破られることへの恐れです。自分は本当に居るんだ、という強烈な打ち出しは実は居ないからこそ起こります。

自分の中に神を発見した人はもう他人の評価はどうでもよくなる

神が人間に扮している、人間になり切っているのがこの夢ですから、、本当は神です。自我はそこを隠すメカニズムです。自我はそういう意味ではこのプログラム存続に必死です。逆に言えばそれしか興味がありません、もしも神が実は神だったことを思い出した瞬間自我プログラムは消滅しますからそこだけは避けたいのです。だからこそ自身を評価する人間、自身の存在を全肯定してくれる存在を重宝します。会社の社長がYESMANを集めたがるのはこれです。もしも自分の存在を思い出してしまった人はもう他人の評価が気にならなくなります。むしろ他人は自身を人間としてしか見れませんからその時点で低評価をしているのです。どんなに人間として高評価しようとそれは低評価です。

無心、無我、無思考に積極的に入り込むことで神になる

自身が人間ではなく実は神であることを思い出すためには、無心、無我、無思考に積極的に入り込むことです。何かに夢中になる、無心になるという作業に意図的に入ります。ルーティンを行動に取り入れて思考の入る隙間を排していきます。自分から人間ではなく神に戻る方法を覚えてしまうと他人の評価は無駄になります。自分が一番の高評価査定をします。自分が神だと気づいている人間が他人からの評価を気にするのは滑稽なことです。

損得を超える

損得はこの心身に対する絶対的確信から生まれる

このちっぽけで極小で、無知無能な人間という姿が自分である、、、この感覚に対し圧倒的な確信をしますと、、人はこの最低最悪な状況でいかにこの人生をマシに生きていくかを考えるようになります。損を最小限に抑え、得を最大限に得るかに一点集中します。それが損得勘定です。大人であればあるほどに損得感情ができるようになってしまうのは皮肉にもこれが自分であるという誤解が完成しているからです。これは神の夢です、神が見る夢です、神が人間になり切って見る夢です。本当は神ですから人間役をこなすことは地獄です。地獄ですから損得勘定が強化されていくのです。

無我に入ることを積極的にできるようになると

無我、無心、無思考に積極的に入れるようになると夢を見ながらも神に戻ることができます。思考が介在していない時、神は神に戻っています。この状態を積極的に作っていきます。そうすると損得勘定でいかに得をするかが生きる目的だったのが神に戻ることが生きる目的になります。人生の目的が全く変わってしまうのです。自我ベースで生きているとき生きる目的は損得です。ですが無心、無我、無思考に入ることを覚えると生きる目的は神に戻ることになります。

無我で解決する

多くの方は頭脳で問題を解決しようとします。多くの方は思考で問題を解決しようとします。そうではなく無我、無心、無思考で問題を解決します。問題を解決している最中に神に戻ります。問題を解決している途中で歓喜、安堵、平和が訪れます。剣道で言えば試合中に思考を使えば負けます、思考を使わないように練習を重ねていきます。この感覚をいかに日常生活に取り入れていくかです。思考の出る幕を極限まで排していく、そこにだけは知恵を使います。損得勘定が消え失せていきます。

老人になると穏やかになるのは自我が弱まるから

老人は基本穏やか

老人になると丸くなる、あの人も歳を重ねて丸くなった、、、丸くなるという言葉は言い得て妙、自我が削れていくことをイメージで表現しています。老人になると思考のパワーが落ちてきます。思考に力がなくなっていくのです。するとこの心身こそが自分自身であるという自我が弱まり結果神に近くなります。これは神が見る夢です、神が人間扮する自分になり切ってこの夢物語を活動します。人間に成り切る錯覚力こそが自我力です。この錯覚する力が落ちていくことでまさかの神に戻っていくのです。自我が弱まった老人とは生きる神です。あの穏やかさ、落ち着き、安堵感は神の境地です。

若くてもそれを手に入れるには

若いということはパワーがあります。思考にもパワーがあります。そうなれば必然的に自我が強くなっていきます。この心身こそは自分自身である、、自分というのを異常に意識します。神が完璧に人間になり切っている状態です。分離全開状態です、この状態は不足感全開、欠乏感全開、喉の乾き全開です。この乾きをいかに癒すか、それは何かに無心になってしまうことです、何かに完全燃焼することです、何かに無我夢中になることで神に戻ります。パワーを陽転させていきます。もしくは全作業をルーティン化して思考の出る幕を無くしていきます。イチローのようにルーティンの鬼になって思考の出る幕を削ぎ落としていきます。

穏やかさとは無心さ

無心というものにいかに入るか、ここが重要になります。無思考にいかに入るか、完全燃焼にいかに入るかです。無心という状態に対し意識的である時、神に意識的に戻ることと同じ意味になります。毎日をいかに無心に持っていくか、ここに注力します。そして無心の状態を感覚的にはっきりと認識することは神の感覚を取り戻していくことになります。無心、無我、無思考への積極的行動とは神への積極的帰還です。神を日常にいかに取り入れるかがわかるともう対象への渇望はなくなります。

言語を超えたとこにあるもの

人は言語で全てを理解しようとし夢に没入する

何かが起きた時、人はそれを言語で理解しようとします、言語で納得しようとします。あれが起きたのはこういう理由からだ、こういう根拠でこれが起きたのだと。こうして表層上物事を理解していきます。その理解がその人の信念、観念になって固定化していきます。するとこの夢はそのように実際に見えてきます。人は勝手に何かしらの解釈をし、その通りに見えるようになることで益々この視界に広がる世界に確信を得ていくのです。つまり夢であることを忘れていきます。

解釈するのは自由だが苦しくなる

これは神の夢です、神が見る夢です。この夢に対し、あらゆる解釈を重ねていくことで夢は現実味を帯びていきます。ですがこれはどこまで行っても夢ですから人は解釈を繰り返すに従って夢に没入していくだけになります。夢はそれを現実と勘違いすればするほどに深刻さが増していき苦しくなっていくのです。人はこの生命現象を言語化して安心しようとしますがこの行為が皮肉にも人生を苦しくしていくのです。分離した個人がより一層確実なものであるという誤解が強まっていきます。

分離した個人が居るわけがない

あらゆる解釈をしてこの夢を固定観念化するのは自由ですが、分離した個人が居るというこの感覚はどう考えても誤解です。一つなるものがこの夢を作りだし人間というこの個体があるという錯覚を元にこの夢は構築されています。ですがもしもこの人間なるものが実在しているとすると理論上破綻することだらけになります。なぜ子供よりも知識を多く持つ大人が深刻になっていくのか?その知識こそが誤解を深めているからです。その知識こそが真実を曇らせ誤解の旅にリアリティーを加えているからです。キリストが説く原罪とは「的を外している」という意味から来ています。人間は誤解の上に誤解を塗り重ね結果苦しみ続けます。

苦しみを経験しているのは紛れもない神だ

小さな小さな自分が失敗したとしても苦しんでいるのは神

人間とは失敗する動物です、ミスもすればうっかりもする、判断ミスをすれば人を傷つけたりもする、、これは人間が無知無能だからです。神が全知全能ならば人間は無知無能です。だから人間とは失敗をするための道具です。その失敗をして湧き上がる感情、自分なんてだめだ、自分なんて終わっている、自分なんてアホだ、、これらの辛い感情は人間ではなく神が認識しています。人間活動によって追う負の感情を味わっているのは神です。神はこの負の感情を味わいたくてワザワザ人間を夢の中で作り失敗体験を積ませます。

人間は無知無能だから失敗上等、敗戦上等、絶望上等

これは神が見る夢であり、その中で神は人間に扮することで夢物語が進みます。人間には脳があるのでこの脳が夢物語を記憶することでストーリー化していきます。記憶があるから過去が誕生したのであって本当は過去はこの夢の中には存在しません。過去とは記憶する今です。人間とは無知無能ですから失敗はするは、勘違いはするは、ドジもします。それができないならば神は人間体験をする意味が全くありません。辛い、苦しい、悲しい、孤独、悔しい、、これらの感情を味わうためにこの夢を作ったのに、味わえないならばこの夢は無駄なのです。

砂遊びをしている大人は危ない

子供の頃に砂遊びに目覚めて今でもそれが趣味です、こんな30歳がいたら危ないと思われるでしょう。子供の遊びは子供だからこそ面白いもの、それを経験したら次の遊びにシフトします。それは砂遊びではもう失敗できないからです。失敗をしたくて人間体験をしている神は失敗ができない遊びには興味がないのです。ということで今失敗体験を積めているならば万々歳、神の願いが叶っています。積極的に失敗を積みたいならばもう人間ではなく神です。人間であることを忘れた神です。

夢の中にどっぷりと浸かると視界全てから活気が無くなる

思考の世界にはまり込むと視界から活気がなくなっていく

これは夢です、神が見る夢です。神が人間に成り切ることでこの世界は広がります。人間の視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚という五感を利用してこのバーチャルリアリティーゲーム、夢が広がります。人間としての人間活動において人間は形上経験を積み、それによって価値観が形成されていきます。この価値観が「これは夢だ」という真実から離れて行けば行くほどに活気がなくなっていきます。つまり地獄界に入っていきます。そこに出てくる登場人物は信用できない人ばかり、罵詈雑言、陰口、妬み嫉妬の世界です。夢であるという事実から離れれば離れるほどに生きていくのが苦しくなります。思考の世界、分離意識が進めば進むほどに頼れるのは自分だけという無限地獄に入ります。

本当は活気しかない

これは色の世界です、空即是色、空が色として出現する世界、生命が光の世界に変化します。これは生命です。夢は生命の多様性です。ライフの表現。神の表現、アートです。神のアートが濁って見えるのは勘違いが進んでいるからです。ある人を友人に紹介する時に「実はこの人は犯罪歴があって、、」と嘘をついて紹介すれば友人は歪んだ見方でその人を見るでしょう、そうすると本当に犯罪者のように見えてきます。つまり歪んだ見方で、価値観で真実を見ればこの神のアートはそう見えるのです。本当は活気しかないこの神のアートが濁って見えてきます。

生まれたばかりの子供たちは世界が光って見える

生まれてから3歳ぐらいまでの期間はこの世界は光って見えたはずです。なぜならばこれは神が見る夢であり、神のアートであり、生命の表現です。ところがあらゆる経験、知識を取り入れることによってこの夢を現実と誤解するようになり、誤解が進めば進むほどに歪んで見えてくる。真実とは遠く離れていくわけです。真実はこれは夢、以上です。大人は子供と違って見える世界が濁っています、この濁った世界で不足感が沸き続けそれをなんとか処理していく。このメカニズムを暴く時が今です。

都会とは何か?

人間の欲望を叶えてくれる場所

いつの時代も若者が目指すのは都会です、都会とは人間の欲望を叶えてくれる可能性を感じさせてくれる場所です。多種多様な仕事、多種多様な人々、多種多様な生き方、多種多様な遊びを可能にしてくれる場所です。一方でこれは夢です、神が見る夢です。神が人間扮する主人公を演じる夢です。それゆえ人間は欲求不満を抱え自身の欲求を満たしてくれるだろう場所を目指します、それが都会です。都会は確かに若者の欲求を満たしてくれる要素はあります、あらゆる可能性を提案してくれます。ですがここでいかに欲求、不平不満を満たしても満足することはありません。目の前の欲求を満たしても直ぐに次の欲求が襲ってきます。それは神が人間に扮しているからです、人間の狭さ、弱さ、小ささに神は辟易しています。これが人間の欲望のメカニズムです。

都会であらゆる欲望を叶えたら

一方、都会はあらゆる欲望を積極的に叶えれる場所でもあります。地位名誉、仕事に異性、あらゆる欲望を叶えることができる場所であることに間違いはありません。ということは逆に言えばあらゆる欲望を叶えても人間は至福に至れないことを体験できる場所でもあります。あらゆる可能性を達成できるということはその時の人間がどのような感情に至れるかを体験できるのです。これは釈迦が王様から山に籠ったことに近い状況です。釈迦とは一国の王であることに辟易しそこから悟りに入りました。都会は釈迦の境地に至るのに近い状況を作れます。

欲望を叶えた後に分かること

神が人間に扮している限り欲望に限りはありません。神は神に戻る以外に欲求不満が癒ることはありません。神が人間に扮していればあらゆる不足感、欠乏感、孤独感、欲求不満が襲っていきます。都会とはこの欲求不満に正々堂々と向き合える人が集まる場所とも言えるでしょう。勿論それも夢ですが。欲望を否定して無いものにするよりも欲望を欲望と捉え満たしていくことで無限地獄の仕組みに気づきそこから夢から覚めるのも一つです。釈迦はそれを行いました。

神頼みが無駄に終わる理由

誰が神頼みするのか?

いざとなった時の神頼み、ピンチの時の神頼み、、では神頼みするのは誰か?それは人間扮する神です。人間になり切っている神が神に頼みごとをします。これは滑稽な行為です。なぜ神が神にお願いすることがあるのでしょうか?神が人間になり切っているからこそ欲求不満、不平不満があるのであってそこを解決しなければこの問題は解決しません。神が自身を人間であると信じているからこそ不平不満が湧くのであってこに不平不満を神に頼んで叶うのならば意味不明です。そしてもしもこれが叶ったところで不平不満は延々に続きます、神が人間であると勘違いしている限りは。

頼みも願いも見当違い

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神が人間になり切って夢物語を送っています。この夢物語は神の不平不満が爆発します、神が人間という狭苦しい存在であると勘違いしているのでそれは当然です。その人間活動中の神が不平不満の解決を神に頼ること、これが神頼みです。意味不明です。神がわざわざ人間になって不平不満体験をしているのにその解決を神に頼るというこのジョーク。神社でこの事実を公言したら命はないでしょう。

パワースポットとは何か?

この夢の中ではパワースポットと呼ばれる場所が登場します。その場所に行けば幸運が訪れる、開運する、ラッキーが味方する、、、まー色々あります。そしてこの夢の中ではそれも起こるでしょう。夢の中ではあらゆることが起きます。ですがここでも厳しいことを言うならばそれによっていかに目的が叶っても夢が叶っても不足感が無くなることはありません。欠乏感が無くなることはないのです。なぜならば神が人間に扮してこの夢を生きている限り無限大の不足感が湧いてくるからです。そのことを理解するためのパワースポットならば大歓迎です。

無我夢中とは神になること

無我夢中という言葉は面白い

これは夢です、神が見る夢です。神が主人公である人間に扮して夢物語、ストーリーを体験する夢です。この夢の中で無我夢中になるとどうなるか、夢の中でさらに夢に入るとはどういう意味か?神に戻ります。夢の中で夢中になるということは夢から外れるという意味です、つまり神になるということです。ゲームに無我夢中になっている少年はその瞬間神になっています。仕事に夢中になっているプロは神になっています。これは最高のジョークです。子供が大谷翔平を夢見るとは、、、神になりたいと言っていることです。

何でも無我夢中になってしまう

私の適職はなんだろう?私の天職は何だろう?簡単です、無我夢中になれる仕事です、、、無我夢中になれるならばその瞬間神になります。神が夢から覚めた瞬間、神です。神がこの夢から抜け出すとき神になります。思考で考えてどうのこうの言うよりも無我夢中になれる仕事を探すべきです、その瞬間神になります。歓喜、安堵、平和が襲ってきます。

無我夢中万歳

この人生で無我夢中になれることを見つけたら人生は勝ちでしょう。無我夢中の状態は神がこの夢物語から抜け出た状態です、つまり人間から神に戻った状態です。人間扮する神が人間を辞めて神に戻った状態こそ無我夢中の状態です。だからこそ難しいことは考えず無我夢中になれることを探すべきです、お給料が少し低い、将来性がない、世間体が悪い、、これらを理由に無我夢中になれることを避けるならば神になるチャンスを逃します。

どうせ夢ならば遊び倒す

夢だからこそ真剣に生きる

これは夢です、ワンネスの見る夢です、神が見る夢です。夢の中で人間扮する神が人間活動をする夢です。夢ならば本気になれない、夢ならばしらける、夢ならば適当に生きよう、、これも理解できます。ですがなぜこの夢を神、ワンネスが作ったかを考えればそれは間違いであることが理解できます。神は完璧、安全、安堵、平和、愛そのものでありだからこそそれ以外の経験を積みたかった、これが答えです。だとすれば適当に生きるよりも真剣に生きる方が様々な感情を得ることができます。この夢、ゲームを真剣に遊び倒すことでその目的は達成できます。

失敗、失望、落ち込み、は夢、ゲームの醍醐味

スーパーマリオを真剣にプレイしない人間はゲームで感動もありません。真剣にこれに打ち込むことで感動があります。真剣だからこそ失敗すれば悔しいし、落ち込むし、頑張れる、、そして上手くいったならば感動、幸福、歓喜も訪れます。ゲームは真剣だからこそ面白いのです。この夢、神が作った夢も同じ、真剣に遊び倒すのが正解です。夢ですからどうせ大したことがない、、だからこそ真剣に遊んでしまうということです。夢中になること、無心になること、無思考になることで遊びながら神になる、歓喜になる、平和になれたらさらに最高です。

夢だからこそ映画のように生きれる

人間がハリウッド映画に魅了されるのは信じられないほどにスペクタルな人生をそこに観れるからです。自分の人生では絶対にできないようなチャレンジをそこに観れるからです。ですがこれが夢であると分かってしまったらもう映画に負ける必要はありません。映画の主人公ばりに人生をチャレンジで満たすことは可能です。映画はなぜ深刻な気持ちで観なくて済むか?それは幻想、ドラマ、作り物だからですよね。そうしたらこれも夢です。これも幻想です。これも神が見る夢です。何を恐れる必要があるか?という話になります。