言語を超えたとこにあるもの

人は言語で全てを理解しようとし夢に没入する

何かが起きた時、人はそれを言語で理解しようとします、言語で納得しようとします。あれが起きたのはこういう理由からだ、こういう根拠でこれが起きたのだと。こうして表層上物事を理解していきます。その理解がその人の信念、観念になって固定化していきます。するとこの夢はそのように実際に見えてきます。人は勝手に何かしらの解釈をし、その通りに見えるようになることで益々この視界に広がる世界に確信を得ていくのです。つまり夢であることを忘れていきます。

解釈するのは自由だが苦しくなる

これは神の夢です、神が見る夢です。この夢に対し、あらゆる解釈を重ねていくことで夢は現実味を帯びていきます。ですがこれはどこまで行っても夢ですから人は解釈を繰り返すに従って夢に没入していくだけになります。夢はそれを現実と勘違いすればするほどに深刻さが増していき苦しくなっていくのです。人はこの生命現象を言語化して安心しようとしますがこの行為が皮肉にも人生を苦しくしていくのです。分離した個人がより一層確実なものであるという誤解が強まっていきます。

分離した個人が居るわけがない

あらゆる解釈をしてこの夢を固定観念化するのは自由ですが、分離した個人が居るというこの感覚はどう考えても誤解です。一つなるものがこの夢を作りだし人間というこの個体があるという錯覚を元にこの夢は構築されています。ですがもしもこの人間なるものが実在しているとすると理論上破綻することだらけになります。なぜ子供よりも知識を多く持つ大人が深刻になっていくのか?その知識こそが誤解を深めているからです。その知識こそが真実を曇らせ誤解の旅にリアリティーを加えているからです。キリストが説く原罪とは「的を外している」という意味から来ています。人間は誤解の上に誤解を塗り重ね結果苦しみ続けます。

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