悟り(非二元)解説

俺はもしかしたら特別かも

という生の動き

悟りがこれだけ造詣が深くなり、、もしかして俺は特別な存在かも????事業が大成功して将来は安泰、、俺ってもしかして特別かも、、、周囲の男性の多くから声を掛けられ求婚を、、私ってもしかして特別かも????この全てが生の現れです、、この行動、思考、感情の全ては生の現れです。特別かも????という思考すらも生の現れです。ここのどこにその特別な「自分」が居ますか????居ないんです。

笑ってしまう

生はあらゆるやり方でこの私を作るんです、、上手くいかない私、、上手くいった私、、、上手く行きすぎた私、、最上級な私、、、普通の私、、、全バージョンのドラマがこの私には用意され、、それをこなす私が現れます。。。ですがこのすべての動きが生です、生の現れです。ですから自分を私を意識した時はまさに今生の現れが起こっています。それを感じてください。

〇〇さんって素敵ですね!!!

「嬉しい」、、この動きが今勝手に生から起こったのです、、これも生の動きです。〇〇さんって面倒な性格ですね????「マジで!!!」この動きも生の表現です、、生の現象です。。。勘違いしないでください、、、、驚きのリアクション、、とんでもなく人間臭いリアクションの全てが生の現れです。だからこれって私居るよね????という思考が起こります、、ですがこの思考も生の現れです。

生の現れ以外

超エゴイスティック、超我が強い、超人間臭い、、、この全てが生の現れです。。。そうです、、生の現れ以外の活動は皆無です、、、全部が全部生の現れです。。。我々の行動の全ては生の現れです。。。つまり我々は生の現れの中で生まれ生の現れの中で活動し、生の現れの中で死ぬのです。

これを悟りという

気づきましたか??????この全部が全部生の現れであると気づくことが悟りです、解放です、解脱です、目覚めです。どのような思考、感情、行動も生の現れであると気づくと、、もしも私がニョキッと出てきても、、どこかでこれが生の現れであることに気づきます。。。これが悟りです。あの巨烈な自我も生の現れです、、昨日の友人の酒の席での暴言も生の現れです。ここに気づくかです。

いつか悟る

ギャグ

今ここに私が居て、、いつか悟りを開きたいと思っています。ですがこの私は悟りを開くことはできません。なぜならば、、悟りとはこの私を作り上げ、いつか悟りを開きたいという思考を作り上げ、、この私の環境の全てを作り上げ、この私の過去も未来をも作り上げる全部だからです。悟りとはこの全部を構成する現象全てが私だと気づくことだからです。そしてこの全てを作り上げる現象の大元が「空」であり、、ここから現象が現れたその瞬間「意織」が生まれます。この全てが悟りです。

時間

空即是色、色即是空、、、に時間は起きようがありません。全現象は一瞬一瞬に現れては消えます。この動きのみが悟りです。よって時間は存在しえるわけがなく、、時間とは、、この移り変わりを表す思考です。つまり時間とは思考、アイデアなのです。よって時間は幻です。ですが時間というアイデアは100%存在します。時間は実在ではなくアイデアです。

いつか悟る

いつか悟ためには悟っていない自分が必要になり、、ですがこの自分がやはりアイデア、幻想、オーロラです。このオーロラは意識を向けなくては存在できないわけで、、この意織した瞬間現れ出るオーロラが悟りを開くというのは無理があります。さらに時間は思考、アイデアですから未来に悟るという発想自体がストーリーという幻の中にあります。幻の中で幻の私が悟るというギャグが実在しないのは間違いありません。

生の現れ

この世界は生の現れです、これだけです、この思考もこの感情もこの行動も全部生の現れです。つまりこの私の人生も完全に生の現れです。私は悲惨だ、私はラッキーだ、私は上手くいっている、私は絶好調だ、私は絶不調だ、、この全部が生の現れです。これらのストーリー自体が生の現れです。ストーリーは幻想として100%存在しますがそれが生の現れです。

何もかも

私はいつか悟るんだ、、この思考、このストーリーも生の現れです。私はいつの日か悟りを開き、、穏やかな日々を過ごすんだ、この思考、このストーリーも生の現れです。つまり生の現れ以外はないんです、、私は悟りから除外されている、、その思考こそが生の現れです。生から除外される何かは存在しません。全ては生の現れであり、、全思考、全感情、全行動が生の現れです。

苦悩

なぜ私は悟れないんだ??なぜ私に解放が起こらないんだ???この思考が生の現れです。私は健康に問題がってもってもあと五年だろう、、この思考が生の現れです。全てが生の中で現れる現象です、、生から現れない思考も感情も行動もなく全てが受容されます。よって生から弾かれる思考感情行動は存在しないのです。人間だけがこの思考感情行動に判断を加えます。ですがその判断も生の現れです。

無念

無念とは???

残念、無念、、、志半ばにして、、倒れる。。。本当はあれをやりたかった、、これをやりたかった、、、、これは全てこの私というストーリー上の話です。時間があって空間があってその中にこの体に入る「私」が居るという概念思考が、、、無念、残念を作るのです。この全ストーリーを作り上げている存在こそが本当の私です。無念、残念な状態の「私」を作りだす存在が本当の私なんです。

本当の私

本当の私に気づきますと、ストーリー上の私の無念が全く気にならなくなります。本当の私に気づきますと、ストーリー上の私の残念に全く気にならなくなります。なぜか????そうなっちゃうからです。マリオの好調不調で、、、気分が変わるのはプレイヤーがマリオになりきっている時だけです。マリオが穴に落ちようがクッパの前に倒れようが、、、楽しいには変わりはありません。本当の自分に気づくとはそのようなものです。

もしもガッカリが起きたら

もしもガッカリが起こった時は、、、まだこのストーリー上の私をやっています。そのストーリーを描く本当の私に気づいていないのです。この体の私を主人公にしたストーリーを今起こす本当の私の存在に気づいた時、、もうこのストーリー上の私の成否によって残念無念が起こりません。既に愛の中にある、既に平和の中にある、既に安堵の中にある、、を実感するからです。

痛い

そこから悟りへ

私は今とんでもなく腕が痛みます、、この状態で、、真の癒しとか真の安らぎとかありえるんですか?????あります、、ありえます、、、なぜかと言えば、、痛い=不幸ではないからです。例えばウィンブルドン決勝戦で腕を負傷してでも勝利したプレイヤーは翌日ベッドの上で真の安らぎを得るはずです、痛いにも関わらず。これと同じこと、、痛み=不幸ではないのです。

では

痛いのは誰でしょうか????「私」ですね、、、この体が痛み、、その体の所有者が「私」ということです。痛みの所有者が居るというこの思考こそが不幸を生むのです。。癌になった「私」エイズになった「私」このストーリーが不幸を生み出します。事実は、、ただこの体に痛みが生じたのです。ただそれだけ。痛みがあるのは100%真実です、、ですがその痛みを所有するこの体、この私は思考です。この思考の部分が不幸を生みます。

痛みがある

痛みがただある、、、ここから思考を起こさない時、、、まさかの安らぎがあります、、、痛みは痛みでしかなく、、痛み以上の何かを運んではきません。雨が降る、風が吹く、痛みがある、、そこに不幸はないのです。この痛みを私が所有し、、この痛みを所有しながら生きていくというストーリーが生まれると苦しみが生じます。

動物

野生動物は怪我をすると不幸、怪我をしなければ不幸じゃない、、などは起きません。怪我の有無と幸不幸は関係ないのです。これは人間も全く同じです、、痛みの有無は幸不幸とは全く関係ないのです。痛みがあるから不幸で当然、、という概念はまさにそこに潜む執着を露わにします。私が何と同一化しているかを露わにします。

引き寄せの法則

誰が引き寄せる???

私とは自我ですがこの自我が幻、オーロラ、蜃気楼、、です。これらが何かを引き寄せれるような実在ではありません。もしも引き寄せれたとしてもその中心には幻、幻影、オーロラがあるだけです。だからその現象が生じたとて自我『私』が幸福になるって不可能なんです。。幸福になれる私はオーロラのように実在しないからです。仮に私という幻影、オーロラの周囲に金品財宝が集まったとてそう見えるだけでそれを実感できる私が存在しないのです。

私というオーロラ

私というオーロラの周囲に金品財宝が集まったぞ!!!!その認識、実感はこの私から生じるのではなく、、このスペース、海、全体から起こります。私というオーロラの周囲には沢山の金品財宝がある、、、この認識がただ起こります。その瞬間、「私」が何かを達成しなければならないというストーリーが終わり、、真の穏やかさ、真の平和が一時訪れるのです。一瞬のストーリー終焉です。ですが次の日にはまた「私」が現れ、、その瞬間「違和感」が起こることで、、、これをどうやって解消しようか???が起こります。次なるストーリーの始まりです。

無理

この体というオーロラが実在し、、このオーロラの中には思考、感情、行動を司どる「私」というオーロラが実在する、、この勘違いは、、、永続の至福を作ることは不可能です。なぜならば私というオーロラはにはそもそも自由意志も自由行動も司る力がないからです。だから矛盾を秘めすぎているのです。私というオーリラが幸福になるというイメージはいつでも起こすことができます、、ですがそれはイメージであり真実ではないのです。

不幸にもなれない

私というオーロラが不幸になるというイメージは作ることはできます。ですが実際にイメージが不幸になることはできません。つまりオーロラは幸福にも不幸にもなれないのです。。。このことに気づきますと、私というオーロラに対する関心が減ります。そこではなく真実、何が今起きているかに興味がでます。全体、ホールに対する理解が進みます。するとホールはヒールであり、、真の癒しになるのです。

自我が何かをするというさらなる勘違い

自我には何もできない

自我は幻です、幻影です、蜃気楼、オーロラです、、ですから自我が何か他に影響を直接与えることは不可能です。ですが自我というオーロラの存在によって、、新しい思考が生み出され、、、その思考がイメージ化される、、ストーリー化されるのは事実です。自我というオーロラは何か影響を与えることは不可能ですが、、そのオーロラとしての存在の認識は次なる思考、行動に影響を与えます。

自我=オーロラ

他人はこの自我というオーロラをこの体というオーロラの中にありありと感じるわけです。。だからあの人の自我ってこんなんだよね!!!!という会話が成立するのです。ですがこれはオーロラですから、、そこを突き詰めてみても実在はしないのです。オーロラという見栄えはありますが、、そこには実在がないということです。そしてそのオーロラには境目があって他のオーロラとは異なるかと言えばそう見えるだけであって真実では境目はありません。

だから

だから覚者は、、全ては一つであることを実感します。全てはオーロラのようにあるけどないのです。。あるようにどこまでも見えますが、、実在はないのです。そしてオーロラをオーロラたらしめる光の存在、、こそが我々の本質です。そしてこのオーロラの存在を認識する存在こそが我々の本質です。

動き

この世界の分かりやすい比喩として海に起こる渦があります。。人間とはこの渦です、、確実にあるように見えます、、、ですが起こっているのは水の動きです。。。これが人間、そしてその中にできる自我です。どう考えてもあるように見えます、、ですが近寄って救い上げようとすると「ない」のです。

このいつも登場する渦

このいつもいつも目の前に登場する渦(体)を私と呼ぶことにしました。そしてこの渦の中には「私」という自由意志を行使する存在が居る、そのような渦がある、、と信じる思考が起こったのです。だからこの体という渦が現れると、、同時に、、この私も登場します。これが催眠です。この体という渦の認識と同時に「私」という渦が現れるのです、しかもこの渦は想像上です。

この二つの渦

この二つの渦の動きを俯瞰してみれば、、この体という渦、、相手の渦、そして相手から生まれる自我という渦、、と二つの渦が同時進行で様々な形で登場します。これが人間社会です。。。渦の上に渦が乗った状態がたくさん存在するのです。。ただこれだけです。そしてこの渦同士が様々な活動を続けます、、渦の二重構造同士が近づき離れを繰り返しています。

この様子

この様子を俯瞰して俯瞰して眺めるようになると、、全渦の活動が面白い、、担しい、、愛おしい、となります。渦を自分だと信じる渦が起こり、、様々な活動をしている様子は面白いのです。。この視点に立った時、、全てが問題ではなくなります。そこに深刻さはないのです、、なぜならば、、その深刻さは、、渦の上にできた渦によって作らされてきただけだからです。

悪趣味

困ることは分かっている

モンスターペアレント、モンスタークレイマー、、、これらの人々の目的は何か??????相手を困らせることです。何かにつけて因縁をつけ、、相手を困らせます。困らせることが目的ですから厄介です。どこに攻め込めば一番相手がダメージを受けるかを完全に予想しそこに一発爆弾を仕掛けてきます。

なぜやるのか????

本人が困っているからです、、本人が苦しんでいるからです。。本人が得体の知れない理由で困って苦しんでいるのです。責任感が強い人は、、自身から湧いてくる感情、思考を全くコントロールできないことに日々苦しみ、、相手にも同じ苦しみを味わせて安心したいのです。個人が全思考全感情全行動をコントロールすべきだ!!!という観念、信念、概念を持つことで、、日々苦しんでいるのです。

真実を知る

世の中でこの体という幻想から湧き出す思考、感情、行動をコントロールできる「私」という幻影を所有する人は居ません。私という幻影は100%あります、、ですがそれは幻影ですから、、あるように感じるだけ。。。何かをコントロールする力は全くないのです。だから手放します、責任を手放すのです。。自分という幻影、相手という幻影を責めるのではなく、、手放します。

怒りも苛立ちも

面白い

怒りの感情が溢れる、憤りが溢れる、、、これを自分の感情という思考が起こる、、すると苦しくなります。なぜ?????この感情は全くコントロールが効かないからです。だから苦しいのです。この感情がこの「私」から湧いてかつコントロールが効かない、、この無力感こそが苦しみです。怒り、憤りという感情=苦しいならば、、少年漫画、少女漫画を読む人はいません。なぜならばそこに出てくる主人公はしょっちゅう怒り狂いかつそれの成り切ることを楽しんでいます。そうです、、それを私が所有しコントロールが効かないことに困っていたのです。

コントロールはない

全くの勘違いです、、コントロールできる自分が居ないんです。誰一人コントロールなどできません、居ないので。「居ない」ということを完璧に把握しますと怒りの感情によって困らないので、、すっかりこの感情を忘れるのです。憤りの感情が湧いてもそれをコントロールなどできないことを知っているから困らないのです。コントロールできない大人は恥ずかしい、、こう信じているから困るのです。

全感情に安らぐ

漫画の主人公が七転八倒、、怒り憤り孤独、、、、それをソファーで楽しむことができます。この体という幻影は、、この漫画を最大限の安らぎの中で楽しみます。そうです、、、喜怒哀楽は楽しめるのです。それを自分がコントロールすべきもの、、と教わったので苦しむのです。コントロールなどできません、、誰がコントロールするのか????自我という幻影にそれは不可能です。