悟り(非二元)解説

信じる動き

お金

お金を得たら幸福になれますよね???????なんでですか?????そう信じているからです。だからお金が欲しいんです。そう信じているから。なぜ家族が欲しいんですか?????だって家族が居れば幸せじゃないですか!!!!そう信じているからです。信じることが信じる通りにいっているから一応安心しているんです。

幸せって信じるもの?????

そうです、、我々はこうなっていれば幸せだろう、、、、、という考え方を信じているから、、、その通りになった時に「だから俺は幸せに違いない」とさらに信じます。え???????幸せって信じることなんですか?????違いますね、、全然違うんです、、、、このことに気づいた順から悟りへの興味が湧き始めます。

信じる、、じゃない

宝くじ3億円に当たった!!!!!その時の至福、、、信じていませんよね?????感じてますよね。。。金メダル取得!!!!!、、、その時の至福、、信じていません、、感じています。。。そうです、、、幸せって信じるんじゃなくて感じるモノです。

見抜く

そのことに気づきますと、、、もう「頭で考えた妄想」を追いかけるよりも「感じる」を追いかけ始めます。何を私は幸福と感じているか?????「あれか」「これか」です。頭で考えた幸福を「信じる」動きから、、、本当の幸福を「感じる」に動きがシフトします。

STOP

何をしたらいいですか?????STOP

いつもいつもいつもいつも次は何をしなきゃ、、次は次は、、、、眠りにつくその瞬間まで次は次は?????それをやっていないと落ち着かない。慌てていないと落ち着かない、、、のです。私は前に前に進んでいないと気が済まない。。だから「真実はこうなっているんです」の回答が「で?????何をしたらいいですか????」になります。

その動きが止まるまで

真実の気づきとは、、「で????何をしたらいいですか????」が止まることです。。その動き、前に前にが止まることが「気づく」ということです。だって「私」が幻想に過ぎないと心から気づいて「何」をするんですか?????それを捕まえて何かをしよう!!!!って思っている時点で、、それまだ幻想と見抜いていませんよ。

先に進むことの終わり

先に進まなくていいんです、もう先を追いかけて追いかけることで安心する必要がないんです。だって追いかけてきた自分って幻想としてしか存在していないのです。その幻想が何かを捕まえてもそれも幻想、、幻想が幻想を捕まえたという幻想を見るだけです。その映画、、なぜ見続けたいのですか??????その映画にはフィナーレが用意されていて「ハッピーエンド」が約束されていますか?????いませんよ、、そしてそのことを本当は分かっていますよね?????

全部最初から分かってた

こうなる

言葉が幻想をそのままに作り出す、、そのことは誰でもみんな分かっているんです。「お父さんは世界で一番強いんだ」この言葉を子供が発する時子供の中では「お父さんは世界で一番強いんです」ですが同時にそれを信じる動きが起こります「だって力持ちだから」「だって相撲で負けないから」「だって仮面ライダーより強いって言ってたらから」この思考の連鎖が起こるのはどこかで「違和感」を感じているからです。よく分かんない違和感を生じています。

100人100様の考え方

100人にインタビューすれば100人の考え方があります。真実は一つなのに100人の考え方がある?????そうです「考え方」は全部勘違いなんです、、だから100人100様が可能なのです。考え方=勘違いです。真実では「考え方」は自然現象の一つです。100人の考え方は100の自然現象が起こっています。真実では『「考え方」が自然現象として起こりそのままに認識される』その全てが「わたし」です。そして全てが「わたし」ならばわたしも存在しません、わたし以外が存在しないのですから。

全体が私なのだから

「私は世界一最強」と信じ切っても、、その認識が「全体」で起こり、、その「全体」が私ですから、、それが違うことに気づきます。真実が「嘘」に気づくのです。だからいつも「違和感」が起こっています、違和感だからです。ですから真実に目覚めた時「分かってた」という不思議な感覚が生まれるのです。最初からこれ「分かってた」が起こります。

思考を信じる動き

認識が起こったから

それが滅茶苦茶な理論であってもその通りに認識されます。「なんで宿題やらないの?????」「明日大地震が来る気するんだ」その言葉を発し瞬間そのように認識されます「明日大地震が来る」この思考が心で起こった時そのままに認識されます。そしてそれを信じる動きが起こる時「だから宿題は辞めよう」が起こります。「親には先生にはなんて言えばいいかなー?????」「聞かれたら正直に言えばいいや」「親はいけても先生は難しい、、、先生には忘れたって言おう」これがエンドレスに起こるのです。妄想???????その通り!!!!!

「私が居る」

なんであなたは存在するんですか????「だって居るから」ですよ。「私は体の中の住人」この言葉の認識が起こればそれはそのままに認識されます。そしてその言葉の後に「私は今年何しよう????」「あれをやろうか」「これをやろうか」「そう言えば貯金貯めなきゃ」とエンドレスに続くのです。。妄想????????その通りです。

時間ってあるよね、空間もあるよね

この思考が起こればそのままに認識だれます、、、だから時間も空間もある、、となります。言葉遊び、思考遊びです。最初からあるものは一切なく、、全ては言葉がその認識を起こすのです。ですがその認識の全ては「幻想」ですからそこに気づく必要があるのです。言葉はあらゆる認識を起こすがそれは全て「幻想」です。そして重要なこと「幻想」に良いも悪いもないのです。幻想は幻想で在ることに気づくだけです。そして幻想を幻想と見抜いていない時「違和感」が起こります。なぜならばどこかでそのことが分かっているからです。

独立開業

言い訳

いつかは会社を辞めて独立したい、、本当は大人になったら好きなことで食べたい。。。じゃあなんで今やらないのですか?????「先ずはお金を貯めないと、、先ずは妻を説得しないと、先ずは親を説得させないと、、先ずは大学まで通わせてもらったから就職しないと、、、、」エンドレスに大人の意見が羅列されます。大人の意見の大渋滞が起こっています。その全ての「大人の意見」を「言い訳」と見抜いた瞬間大渋滞が消えてなくなるのです。全ての言い訳を言い訳と見抜き無視した者だけが独立します。

大人の意見

私は存在します、、時間も存在します、、空間も存在します、、、自由意志も存在します、、、あなたも存在します、、、社会が存在します、、、、、この全ての「大人の意見」を「言い訳」と見抜いた時、、、悟らせないための「大渋滞」が消えてなくなります。そうです、、、その「大人の意見」は全て「概念思考」です。概念思考は概念思考ですから「その中身」はこの世界には存在しないのです。「概念思考」はこの世界に存在します、だから出現したのです。ですがその「中身」はこの世界には出現できないのです。

どこかで分かっている

「概念思考」はこの世界にガンガン現れてきます。ですがその概念思考が指し示す「内容」はこの世界には出現できません。だから「私」も「時間」も「空間」も「自由意志」も、、、この世界には出現できないのです。出現しないにも関わらず存在しているとしたらそれは「幽霊」です、、つまり幻想です。問題なのはそのことをどこかで分かっているということです、、それが幽霊であることをどこかで分かっているのです。その違和感こそがこの「苦しみ」です。私が抱える苦しみとはこの「違和感」です。

言い訳

見かけ上のこの私は中学時代にスパルタ塾に通っていました、いつもプラスティックのバッドを手に持って、、テストの点数が悪いとケツバット言っては叩かれます。私はその先生の怖さから真剣に真剣に勉強に取り組むことができたのです。その時気づいたこと今までは全部言い訳だったということです、、「授業が良くない、部屋が良くない、テキストが良くない、仲間がよくない」これらを真剣に真剣に信じていたのですが、、、嘘でした。。。。ケツバッドの前に一切の思考が消えたのです。

思考を信じる動き

小学生時代の六年間、、真剣に勉強に取り組んだことなど皆無で、、その理由は「五万と」ありました。そしてその思考を本気で信じていたのです。ところが「ケツバッド」が現れた瞬間その思考が逃げて消えたのです。そこから分かったこと「思考とはあてにならない」ということです。

「私が居る」という思考

私たちは今「私が居る」という思考を信じているんです。ここには空間があって時間があってという思考を信じているんです。みんながそう言っているからその概念を信じているんです。つまり思考とは信じてしまえば「真実っぽく」なります。ですが本当は本当はそれは「あてにならない思考」であることを知っています。ケツバッドが「全言い訳思考」を消し去ったように、、、「全思考はあてにならない」のです。

時間も空間も

最終章に入ります、、ですから「時間」という思考も「空間」という思考も、、「私」という思考も、、、それは真実ではなくて「思考」です。思考とは信じることができるのです。「時間、空間、私が存在する」という思考を信じることができてそして今信じています。そしてその内容がどこかで嘘と分かっています。その嘘と分かっている「違和感」が今の苦しみです。

分かっていた

小学生六年間、、、私は、、、、勉強で結果がでない理由が嘘であることをどこかで「分かって」いたんです。だから中学スパルタ塾で結果が出と時に気づいたんです。「どこかで分かっていた」このことが苦しかったんだなと。。。。中学三年間は「違和感」から解放されました。「信じ切った言い訳」とそれが嘘であると分かっていた違和感、、、これが消えたのです。

空間がなくて時間はあるはずがない

ここ

ここには「空間」と呼べる存在は存在しません。いやいや「私」は今「部屋」に居ますけど。。。。。それ思い込みです、私も空想、、部屋も空想です、あるのは「これ」だけです。「これ」とは空間のことではなく、、「視界」のみ、、、横を見れば「視界」が変わります。「視界」があるから「視界」が100%あるから、、、「私」「部屋」という後付けが可能なのです。その後付けを土台にした思考の行列が起こっています。それが今のあなたです。

「視界」しかないのならば

時間がないって気づけます??????「視界」はコロコロ変わり続け、、、そこには「存続」し続ける「何か」は存在しないのに気づけますか????いやいやこの体は常にありますよね?????違います、それ視界の中の一部ですよ?????一瞬一瞬「視界」は変化し続け、、全く違う「視界」だけがあり、、、そこに時間とは必要でしょうか?????

事実

事実では「視界」しか存在しません、、空間ではないのです、、視界、、、これだけです、、、移り変わる「視界」だけが存在します。視界だけの世界に時間は必要でしょうか????必要ないです。視界の中の「私」には時間は必要です、ここからあそこまで何時間かかる??????ですが実際にはそれは空想で真実では移り変わる「視界」ただこれだけがあります。

分離がない

この世界には分離が100%存在しません。音が聞こえる、視界が見える、味を感じる、、、ですが音、視界、味には境界線は100%ないのです。ここからが味でここからが音でここからが視界でここからが触、、、、という境目がありません。経験と呼べるものに「境目」は存在しないのです。そして経験する「私」も存在しません、、世界とは分離した「私」など居るわけがないのです。。それは概念として存在します。ただし「概念」と呼べる独立した存在も存在しませんからこれも本当はないのです。

あるけどない

言葉とはどこまでも「切り抜く」ツールですから言葉が指し示す「何か」はこの世界には本当は存在しません。分離が100%存在しないからです。ですからこの世界で起こっていることに「言葉」を当てはめて理解するのは不可能なのです。「ない」ものを言葉は「ある」ことにしますが、、それは全て幻想です。

本当の瞑想

全く違う

本当の瞑想とは、、いまここで「究極の完璧」そのもので「在る」ことです。「私」が「瞑想」をする、、、これは完全分離、ストーリーです。この世界には分離は100%存在しません、、ですから瞑想する自分も「瞑想する」という分離行為も存在しません、、あるとすれば幻想としてです。本当の瞑想とは「ここ」(場所ではない)として全現象そのものであることになります。そこに「私」という思考が現れては消え、「音」が現れては消え、雑念が現れては消えていきます。

部屋の中で

毎日「部屋」の中で「私」は「10分間」瞑想します。これは完全にストーリー、幻想、妄想です。分離が100%存在しないのです。空間は存在しません、空間は幻想として存在します。だから当然「部屋の中の私」も存在せずそれは幻想です。在るのは、、音の認識、、視界の認識、、思考の認識、、香りの認識、触れる認識、、味の認識のみです。。。そして「音」「視界」「思考」「香」「触」「味」という境界線は100%ありません。分離がないのです。。ですから認識にも分離はない。。。ただ「認識」だけが起こるのです。「起こる」という言葉は「何もないところから出現する」という意味ですが本当は「時間」がないので「起こる」という言葉も矛盾します。

認識

瞑想とは「私」という幻想から外れて認識そのもので「在る」ことです。つまり意織です。明晰に明晰に「意織」であれば、、「意織」の中で、、、音、光、思考、感情、、あらゆるモノが現れては消えていきます。そしてそこにはスペースも時間もないことに気づくのです。スペースと時間がない「ここ」でただ現れを意織として認識するのです。これが本当の瞑想です。「私」という幻想が「ここ」になるのではなく「私」が幻想と見抜かれた時「ここ」が残ります。そこは時間も空間もなく全分離がない「無」です。

進化の過程

思考

思考という発明品こそが人類を飛躍的に発展させました。それは間違いありません、思考なくしてこの高度な文明は不可能でありだから人類が思考を手放す?????ありえないことです。人類は今後も間違いなく思考を使い倒していくでしょう。ですがこの思考、言語による思考を今俯瞰する視点を手に入れる時が来たのです。言語が思考が何をしているか、、、ここを科学的に理解する時が来たのです。

思考反乱期

現代は思考が完全に人類を乗っ取り思考によって苦しみ続けてきた時代です。思考という科学を全く無自覚で使い倒すがゆえに思考によって傷だらけになっているのが我々です。刃物の危険を全く知らずに血だらけになっているのです。刃物は間違いなく有益な部分があります、、ですが使い方を知らないと体を傷つけます。まさにそれを人類が犯しています。

思考作用に自覚的になる

思考とはこの世界から「何か」を切り抜く道具です。「花」という言葉はこの世界から「花」を切り抜くのです。「私」とはこの世界から「私」を切り抜きます。ですが同時にこの世界には分離が100%存在しません。ですからこれは完全にファンタジーです。実在ではないのです、花も私も、、、そのことに人類は無自覚なのです。ファンタジーとして花も私も現れた、、、この真実の理解が、、、苦しみを消します。