非二元

神は人間に化け、モノに化け、自然物に化け、、、

覚者はこの事実に気づいた

悟った覚者が話す言葉には多くの共通点があります。その一つがこの世は幻想であるという言葉、、ですが同時に違う覚者はこうもいいます、これしかない、、、なんのこっちゃです。この世は幻想なのにこれしかない???意味不明です。幻想にも関わらずこれしかないならば何もない、、になります。事実はこうです、、我々人間がみている世界は神が何かに化けた世界なのです、自分に化け、友人に化け、机に化け、コーヒーに化け、お金に化け、、、、全て神の化身ということです。化身ですからそこには実態がなく全て幻想ということですね。ですがその化身であるいう事実を見破った時に、、、ここに神が居るということになります。これしかないです。

絶対絶命の時にこれを見破っている

バンジージャンプをやった人ならわかると思います、、、終わった後に恐ろしい安堵感、歓喜、平和が襲ってくることを、、あれは何か????意味不明ですね、、、なぜバンジー後に平和が襲ってくるのか???バンジー中に思考が完全に抜け落ち、五感全開になり、、、今に強烈にある状態に、、、、それこそが非二元、神、無我です。その残滓が残っているため平和、歓喜、安堵に浸れるのです。だから多くの方はあの感動を求めて何度もバンジージャンプをやりに行くのです。なぜ30メートルも落ちて平和に襲われるのか????意味不明ですよね、意味完璧なのです。

思考が抜けたら平和安堵ならば、、、思考を放置せよ

思考が抜けると、、、平和、安堵、歓喜に襲われるならば、、、思考を放置すればいい、、、思考こそが苦しみの世界、幻想の世界に意識を導く道具ですからそこに乗ってはいけません。何もバンジージャンプをやる必要はないのです。思考が湧いたらそのまま放置です。山に籠もって修行などしなくても日々思考の湧き出しに意識的になり放置すればいいのです。毎日をバンジー後のように生きることができます。そこが無心、無我、非二元の世界の入り口です。

思考を放置するのは現実逃避ではない

思考こそが現実逃避

多くの方はここを勘違いします。思考こそが現実逃避なのです、現実とは思考以外の世界のことであり思考の世界こそが幻想の世界、虚の世界です。実の世界は思考が介在しない世界なのです。ですから苦しくなったら先ずは運動、、みたいな発想は本質を突いています。苦しくなったら人間は思考の世界に入っていきますがその世界こそが現実逃避です。虚の世界の住人になり結果苦しみの世界のドツボにはまります。

でも苦しくなるとさらに思考が湧いてくるのはなぜ????

ですが実際には苦しい時ほどに思考が湧いてきます、これが事実です。そのため多くの方はそのまま思考に取り込まれていきます。ここで何とか思考に取り込まれない、思考を放置する、、、この習慣をつけましょう。思考とは苦しみの世界を自ら作り出しその世界に意識を取り込む道具なのです。この事実を多くの方は知りません。思考することを善とまで勘違いしています。悲劇、喜劇です。

現実とは思考が全く介在しない世界

現実とは非二元です。現実とは神です。現実とは大いなる一つです。この世界が現実です、この現実に対して思考で持ってモノ??に名前をつけてモノ化し対象化し、顕現化し、、全部の現象を化させた世界こそが偽りの世界、人間が現実と呼んでいる世界です。この世界は思考によって化けた世界のことです。我々は言語によって化けた世界に生きています。この化けた世界こそが苦しみの世界なのです。にも関わらず何か苦しいことがあると考えてさらに化けの世界に入り込んでいきます。

悟りすらない

今ここしかないから

悟りとは幻想の世界に入り込んでしまった個人もこの見える世界も全部幻想であったという全体の気づきです。そもそも幻想こそが全体の突然変異ですから悟りすらありません。いまここしかないのです。そこに幻想が起こっただけです、その起こった幻想が終わることを悟りと言います。幻想が主で全体が従ならば悟り後の世界があってもいですが我々は生まれる前から全体だけがあったので悟り前も悟り後もその中で起きただけです。

悟りがある、、、も思考の策略

この世界には悟りという境地があってそこにたどり着くととんでもない奇跡が起こる、ただしそれは何百年に一人しか成し遂げられないらしい。これが悟りに関する共通認識です。これによって自我は悠々自適に自身の存在を維持できます。誰も本気で悟りなど目指さないから。悟りなんていうものを目指すのは気が狂った人間だけになります。ですがまさかまさか思考が湧いていない時は非二元、悟りが既に目の前にあります。ですが目の前を景色を眺めた瞬間に過去に暗記したモノの名前が自動反応で湧いてきて悟りを切り刻みます。空、雲、風、花、小鳥、犬、木、、、これらの単語が悟りを切り刻むのです。概念、幻想の世界に引きずり込みます。

子供は切り刻まれていない

子供はなぜ大自然に触れて感動できるのか??それは大自然を大自然のまま見ることができるからです、人間は大自然を眺めた瞬間から木、林、森、太陽、風、声、川、落ち葉、キノコ、、、とこの宇宙生命をガツガツに切り刻んでいきます。これで生気を失った景色の出来上がりです。子供は切り刻まれていませんからそのまま生命現象が入ってきます。ピカソの絵がピカソの絵そのものの偉大さで入ってきます。

世界が全てピカソになる

悟とは簡単、世界が世界のままでピカソの絵のような偉大さに変わることです。小鳥の声がモーツアルトの楽曲のような神秘性を持ち、川の流れがダイアモンドの輝きを放ちます。大人になるとこのように全く感じることができないのは全てに名前をつけて偉大な生命現象を切り刻んだからです。つまり人間とは偉大な生命現象を目の前にして霞んだ景色を見ているということです。これを幻想と称します。ピカソの絵が目の前にあるにも関わらず落書きに見えているのです。

これは究極のギャグ

思考が湧いて幻想に入るだけ

思考が湧いていない時、ただ非二元が広がっています。今ここにです、これは遠い世界の話ではなく、、ただこの瞬間も目の前には非二元が広がっています。そこに「思考」が湧いてきます、そこに意識が向きます、幻想に入ります。「思考」は過去以来に意識を連れていきます、今この瞬間から離れます、そこが幻想です。自分が生まれます、幻想として。思考が消えてなくなりました、すると非二元に戻ります。そこには「自分」「私」はもういません。非二元だけがあります。

自宅から駅に向かう

自宅から駅に向かう毎日の道、、、何も考えず何も思考せずそこに向かう時、、、、そこには自分がいませんからただ景色が移り変わっていきます、自分と景色という境目もありませんから全体が動くのみです。そこに思考が湧いてきます、すると思考する自分も現れ幻想の世界に入ります。すると「自分」が駅まで歩いていくというストーリーがスタートします、幻想として。それまでは駅に向かう自分は存在せずただ全体が変わっていただけです。

名前をつけたら感動が消えた

何かが聞こえました、、、すぐさま思考が働き「雀」だと気づきます、、その一瞬前にはただ声が聞こえる、、が起こっています。その後に「雀」という認識が起こります。これは「雀」という名前を覚えたからです。海外旅行に行くと見るもの全ては輝いて見えます、なぜならば名前が付いていないから「自分」の中で。それは生命のまりのままの姿、名前がつけらえる前の生命そのものです。そこにガイドが来てこれは「〇〇」これは「〇〇」と名前を教えてくれます、これで生気が奪われます。概念の世界に引っ張られるのです。

ストーリーからの解放

多くの方は理由を気にする

多くの方はなぜこれをやるのか、どんなきっかけでこれを行うのか、どういう志望動機でこれをすることにしたのか???その背景を気にしますし、それがない行動に違和感を覚えます。何か大きなアクションをするならばその経緯を教えてくれ、、このような発想に陥ります。ですがこれは思考の世界の中に居る人の発想です。思考の世界に居ると動機やきっかけ原因を気にします。というよりも思考の積み重ねを重視します。ですがこれはどこまで行っても重い世界なのです。

軽い世界はきっかけがない

非二元の世界、無心、無思考の世界にはきっかけがありません。ただひたすらに衝動があるだけです。何かをしたくなった、それで終わり。そこに理由や原因は必要ないのです。二元に生きている人は何か理由があるはずだ、それを教えてくれと聞いてきますがそれこそが思考に取り込まれる罠です。そんなものは必要ないしそれをあえて考えることで重い世界に入り込んでいきます。

アクションに対し理由がある方が分別があるとする罠

志望動機がしっかりとある方が素晴らしい、大人、、このような発想が蔓延しているのが二元の世界です。ですが非二元の世界ではこんなものはないのです。ただやりたいだけ、ただやってみたかっただけ、、常時その感覚です。それでいいのです。思考はそれを許しません、何か大きな目的があるはずだ、どんな辛い過去があってそれを目指すのか??なんなら無理くりでも作ってくれ、、こんな感じです。せっかくの軽い行動がこれによって重くなります。

今を変えようとするのではなく、、、

今は変えなくていい、、

我々は常に今を変えようと必死です、なぜならば違和感、居心地の悪さ、不足感が常に沸き起こってくるから、、この今を変えたくて仕方がなくなります。ですがそんな戦いを一体何年間やればいいのか??今回もまたこの作戦は不発に終わるのはなんとなく分かっているはずです。もしも今を変えるゲームに飽き飽きしているならばそろそろ終わりにしてもいいかもしれません。そうではなくなぜ今を変えたくなっているのか??ここを探ることに情熱を燃やしてみるのはどうでしょうか。。

個人は常に今を変えたい

個人というのは常に今を変えたい存在なのです、個人というこの概念が今を変えたくなっているのです。私は今を変えたい者なのです。ここに気づくともうバカらしくて今を変えようという情熱が覚めてきます。もしも今を変えたいという思考が湧いてきたら、、、それを放置します、、、相手にしません、、、それでもひたすらにこの感情、思考は湧いてくるでしょう、、、それを無視します。するとなぜか今が苦しくなくなっていく、、ただ淡々と現実と向き合っているとこれらの思考が湧いてこなくなることに気づきます。

今を変えたい、、、が自分のスイッチ

実はこの「今を変えたい」この思考こそが自分を起動させるスイッチなのです。この思考にまんまと意識を集中させれば次から次へと連鎖反応のように変えたい理由、変えるべき行動、変えるためには、、が湧いてきます。そしてそれに真剣に向き合えば向き合うほどに苦しさも増していきます。泥沼化していきます。今を変えたい、、こそが無我、全体、非二元から「自分」を作りだし苦しみのループに入れる罠なのです。

非二元に親しむから全部が整う

思考が頑張って、、、からの脱却

思考があらゆる努力を重ねて、、、結果としてあらゆる成果を得る、、、、これが我々の一般的な思考です。思考をフル回転させると成果物が手に入るはずだ、、全部このパターンです。ですがこれは逆なのです。非二元に親しめば親しむほど、無我に親しめば親しむほど、無心無思考に親しめば親しむほどに、、平和、歓喜、安堵とともに宇宙がバランスをとり始めます。思考を頑張ってフル回転すればするほどに今が薄くなっていき、無我が薄くなっていき、非二元が薄くなっていきます。酸欠状態、苦しみ状態に入っていきます。

無我に入れば入るほどに全体になる

我々は勘違いしています、全体から離れれば離れるほどに苦しくなっているにも関わらずさらに思考を駆使して全体から離れるという行動を取っています。我々の本質は全体、非二元、真我であるにも関わらず思考に取り込まれて自我、自分、二元の世界に入りその中で全体を探しています。思考を駆使すればするほどに二元の世界に入り込むにも関わらずその中で非二元を探すのです。これは悲劇、喜劇です。

最終ゴールは決まっている

我々の最終ゴールは目の前にある非二元です。ここから自らの思考で分離して居心地が悪くなりさらにその居心地の悪さを思考を使って解決を図ります。これが思考作「自分」の苦しみストーリーです。これを維持するためにはガンガンに思考をさらに使ってもらわなくては困る、、、ということで思考は五感に入ろうとする「自分」を思考で引っ張り出し、取り込み自分の罠から脱出させません。食事をすれば思考が湧き出し、何かを達成すれば思考が湧き出し、音楽を聞けば思考が湧き出す、、、この思考にまんまと乗っかってしまう、意識、、全体、非二元です。

非二元が思考を追い出す

非二元に親しむと思考への親しみが終わる

頭で考えて非二元とはどうか?神とは何か?ワンネスとは何か??と思いを巡らせても、、、非二元も神もワンネスも大いなる一つも、無我の世界も全く馴染んていきません。国の名前を覚えるがその国に一度も行ったことがない人、ピカソの偉大さは映画で見ても彼の作品を観たことがない人、サーフィン映画にはハマるがサーフィンをしたことがない人、、、これと同じです。非二元の世界に興味があるならば先ずは日常からその世界に触れる方が早いのです。

ではどうしたら非二元に触れることができるか?

非二元がどこにあるか?非二元ってここからどのぐらいの場所にあるのか???非二元は今ここにしか存在しません。非二元は今ここ、目の前、そしてこの現象が浮き上がるその場所に存在します。つまり我々は非二元から離れたことなど一回もないのです。非二元から離れることができるとしたらどっぷり思考の世界に入り込むことだけです。そうです、我々は非二元を目の前にしながら思考の世界にどっぷりハマり妄想、幻想の世界の住人になっているのです。思考から抜ければいつでもそこは非二元です。

五感の世界に意識的に入る

人間の五感は今にしか感じることができません、今飲んでいるコーラの味を明日味わおう、、これは不可能です。そうです、五感とは「今この瞬間」に意識を連れ戻してくれるのです。ということでシンプルに五感を味わっていきます。今聞こえる音楽を聴く、今風を感じる、今食事を味わう、、そこから思考に逃げない、、そこに解釈を加えない、、そこから思考にどっぷり行かない、、これを継続していきます。思考がない世界を味わう、無思考の世界、無心の世界、、、そこが無我、非二元の世界です。目の前に非二元の世界はいつもあったのです。これをなんとかして隠し続けてきたのが思考です。

非二元が思考を追い出すまで

非二元に触れ続けていきますと思考の世界の重さが嫌になります。思考の世界に入ることがバカバカしくなります。なぜ目の前に平和、安堵、歓喜の世界があるにも関わらずわざわざ重い世界に入らなくてはならないのか??もう不思議でしかありません。そこまで非二元、無思考、無我に親しんでいきます。意識的に留まることができた時に今までの苦しみの人生のトリックに気づきます。

サーフィンをした後にこの世界が輝く

学生時代の不思議な体験

学生時代にサーフィンにハマった理由は、海から上がった後に世界が変わって見えるからです。これは大袈裟な話ではありません、本当に違う世界になっているのです。自分という性格が変わってしまったのかというぐらいに何かが変わっているのです。食事の味、ジュースの味、友人との会話、車から見る世界の輝き、ステレオから流れる音楽、、、全部が何か輝いているのです。学生時代はこの感覚がなぜ起こるのか理解できませんでした。

究極の五感体験

今はその理由が理解できます、サーフィンは海の中でのスポーツなので、、全五感が働きます、全五感を駆使しないとこのスポーツはできません、そのため五感の働きがフルスロットルになり、、、思考が入り込んでこないのです。ですから海から上がった後も五感がフル回転になり思考を抑えることができたのです。何もしていないのに幸福、この感覚は思考の湧き出しを抑えた結果だったのです。五感が研ぎ澄まされていると、、今に強制的に入れるので思考が湧いてこないということです。今とは非二元、至福の世界です。思考は幻想の世界です。

究極の五感体験を日常で作る

サーフィンで学んだこの究極の五感体験を日常生活で入れれば今日から非二元に入れます。ではどうするか??五感の感覚に集中するのです、コーヒーの味、香り、温度、、そこから思考に入りません。音楽の音色、リズム、パワー、そこから思考に入らない、、、全部が全部その調子、、、五感の感覚から思考に入らない、、、これを習慣化していきますと五感全開に。思考のトリック、思考トリップに入らなくて済みます。五感全開世界は、今全開世界、今全開世界は非二元全開世界、非二元全開世界は平和、歓喜、安堵全開世界です。

この世界に意味などない、意味をつけるのは常に思考

人生の意味

お相撲さんが横綱になる際にこれからの目標を書にしてマスコミに見せたりします。自分の横綱道を書にして覚悟を決めるわけです。ですが実際にはこの世界、本質の世界には意味など全くありません。そこには平和。歓喜、安堵がただある世界が広がっています。それが非二元、ワンネス、色即是空、大なる一つ、などと呼ばれます。それに気づいた人は仏陀、キリスト、覚者と呼ばれたりします。世界の本質には意味などなく、完璧だけがあります。

我々は完璧から生まれた突然変異

我々は宇宙の本質、完璧から生まれた突然変異です。ですがその突然変異ですら完璧の一表現です、ですからいかにこの人生が苦しいといってもあくまでも完璧という土俵の中で完璧を味わいにくい状況に入っただけです。ではどのように苦しい世界に入るのか?それが思考です、思考の世界に入り込むことで我々は一時的に苦しむことができます。酸欠状態に入れます。神が薄い、非二元が薄い、完璧が薄い世界に入り込むことができます。

思考はこの世界に独自の意味をつけその解釈でこの世を分断する

そもそもが完璧な世界ですからそこを不完全にするのは至難の技です、思考は価値観という観念を作り出しその観念でこの世界を分断していきます。我々が見る世界は思考の解釈抜きで見ることはできずそれゆえ思考がその思考によって独自の分断を可能にするのです。我々はこの視覚を通じた世界しか見ることができませんから独自の世界を生きることができるのです。こうして思考はこの完璧な世界を切り裂いてみてその中を生きる「自分」を作り出すのです。これが完璧な世界に苦しみの世界を作り出す思考のやり方です。

思考から抜ける

ではどうしたらこの苦しみの世界から抜けるか、、一つの方法は今にあることを強制してしまうことです。思考の世界は今にはありません。基本過去や未来です。今に強制的に居ることに慣れてしまえば思考の世界から抜け出ることができます。五感の感覚のみに集中します。雨の音を聞く、足が地面に触れる感覚を感じる、音楽が聞こえる感覚に入る、コーヒーを味わう、、視界に何かが入る、、、全ての感覚から思考へ入らないことです。思考が全五感から思考に入ろうとさせます、ですがそれをしない、、、これによって今という場所から出ない感覚を掴んでいきます。