錯覚

全存在は全存在ゆえにあらゆる世界を許可する

人間ゲームでは浮遊霊も念力も超能力もなんでもあり

全存在は全存在ゆえに人間ゲームにあらゆる可能性、多様性を持たせてくれます。輪廻転生、守護霊、憑依霊、念力、アカシックレコード、チャネリング、空中浮遊、、このゲームはゲームであることが簡単にバレてしまっては意味がないのであらゆる選択肢、可能性を作りゲームに熱中させるようにできているのです。例えばドラゴンクエストには裏面というのがあります、表面をクリアーしたらまさかの裏面の登場です。現実社会をクリアーしたらまさかのスピリチュアルな世界が登場するのも同じです。現実的欲求を満たし切った人間は、精神的欲求、次いで霊的欲求を満たすように設定されているのです。これは全て自我ゲームの不足感、欠乏感、孤独感を埋めるために設定されています。

思考を変えると新しい観念が生まれ新たなゲームが現れる

この人間ゲームを人間ゲームにし続けるための設定は思考を変えること、観念を変えることが重要になります。脳の認識を新しい知識で変えていくことで観念を変え見える世界を変えていきます。ドラゴンクエストの表面、裏面の切り替えを人間の観念を使って変えていきます。その人が思考するような世界が広がるように設定されているのです。こうして人間ゲームは永続的に続くように工夫されているのです。人間の観念書き換えは人間ゲーム継続の鍵です。

現実的欲求、精神的欲求、霊的欲求あらゆる欲を満たしても満足しないこの欲求は人間であるというトリックを見破らない限りクリアできない

マズローの欲求五段階説ではないですが生理的欲求、所属の欲求、社会的欲求、承認の欲求、自己実現欲求、自己超越欲求と、、欲求は延々と続くのがこの人間ゲームです。なぜならば自身を人間であるとい勘違いをしている限り不足感、欠乏感は延々と湧き出てくるからです。このトリックを見破らない限り我々はラットレースのように延々と走り続けていくことになるのです。自分自身がこの心身ではないという悟りを開かない限りこの苦しみは延々と続きます。こんなに努力を重ねてきたのに実はこの心身が自分ではなくてそう錯覚してきた全存在こそが自分だったという夢から覚める体験をしない限り人間ゲームの苦しみが続くのです。

思考は自我モードに自身(全存在)を切り替える

思考を使えば自我モード全開に

思考自体は何も悪くありません。思考はこの体をサバイブさせるためのスーパーコンピューターです。だからこそこのスーパーコンピューターが優れているほどにこのスパコンを使い倒したくなります。ですがこのスパンコンは人間にしか使えません、つまりスパコンを使い倒す時に人間に戻るのです、人間であるという錯覚を強めます。人間モード、自我モードは苦しみ生み出しモードです。不足感湧き出しモード=人間モードですからスパコンを使い倒せえば使い倒すほどに不足感が湧き出してくるのです。スパコンで問題解決が終わった時には同時に不幸になるというおまけがつきます。

スパコンを使ったら即無心モード、無我モードにシフトする

無心モード、無我モードは幸福、至福、歓喜、安堵です。このモードにいる限り全存在が全存在に戻ります。人間錯覚モードが解除されます。幸福が幸福行為をするだけのゾーンに戻ります。スパコンはたまに使うのみにして基本は無心、無我、真我モードでいるのが得策です。無心。無我、真我モードには時間、空間という縛りがなくなります。思考、人間、自我モードでは時間と空間の制限を受けます。思考、人間、自我モードは全存在との分離ですから不足感、欠落感、孤独感湧き出しモードです。

優秀なスパコン使用者が自殺に至る理由

優秀なスパコンを持っている人はこのスパコンを使い倒したくなります。なぜならば大変大きな結果を連発できるからです。ところがこのスパコンを使っている時、自我モード、人間モード全開になるので不足感、欠落感、孤独感も全開になります。大きな結果を出すとともに不足感が全開になるというおまけが付いてきます。優秀なコンピュータを持つ人は、結果が出た後に自身の欠落感に絶望して自殺を図りたくなるのです。優秀なミュージシャン、優秀なエンジニア、優秀な実業家がたまに自殺しますがこのパターンは大いにあります。

ただひたすらに湧いてくる欠乏感を自分のモノとして生きていく登場人物

ストレスが溜まっている日の夢は悪夢になる

凄いハッピーな1日を過ごした日に悪夢を見ることはあまりないです。ストレスフルな1日を過ごした日は悪夢を見るパターンが多い。ストレスフルだった日はなぜか夢の登場人物に災難が降りかかり悪夢にうなされます。つまり夢を見ている張本人のストレスによって夢の展開は変わっていくわけです。夢の登場人物はストレスを自分のモノとしてこのストレス解消のためにあらゆる行動を起こし夢が展開されていくということになります。

この現実社会も全く同じ、この夢を認識するモノのストレスを登場人物である私は自分のモノとしてただひたすらに行動していく

この夢を認識し、かつこの夢そのものである気づきの意識、大いなる一つは「私」がいるという錯覚をお超すことでこの夢を展開していきます。この心身こそ私であるという錯覚を持ち続けた主人公である私はなんともいえない欠乏感、孤独感、欠落感を解消するべくこの夢の中で活動し続けています。この夢の凄いところは個人がいるという勘違いが強くなればなるほどにストレスが増大するようになっていることです。ストレスを自分のモノとして解決しようする責任感が強い主人公であればあるほどによりストレスは増大していきます。

夢をただ認識する気づきの意識は主人公の行動に奔走されることは全くない

あなたが昨晩見た夢の中で、、主人公が全く意に介さないような行動をとったとしてもそれを後悔することはありません。夢の中での主人公の行動が失敗続きだったとしても所詮夢の中の行動でありそれ以上でもそれ以下でもない、、ただそれだけです。この現実社会も気づきの意識がみる夢ですから気づきの意識が主人公である私の行動に右往左往することはありません。私を主人公に置いてただ夢が展開されていきます。気づきの意識が展開する夢ですから主人公の私が取る行動の結果は全て気づきの意識が勝手に決めるということです。因果応報はあるようには見えますが無いといえば全くないです。所詮夢ですから。

海であることを忘れた波は損得でしか動けない

思考とは損得を判断するもの

夢の中の登場人物は思考をフルに使って存在しますがこの思考とは損得機械です。自身にとって何かしらの得があると思考が判断すれば動き、損があると思えば動きません。究極の損得マシーンなのです。そんなはずはない、親が子にかける愛情はどうなんだ?となりますが見ず知らずの子供の世話をする親がほぼいないように自分が腹を痛めた子供だからこその限定的な愛になります。これは本当の愛ではありません。子供を自分と同一視して愛情をかけているだけです。故にこの夢劇場ではどこまでいっても損得での人間関係が広がります。

夢劇場の登場人物に損得以外の期待をしないこと

この現実社会は夢劇場でありよって人間関係はどこまでいっても損得で行われます。どんなに深い関係の夫婦も、友人同士も突き詰めると損得がそこにはあります。自身は人間であるという錯覚をしたこの夢劇場の登場人物である限りこの縛りから逃れられないのです。自身は全存在ではなく別個の人間であると誤解したこの夢の登場人物は本来が全存在であるからしてどこまでいっても不足感の塊なのです。ですからこの不足感解消のために生き続けることになりどこまでいってもこの不足感解消に繋がらない行動は取れないのです。人間の行動のベースは完璧なまでに不足感の解消になります。

不足感をお互いに解消しあえるから関係を結ぶ

どんなに神聖な関係に見える人間関係でも人間=不足感であり、この不足感解消が人間の義務です。この人なら自分の不足感を何かしらで補ってくれる、これが人間関係を結ぶ動機でありこれ無しで成り立つ人間関係は皆無です。だからこそお互いの期待を満たして上げることができなくなるとその関係は破滅に向かうのです。なぜならば不足感を解消できない場合、苦しみと向き合うしかもう方法がないからです。夢物語での人間関係とは究極の損得関係でありここから抜け出すには夢から覚めるしかありません。

自我と自我のお喋りが無駄に思えたら

登場人物同士の会話に勿論意味はない

夢物語の中での醍醐味の一つが他の登場人物との交流があります。他愛もないお喋り、これは分離する前の全存在には不可能なことゆえに他人がいるという錯覚はこの夢物語を刺激的にしてくれる大きなファクターです。他愛もないお喋りすら分離経験上エンタメです。ですがこのエンタメもひとしき行えば途中で飽きてきてもおかしくありません。その時はもうこの遊びは卒業、次の遊びへのシフトが始まるはずです。

他人とのコミュニケーションはそれほど重要でもない

友人は多ければ多いほど素晴らしい、友達100人できるかな、、あれは幼稚園児の話であってその遊びがそのまま大人にまでなっても楽しいとは限りません。これは夢物語ですから友人をたくさん作ろうという思いが湧けばそれもそれ、友人をたくさん作りたいという思いが湧かなければそれもそれです。夢物語の中でどうやって自身から湧いてくる欲望を叶えていくかは登場人物によって全く変わってしまうのです。

コミュニケーションは自分がいることを腹落ちさせてくれる

この夢物語においてコミュニケーションは登場人物の存在を確固なモノにしてくれます。夢ですから本当は確立した登場人物は存在しません、だからこそ他人とのコミュニケーションはその不確実性を払拭してくれるように思えるのです。深いコミュニケーションと同時に湧き上がる安堵の感情は自我を安堵させるとともに、実は相手に向き合うということに無心になれたときに訪れる無我からくる安堵です。コミュニケーションも無心になって相手と向かい合えばそれはコミュニケーション道に入ることができます。そこでは虚しいおしゃべりではなく人間関係道があります。そこからでも無心、無我、真我に入れます。

スポーツ観戦の本当の意味

スポーツに集中するプロフェッショナルは思考が抜け落ち無我になっている

ビールを飲んでスポーツ観戦、これは何十年も前から続く男性の娯楽NO1です。どの国でも何かしらのプロスポーツがあり国民が熱狂します。なぜほとんどの国でこのような現象が起きるのでしょうか。これは決して偶然ではありません。スポーツは基本勝負の世界ですからそこにが戦いがあります、自我は観戦中のスポーツ選手に自身を同一化して勝負を楽しみます。まるで自分が勝負をしているかのような錯覚を味わうことができます。見ている時の自分とは選手のことなのです。そしてその選手がプレイに集中することで無心になっていきますが同時に見ているあなた自身も無心になっていきます。つまり観ている間無心状態、無我状態、真我になっているのです。ここで重要なのは観ている選手自他が無心状態だということです、無心状態の選手に同調して自身の思考も抜け落としていきます。ゲームが続く間大人は全ての思考が解除され無我無心、歓喜、安堵が続きます。観ている人間も観られている人間選手もそこにはいません。無我が無我を見ている、真我が真我を見ている、神が神を見ているのです。

浅田真央はスケート中無我になっている

浅田真央はスケートをしている時、無心になっています。無我になっています。自身は浅田真央だという思考も抜け落ち自我が抜け落ちています。この状態は歓喜、安心、平和そのものです。TVを見ている人々はこの浅田真央を観ることでそこに神を見ているのです。そしてその演技に注目することから自身も無心になり無我になり、真我になります。日本中の国民が浅田真央を応援したのには意味があるのです。

無心になれることに最も価値がある

多くの観戦者はこう考えます、プロスポーツ選手は格好良くて羨ましいが選手生命は短いしそのあとが大変だと。。このように思考は感動を台無しにします。歓喜に泥を塗ります。観戦後すぐに現実という夢に引き戻すのです。本当はそうではなく無心になって人が所作、プレイに入り込む時、その瞬間が歓喜、感動、安堵なのだということを学ぶことです。人間はあらゆる条件が揃わないと歓喜、感動、安堵は手に入らないと思考します。ですが人間が手に入れる歓喜、感動、安堵は一瞬のおやつのことであり、、、本当は無心になって自身が歓喜、感動、安堵になってしまうことを学ぶことが大切です。夢は一瞬で醒めます。

海であることを忘れた波は夢に夢中になる

夢中になれない夢ならば意味はない

海であることを忘れた波にとってこの世は夢物語、波物語です。波の観念によって大きく様変わりする夢です。リアリティー全開、五感全開の夢ですからこの夢を夢と見抜くとのは至難の技です。思考すればするほどにこの夢は複雑に入り込んでいきます、そしてその夢の中でいかに自由に快適に生きようかと思考をフル回転させればさらに複雑な夢、リアリティーが誕生するという見破れないパターンが進みます。

全存在がこの世を作ったのは夢にどっぷり浸かるため

この夢がなぜあるかと言えばまずはこの夢にどっぷりと浸かるためです。最初からバレバレな夢ならば夢から醒める感動は皆無です。ですから先ずはいかにこの夢にどっぷり浸かるかが重要です、どっぷりと浸かり深刻に人生を考え、重く将来を憂うことから人生はスタートするのです。だからこそそこから夢を見破ることに価値はあるし夢から醒める感動もあるわけです。

簡単に醒めない夢だから価値がある

この世が簡単に見抜けてしまう夢ならば価値はありません。この夢の醍醐味とは夢から覚めたときの感動です。あまりにリアリティーがあって夢とは思えないからこそ夢から覚めたときの感動があるのであって簡単に夢だと気づけてしまうのならばこの夢の価値は半減するのです。この心身こそが自分であるという錯覚を作り出すエネルギーは紛れもなく全存在のエネルギーでありこの夢は悪意で創造されたわけではありません。全存在が自身のエネルギーを使ってこの心身が自身であるという錯覚ゲームを創造したのです。ツッコミどころ満載、アラ全開のこのゲームを愛おしいと思うぐらいの余裕があればいいのですがそうではこのゲームの醍醐味は薄れます。

自我は思考、体に集中すると自我は抜け落ちる

この心身こそは自分という錯覚は思考で行われている

この現象界にあるエネルギーは全て全存在、海の表現です。ですから思考も勿論その表現の一つです、表現の一つである以上悪いとか良いとかは一切ありません。つまり思考は悪ではありません。そしてこの思考を使って人類は発展してきました、思考こそが人類繁栄の主役です。この事実は変わりません。ですがこの思考はこの心身こそが自分自身であるという錯覚を引き起こす張本人でもあります。海であることを忘れ波が自分だと勘違いさせている真犯人です。全存在ではなく個人であるという勘違いを引き起こす真犯人です。人間の苦しみは間違いなくこの思考こそが生み出しています。これもまた事実です。ではこの思考を抜け落とし自身を全存在、海であると腹落ちさせるにはどうしたら良いのでしょうか。それは思考ではなく体を使うことです。体に全意識を集中するとそれに反比例して思考は弱まっていきます。例えば火事の時に子供を助けに行く母親の行動は体がおこなっているのであってそこに思考が入り込む余地はありません。オリンピックの短距離奏者が思考を使いながら走るということもありません。剣道の真剣勝負に入ったら思考の出る幕はありません。この時自我(この心身こそ自分という思考)は抜け落ち剣道術者は人間ではなく全存在になっています。マイケルジョーダンがプレイに集中する時に自分はマイケルジョーダンだという思考は抜け落ちしています、彼はプレイ中神になっています。

思考を観察するという行為に無心になる

思考を観察するという行為の凄さの理由は、思考を観察するのは自我にはできないということにあります。思考こそが自我ですから思考を観察するのは自我ではなく無我です。そう波になる前の海です。自我が形成される前の全存在、神、大いなる一つです。思考はこの存在以外に観察できないのです。だからこそ思考を観察するという行為は大変効果的です。ですがこれができない方は日々のあらゆる雑務に集中することで自我を抜け落とし無我に入ります。自我が抜け落ちた時には常に無我はそこにあります。なぜならば自我は無我の中でしか存在できないからです。自我がなくなった時に無我が現れるのではありません、自我は常に無我の現れです。無我を隠す無我の表現です。

空は常にあるがそれを隠す雲

私たちが生まれてきてこれまでの期間で空がなかった日はありません。空は常にありました、ですが空を雲が覆い隠し一時的に空が見えなくなってしまった時間はあります。自我と全存在、自我と大いなる一つの関係はこの雲と空の関係に似ています。全存在は常にあります、全存在がなかった日はありません。ですが時に自我がこれを覆い尽くし全存在が見えない時間があります。自我がない時は快晴です。自我が空を覆い隠す時は全存在は隠れて見えないということになります。大人になると自我は常に現れていて全存在を隠す時間が増えていきます。空が見えないからといって雲が必死になって活動すればするほどに空は雲で覆い隠されてより隠れてしまいます。これが我々人類を苦しめるメカニズムです。苦しい時は自我(思考)を活動させるのではなく自我(思考)にお暇してもらいましょう。思考を徹底的に観察する、もしくは無心になって何かに取り組むことで思考は行動を控え全存在が姿を表します。雲が消えれば空が見えます。

海であることを忘れた波は依存傾向にある

自分自身を弱いと感じる波は何かに依存したがる

広大無辺な海が自らを波である分離した存在からこの波物語はスタートします。広大無辺な海であったことを微かに覚えているため波は常に自身を弱い存在と勘違いします。そのため波は何かにすがりたい、何かに依存したい、何かに頼りたいという欲求が強く湧き出ててくるようになります。これは子供よりも自我が完成した大人の方がより強く依存傾向にあります。そのため大人は子供に向かって「このままではどこにも就職できないよ」とどこかに依存しなくては食べていけないことがデフォルトのような発言をします。そして他の大人も同じような意見であることからそれが真実であるとさらに錯覚を強めていくのです。

何かに依存しても苦しみは解消しない

自我が完成し自身を弱い存在、何もできない存在と錯覚した人間は何かしらに依存して生きていくことになります。それは会社だったり、親だったり、国などの大きなな組織、もしくはパートナーです。依存が成功し表面的には平和が訪れますが自我はさらなる不足感を湧き出し続けますからその解消方法を探し回ることになります。それはギャンブルだったり、お酒だったり、子供だったり、エンタメです。何かに依存することで弱さを感じることを避けれても不足感が湧き出ることを抑えることはできません、それは自身が海だったことを波は覚えておりゆえに何に頼っても本当の強さを手に入れることはできないからです。二元の世界で対象を手に入れて感じる強さは全てマヤカシです。総理大臣の妻になったとしてもこの不足感が消えることが絶対にないのです。

依存すれば依存先の顔色を伺わなくてはならないという第二の苦しみにシフトするだけ

会社に依存すれば会社の顔色を伺い、結婚相手に依存すれば相手の顔色を伺います。クライアントに依存すればクライアントの顔色を伺うことになります。こうして弱さ克服のために手に入れた依存先によって次の苦しみが湧き上がっていきます。ひたすらに苦しみが変容してシフトしていくだけです。これが人間ゲーム、波物語です。重要なことは自我から湧き上がる不足感、恐怖心、欠乏感、退屈感を対象を見つけてそこで解決しようとするのではなくこのメカニズムを理解することで波から海にシフトすることです。自身が海であったことを思い出すことです。それは決して難しいことではなく掃除に集中することで無心になる、仕事に集中することで無心になる、読書に集中することで無心になり、思考である自我を抜け落としていきます。体の感覚に意識を集中することで思考が入り込む余地を無くしその場で海、全存在、神にシフトしてしまうことです。人間はいつどこでもどんな状況でも実は無我になれます。それが本当の強さ、安堵、平和、歓喜です。そして1日のほとんどの時間をこの状態で過ごせた時にこのメカニズムが腹落ちします。波は幻想でこの世には海しかない。つまり強さしかないということを。強さが弱さを演じているだけです。

海であることを忘れた波は何かと同一化したがる

波の同一化とは、波に実態がないからこそ実態があるように見えるものにしがみつく

海であることを忘れた波に実態はありません。海と分離した波という個別な存在が本当はないからです。だからこそこの波を自分自身と決め込む自我は不安でしょうがありません、実態がないものに実態があるかのように騙し続けるのは至難の技です。自我はそのためこの不安感から逃れるために何かしら実態があるとされるものに必死にしがみつくのです。自身をそれと同一視することで実態があるかのように振る舞います。例えば社長というポジション、一家の長というポジション、有名大学卒業というポジション、有名企業所属というポジション、この何かしらは強固に見えれば見えるほどに自我にとっては都合が良いのです。

何かと同一化した自我はその何かしらを手放さない

波という独立していない存在を自身と錯覚する動きこそ自我の動きですが、そもそもが独立していないわけですからこの動きは常に無理があります。そのため自我は何か実態がありそうなものと一つになることで本当にあるかのように錯覚を強めていきます。私は〇〇所属の人間です。とこれで人間という曖昧な存在にアイデンティティーが加算され錯覚が強化されていきます。詐欺師に箔が付いていく感じです。自称コンサルタントと宣ってきた詐欺師が、東京都認定と箔がつくとこの詐欺師の偽りは一層見破れなくなります。これを自我は好んで行います。だからこそ自我は同一化した役職、ポジションを好んでは絶対に手放さないのです。

総理大臣という椅子にどの議員もしがみつくのはその椅子が居心地がいいから

例え総理大臣という役職が命を削るほどに激務であったとしても自我はここにしがみつきます。総理大臣という存在を認めない日本国民はいませんから自我にとってこれほど安泰の同一化先はないのです。自我にとって重要なのは同一化先の強固さ、絶対性ですから総理大臣という役職は涎が出るほど好ましいのです。総理大臣の〇〇さん、この響きは世の中に断固として存在している錯覚を起こしてくれます。これが町内会の〇〇さんでは認知度が低すぎて好ましくないわけです。ということで自我は認知度が高い役職を好んで同一化していきます。