釈迦

悟りにハマる人は幼少期の至福感を覚えている

私は悟りに魅了されたのか???

私がなぜ悟りに魅了されたかと言えば、、、幼少期の万能感、至福感をはっきりと覚えていたということがあります。何も条件なくただ幸福だったと言う時間を克明に覚えています。だから一般的幸福に興味が持てない、、車、家、立場、家族、地位、名誉、、、では絶対にここに辿り着けない、、、それは最初から分かっている、、、ただそれがどこにあるのかが分からない、、、

ブッダの言葉が刺さる

この世は無常、、、解脱だけが至福に至る道である、、、、いや絶対そうだよね、、、!!!この言葉を待っていた、、、釈迦最高、仏陀最高、、です。自分の中で何かが発火したのが分かりました。この発火は今まで味わったことがない発火、、だがこの個人という感覚が無くなるとは到底思えない、、、だからそこからはスピにハマり個人としての霊的向上にガッツリはまったのです。

霊的向上に努めるが、、、

霊的向上に努めるが、、、どこか焦燥感が抜けません、、、向上した霊魂が取るべき行動は何か???と今度はそこに縛られてしまうのです。解脱はいつか訪れるもの、、解脱に対する関心も落ちていきました、、、ですがノンデュアリティメッセージの五年前ぐらいから触れることで解脱が決して遠い未来に話ではないことが分かります。釈迦、ブッダの言葉が身近な存在から届けられるようになったのです。

悟りに興味が出るだけ奇跡

悟りに興味は起きない

見かけ上の私は、、とんでもない好奇心旺盛な人間で、、興味の湧くことは片っ端から極めていこうとしました、、幼少期は動物、昆虫遊び、、小学生になるとTVゲーム、、中学は受験勉強、、高校はスポーツ、大学は異性関係、就職後は自己実現、、一直線にそれを満たしていきたい、、そう思う人間でした、、、就職後にどうしても仕事が合わず、、かつ次にやりたいこともない、、、ここで八方塞がりに突入しました。この八方塞がりは見かけ上の私の人生史上最大の壁になり、、さすがに現実から逃げたいという欲求が渦まきました、、、結果仏教、善の悟り関連のメッセージに自然と救いを求めるが起きたのです。

趣味は徹底した、努力も徹底した

自己実現の壁に出会った時に、、、なかば諦めの境地が来ました、、、もしかしたら今回は不可能かもしれない、、何もやりたいことがない、、、、参った、、、その時に染み渡ったメッセージが釈迦、禅などの悟りメッセージだったのです、、ですがこの時は本当の意味など分かるわけがなく、、、ただそこに真実があることだけは分かっていました、、。最後はここに行けばいいのだという、、、

自由意志を手放すには

自由意志を手放すのは怖いものです、、、なぜならば自由意志でこの人生は守られていると本気で信じているからです。ですからこれは完全な人体実験が必要になります、、、何も考えず、、何も計画を立てず、、生きてみよう、、、やってみよう、、、すると不思議何も問題なく行動が起きるのです、、、何も準備なくしっかりと行動が起きます、、、え???本当だっ、、、という気づきが起きます。

自分とは記憶に依存した存在

記憶はこの現象界に存在しない

この現象界はどこまでいっても在るように見える世界です、、この現象界に「何か」が在ることは絶対にないのです。すると記憶はどこに在るのか???記憶は空(サーバー)にあります。そして会話のたびにこのサーバー(空)から記憶が湧き出し会話は成り立っているのです。そしてこの記憶を受け取る場所こそが脳です、、脳も見かけ上の物、実態はありません、あくまで見かけ上、ゲーム上、、脳が記憶を受け取ります。

自分の存在を絶対視できるのは記憶があるから

見かけ上のこの体を通じて得た経験の全ては空(サーバー)に記憶されており、、、ゆえにこの体の存在を絶対視するという思考が起こります。そしてこの体の行動を全て決める存在「自分」が居るという感覚が起こるのです、全体(空)から。この体は自由意思で(見かけ上)動きますからこの自分がこに体の言動の全てを牛耳っているという思考が起こります。事実からみればこれは勘違いですが、、「勘違いだ」が起こらない限りこの「自分ゲーム」は何の問題もなく進みます。ただし全体(空)がこの体が私だという成り切り(起こる)は、、、同時に閉塞感を生み出しこれが「苦しい」を土台としたこの人生ゲームになるのです。

釈迦は悟り「人生とは苦である」と語った

人生とは苦なのです、、人生が無くなると絶対幸福になります。人生がない瞬間は熟睡と死です。もしくはこの自我、自分のメカニムを完全腹落ちし、、全体としてこの体を操るという全体主体のゲームに戻すほかありません。見える現象は全て蜃気楼、3D画像でありそこには中身はなく、、ゆえにそこには思考も感情もない、、これを虚無と捉えるか、、面白いと捉えるか、、、それすらも全体から湧いてきます。

霊的進化の罠

魂という存在は便利

魂とは思考です、アイデアです、実在はしません、ですがこのアイデアは大変便利で応用が利きます。霊的進化のために霊的成熟のためにとあらゆるセラピー、メソッドが溢れかえっていますがこれは我々が一般社会でやってきた活動と何も変わりません。より高い偏差値の学校へ、より就職人気会社へ、より高いリッチな家を、、より高く高くというこの活動は魂に受け継がれここでも同じことをするのです。

より高く、より優れた、より強く、、、の輪から抜ける

我々が現実と呼ばれた社会でやってきた進化に疲弊し、スピリチュアルという世界に逃げても待っているのはこの魂の進化ゲームです。魂が進化するのは大変魅力的で神聖な香りがします。ですが散々このパターンで人生が疲れてきてまた同じような進化ゲームに参加するのはもう嫌だ、そう考えてもおかしくはありません。そうです、もう十分、進化発展ゲームは終わりにしたい、、その時に腹落ちするのが悟りです。悟る自分は居ないし悟る魂もない、、という進化ゲーム究極の終焉です。

悟り人すらも人生の最終ゴールにしてしまう

イエスキリスト、釈迦、空海、、、悟ったと言われている人は人生のゴールにされてしまいますがこれは全くの誤解、、、彼らは彼らを形成してきた「自分」「自我」が抜け落ちた体です。つまり人体の中に形成されているだろうとされてきた自分という存在が形成されなくなった体、、、自分という感覚が抜け落ち全体がその体の口を通じてメッセージが湧き上がったという事実があるのみです。多くの方がイメージする悟り人と悟りは全く異なります。

都会の喧騒で静寂を感じる

都会に静寂なんてあるのか??

田舎に行けば誰でも感じます、静寂を。鳥の声、虫の音、川のせせらぎ、全てが静寂を与えてくれます。不思議な物で虫の声が激しい場所ほどに静寂を感じるのです。おかしいですよね、虫の音が煩すぎるのに静寂を感じるのです。大自然からの音は全部静寂から発生しているのです。だからこそ田舎に行くと静寂を感じるのです。大自然の中に行きたい人は静寂に触れにいっているということです。では都会に静寂はあるのか??都会にも確実に静寂はあります、ですがこれは真夜中の静かな時間という意味ではありません、大都会の喧騒そのものが静寂から生まれているということです。これは言葉で説明しても分かるわけがありません、静寂に触れ続けた結果としてそれを感じることができるということです。

友人との会話の中で静寂を感じる

友人との会話の中で静寂を感じるなどできるのでしょうか??本当にお喋りな友人との会話で静寂を感じるなどあるのでしょうか、、答えはあります。なぜならばその友人そのものの現れも、言葉も全部静寂から浮かび上がっているからです。これを言葉で理解することはできません。日々静寂に触れ続けることでこのことが分かってきます、感じてきます。全部静寂から浮かび上がっているだけなんだなーが湧いてきます、静寂から。

言葉で理解したら実践に

悟り本を読み漁る、悟り系の動画を見まくる、、、これは全部意味があります。言葉で悟りを完璧に理解してしまう、、これはこれで大いに重要です。ですが悟りは感じるものです、静寂は感じるものです、至福は感じて初めて価値があります。至福を文字で理解して満足という人は居ないでしょう。悟りとは感じるもの、だとすれば日々どれだけ感じまくるかです。釈迦は突然木の下で悟った、、これも起こる可能性はあるでしょう、ですがそうでないケースの方が多いはずです。幼少期に何十万回と名前を呼ばれ続けて「自分」を身につけたように何十万回「静寂」に触れ続けて静寂になる方が現実的(静寂)です。

全員が最終的に救われるのは自己を形成しているのが救いそのものだから

自分という感覚は救いが作っている

この世界が苦しいのは自分という感覚が形成されてしまったからです。ただこれだけです、自分という感覚すらなければ人は苦しむことができません。自分の解体が起これば全員が絶対幸福に入れます。ですが問題はこの自分という感覚の拭い去り方が分からないということになります。ですがこの自分という感覚すらも救いそのものからの現れであることから実は何も問題がないのです。自分という感覚が湧かなくなるかいなかは救いにかかっているからです。

最初から救われている

最初から救われている、これも覚者から頻繁に発せられる言葉ですが、、人は最初から救われているという意味、苦しみを作り出している張本人こそが救いだということ、救いそのものが自分という感覚を作り出しているのですから苦しみを終わらせるのも救いそのものです。ではいつ終わりが来るのか?これも救いが決めることです。湧き上がった自分という感覚が決めることではありません。湧き上がった自分という感覚は湧き上がらないしか選択肢はないのです。

自分という感覚が湧かなくなったときに救いだけがある

自分という感覚を湧き上がらせているのは救いそのものでありその自分という感覚が湧き上がらなくなったときには何が残るのか、、救いが残ります。救いは救いそのものでありその中に救いが自分という感覚を湧き上がらせただけだったのです。すの自分という感覚は同時に苦しみも湧き上がらせるという特典が付いていてこれが「人生は苦である」という釈迦の言葉になります。釈迦とは特定の人物ではなく救いそのもから湧き出た言葉(音)です。

悟りへの興味が起こる理由

悟りに興味がなければ悟りは存在しえない

悟りに興味が出るのは良いことです、悟りに興味が湧かないのならばその人の人生に悟りは存在しえないでしょう。認識すらないからです。そしてこの興味は根源から確実に湧いていますから悟りが起こる予感を感じます。悟りを開くのは個人ではありません、個人に悟りを起こさせる力は皆無だからです。悟りとは起こることであって起こすことではありません。ましてや悟りを開く個人など絶対に存在しません、個人はどこまでいっても思考でしかないからです。そしてその思考も根源からただ起こっています。

悟りを開きたいもただ起こる

悟りを開きたいという欲求があるならばその欲求は根源から起こっています、間もなく悟りが起こる可能性があります、起こらない可能性もあります。そこは全くわかりません、ですが悟りに全く興味がない人には悟りが起きない予感がします、それは私の思考です。事実ではありません。多くの人が悟りに興味が湧くのは、、この人生が苦しいからです、この人生は何を達成しても苦しいままなのでは??ビンゴです。我が人生はどこまでいっても苦しいのです。釈迦は悟りそれを伝えました。

悟りを閉じたいは起きない

悟りを開きたいは聞きますが悟りを閉じたいという言葉は聞いたことがありません、なぜか?悟りを閉じたいは湧かないからです、根源から。個人とは悟りが閉じている状態、その個人から悟りが閉じたいが湧いたらおかしいのです。個人は悟りが閉じて苦しんでいる存在なのです、その個人から悟りを閉じたいは湧かない、、悟りを開きたいという欲求は個人が苦しいからこそ起こるのです。個人というファンタジーに迷い込んだ人間から起きる欲求こそ悟りです。悟りたいという欲求は正しいのです、正否はないのです正しくもないのですが悟りたいは個人の永遠のテーマなのです。個人という存在が実は思考でしかないことを見破るが起きるまで延々とこれが続きます。

「我在り」の中で現れては消えていく、、色々

諸行無常とは、、

釈迦は悟りを開き、この世は諸行無常と表現しました。あらゆる現象が変化変遷を遂げていく世界、あらゆる物が現れては消えていきます。ただそれだけ。その中で絶対に消えない感覚「我在り」この感覚だけは絶対に消えません、私たちはこの体、この思考、この感情も絶対なモノだと思っています。ですがよく考えてみてください、この体、思考、感情は一日毎に日々変わっていきます。いやそんなことはない、、「私は在る」という思考は変わらない、、、その通りです。「我在り」これだけは変わらないのです、、、そしてそれは思考ではないのです。「我在り」の中でこの体、思考、感情こそが私だ、、、、この思考が湧き続けているだけです。錯覚という認識が消えないだけです。毎日変化する体、思考、感情を自分とする思考が消えないだけです。

「我在り」がある、だから「私」は居る

この間違いは当たり前に起きます、この「我在り」は絶対で在りこの感覚がなくなることは絶対にありません、いかに苦しい時もいかに楽しい時もこの感覚がなくなった時は絶対にないのです。だからこそ人は勘違いをします、この「我在り」が完璧永続ゆえにこの感覚がこの体に起きていると思うのです。「我あり」はこの体で起きているのだ、、、これで「自分」「私」という大いなる勘違いは絶対的なものになります。「我あり」の思考による乗っ取り、所有です。このトリックを見破れる人はいません。

それでも「我あり」は続く

思考がこの「我あり」を自分のモノにしようと何だろうと「我あり」は全く拒絶をしません、何も変化することなく在り続けます。そしてこれを思考は自分のモノにしていきます、我在りという絶対的感覚とこの体、思考が「自分」なのだと湧き続けます。これで自分劇場、私ストーリーは絶対的なモノになります。「我在り」という絶対的感覚、変わらないこの体、そして湧き続ける思考、感情、、、これぞ「自分」だ、、、です。

二元世界創造機、人間の意識

人間は名前を暗記するとそれをこの世から分離してみせる

この二元世界の創出は人間の機能あってこそです。人間は脳が極端に他の生物に比べて進化しその結果記憶機能、文字を扱う機能が発達しでありした。言語脳ですね。これによって共通認識で岩や花、滝、湖と、、、自然界の現象に名前をつけていったのです。そしてそれらを可能にしたのは記憶があるからです。共通認識で自然界に名前をつけることで生活は非常に便利になったと同時にその名前を付けた部位が完全に全体から分離することになります。これによってダイナミックなアートであるこの世が徐々に人間にとって生活しやすいただの背景になっていったのです。

小さい子供がサッカー場に行けば

小さい子供がプロのサッカー選手を観たくなってサッカー場に足を運べば、、、そこにはダイナミックなゲームが展開されるアートになります。ところがです、大人がサーカー場に行くとそうはならない、、、ただのサッカー場です。子供が見ている世界と大人が見ている世界はハッキリと違うのです。大人はあらゆる名前を覚えてしまったのでサッカー場に行っても様々な物が目に入ります、しかも分離して。子供は名前を知らないからこそ目の前にダイナミックなサーカーの試合、スタジアムが目の前にあるのです。だから子供は終始ワクワクが止まらないのです。

人間は便利な生活を手に入れる代わりに生気、活気をこの世から奪った

人間は多くの生命現象に名前をつけることで便利な生活を手に入れることができました。ですが同時にこのダイナミックなアートは殺風景なガラクタ、活気を失った物質、人物に成り下がったのです。これは人間の進化においては必然なことであり良い悪いの話ではありません。人間が進化の途上でそのような道を選んだということです。だから釈迦はそのことに気づき、この世は苦であると伝えたのです。ですがそれも進化の途上ゆえです、人間の苦しみが解明されてきたこれからは全く違う進化を迎える可能性があります。

悟りという言葉こそが自我の策略

悟りは遠い世界にあるという作為的思い込み

自我にとって悟りとは自我の消滅です、こんなことが頻繁に起こってしまったら自我は壊滅状態に。自我は考えました自我の壊滅を「悟り」という言葉で表しこんなことは釈迦やキリスト以外達成できない代物という印象を与えようと。「悟り」などこんな胡散臭い世界は遠い先にあると思い込ませようと。自我のこの策略は完全成功し悟り、自己超越などという言葉をTVで聞くことなど先ずありません。自我は臆病ですからみんなが話をしないことなどに興味を持ちません、怖いからです。

この体、思考、感情を自分だと思い込む思い込みを思い込みだと見抜くだけ

ギャグのようなタイトルになってしまいましたが上の文は真実です。我々人間はこの体、思考、感情をひっくるめて三点セットで自分であると思い込むことに成功しました。自我の完全勝利、自我何千年間の勝利です。人類が生まれてきてこのかた自我はこの思い込みを完璧に人間に刷り込み勝利を収め続けてきました。大なる一つ、全存在、全宇宙の「自分」体験です。この自分体験はもちろん幻想ですが一度この幻想に取り込まれたら最後多くの方は死ぬまでこのトリックを見抜けなくなります。

ではこの確実に湧いてくる思考、感情は誰のモノだ?

誰のものでもないのです、、それがこの体の中で起こっただけです。ですがこれを自分のもの、自分だと思い込むことで次から次へと思考感情が湧き出してきます。鶏の卵が先か鶏が先か?理論のように、、、この思考、感情を自分であると思い込むことで、、次から次へと思考感情が湧き出してくる、、泉のようです。そしてこれは不思議なことにこれは自分ではないと気づくと自然と思考、感情の泉が少なくなるのです。そうですこの感情と思考は自分を維持するために湧いてきていたということです。