言葉

マリオは絶対に幸福になれない

マリオはイメージ

マリオは喜怒哀楽を感じることはできません、、なぜならばイメージだからです、、、、「私」も完璧にイメージです、、、、、最初に私という「何かしらの実在」があって、、、その実在に「私」という言葉をつけたのならば、、、私は実在します。「私=何かしらの実在」です。ところが、、、実在しないのです。。。なぜ実在しえないか????それはこの体の中の全言動、全思考を、、、司る実在が居るのではないか??という「推測」をベースに「私」は生まれたからです。

原始人はマリオが実在するのでは???と思考する

もしも原始人が現世にタイムスリップしてきたら、、TV画面のマリオは実在するのでは??と「思考」するはずです、、、、勘違い、、、これが「私」の正体です。。。。誰が勘違いしているのか????私は実在しませんから勘違いはできない、、、一体誰が勘違いをしているのか????神です、真我です、大いなる一つです。

勘違いは起きただけ

神は勘違いをした、、ではなく神から勘違いが起きた、、化学反応として、、、この体の中に「私」がいるという思考が起きたのです、、、神から、、、そしてこの思考を神が感じているのです、、、神からこしらわれ、神がこれを感じる、、、ただそれだけ、、、、そこには被害者は存在せず、、、そういった現象が起きたのです、、、事実は実は何も起きていないのです、、実在レベルでは、、、イメージではそのようなイメージが起きたのです。。。

真実に会う

我々は常に真実に会っている

私たちは真実の中に居ます、、、真実の中で夢を見ている状態です、、、真実が作り出した夢の中で私という幻想を生きるという私物語を体験しています、真実が。私が真実に出会うのではなく、、真実こそが私物語を作り出して「体験」という言葉では収まらない何かを感じています、「感じる」というのも言葉ですから、、ただ何かが起こり続けています。「起こる」というのも言葉ですから、、ただ「在る」わけです。そこを突き詰めていくと色即是空に入ります。

真実以外に行くことはできない

ここは真実です、真実が織りなす夢の中です。真実の中には一切の独立分離した存在がありませんから、、何かが何かを経験するなど絶対にない、ありえないのです。。。それは言葉が生み出した幻想です、、ですから、、我々はしょっちゅう言葉を使って全部を言葉で説明できると思っていますが、、真実では言葉で説明できることは何もないのです。。。言葉で作ったイメージは、、どこまでいってもイメージであり、、イメージの世界だけが何かが何かを経験することを可能にします。

真実を説明するという矛盾

真実には言葉で説明できることは何もありません、、言葉とはイメージを作り出す道具です、、イメージは真実の中でポコッと生まれたものです、、、、ポコッと生まれた物が初めて何かを経験できるのです。「私」というのはイメージであり、、このイメージが日々活動を行うというイメージが起こっています、釈迦(イメージ)は悟り、、解脱でしか救われないと解きました、、、それは当然のことです、、真実の中でイメージが実在しているという勘違いをし、、そのイメージがなぜ幸福になる、、ということが可能なのでしょうか???実在しないイメージがどうやったら幸福になれるのでしょうか????実在しない何かがなぜ不幸になれるのか???

「私」というイメージは幸福になれない

幸福になる、、には幸福になる実在がいなければならないのですが、、このイメージの世界にはその実在は完全に皆無です、、、、信じられない話ですが、、、全員が幸福になれません、、、全部イメージですから、、、「ミッキーマウス」が幸福になる、、無理です、、、、クレオンしんちゃんが幸福になる、、無理です、、、「私」が幸せになる、、無理です、、、誰も幸せになれないのです、、、この真実の世界には実在はないのです。

でも僅かながらの幸福は感じて生きていますけど

先ず物理学として、、実在しない存在は、、幸福にはなれない、、ここをブレてはいけません、、、しかしながらなぜ幸福という実感、、、不幸という実感、、、悲しいという実感、、辛いという実感があるのでしょうか、、、感情を感じるという実感は確実にあります、、、、、それは真実の中でその感情が起こり、、、真実が気付いているからです、、、真実が感情を感じる真犯人です。。。真実以外何もないのですから当然です、真実しか感情を気づく存在は居ません、、それ以外は全部イメージです、、、真実がイメージを生み出し、、イメージが、、何かを経験するというイメージが起こり、、、それによって感情を生み出し、、、その全てを真実が感じています。。。。この夢の世界で幸福になれる実在、不幸になれる実在、は皆無です。

観念書き換えの嘘

ここで大きく振り出しに戻される

観念書き換え、、これには私も随分騙されました、、、本当にこのトリックは見破れない、、、多くのスピ本に書かれている観念書き換え、、、観念がこの世界を作っている(夢)のだから観念さえ書き換えちゃえばOK!!本当に夢がある話、イリュージョンを利用しちゃえ!!!これには驚かされ、、私もついに最高の観念を所有し夢のような世界をつくるぞ!!!となったのです。。。

大きな勘違い

観念を書き換える自分(イメージ)が存在しない、、、、ここは最重要な落とし穴、、とんでもない言葉のマジック、、、観念を書き換える個人(イメージ)が居ないんです、、、、この夢の登場人物、「私」は言葉が作ったイメージ、概念、妄想であって、、、この私は、、、ただ現象の動きに従うだけ、、、全くもって観念書き換えができないのです、、、これは騙される、、、まんまと騙されます、、、

どこまで行っても受け身

スピと悟りの究極の違いは、、、自由意志の存在の有無です、、、、スピでは、、自由意思肯定派が多い、、ですが悟りは自由意思否定、、、、どこまでいっても自由意志は存在しない、、、つまり観念書き換えを能動的にするのは不可能、、、となるのです。悟りとはただ淡々と事実に向き合うこと、、、事実を認識し、体験し、、諦めていくことなのです。。。。だから悟りはサレンダー、、究極の諦めです。

究極の静寂

自我が緩み始めると

自我が緩み始めますと、、静寂が日常生活の中に入り込んできます、、音が明晰に聞こえるようになります、、音を聞く自分の存在はなくなります、、音が音のまま聞こえます、、人が人のまま見えるようになります、、、植物が植物のまま感じることができます、、、何もしていなくても、、なんとなく幸せ、、周囲からどう見られたいとか、、その感覚も無くなっていく、、、周囲の反応そのものが自分のものというなんとも言えない感覚になります。

この場所で起こっていない情報

この場所で起きていないこと、、海外のニュース、海外のエンタメ、日本のエンタメ、芸能ニュース、経済ニュース、、、、そこに興味が向かなくなります、、なぜならばそれが実際には起きていないことを知っているからです。この場所以外では何も起きていないことを知っています、、、だから見る必要性がない、、私の知らないところでは事件が実は起きていない、、

あのニュースを知っておけば

あのニュースを知っていれば良かったのに、、、それがないのです、、起きていないのですから、、この場所以外では何も起きていないのです、、実際には。起きていないことをなぜ知る必要があるのか???ということです。事件は現場で起きているんだ、、、は映画の有名な言葉ですが、、、事件はこの場所でしか起きません。

究極の静寂

この場所以外では何も起きず、、ゆえになんの心配もしなくていい、、私の言動も全て、、、勝手に起こっていて何一つこの私は決めることができない、、ゆえになんの心配もしなくていい、、、本当はこレは夢物語で本当はこの奥に真実が隠れている、、だから何もしなければならないことはなく、ただここに居ればいい、、、ゆえに何の心配もしなくていい、、、これが徐々に分かってきますと、、究極の静寂を感じ始めます。

死という言葉を知らなければ死を経験できない

我々は覚えた言葉を経験する

死という言葉、、、この言葉を知らない人は、、、死というイメージ、概念を全く持っていません、、その場合ば90歳近くになってもこの自分が死ぬということを全く予想がつかないということになります。そして夜寝ている間に死んだとしたら、、、その人は死を経験せずに死ぬのです。。。。その人の人生には死は存在しなかったことになります。我々は言葉で覚えたことを経験しているのです。

会社という言葉を知らなかったら

もしもTVもなくラジオもないような島で住んでいて会社という言葉を全く聞いたことがなかった場合その人の人生で就職するという経験は起きません、、就職しようも起きない、、、会社で働くも全く起きない、、、その人の人生には会社は全く存在せずに終わるのです。会社という言葉を覚え、会社で働くという言葉も覚え、、先ずはイメージが起こります、、、このイメージが先にあり、、その経験がこの現象界で起こるのです。

我々は覚えた言葉しか経験できない

この人生が夢物語だというのは、、覚えた言葉しか経験できないからです。。。言葉で先ずはイメージを作りそれを経験します。言葉でイメージが作られていきますと、、そのイメージを実体験として体験できるようになるのです。私というイメージが、ホテルというイメージに泊まる、、、私もホテルという言葉を覚えていない期間は私がホテルに泊まったという経験が起きないのです。先ずは経験があってそこに名前をつけたのではなく、名前を先ずは覚えることで経験が生まれています。これがこの夢物語の創造方法です。

先ずは現実(夢)を、、、

悟りは横に一旦置いて先ずは現実を

多くの方はこのような展開で悟りが遠ざかります。。悟らないと幸福にならないのは知っています、、ですが先ずは目の前の現実(夢)を、、、、このパターンで毎回毎回悟りが遠ざかります。。。今は会社が忙しいから、、先ずは現実(夢)を処理して、、、ですが本当のことを言ってしまえば、、今現実が大変なのは悟りが閉じているからです。。。悟りが閉じ切ってこの夢が超現実的だから辛いのです。解決すべきはこの現実(夢)ではなくて、、、悟りが閉じていることです。

この現実(夢)はあなたの観念が作っています。

ここに一輪の花があります、、、この花に神々しさを感じないのならば、、、あなたの観念がこの花をただの物質に見せているのです。。。。花という言葉のイメージがこの花に重ねられて、、、そのイメージを今あなたは見ています。。。このイメージが重苦しいものであればあるほどに花を歪めます。この現実(夢)の歪みは、、観念の歪みです。

現実(夢)とは、、観念の反映

引き寄せの法則、、、、引き寄せる個人が観念ですからこれは観念です。。そうではなく、、、現象を認識する脳が『この個人の経験に基づく観念』をこの真実、現象に観念イメージを重ね、、、そのイメージを見ています。例えばブランドグッチを崇拝する人は、、グッチの靴を履く男性を素敵な人に写します。感動すらします、興奮すらします、、イメージをその現象に重ねているのです。。。ですから現実(観念を反映した夢)が辛いのならば、、、だからこそ悟りの学びが重要になります。。この現実(夢)に惑わされなくなっていきます。

悟り根性論

気づきを根性で起こすことはできないが

悟りを根性で起こすことはできません、、、ですが悟りとは何なのか??これを言葉で理解することは可能です、、、本質は完全に悟っていますから、、その本質である私が悟りを言葉で理解できないわけがない、、、覚者は、、、言葉でしか、、悟りを伝えることができません。。。その声に真剣に向き合います。。この真剣にというのは完全な理解が起きるまで真剣にやるのです。

観念の障害

我々が信じ切っている価値観は観念となり、、、この観念がこのたった一つのエネルギーを裁断します。そして観念を証明するような現実(夢)がこの目の前に現れます、、ゆえにこれが夢かも???ぐらいではこの目の前の現実(夢)に木っ端微塵にやられます。。。超現実的な出来事が嵐のように吹き荒れます。そういう意味で悟りは真剣勝負です、、誰との真剣勝負なのか???観念が作り上げる、、この現実風夢です。

悟りが起きるまで悟り切る

悟れたらいいなー、悟りって最近気になる、、、全然ダメです、、、それではあなたの観念が作り出す現実風夢に木っ端微塵にやられます。。。悟り切る、、そして悟り切るまで手を緩めない、、抵抗が強ければ強いほどにギアを入れる、、、これが夢だ、、、という完全理解が起きるまで、、、徹底的に学びます、、、学ばない方がいい、、こんなメッセージもいっぱい届くでしょう、、完全無視、、そのメッセージは、、、私の観念が送り込んだ使者です。粉砕してください。

「私は在る」の中にもう一つの私ができた

私の二重構造

何かに夢中になっている瞬間、、、、これを無我夢中と言ったりしますが、、、それでも意識は明晰にあります、、、あの明晰な意識そのものの状態、、、意識としての私、、、という絶対的な感覚、、この意識そのものが本当の私です、、、、、「私が在る」という感覚が先ずあり、、、何かに夢中になっていて我を忘れている時、、、「私は在る」だけがあります。。。我を忘れているにも関わらず「在る」という感覚、、それが真我です。真我とは「真の我」、、、、「我が落ちた時に現れる存在、、それが真の我」です。

真の我の中に「自らの我」が現れた

人間活動とは、、真の我の中で、、、、自らは我が突然脳から現れ、、、真の我から現れた、、、たった一つの現象を、、脳が作り出した観念によって完全に分離して見える世界を生きることです、、、時間、空間という言葉で作った概念で、、、これをストーリー化したものが、、私物語です。これらは全部脳が作り出した言葉を通じてイメージ化したもの、、現象にイメージを当て込み、、、実は我々はそのイメージを重ね合わせて見ています。つまりそれぞれのイメージによってたった一つのエネルギーが今も分離しているように見えています。

脳が自我を忘れていても

脳が作業に没頭し自我の存在を忘れていても、、、、真我ははっきりとそこにあります、、真我が忘れ去られることはない、、、自我はいつでも忘れ去られますが、、真我は忘れ去られない、、、真我を忘れることができる存在がいない、、、誰からも忘れられることができない存在、、それが真我です、、在るという感覚です。脳が作りだした「私」は、、、どこまでいってもその瞬間に脳が作り出すしかできませんから神出鬼没、、ところが見える世界が完全分離しているように見えますから、、、周囲を見ればこの私は「体の中」に居るという錯覚が生まれるのです。本当は真我の中で、、自我も、、周囲の分離も、、分離に見える現象も、、何もかもが起こっています。

私というでっち上げ

所詮は脳のイメージですから

私は脳が作り出したイメージです、、、この体の一部である脳が、、この体の中に私が居るというイメージを作り上げ、、、二重の意味でこの体を守らせようとするアイデアです。。時間というアイデアも作りだし、空間というアイデアも作り出し、、この私というアイデアが、、、この時間空間を歩むというアイデアをでっち上げたのです。。。壮大な壮大な茶番をぶち上げたのです。

悟りとは茶番の終わり

悟りとはこの茶番の終わりです、、悟りとはこれが茶番と見抜くことです、、、悟りとはこれを茶番と見抜き、私というアイデアを見抜き、この時空間も概念であることを完全に見抜くことです。。。全経験を感じているのは真我であって、、私というアイデアではなかった、、、私というアイデアがなぜ経験を感じることなどできるのか、、私というアイデアがなぜ経験を積むことなどできるのか???経験という言葉すらも概念です、、本当は経験という概念すらもない、、、

私物語の終わり

私というイメージが、、この時空間というイメージの中を歩むというイメージが起こり続けた、、脳が作り出した壮大な茶番劇、、本質は再び本質に戻り、、本質として、、感じ続ける、、、私というイメージを通じた経験ではなく、、、本質が本質そのものをただ気づくというそれだけ、、、言葉の全ては概念で、、、その概念が抜け落ちた世界、、、ただこれだけ、、、、

脳が作り出したトリック

最初に実在なし

なぜ人類はこんな簡単に脳に騙されてしまっているのか???最初に「私」という実在があって、、そこに「私」「我」「俺」「I」「自分」という名称を付けたのではない、、、、最初は何もなかった、、、そこに言葉を覚え、、、そういうイメージが存在するかのように、、、動いていただけ、、つまり元々は、、無かった、、、その動きに対し、、、「私」「我」「俺」「自分」を当て込んだ、、、、いつの間にか、、「私」「我」「俺」「自分」が存在しているという前提の行動が生まれ始めた、、、

「私」が実在している前提の思考、感情が生まれた

いつの間にか、、「私」「我」「自分」が実在している前提の思考、感情、行動が生まれ始めました、、この「私」が有利になるような思考、感情、行動が生まれる、、、、脳はこの体を安全に維持運行するために、、私を発明し、、、この体の責任者に仕立て上げたのです、、、、脳は「私」という概念を生み出し、、、この「私」がさも居るようにしむけ、、、この体、私の二つを維持するように仕向けたのです、、進化のプロセスでただそれが起きました。。。

食べれるならば、、「私」は要らない

体を維持管理するために発明された「私」という概念、アイデア、思考は、、、食べていけるならば、、もう必要がない、、、むしろ、、、この「私」ありきの思考、感情、行動は、、、うざい、、、不必要、、、となります。。。実際に、、食べていけているにも関わらず。。。「私」がもっと評価を受けるために、、高級車を求め、高級マンションを求め、高級時計を求め、高級異性を求める、、、、そのためにあらゆる犠牲を払ってでも。。。。時間の無駄、、、、

「私」を卒業し、、、神として生きる

私とはこの体を安全に維持運営するための机上のシステム、アイデア、概念ですから、、もしもそれが達成し、、さらに俯瞰できるならば、、、もう必要がなくなります、、、そして脳はそれを受け入れます、、なぜならば脳はこの体を維持運行できればそれでいい、、、もっと安全な方法があるならばそれを受け入れます。「私」の卒業です、、、万物は全てたった一つのエネルギーの移り変わり、諸行無常、森羅万象であり、、その中の活動の一部に「私」というラベルを貼りました、、、その「私」というラベルは森羅万象の動きに合わせて動くので、、、今度は[「私」が居るという思考]が起き、、、その前提の思考、感情、行動が起きるようになったのです、、「私」というラベルを剥がしてしまっても森羅万象は動き続けますから、、、元「私」は動き続けます、、、ただし「私」ありきの思考、感情、行動は徐々に減っていきます、、、