言葉

虚の世界で虚を描く

思考とは虚への逃避

この世界は虚構です、幻想です、、、これはハッキリしています、、、完全なる虚です、、、虚と書いて虚しいと呼びます、、、虚しい世界です、、、、虚しい、、、、でも小さな子供たちは虚しそうにしていませんよね、、、満足して遊んでいますよね、、、サッカーボールを蹴っているだけで、、、楽しそうにしてる、大満足している、、、、なぜ??????五感を使って遊んでいるからです、、五感です、、、五感を使って遊ぶと楽しいのです、、、、

五感だけは実

この虚の世界で唯一の実とは何か????五感です、、、五感のみです、、、五感だけが真実です、、、この五感を使って使いまくると、、、実が重なっていき、、、実が重なっていき、、、充実が生まれます、、、、、虚しさが消えていきます、、、虚しいという感覚が薄れていきます、、、、小説が楽しい、映画が楽しい、、これは、、、虚構の世界で五感を使わずにする遊びです、、、、だから、、、、虚しいのです、、、擬似体験です、、、擬似体験は、、、自らの体験のアイデアぐらいでいい、、、、擬似体験が面白いから、、、擬似体験を重ねていても、、、、虚しいが続く、、、

五感の究極

悟りとは究極の五感体験です、、、、我々は勘違いした、、、、思考が作った概念の中で活動をしています、、、「私」も居ませんし、、、相手もいません、、、これは思考が作り出した幻想です、、、幻想は言葉で生まれていますから、、、、擬似体験中なのです、、、今擬似体験中なのです、、、、だから虚しいのです、、、、私が、、何かを体験する、、、という擬似体験の中に住むと、、、それは幻想ですから虚しいのです、、、、真実に中で生きますと、、、見える世界は幻想ですが、、、体験は真実になります、、、五感が作り出した真実の世界です、、、そして最後に五感すらもなかったという気づきが起きます、、、真実はあるがままで「五感」という言葉にもならない経験がそこで起こっていることに気づきます。

思考はドラッグ

思考とはドラッグだった

思考について多くの方は甘く考えています、、、思考とは「こ・と・ば」で出来ています。。。これは音の組み合わせ、、発音の組み合わせを用いて、、、何をイメージさせる道具です、、、、「り・ん・ご」という音の組み合わせ、発音の違いを利用した、、、イメージ化ツールなのです、、、、この言葉を7歳ぐらいまでに覚えた子供はこの言葉を利用して、、、、イメージ化に成功します、、、、独り言を言ったりします、、、これは呪文です、、思考でファンタジーを作り出し、、、ファンタジーの世界に住むのです、、これはある種刺激的であるがゆえ人はこれにどっぷりハマるのです。。。

もしもあの子と付き合えたら。。。

小学生高学年ぐらいになれば、、、人間はしっかりと言葉を使ったイメージ化に成功し、、気になるあの子のことを想像するというファンタジー制作に勤しむことになるのです。これが大変刺激的であるがゆえに、、ハマりにハマるのです。。。。ですがこれは完全にファンタジーの世界への没入ですから「満足感」が抜けています、、ただ刺激的なだけです、、、「虚しい」のです、、、ファンタジーですから。

満足とは、、、

満足とは何でしょうか?????満足とはこの世界での真実に触れることです、、、真実に触れることしか、、「満足」は絶対にありません。。。。。では真実に触れる唯一の方法はなんでしょうか????幻想を経験することです、、、幻想にしっかりと経験を起こすことです、、、、この幻想の世界(現実)で体験、経験、五感を作るのです、、、これだけが真実です、、、それ以外は幻想です、、、、

思考しないで体験だけしていれば、、、、大満足????

え?????てことは、、、全く思考せずに、、、体験だけを積んでいけば、、、大満足の人生なのか?????そうです、、、、本当です、、、、ですが、、、、自我OSシステムは絶対にそれをやらせないでしょう。。。。。これは得か損か?????この行為はコスパが良いか????あの時あんなことをしなければ、、、、と大連発で起こり続けることでしょう、、、、

だから覚者は、、、、

だから覚者は、、、、思考を観察せよ!!!と連呼するのです、、、、思考の創造主ではなく観察者であれ!!!と、、、、思考の湧き上がりに注意せよ!!!!と、、、、自分が思考しているということに気づけば、、、自分が思考というドラッグに手を出していることに気づけば、、それで半分終わりです、、、、あ、、、また思考してたな、、、、は、、、、あ、、、またドラッグに手を出していたな、、、と同じです。

観察の卒業

全ては観察から

自分が自由意思で何かをしている、、、という思い込みをしている人は、、、先ずはこのシステムを俯瞰して、、、、全ての現象の真相を理解する必要があります。今目の前の現象はどのように起きているのか???ここを理解する必要があるのです。実は「自分」など存在せず、、、自由意志もないことを言葉で理解します、、、するとそのような認識で観察する日常が始まります。あれ、、、本当だ、、言葉が勝手に現れ、行動も勝手に現れ、、全てが自分抜きで動いている、、、

この観察は十分に威力を発揮する

この観察は見かけ上の「私」に様々な気づきを促します、、この私という存在が実在していないということ、、周囲も実在していないということ、、、この世が幻想と呼ばれる理由、、、この世が一つと言われる理由、、経験しか起きていないということ、色即是空であるということ、、私は神だ、、ということ、、、全部が分かってしまいます、、、すると突然、、、観察する自分が消えます、、観察ではなく、、、生命、幻想、そのものになってしまう、、、

観察の卒業

最初は観察から始まります、、観察という実戦からスタートします、、、観察という行為からスタートします、、その行為によって様々な気づきが雪崩のように起きていきます、、これらの気づき、雪崩のような気づきが終わると、、、静かな静寂と、、見かけ上の私を取り巻く生命現象だけが残ります。友人と話をすればそこには間違いようのない自我の存在を想像します、、ですが直ぐに、、、真実に引き戻されます。

現実は厳しい、、

面白い、、、

現実は厳しいから、、、、、大人が頻繁にこの言葉を発します、、、残念!!!!幻想です、、、幻想しか存在しません、、、幻想だけが、、、この世界に漂います、、、その幻想が厳しいというのは理論が破綻しています、、、幻想は厳しくなることができないのです、、幻想ゆえに。幻想には何の力もなく、、ただそこに漂うしかできません。

いやいや、、働かなくては食べれないじゃん

この体が幻想だろうと、全部が幻想だろうと、、、食べなくては生きていけないですよね、、、、てことは働かなくてはダメですよね?????それを厳しいと言っているんです、、、、この体という幻想が水という幻想を飲まなくては生きていけないのは事実です、、、ただだからと言って働かなくてはいけない、、、というのは思考です、、それは思考でしかありません。昆虫を食べて生き延びれるならば、、、働く必要はありません。

周囲の幻想に合わせているだけ

我々が本当にやっているのは、、、周囲の幻想から外れた行動はしてはいけない、、、という思考に振り回されているだけです、、、、周囲は働く、、だから私も働く、、、、周囲は学校に行く、、、だから私も学校に行く、、、これをやっているから疲れるのです、、、周囲は幻想です、、、、幻想にどう思われる????何も起きていないのです、、、残念ですが幻想は何も感じず、何も思考せず、何も行動は取れません、、、そう見えるだけです、、それを幻想と言います。

意識が記憶と言葉にフォーカスする

記憶に意識が意識すると

記憶に意識が意識しますと、、途端に「私」というストーリがー流れはじめます、、、朝起きて目覚めると、、意識は「私」という記憶にフォーカスします、、すると私ストーリーが上映され、、自動反応で思考、感情、行動が起き始めるのです、、、、この思考、感情、行動を「私」が決めたという思考も起こりますから、、エンドレスにこれは続くのです。ファンタジーの世界にもう一つファンタジーが重なりました。

さらに思考に意識が意識すると

そのファンタジーである私物語の上映中に、、、湧いてくる思考にふけるとどうなるか????ファンタジーの中でさらなるファンタイジーに意識が意識するようになるのです。。最初にファンアジーがあり、そこで私物語というファンタジーが上映され、、、その中でさらに思考というファンタジーが現れるのです。ファンタジーの三重奏です、、、ですがそこでも擬似体験は起き、、それを全体は回収します。

真実に向かう

考えるよりも先ずは行動、実践、、、、これは最初の楽になるメソッドです、、、私物語の実践あるのみです、、、私が私を私する、、、実践、、、ファンタジーではありますが、、、そこにはリアルな体験が優先されます、、、体験は真実ですから、、、真実の濃度が上がっていきます、、、そして次は無我になっての体験、、、没我の状態で行為に集中します、、、そこには体験しかありません、、、この状態が気持ちがいい、静寂、平和、、、、そして最後に、、、思考と感情、行動が全自動システムであることを見破り、、、全ての観察者になる、、、無我の状態で全てを観察する、、、、思考へのフォーカスが終わる、、感情へのフォーカスも終わる、、行動へのフォーカスも終わる、、意識が意識に意識する状態へシフトします。。。意識が意識に再吸収されます。

人生ドラマを操り余裕を作って悟りに至る

本当は操れないが、、、

言葉では矛盾ある表現になりますがそれを踏まえて説明します、、、人生ドラマはその人の観念が織りなすドラマです、、、そのため、、、その観念が変わればその人生が変わります、、、その観念は体に溜まった負の感情をダイレクトに受けます、、、負の感情が溜まった体は、、、その感情を味わうのを避けるために、、思考が湧きます、、、、その思考が重なり合って観念が書き変わっていきます、、多くの場合その思考は感情を味わいたくないがための思考ですから、、真実に繋がる思考ではありません、、結果幻想の中でさらに幻想を作り出し、、擬似体験という真実から遠い場所に安住します、、そこが苦しい場所です。

感情を積極的に成仏する

体のマッサージ、ストレッチなどを積極的にして、、溜まったエネルギーを発散しますと、、、思考でこれを隠蔽する必要が無くなっていきます、、、、結果観念と向き合うということができるようになります。感情はクリアリングされ、、、、残されたのは観念のみに、、、、映し出された世界は、、、観念そのものです。。。。そしてこの観念が反映された世界に対し湧いてくる自動反応、思考、感情を見抜き、、、逃げることなく、、、今に居る時、、、感情を隠蔽するという動きが起きなくなるのです。ただここで感情を観察する、味わうが起きます、、、24時間が瞑想になります。

諦めるとは全く違う

これは感情を諦めて受け入れるというものではありません、、、感情を思考で隠し、、、体に隠蔽していくという負のサイクルを打破する積極的活動なのです、、、、感情が湧いたら湧かせたまま、、、その感情は観念から自動的に湧いただけですからそこを俯瞰する存在になりますと、、、自我OSシシテムが緩み、、ただその場で静寂、平和に包まれるようになるのです。

体が作り出したシステムエラー

体は全部知っています、、体は自我OSシステムの成り立ち、、問題点を完全に理解しています、、、ですから自我OSシステムを卒業する日を実は待っているのです、、、ですが自我OSシステムは自動反応を起こし続けるが故これを止める方法がないのです。意識を体に戻します、意識を体に戻すことで、、、自我OSシステムに縛られない余裕がでます、、、体は学習します、、自我OSシステムが機能しない方が、、、体も楽だと、、、、すると体が自我OSシステムを卒業する方に協力的になるのです。

体は全部知っている

体は自我が必要悪であることが分かっています、、、ですからこの必要悪自我OSシステムを必要がないという状態に導きたいのです。。。そのためには脳に知識を入れ自我OSシステムの不必要性を覚えさせ、、、脳がこの機能を手放すのを待つのです。宇宙全体を動かす、、本当のOSに体をチューニングし、、シフトを促します。。。。ですがこの全ての動きは全自動で起きますから、、これをコントロールする個人は存在しません。

OSの自動反応

会話は相違のOSが反応しているだけ

会話とは双方のOSが自動反応を起こし、、ただ反応が起きているだけです、、、、データベースにある全記憶が元になってOSが自動反応を起こすのです、、、ですから会話とはただお互いのOSを強化することにしかなりません。そして見える世界は全記憶がベースになった観念が元になっておりそれがアウトプットという形で画面に移ります。観念はその場でディスプレイに映し出されるのです。

この世界は観念が映し出すディスプレイ

この世界は全記憶によって形成された観念が作り出したディスプレイ映像です、、これが今我々の目の前に映し出されています。。。この体も当然その真ん中に映っているはずです。ですがこの体だけが映像なのではなくこの体以外も、、観念が映し出すディスプレイ上に映像化されます。。この現実が幻想と言われる所以はここにあります。画面上に写った友人が、、言葉を投げかけますと、、、OSが作動し自動反応を起こします。

私も相手も実在しない

このプログラムで分かる通り、、、自我という存在はOSであり、、実在はしません、、、反応を起こすプログラムに過ぎません。自分という存在ありきの思考という反応も自分という存在ありきの感情も、、自動反応で起き続けますから、、そこにフォーカスしても意味があるわけではない、、、勿論その反応にフォーカスし、、とことん付き合うこともできます。

悟りというコンフォートゾーン

全俯瞰

悟りとは全部を俯瞰することです、宇宙の俯瞰です、、宇宙のシステムを体感として理解することです、、、体感ですからこれは簡単に伝わるわけがないのです、、、、、ですが我々はこの言葉を体感で獲得していきました、、幼少期に、、、これを悟りでもやるのです、、、、宇宙の俯瞰を七年間かけてやればいいのです、、言葉を覚えた時のように。

全反射

見かけ上の私が理解した悟りは全反射です、、、全ての現象はこの反射の塊、反射の永続、反射に次ぐ反射、、人間の言葉も感情も、行動も全生命の活動も反射が起き続けている、、、、その様は無限、、視点を変えれば無限の現れが続く、、、それを感じる、、その感じ方はまた無限、、、この無限の感覚、経験こそがそれだけが真実、、それ以外は幻想、、、この経験の寄せ集めが神、無限、空の存在、、、無限の経験の寄せ集めです。

全不自由意志

全部の行動、思考、活動はただの反射ですからここをコントロール存在「自分」など絶対に居ません、、自分という実在は当たり前に居ません、、、、全反射が起き続けるだけです、、この事実の圧倒的理解は、、究極の安堵です、、、この安堵感は恍惚状態であり、、、誰にも奪われることがありません、、、反射によるトラブルは毎日のように起きても、、、それが反射であるという圧倒的事実を把握した今、、、感情が乗ってこないのです。

形への同一化

幻想に同一化する

この体は幻想です、、100%幻想です、、この100%幻想であるこの体の中に自分というのが居て、、その自分として生きることでこの苦労がスタートします。100%幻想であるこの体の中に自分が居ると100%信じて生きているのが我々の真実です。これはどこまでいっても勘違いですからこの勘違いからくる苦しみからは解放されることはありません。

体が幻想????

そんなはずはない、、、体はしっかりと感覚を持っている、、、、そうではないんです、、五感で感知できるということのみです、、これだけが真実です、、、それ以外は全く証明できません、、、これが体が幻想である証拠です、、、ですからこの幻想の中に自分が居てという初期設定を辞めます、、、、幻想を幻想と見抜き、、自分の存在を無視します。

思考を観察する

思考を観察してみてください、、、多くの思考は、、自分という存在ありきの思考ではないでしょうか??それらの思考は完全に無駄です、、意味がありません、、、実在しない私に関するあれこれは無駄になります。そしてそこに付随する感情、、これらも意味を持ちません、、、全観念は私が居るという前提で構築され、、それに付随して感情が湧いているはずです。

その時起きること

そんなファンタジーのような発想は危険???違うんです、、今まさに我々はそのファンタジーに取り込まれ、、ファンタジーに閉じ込められているんです、、だから苦しい。全くもって実在しないこの世界で、、そこを見破れずに生きています、、、我々は経験、感じる、、という100%真実に立ち帰る必要があります、、この感じる、、、という実感(実在ではない)にしっかりと意識を向けます、、この実感の世界に意識を向けます。。。嘘の実在には目を向けません、、嘘の実在についてあれこれ考えても無駄です。

実在から実感へ

今目の前に幻想がある、、これは100%事実です、、、そしてその幻想に触れる、、100%事実、、そしてそれを口に入れる、、感じる、、、それも事実、、、この事実はこの世界の真実です。逆言えばこれ以外は真実ではありません、、、TVニュースで、、地震で五名死亡、、、これは言葉です、、言葉が作ったファンタジーです、、、幻想です、、、事実ではありません。。

この世界は無限の不在でできている

この世界はどう考えても無限の不在で構成されています、、、無限の不在なのですから見えるもの、触れる物、、、全部が全部不在です、、実在ではない、、、、ここをしっかりと認識する、、、すると今まで流れていた実在を前提にした思考が止まります、感情が止まります、、、静寂が増えてきます、平和が増えてきます、、、これらの静寂、平和は、、、これまで感じたことがない、、、いや幼少期に感じていた、、本当の静寂、、真実に触れる静寂です、、、そして、、触れている私も不在なのですから、、、不在の世界に漂う静寂に気づきます。

自動反応を観察する瞑想

全ては自動反応

縁起、因果、、、仏教では現象の仕組みをこの二つの言葉で表現します、、自動反応、自動プログラミング、、なんでもいいのですが我々の行動、思考、感情の全ては自動反応で起き続けていきます、、、本当に絶え間なく起き続ける、、、これをコントロールできる個人は実在しません。ですから生まれて死ぬまで、、、この活動がひたすらに起き続けて死ぬのです、、、完全自動現象システムです。

これをただ観察する

完全自動オートメーションシステムならば我々は何をすればいいのでしょうか???ただ観察します、、、ことの起こりを観察します、、、何を経験し、何を思い、何を行動するかを観察すればいいのです、、、瞑想です、、、圧倒的他者になってこの動きを見守ります、、、するとそこに静寂が広がります、至福が広がります、明晰が広がります、、、観察者ですから湧いてくる思考をどう処理するかが湧いてきません、、、怒りに対し、孤独に対し、どうするかが湧いてこなくなります、、、思考、感情のラリーが止まるのです。

二日酔い、、、

二日酔い、、多くの方は反省します、、、なぜ飲みすぎてしまったのか???あそこで止めておけば、、、違うんです、、、二日酔いが起きた!!!で終わり、、、そういう自動反応が起きた、、、で終わり、、、、また観察者に戻ります、、、自動反応を見守る存在として経験だけを感じていきます、、、24時間瞑想状態、、この状態が至福、静寂、平和です。。。。そしてそのうちに観察者でもなくなります、、、