解放

私は体、思考、感情でもない

移りゆくものが自分であるはずがない

我々はこの体、思考、感情を「私」と決めつけて生きています。決めつけるためには確固たる保証が必要です。何かしらの決定だがなければ本当はそれはできないことです。これが自分であるという決定的保証、これを求めます。それが「我在り」です。間違いなく存在しているというこの感覚、この感覚を「自分」が居るという決定打にしているのです。ですがこれは間違いです、在るという感覚は間違いなく在りますが、、「自分」という感覚は嘘です。全部思考です。

「自分は嘘」だから疲れる

冷静に考えてみれば、、自分自身でただ居るだけならば疲れないはずです、、、そのままだから。でも会社に行っても学校に行っても夜になれば疲れを感じ寝ます、もしくは会社に居る間も疲れを感じています。なぜ疲れるのでしょうか??それは自分という存在が錯覚、嘘だからです。自分という存在は思考が考え出したアイデアです、自分という収縮した思考パワーです。

自分が溶ければいつでも全体

自分という存在は本来ないのでこの全体の中に溶けてしまえば自分は終わります、これが悟り、解放、解脱です。ではどうしたら自分は溶けてなくなるのか???それはこの自分という存在がなぜ今まで存在していたかを見抜くことです。自分を維持するメカニズムに気づくことです。自分を維持するために思考はこの自分が確実であるという思考を絶えず湧かせ続けています。本当を言えばただその思考が湧き続けています。

人類は進化の後退ではない

苦しめるというとこまで進化がきた

自分という存在、私という存在、、これらは錯覚ではありますがこの感覚を持てたのは生命の進化です。この私は苦しみ、居心地の悪さを感じ、違和感を感じる苦しい存在ではありますが、、だからこそ全体を再体験するというとんでもない経験をすることができる資格を持っています。これを体験できる植物は存在しません。人間だけが苦しみの先に全体への再統合というビッグプロジェクトを抱えることができるのです。このプロジェクトの最重要事項は個人としての苦しみです。

苦しい、楽しいを超えて

二元のストーリーの中での苦しい、楽しい、、は全部夢の中での一瞬の体験です、楽しいと思っていたら苦しいに変わり、、また楽しいに変わる、、、この安定しない状況こそが「苦しみ」です。だから人間は無理くり安定を作り出すために知恵を集め終身雇用などの制度を作り出したりします、ですがこれが人間の不安感を完全に払拭することなど不可能です。人間がこの夢の中で作り出した制度が人間を幸福にできないことは明らかです。この楽しい、苦しい、面白い、つまらない、、、の二局の世界にいても真の幸福はない、、ここにいかに気づきそこから抜けることに意識がむく時に人は再び全体に戻る準備をします。

二局の世界への諦め

楽しい、苦しい、快適、不快、面白い、つまらない、、、この二局の世界に可能性を感じている限り人間は苦しみからは解放されません。この二局の世界には真の安定は存在せずどこまで行っても不安定です。そうです、この二局の世界にいる限り真の安定、安心、安堵はないことに気づくことこそがこの二局の世界の真の目的です。そしてそれに気付いた生命体「人間」は意識的に全体に戻るという神そのものの行為にたどり着きます。だからこそ人間社会では神という言葉が普通に使われているのです。これは偶然ではありません。

全力で神を追い求めることで神が隠れる

行動が個人を強化するという矛盾

ある時人はこの苦しみに終止符を打ちたいと神を求めるようになります。世の中に宗教がこれだけ多いのには理由があるのです。多くの方は神を求めます。ですが矛盾するようですがこの神を求めるという行為そのものが「個人」「私」を強化することになり「神」が隠れるという結果になります。なんという皮肉でしょう。ですがこれが事実です。個人は何かを叶えたい時に行動に移します、行動するのは「個人」「私」です。ですが神とはこの「私」という意識が欠落した状態です。私という収縮したエネルギーが解放された状態のことです。

我々はこの「個人」が何かを達成するよう訓練されてきた

悟りというものがなぜいかに難しいことかと言えば、、、これまで個人がやってきたこと、成し遂げてきたこと、成就してきたこと、努力してきたことと全く逆ベクトルな場所にあるからです。目標を達成した「自分」、周囲から評価を得ることができた「自分」、地道に努力して何かを築いた「自分」この自分というエネルギーが居なくなった状態が「神」意識です。このカラクリに気付ける「自分」こそが神です。

それでも「個人」は神を追い求める

ただしこの「個人」が神を追い求めるのは全くもって自然なことでありそれが間違っているということではありません。それが普通です。個人は常に欠乏感、不足感を抱えて生きていますから、、それをどこかで解消したいと心底では強く願っています。そしてそれが何かを達成することでは成し遂げられないことも実は知っています。そうなるとその解決を神に求めるのは当然のことです。ですが真の理解とはこの当たり前に認識し続けてきた「自分」という存在こそが神を見えなくしていたという気づきです。「自分」という認識エネルギーの消滅が神を顕現させます。

自我から解放された腕全体は大活躍するが、、、

自分との同一化から外れた後の罠

完全分離した指であるという錯覚から抜け出した腕は、、腕全体の一部である指を完全に取り戻し、、指を自由自在に操れるようになります。指から重さが抜けることで腕は今まで以上に指を世の中で活躍できる機能にします。周囲からの評価もいい、、、ところがです、、、ここで眠っていた自我に火がつきます。今回の指の活躍こそは自分の手柄だという主張です、思考は再び指に成り切るとこで徹底的に今回の活躍を自分のモノにしていくのです。これが怪しいカルト集団のリーダーのカラクリです。

なぜこのようなことが起きるか???

このような悲惨な結果が起きてしまう理由はなんでしょうか???単にコンフォートゾーンが完全に腕にシフトしていないからです。指であることにコンフォートゾーンがまだまだ在るということです。本当完全独立分離した指などは存在しないので、一旦自身は腕全体なのだという気づきが起これば再び指に戻ることは考えにくいのですがあまりに長い時間を完全分離した指として生きていたので何かのきっかで指に意識が戻ってしまうということです。

コンフォートゾーンを完璧にシフトする

思考とは腕全体にシフトしたコンフォートゾーンを指に戻すための道具です、ですから思考の湧き出しに対し不注意になると指に戻ります。湧き出してくる思考に注力してしまうと、かじりつくと、、完全独立した指で在るという大いなる思い込み、錯覚が起こってしまうのです。要は簡単なことです、思考というものを真に受けないということ、ただこれだけです。思考の策略に対し意識的で在るということです。

ストーリーからの解放

多くの方は理由を気にする

多くの方はなぜこれをやるのか、どんなきっかけでこれを行うのか、どういう志望動機でこれをすることにしたのか???その背景を気にしますし、それがない行動に違和感を覚えます。何か大きなアクションをするならばその経緯を教えてくれ、、このような発想に陥ります。ですがこれは思考の世界の中に居る人の発想です。思考の世界に居ると動機やきっかけ原因を気にします。というよりも思考の積み重ねを重視します。ですがこれはどこまで行っても重い世界なのです。

軽い世界はきっかけがない

非二元の世界、無心、無思考の世界にはきっかけがありません。ただひたすらに衝動があるだけです。何かをしたくなった、それで終わり。そこに理由や原因は必要ないのです。二元に生きている人は何か理由があるはずだ、それを教えてくれと聞いてきますがそれこそが思考に取り込まれる罠です。そんなものは必要ないしそれをあえて考えることで重い世界に入り込んでいきます。

アクションに対し理由がある方が分別があるとする罠

志望動機がしっかりとある方が素晴らしい、大人、、このような発想が蔓延しているのが二元の世界です。ですが非二元の世界ではこんなものはないのです。ただやりたいだけ、ただやってみたかっただけ、、常時その感覚です。それでいいのです。思考はそれを許しません、何か大きな目的があるはずだ、どんな辛い過去があってそれを目指すのか??なんなら無理くりでも作ってくれ、、こんな感じです。せっかくの軽い行動がこれによって重くなります。

自分の一番の恐怖は自分の消滅

神はこの人間の体に閉じ込められさらにこれを消滅したくない

神とは本当に矛盾を秘めた存在です。この体に閉じ込められ非常に苦しい思いをしているにも関わらずこの自分を消滅させたくないと思っています。苦しいにも関わらず自己を存続させたいと願っています。なんという自己矛盾、ドM体質と言っていいでしょう。アメリカ南部で奴隷解放運動が起こった際にそこから奴隷を積極的に辞めた人間が少なかったという事実があります。つまりこの自我とはどれほど苦しくても今存続できているならばそれでいいのです。

コンフォートゾーンはそれを完璧に説明している

苫米地式コーチングのコンフォートゾーンは自我のこの働きを完璧に説明しています。自分に成り切った神はその状況がどれほど苦しくても「自分」が存続できているならばそれを維持したいのです。だからこそ進化することを嫌います。進化とは今までの自己の消滅だからです。自分が進化を継続していけば行き着く先は自分の消滅です、なぜならばこの自分は錯覚だからです。

自分のセルフイメージを上げ続けていく

自分とはこういう人間だ、このセルフイメージを常に進化させていきます。「自分」という存在をなくすのではなく「自分」を進化向上させ続けていきます、するといつの間にか「自分」=「神」になります。マズローの欲求五段階説のように自身の欲求を進化させていき、、最終的に「自分」は神であったという境地までセルフイメージを上げていくのです。このやり方ならば「自分」の消滅を極端に恐れる自我を上手くコントロールできます。

神はその段階での遊びをしている

身内であればあるほどに

身内の人間、家族や、親、子供など、、、親しい人であればあるほどに苦労しているように見えると知っていることを伝えたくなります。もっとこうすればいいのに、もっとああそればいいのに、、、ですがこれは大いなる存在のパテストリーアートを否定しています。大いなる存在、宇宙の現れにおいて間違いは何一つありません、ですから当然そこに改善しなくてならない現実は一切ないのです。赤の他人であればそれもできますがなかなか親しい人間となるとこれができない、、何かアドバイスをしたくなるもの、、、ですがこれはあくまで宇宙の表現、たった一つのエネルギーは織りなすアートです。本当はそこに分離した何かは存在しないのです。

何か言いたくなる、、、身内には

何かをアドバイスすのが悪いわけではありません。ですがあなたの目の前にはたった一つのエネルギーが織りなすパテストリーがあるだけ、、この事実を忘れてしまいます。我々の目の前には後付けされた名前によって分離された幻想が広がっています。これに当然身内の人間も騙されているわけですがかと言ってそれすらも完全な宇宙の表現です。何一つ間違ったアートはないということを認識した方がいいです。もしも身内が苦悩に打ち拉がれているならばそれすらも完璧な宇宙の現れです。

少なくとも、、、自分は人間であるという勘違いを解消させてあげることは不可能

究極的なことを言えばこの体、思考、感情を「自分」と捉えている間は苦しみから解放されることはありません。それがいかにハッピードリームに見えても夢は夢です。この自分がいて他人がいて、バラバラの物質が配置してあるというこの人間の大前提は思考が作り出した幻想です。この幻想の中にいる限りはどこまで行ってもこの居心地の悪さは解消されないのです。ですから下手なアドバイスをしてもほぼ意味がないということになります。

なぜ我々はこの「体、思考、感情」のみを自分として生きていかなくてはいけないのか?

人間の相互洗脳

人間は長い歴史の中でこの体、思考、感情を「自分」と決めて生きてきました。生まれてきた子供にこれを教え伝え当たり前のこととしてこれを伝承してきました。ですがこの取り決めを継承し続ける限り人間の苦しみを解消することはできません。人間はどこまで行っても苦しみ、孤独、退屈、不足感を携えて生きていくことになります。この体、思考、感情を自分とする決め事を解放してしまうことを悟りと称しますがこれも一種のひっかけ問題で悟りというとんでもない難しいこと、チャレンジとすることでこれを不可能にする自我の策略が垣間見えます。

これは全く難しいことではない、、

この体、思考、感情を「自分」としそれ以外を「自分以外」とする人間としての共通認識はそれが当たり前過ぎて誰もこれを疑いません。ですがこの共通認識を受け入れている限り、苦しみから解放されることは絶対にありません。それでも人間続けますか?という話です。苦しみから絶対に解放されないことが分かっていて人生を延々と続けていけるとしたら完全なるマゾです。私は絶対に嫌です、そんな分かり切っている人生を歩むのは。この体、思考、感情を「自分」とするのは個人の自由でありそれをしないと決めて生きていってもいいわけです。

誰も至福に至れないこの人間同士の取り決めは辞めていい

この体、思考、感情を「自分」とする取り決めで国家は成立し、法律も成立し、全ては動いていますから突然それは勘違いであるというメッセージが共有されても迷惑千万、意味不明です。ですからこれは個人的にこれを理解すればいいだけの話です。あまりにも当たり前の大前提、この体、思考、感情を「自分」とすることで人間は苦しみから延々と解放されない宿命を抱えています。もしもそこから脱却したいならばこのトリックを見破ることです。

マリオは気づいた、苦しんでいるのは自分だけだ

マリオゲームで苦しんでいるのは自分だけ

マリオゲームの中で感情を持っているのはマリオだけ、マリオだけが苦しみ、楽しみ、喜び、落ち込んでいる。クッパもプヨプヨもノコノコもクリボーも苦しんでいるようには見えない、、これがマリオゲームの真実です。人間ゲームは違う、自分は確かに苦しんでいるが、、他の人間も苦しんでいる、、、いやそれは違います。この人間ゲームはそのようの見せているのです。苦しんでいるのは自分だけではない、、そう見せています。ですから覚者は問う者に伝えます。あんたがただ解放されればいい、あなたがただ真実に気づけばいいのだと。マリオにとってクリボーの存在が関係ないように、この人間ゲームも私が真実を知ればいい、ただそれだけです。

楽しめるのもマリオだけ

この人間ゲーム、自分だけが世界中の不幸を背負っているそのように見ることもできますが楽しめているのはこのゲームの中で自分だけです。だから楽しみを何も考えずに追求すればいいのです。他者は所詮ゲームの脇役キャラでしかないのです。ただこの楽しみを追求するのがまた厄介でそれはそれで骨が折れるのです。楽しみ続けるって実は難しいのです。買い物を追求しても、食事を追求しても、異性を追求してもハードルは上がるばかりです。もしくは途中で飽きます。

全体から分離しているのは自分だけ

この自分ゲームにおいては全体から分離してるのは自分だけです。この体と言い切るのも間違っています、例えば腸の動き、血液の動きなど自身が全く感じることができない動きは全体が行なっています。足を動かした時にそれを感じるのはそれを行なっているのは自我、自分だからです。体全部が自分が動かしていると思ったら大間違いでほとんどは全体がこれを行なっています。全体が全体としてそれを行う時、それを感じることはできません。例えば傷を負ったとしてもそれを治すのは全体です、ですから傷が治る感覚を得ることなく勝手に傷が治ってしまうのです。思考がわき起こる時にそれをしっかりと感じるのはそれについては異物(自我)が関係しているということになります。

記憶こそ大いなる勘違いの集積

自分と記憶はセット

人間の記憶とはなんでしょうか?人間の記憶とはこの体が経験したこれまでの集積ということになります。この体が経験した集積とは自分ストーリーそのものです。人間は歳を重ねるに従い自分という思考が強固になっていくのはこの記憶をベースにしているからです。あらゆる経験を重ねていけばいくほどに自分は何層にも重ねられていき大きくなっていくのです。またこの自分という存在に絶対的確信を持つようになります。それは記憶された経験があるからです。

自我形成に伴って分離感が増していく

自我形成、自分形成はこの脳の記憶がベースになっているのですが、それ自体には何の問題もありません、もしも問題があるとするならばそれに伴い分離した独立した自我、自分感が同時に増していくことです。分離感が強まれば強まるほどに自分を守らなくてはという思考、感情が湧き出しそれはこの人間の体を守るために大変有効です。ですがこれは同時に分離感、孤独感、不足感を湧き出させる原因にもなるのです。人間がどれほどの独立性を維持しようとも全部は神のエネルギーで形成されていますから神でなくなることは不可能です。ということは全体、神が、、、独立性だけが大きなった存在になってしまったということになります、全体の中で。最大の矛盾、パラドックスが生まれるのです。

人間とは「苦」である

こういうメカニズムから独立した、確固とした大人ほど苦しみが多いという悲惨な事実が生まれます。大人、自分として成熟すればするほどに分離感、孤独感、不足感が湧き上がっていくのです。このメカニズムを生み出したのは神、全体であり全ては神の遊びです。ですからこの事実は決して想定外ではありません、むしろこれを経験するために人間を生み出したのです。ですがこの事実を理解できる段階に至った人はもうこの苦しみから解放されてもいいかもしれません。人間ゲームを心底遊び倒し、辛酸を舐め尽くし、七転八倒し尽くしたならば次の段階にシフトする時期かもしれません。