解放

個人を手放す

手放すというよりも、、、

手放す、サレンダー、解放、、、あらゆる言葉がありますが、、、どうしても悟りの言葉というのは、、個人が何かをすることをイメージさせます、、、個人が強烈に匂います、、、これは至極当然のこと。。。。ですがこの認識のまま悟りを学んでも、、入りにくい。。。どうしても個人の観点から本を読んでしまうからです。どちらかと言えば、、、一回個人という観念を外して完全なるフラットな視点で読めば理解できるかもしれません。

誰目線???

この世界は、、、個人という絶対的存在が間違いなく居るという前提で全てが構築されていますから、、、それがない、、、、なんて言われてしまっても拒絶に次ぐ拒絶です、、それで終わり。個人が居るという観念が、、全思考、全感情、全行動を起こしてこの個人を守っていますから、、、拒絶が半端がないのです。ですがそれは至極当然のこと、、、それも完璧です。

やられた!!!!

最初の気づきはこんな感じです、、、、確かに個人はいない、、、相手もいない、、、誰もいない、、、やられた!!!!!騙されてた、、、、まあしょうがないか、、、ですね。。。こんな流れです、、、気づきとは。。覚醒という大袈裟な言葉に違和感も感じながらもとはいえ、、この気づきは、、、人生の中ではトップクラスの気づきです。それは間違いない。

ないモノにエネルギーが収縮していた

エネルギーの収縮だけがあった

私というのは私が居るという言葉で作ったイメージに対しエネルギーが収縮していた状態です、何もないもの(イメージ)にエネルギーが収縮していた状態です。このエネルギーの収縮が起きなくなった状態、、これが悟りです。もうそこにエネルギーが集まらない、エネルギーの収縮が起きない状態です。自分をしっかりもって、、、これは自分というイメージにエネルギーが収縮した状態です。

収縮の解放

そもそもが何もない、、イメージに、、、エネルギーが収縮し、、、自分が居るという感覚が起き上がっていました、、、ところがそれがない状態、、、自分という感覚を持てない状態、、これが悟りです。ただ機能としてのこの体が残り、、思考感情行動が起こりますが、、、それを自分のモノとする感覚がおきえない状態、、、

陽が転じて陰になる

自分というイメージにエネルギーがガッと集中し、、この感覚が生まれ出しているのですが、、、この集中が極端に行けば行くほどに苦しくなる、、、このエネルギー、気の集中が解放されますと、、、、エネルギー、気は真逆のベクトルに解放され、、世界が全部になります。

視点の解放

悟りとは視点を解放すること

私が対象物を見る、、、、私からベクトルが対象物に行きます、、、そしてその対象物を捉え、、、その対象物を確認します。。。。これが私物語の基本です。私という視点から始まり、、対象物という終点で終わります。悟りとはこの視点が完全に無くなることです。見ている「私」を消滅させるのです、、、そして現象は現象を起こした存在が確認している、、という概念に切り替えます、、、ここは概念です、、、本当は、、、現象は現象を起こした存在が認識しているのでは????という概念を起こします、、、、すると、、それは真実なので、、、本当だ!!!!という体験が起きます。

マジックの種明かしの動画を見る

プロマジシャンのテクニックは何百回見ても、、騙されます、、、、何百回何千回見ても、、騙されます、、、、、ですが種明かしの情報を得ると、、、、騙されなくなる、、、、不思議です、、、なぜか????視点が変わるからです、、、マジックとは視点を利用したテクニックなのです、、、、物事は、、、物事を起こした存在が気づいている、、、、この視点、概念を信じてみます、、すると本当にそうだ!!!が起きます、経験として。

悟りとは宇宙が作り出したマジックの種明かし

悟りとは宇宙が作りだしたマジックの種明かしです、、宇宙そのものを今出現させている存在が作り出したマジックの種明かしです、、、、種明かしを聞いてからマジックを見るとあら不思議、、、マジックに騙されない状態になります、、、、ですがこの段階に行くには、、、種明かしに興味が湧く、、、というプロセスを踏まなくてはなりません、、、そして種明かしを聞いてしまったらもうマジックを楽しめないですから、、、究極の決断が起こるのです。

体からの解放

体を空の通り道と捉える

人間には気というエネルギーがありますがエックハルト曰く「気は空から物質を作るためのエネルギー」だということです、、、私は毎日体のマッサージをしていますが気を通していくと空からエネルギーが湧いてきているという感覚を得ます、、、なぜか自信がある、、この自信はどこから来ているのか????空から気を通じて元気が来ているということです。この体は空からの現象化であることは間違いがない、、、体をマッサージすることでこれを感じます、、

気を解放して空からの起こりを促す

全経絡を解放し、、空から気を通すことを積極的に行なっていきます。もちろんこの動きは全自動ではありますが、、、どの部位が気が通っていないかを観察しながら感じていきます、、この感じるは誰がやっているのか????気づきの意識です、全体です、真我です、在るがそれを感じます。マッサージとはこの体の気の流れを直接解放し空との回路を開くことになります。

空の認識がさらに気を通す

空の認識が深まっていきますと、、そこに意識が向きます、、すると、、空からこの色(体)への現象化が強化され体が強化されていきます。。この体が本当の意味で空と色との通り道になるのです。マッサージで体の中に隙間を作り、、気の巡りを良くすることで、、空を直接体感する体であり、色を体感する体にしていきます。

どちらが居心地が良いか

自我、無我

覚者は、、、孤独感、不足感、焦燥感、から解放されます、、、この私というイメージ、妄想が、、この物語を作り出し、、、この中に収まっていますと、、、孤独感、不足感、焦燥感が湧き出してきます。この事実を見抜き、、この物語から脱出したのが覚者です。この体は勿論残りますが、、この体の中に私というアイデアがありません、、構って欲しいという衝動も起きないのです。話しかけられた時に、、「私」というアイデアを想像し、、その時は「私」として振る舞います。ですが会話が終われば「私」というアイデアは消滅し、、全体に戻るのです。

体とは無我そのもの

体とは無我の表現、真我の表現そのものです、、、体は自我ではありません、、自我は体が生み出したアイデアです。。。。ですから静かに体と共にあるとき、、無我です、、、体をマッサージして、、緊張を緩めれば、、自然と無我に入れます、、、、マッサージの心地よい感覚、、これを感じているのは無我です、、、そのまま無我としてそこに在る状態になります。

真我が作り出した体、体が作りだした自我

自我とは突き詰めれば真我が作り出した、、真我が体を作り、体が自我を作った、、この自我の存在を実在だといく勘違いが起き、この自我実在ストーリーが作られました、時間という概念も作り、空間という概念も作り、、完全な劇場です。自我はどこまでいっても脳が作りだしたアイデアですからこの事実をしっかりと見つめれば自我は消えます、、自我ありきのストーリーも消えます。

孤独感を幻想と見抜く

私は一体何をやっていたんだろう、、脳が作り出した「私」というアイデア、、脳が作り出した、、分離社会、、この中で私という幻想がこの分離社会を生きるというでっち上げの中で生きていました、、、この体を安全に維持するのが最大の目的です。このことに気づきますと、、孤独感、焦燥感、不足感が湧いてこない、、、なぜならば私とは、、この世界そのもの、、現象そのもの、、大自然そのものです、、私とは脳が作り出した「私」というアイデアではない、、、それは100%。もうアイデアとして生きるのは終わり、、人と接する時だけ、、、「私」というアイデアをでっち上げ、、対応するだけ。

全人生に失敗は一日もない

生まれて死ぬまで失敗は存在しない

全ての思考、感情、行動が、、真我からの起こりならば、、、失敗というのは存在しなくなります、、見かけ上の「私」が世間的には失敗したように見えても、、それはただ起こっただけということになります。世の中に失敗という概念があるのは自由意志が存在すると信じているからこそです。もしも自由意志が存在しないのならば、、失敗という概念はなくなります。

生まれて死ぬまで成功も存在しない

全ての思考、感情、行動が、、、真我、根源からの起こりならば、、、成功も存在しなくなります、、、成功は比較で起こりますから、、、出来事が全部真我からの起こりであるならば、、、実在の成功者というのは居なくなります。。自由意志がないにも関わらずあの人は成功者だ、、、という認識が起きない。。。成功者という概念が途端に稚拙に思えてくる、、だって個人が成功させたわけではないからです。

全人類の解放

悟りとは全人類のパラダイムシフトです、天動説から地動説にシフトしたように、、、自己意識が超意識にシフトする、、、自己意識から自己が抜け落ちる、、、意識そのものになる、、、これが人類に起き始めます。生死は決して怖いものではなくなり、、、この体の消滅でしかない、、意識は何一つ傷付かず、、意識のまま、、我々は個人を意識していた意識そのものだったという気づきが起きます。

私は悟って金持ちになる???

分かっていない、、

悟ったらモテますか???金持ちになりますか???有名になりますか???人格者になりますか????全く分かっていない、、、、悟りとは自我、エゴ、自己意識の解放であり、、、この見かけ上の私がイメージに過ぎなかったという気づきです。主語がこの見かけ上の「私」から全体にシフトします、、、主語が全体になっている存在が見かけ上の「私」を生きることになります、、ただそれだけ、、、全体として生きるならば、、、やりたい放題ですよね???違うんです、、、この全体は何一つ、、自由意志はないのです、、、、、つまりこの見かけ上の「私」をコントロールなど全くできない、、、これまでもこれからも、、、

悟ったらどうなるかは何もわからない

悟とはこの世界を俯瞰した目で見えること、、、ただそれだけ、、、その中の動きにはまるで関与できない、、、という気づきです、、、、この見かけ上の「私」が今後どうなるかなど全く分かりません、、、ただし一つ言えることがあります、、、どうなってもかつての深刻さが戻ることはありません、、苦しみの原因が分かり、、、また苦しむことができないのです、、、苦しみの原因が分かったって苦しみに飲み込まれることはありますよね????ないんです、、、苦しみとは巻き込まれる見かけ上の「私」が主語の時だけです、、、巻き込まれる私が居ないんです、、、巻き込む動きそのものが私だったんです。

ブログを書く

見かけ上のこの私に気づきが起きた後、、、ブログを書くが起き続けています、、、ただそれだけ、、、書けば書くほどに気づきが深まっていきます、、、、なぜ書くのか???ただその衝動が起き続けます、、、ストーリーとしては思考はあらゆる意味を付けますが、、、書くが起き続けています。一つ言えること、、、この安心感は味わったことがない、、、動かなくてはの、、、衝動が起きない、、、しなくてはいけないことが一つもない、、ただ淡々と行動が起きる、、、面白い世界です。

責めるべき相手は居ない

全部が全部真我から起こっている

この世界の現象ではどのようなラベルが貼り付けられた人であっても、、、全部の言動は勝手に起きます、、例えば総理大臣というラベルが貼られた人でも、、、関係なく、、犯罪を起こすという現象が起きる可能性があります、、つまりこれはもぐら叩きと同じで、、どの穴から何が起きるか全くわからないのです、。どのラベルにもそれをコントロールできる力がないのです。

聖人君子

成人君子と呼ばれるようなラベルが貼られた人でも、、、、悪行が突然その人を通じて起きる可能性がある、、、ここは全くもって誰にもコントロールができない、、、成人君子にはそこをコントロールする力がないのです、、、ですから彼を叩くのも筋違い、、、になります。この世界においてこの体から起こる言動をコントロールできる人はいないのです。。

究極の脱力

この感覚を一生追い求めていました、、、自分に全責任がない、、自分には自由意志もない、、そして自分すらラベルに過ぎない、、、この脱力感、無責任感、、、、これを最初から求めていたのです、、、全部が全部大人であるあなたに責任がある、、、これを学習し、、重く重く考えてきた、、、だから失敗したくない、失敗できない、、が湧き続ける、、、、ここからの解放、、、無責任感

絶対失敗したくない

最初はここから始まる

自我が形成されれますと、、、一回の人生絶対に私は失敗だけはしたくない、、このように思うようになります、この見かけ上の私は、、、ですが、、輪廻転生の話を聞き、、そうか人生は何度でもあるんだ、、となると途端に今世は失敗してもしょうがない、、こうなります、、、、その次に実は自分なんてイメージ、概念、幻想で、、本当は存在すらしてない、、と気づきますと、、、絶対幸福になります、、今生きてこの場に居るだけで嬉しい、、です。

そういう意味では輪廻転生は価値がある

輪廻転生という発想、思想、概念は、、自我が存在するというイメージを強く持つ場合大変有効です、、自我はむしろ死んだ後もこの自我が続くのか、、と安心します、、、ですからそういう意味では非常に良いアイデアです。。ですがあくまでこれはアイデア、、私もアイデア、輪廻転生もアイデアです、、、このアイデアの世界を継続させることが一番辛いのです。

失敗も何も失敗する自分がアイデアに過ぎない

私は絶対今世失敗したくないんです、、失敗するのは誰ですか???私です、、でも私って、、言葉が作ったアイデアですよ、、実在はありません、、この体(イメージ)を所有しているいうことにしたアイデアです、、アイデアがどうしたら失敗し不幸になることが出来るのでしょうか???勿論見かけ上、この体は多くの失敗をするかもしれません、、ですが、、その失敗をした「私」はアイデアです。そもそも私という存在が居たのではなくこの体に私というラベルを貼っただけです。その証拠に無人島で生き延びた人には「私」は居ないんです。つまり私の失敗も私の人生も存在しないのです。

これは「私」を辞めることではない

とはいえ社会で生活する我々が「私」を辞めることはできません、、便宜上「私」は必要です、、ですがあくまでこれは便宜上のアイデア、概念、幻想です、、、社会生活を便利にするために「私」という言葉が使われ始めただけに過ぎません。そこに気づくと「私」の幸福ではなく、、今この場所が静寂、平和そのものなのが分かってきます。「私」というアイデアから解放され、、本当の静寂を感じます、、感じるのはアイデアとしての「私」ではなく「私」から解放された全体です。

探求が真我を隠す

探究とは???

探求とはこの個人が真実、悟りを発見するというイメージの世界での活動です、、、ですからこの探求活動はイメージの中で行われていきます、、、それゆえ、、、このイメージの中ではこれは成し遂げることができません。むしろ活動こそが真我を隠す結果にさえあります。では探求しないでいかにして悟りにたどり着くかという話です。

探求ではなく、真実をただ理解する

矛盾するようですが、、この探求という活動が、、いかに真我、真実を隠すかを理解してしまうしかありません、気づきと言ったほうが良いでしょう、、、探していたはずの個人が実がイメージの中の存在だった、、そのイメージが強化されることで、、この苦しみが始まったのだという絶対的理解です。個人という存在がいかにこの世界に苦しみを生み出すかという絶対的理解、、これだけが救いです、、この救いはイメージである個人を救うのではなく、、イメージの世界からの解放です。

探求活動すらも

探求活動、、この活動は真我が作り出したイメージ上での活動です、、、この活動が悪いということは全くないのですが、、この活動が、、苦しみという感情を自動発行します、、この活動の中が苦しいということで、、、さらにこの活動を活発にすれば益々苦しくなる、、、、だからもうこの事実にどこかで気づくしかありません。個人という人間活動が悪いのではなく、、ここは苦しみを作り出す場所なのです。。。この活動を作り出した真我、、そしてこの活動に気づき続けるのも真我、、二つは一つで、、、それが本当の私です。