覚者

「私は在る」の上で全生命活動は行われている

全生命活動は「私は在る」の上で起こる

全生命活動共通の感覚「私は在る」この感覚の上で我々の生命活動は行われています。この感覚がない場所は一切ありません、この「私が在る」が全生命活動の基盤です、、、この基盤から離れれば苦しくなり、この基盤と近ければ平和、歓喜、安堵です。人間はこの「私は在る」の基盤の上で思考活動に入り、、「私は在る」から離れていきます、完全に離れることはできませんが、、そうなると苦しいが湧いてきます。動植物はこの「私は在る」から離れることができません、ですから常に平和の中にいるのです。

「私は在る」の上で思考活動が続く

覚者は悩める迷い人に「何もするな」と提案します。なぜならば何もしなければ「私は在る」しかないからです。ですがこれを多くの人はすることができません、思考し、行動し、、、、どこか満たしてくれる場所を目指すのです。ですがそんな場所は存在しません、「私は在る」が既に土台に在るからです。にも関わらずどこか遠くに満たしてくれる場所、桃源郷が在ると夢見るから我々は夢の中に居ると言われます。覚者はそこを指摘します「今ここに全部ある」と。

「私は在る」はどこにも行かない

我々は最初から最後まで「私は在る」以外の場所に行くことができません、ここがホームです。これ以外の場所で活動は絶対にできないのです。一度たりとも平和、歓喜、安堵というホームから離れたことがないのです。ですがその中で思考は思考します、、これを達成すればこれが叶えばこれさえ手に入れれば、、私は幸せになれる、、と、、そして思考が湧き続け行動が湧き続け慌ただしい生活を続きます。足元には常にホームがあるにも関わらずです。ですがこの人間活動こそを「私は在る」が経験したかったことでもあります。

指を指たらしめているのは「思考」

思考がなくなれば腕全体と指の境目は消える

我々はこんな簡単なトリックに騙されてきたのか????これが覚者が悟った後に気づく感想です。こんな簡単なことなのになぜ気づかなかったのか???悔しい、、、、要はこういうことです。腕全体の中の指が独自に思考を操るようになり、、その思考によってこの指は腕全体とは何も関係がないという思考を持ちました。これは思考です、、、そしてその思考を通じてこの世界(腕全体)を眺めるとまさかの本当に指が腕全体から切り離されているように見えるのです。なぜならば我々が見ているこの世界は脳内で見ているからです。思考を信じ抜いた際には脳内ではそのように真実が変換されるのです。これが究極のトリック、人類が騙され続けてきたトリックです。そしてその騙した存在こそが思考と脳のセットです。この二つの存在によって我々は何万年間という歳月騙され続けたのです。

腕全体と指には境目はない!!

人間であればそんなことは全員が知っています、指と腕全体には境目はなく、、、人間が勝手に指という名称を使い出し指はこの世に誕生しました。ですが実際には腕と指には確固とした境目はなくこれはあくまで概念です。ですがそのように概念が作られ、さらに指から見える世界では指が完全独立して見えるならばそれはもう概念ではなく事実に置き換わるのです。脳というのは凄まじい機能を持っていて名前をつけた対象は脳の中で完全独立して見えるという事実があります。この事実こそが人間を全体から完全分離した存在であると錯覚を起こすことに成功しました。

脳のトリックを見破れ!!

人間は実はこの全体から全く分離独立していません、にも関わらず脳にかかってしまえば完全分離した存在に見せてくれます。脳のトリック、脳の幻想上映です。だからこそ人間はどこまで行っても腹が空く、満足ができず、違和感が拭えず、居心地の悪さが解消されないのです。これが人間という存在のカルマ、宿命、苦しみです。ですがこの事実に気付けたならばもう大丈夫、徐々に徐々に自身が全体であったことを思い出せばいいのです。

各指は自分が一番特別だと思う

特別になろうとする指

腕全体である神から指だけが独自に意識を持ち、この指は自分だと勘違いしたのが人間です。これによって指は独自の経験を積むことになり我が人生が作り上げられていきます。ですがこれは大いなる勘違いの上に構築された虚構ですから覚者はこれに気づきこれを幻想、ストーリーと称すのです。この指こと人間は、、自身をこの全体、腕から完全分離したという思考が機能しているので、、、常に心細い状態になります。心細い思考を自らこしらえておいてその心細さの原因に気づかないこの指は、、、周囲から注目を集めてこの心細さを癒そうとします、これも全部思考の策略です。要は特別であろうとするわけです。

競い合うように特別になろうとする各指

各指はそういう理由から我こそは特別だ、我こそは周囲よりも優秀だと自己主張を重ねていきます。ですが実際にどれほど特別だと思ってもらっても本来は指自身ではないのでこの心細さが消える事は絶対にないのです。そこでもっと特別にならなくてはもっと特別にならなくてはと必死になっていくわけです。これが思考の罠から抜け出せなくメカニズムです。

各指が自身を指だと勘違いしているのは思考

腕全体(神)から指だけが分離独立していると勘違いしているのは思考です。この思考が湧く出てくることで指は独自の世界を作り上げていきます。指は腕全体の中を動き回りそれによって空間、時間が生まれました。本当はそんなモノは存在しません。なぜならば「独立した指」自体が錯覚だからです。指は腕の一部でしかなく指という名称すら本来はないのです。ですが本来は無いにも関わらず指があると勘違いが進んでしまったわけですからこれはもうしょうがないのです。この事実を受け入れていくことでこのトリックに気づく以外にありません。

静寂から全ては生まれる

静寂とは気づきの意識

神を腕全体と考えると人間とは指です、指が突然意識を持ち、同時の活動を始めました。本当は独自の活動などはできるはずがなくただ起きた指の動きを「自分」がやったという思考が完成しただけです。その指は腕全体の中を動き回ることで距離、空間、そして行き着くための時間が生まれました、ですがこれは完全な錯覚です。本来指は腕の一部であって独自の動きなど起きようが無いのです。そしてその腕の動き、そこからの指の動きこそが生まれる場所こそが静寂です。腕の動き全体に気づく存在がなければ動きはありません。動くためには動かない何かが必要なのです。それを静寂から生まれると覚者は呼びます。

指の目線は独特

指の動き、指の視点は独特でして、、、指は指の価値観で腕全体を眺めます。すると腕というたった一つの物体が完全に分離して見えるわけです。体毛の一つ一つ、毛穴、皮脂、筋肉の筋、関節の凹凸、、これらが全部完全に分離した存在に見えるという魔法がかかります。指はこれらを観察し独自の解釈を加えていきます。これが指に例えた人間の人生です。指が腕の中を移動するのに本当は距離がないのが当然で指は腕の一部だからです。指の錯覚物語だけがあるということです。そしてその指の動きを静寂が観察します、指の動きは静寂から生まれます、腕全体の動きも静寂から生まれます。

あらゆる経験を積んだ指は腕の中で違和感を感じ始める

指が意識を持ち全行動を自分がやっていると勘違いしていくわけですがこの勘違いは疲れます、なぜならば勘違いだからです。勘違いというのは辻褄が合わないのですあらゆる局面で。本当に俺は指なのか??指の幸福は本当にあるのか?この自分とは一体何者なのか??あらゆる疑問点が湧いてきます。覚者は自分なんていないとい言う、、ではこの自分という紛れもない感覚はなんだ??これらの問答が自身の中で起こり始めると自分が実は腕全体であったという気づきが起こり始めます。指の部位だけを指してこれが自分とする思考がそもそも無理があったのです。

神は人間に化け、モノに化け、自然物に化け、、、

覚者はこの事実に気づいた

悟った覚者が話す言葉には多くの共通点があります。その一つがこの世は幻想であるという言葉、、ですが同時に違う覚者はこうもいいます、これしかない、、、なんのこっちゃです。この世は幻想なのにこれしかない???意味不明です。幻想にも関わらずこれしかないならば何もない、、になります。事実はこうです、、我々人間がみている世界は神が何かに化けた世界なのです、自分に化け、友人に化け、机に化け、コーヒーに化け、お金に化け、、、、全て神の化身ということです。化身ですからそこには実態がなく全て幻想ということですね。ですがその化身であるいう事実を見破った時に、、、ここに神が居るということになります。これしかないです。

絶対絶命の時にこれを見破っている

バンジージャンプをやった人ならわかると思います、、、終わった後に恐ろしい安堵感、歓喜、平和が襲ってくることを、、あれは何か????意味不明ですね、、、なぜバンジー後に平和が襲ってくるのか???バンジー中に思考が完全に抜け落ち、五感全開になり、、、今に強烈にある状態に、、、、それこそが非二元、神、無我です。その残滓が残っているため平和、歓喜、安堵に浸れるのです。だから多くの方はあの感動を求めて何度もバンジージャンプをやりに行くのです。なぜ30メートルも落ちて平和に襲われるのか????意味不明ですよね、意味完璧なのです。

思考が抜けたら平和安堵ならば、、、思考を放置せよ

思考が抜けると、、、平和、安堵、歓喜に襲われるならば、、、思考を放置すればいい、、、思考こそが苦しみの世界、幻想の世界に意識を導く道具ですからそこに乗ってはいけません。何もバンジージャンプをやる必要はないのです。思考が湧いたらそのまま放置です。山に籠もって修行などしなくても日々思考の湧き出しに意識的になり放置すればいいのです。毎日をバンジー後のように生きることができます。そこが無心、無我、非二元の世界の入り口です。

この世界に意味などない、意味をつけるのは常に思考

人生の意味

お相撲さんが横綱になる際にこれからの目標を書にしてマスコミに見せたりします。自分の横綱道を書にして覚悟を決めるわけです。ですが実際にはこの世界、本質の世界には意味など全くありません。そこには平和。歓喜、安堵がただある世界が広がっています。それが非二元、ワンネス、色即是空、大なる一つ、などと呼ばれます。それに気づいた人は仏陀、キリスト、覚者と呼ばれたりします。世界の本質には意味などなく、完璧だけがあります。

我々は完璧から生まれた突然変異

我々は宇宙の本質、完璧から生まれた突然変異です。ですがその突然変異ですら完璧の一表現です、ですからいかにこの人生が苦しいといってもあくまでも完璧という土俵の中で完璧を味わいにくい状況に入っただけです。ではどのように苦しい世界に入るのか?それが思考です、思考の世界に入り込むことで我々は一時的に苦しむことができます。酸欠状態に入れます。神が薄い、非二元が薄い、完璧が薄い世界に入り込むことができます。

思考はこの世界に独自の意味をつけその解釈でこの世を分断する

そもそもが完璧な世界ですからそこを不完全にするのは至難の技です、思考は価値観という観念を作り出しその観念でこの世界を分断していきます。我々が見る世界は思考の解釈抜きで見ることはできずそれゆえ思考がその思考によって独自の分断を可能にするのです。我々はこの視覚を通じた世界しか見ることができませんから独自の世界を生きることができるのです。こうして思考はこの完璧な世界を切り裂いてみてその中を生きる「自分」を作り出すのです。これが完璧な世界に苦しみの世界を作り出す思考のやり方です。

思考から抜ける

ではどうしたらこの苦しみの世界から抜けるか、、一つの方法は今にあることを強制してしまうことです。思考の世界は今にはありません。基本過去や未来です。今に強制的に居ることに慣れてしまえば思考の世界から抜け出ることができます。五感の感覚のみに集中します。雨の音を聞く、足が地面に触れる感覚を感じる、音楽が聞こえる感覚に入る、コーヒーを味わう、、視界に何かが入る、、、全ての感覚から思考へ入らないことです。思考が全五感から思考に入ろうとさせます、ですがそれをしない、、、これによって今という場所から出ない感覚を掴んでいきます。

五感、五感、五感、、非二元

今、今、今、非二元

五感を最優先して生きていくとは、今を最優先させて生きていくことにあります。今を何よりも優先しているか?過去や未来です。今は酸素量が多く、過去や未来は酸素量が少ない世界です。ですから覚者は皆今に居ろといいます。過去や未来ばかりを考えていると酸欠状態が続き苦しくなります。なぜ酸素が薄くなるのか、、簡単です今が薄くなるからです。今とは酸素そのものです。五感を優先させて生きていきますと今にしかいれません、つまり酸素しかない世界ということです。この世界で苦しむのは逆に難しいのです。

思考はいつも意識を過去未来に連れていく

今しかないのに、、、思考は好きあらば意識を過去、未来に連れ去ろうとします。そして酸欠状態を作り出しておきながら、、この酸欠を解消するためには、、、これをした方がいい、あれをした方がいい、あれが反省ポイントだ、、これが改善ポイントだ、、とさらに思考の波に飲まれさせます。この思考の常套手段を見抜くことです。何か苦しい、、と思ったら確実に思考によって過去、未来に連れ込まれています。直ぐに今に戻ることです。五感の感覚だけを感じて思考を追い出します。体は今にしか存在できません。

歩く時は思考を入れない

歩く際には、足が地面を感じる感覚、肩が風を切る感覚、歩行者の話し声、見える看板、道端の花々、、、これらをただ感じていきます。そこに思考を挟まない、、思考の世界に入らない、、これを練習していきます。そして思考が湧いてきたらただ放置する、、これにより今から離れることがなくなります。すると今がより今になっていきます、今が益々今になります。今がこちらに寄せてきます、今とは非二元、大いなる一つ、神です。

顕在意識(私)は潜在意識(神)が決めたことを私が決めたと錯覚を起こす

顕在意識はただひたすらに錯覚を起こす

顕在意識とは私のことです、この私は潜在意識(神)が決めたことを私が決めたとひたすらに錯覚を起こし続けます。本当は全部潜在意識が決めているにも関わらずただ健在意識はそれを私が決めたと錯覚を起こします。全部が全部このパターンで行われています。だからこそ無自覚であっても料理、掃除、食事、トイレなどの日常生活の行為は勝手に遂行されます。今私はタイピングしていますが自分が打っているという自覚は後付けでしかありません。

顕在意識が私が決めたと錯覚を起こすことすらも潜在意識が決めている

ということは顕在意識がこの錯覚を起こすことすらも潜在意識が決めているということになります。大変面白い事実です。結局のところ「覚者は全て自作自演であると言う」のはこの事実からです。潜在意識から昇ってきたきた衝動を顕在意識が自分が決めたと錯覚を起こし続けるメカニズムが人間(私)です。

何も決めていないならば何も反省できない

このメカニズムを知ると、、顕在意識(私)に決定権は何もなく、、、決定権が何もないにも関わらず慢心したり、反省したりするのは無茶苦茶な行為です。人間(顕在意識)に決定権が何一つないならばこの世界で行われている責任の擦り付けに何か意味はあるのでしょうか。ただしこの責任の擦りつけすらも潜在意識が決めてそれを顕在意識が錯覚を起こしているだけですのでそれすらも顕在意識には関与できません。この世は神の遊び場というのはどこまで行っても本当のようです。

一瞥体験は「自分=神」を垣間見ること

自分のコンフォートゾーンが神になった人は悟り、「自分=神」の体験は一瞥体験、覚醒体験

問答無用で我々はたった一つのエネルギーで構築されているにコンフォートゾーンがシフトしてしまった人は覚者です。実は自分は神だった、、、この体験を積んだ人は一瞥体験者、覚醒体験者、空感体験者でしょう。自分はいつでも神だ、、、ここにコンフォートゾーンがシフトしてしまったら全事件、全トラブル、全惨事をもう「自分ごと」にできない、、、この個人に起こる事件とは捉えることができなくなります。なぜならばこの個人、自分という感覚が圧倒的に思い込みであったことを知ってしまったからです。コンフォートゾーンがシフトしてしまえばそうなります。

それでもこの視覚、この聴覚、この嗅覚は機能し続ける

全五感が働き続け人間活動は今日も続いていくわけですが、、、、この感覚こそが神が人間にコンフォートゾーンがシフトしてしまった要因であることが腹落ちしますともうその手には引っ掛からなくなります。思考が湧き、感情が今日も湧き続けますが、、、これこそが神を人間というコンフォートゾーンに収めてきた要因です。神は人間に成り切れた要因こそがこの五感、思考、感情、体です。

神の人間ゲームは仕組を理解して終わる

人間というこの体が存続する以上、、この体は宇宙空間で機能し続けます。ですが神=人間、、、この感覚は日に日に薄らいでいきます。なぜならば神=神が本来だからです。神=人間はコンフォートゾーンがそこにフォーカスされただけの状態です。神の凄いところは神=人間を人間が生まれ死ぬまでやれてしまうことです、これぞ神です。ですが神=人間が実は偽りであることが分かってしまった今それを盲信し続けるのは逆に難しくなっていきます。

悟りへと導く「苫米地式コーチング」は凄い

脳科学は苫米地英人氏の方便では?

私は苫米地式コーチングに一時期ハマりにハマりました、、ハマっている当初は実はそこまで気づいていなかったのですが自身が悟り、非二元について探求を重ねていくに従い、、実は苫米地式コーチングは「悟り」への誘いであったことを強く痛感するようになりました。覚者が伝える「自我」というメカニズムを現代風に表したのが「コンフォートゾーン」、、コンフォートゾーンの外にゴールを設定するが「自己超越」「悟り」、、抽象度を高くする、、「分離の解消」、、、と気づけば全部悟りの世界のことなのです。

苫米地氏は映画「マトリックス」を制作する代わりに「苫米地式コーチング」を作った

あくまでこれは私の推測でしかありませんが、苫米地氏のコーチングは民衆、大衆を騙すための方便でゃないかと考えます。マトリックスという映画は監督による悟りへの方便です。苫米地式コーチングは自己啓発、目標達成、成功法則を謳った苫米地氏の悟りへの方便ではないでしょうか。脳とはこの人間の分離感覚を完璧なまでに強化するツールですからそこに責め込むのは素晴らしいアイデアです。

脳のトリックを見抜き悟りへ誘う

苫米地氏を著書の中で何度も抽象度の最高は悟であると述べています、、視座を最も高くした地点、全体を眺める視点とは悟りの状態です。この世は突き詰めればたった一つのエネルギーで構成されていますから分離というのは全くなく、、そこを苫米地氏は抽象度を上げていくことで情報を整理しそこに導きます。最終的には人間もその一つのエネルギーの構成要因であることは間違いがなく、、自分が消え失せます。その時に残るのは「無」であり「全体」であり「神」です。